竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 新益宮遷都

2014年07月06日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
新益宮遷都

 倭の古風では、新たに大王位に就任した皇子は、それに相応しい王宮を新たに築く。一方、天皇は大王の王宮で神を斎くのが務めのため、天皇の交代と新たな王宮の建設とは、直接には関わらない。あくまで、遷都は男子の大王の業である。世界に伍する大和に相応しい王都を建設することは、ある種、大海人皇子と高市皇子にとっては、大王による大和統一の象徴となるゴールである。ただ、その大和統一の象徴となる王都を恒久の王都となるように意図していたか、どうかは判らない。
 恒久の王都となるには、その王都に居住する人々の衛生維持と食料・薪炭の確保がカギとなるが、飛鳥浄御原宮、新益京、平城京などは、人口に対してそれぞれ弱点があった。そのため、当初は恒久の王都を目指したが、それに失敗したのか、倭の古風により大王の交代に合わせて遷都をしたのかの判断は難しい。知られているように平城京ですら、まったく別様式の前期平城宮と後期平城宮とが時間を置いて存在した。王宮を以って王都を論ずるなら平城京を恒久の王都と考えるのも難しい。また、我々は平安京を恒久の王都と云うが、平城天皇の大同元年(806)七月十三日の詔からすると、それは平城天皇の時代から続く困窮する国家財政からの結果論と云う見方も出来る。

 朱雀五年(676)、大海人大王は新しい王都の建設を計画された。予定地は斑鳩の東、添下郡新城(大和郡山市新木付近)とし、土地を手当てされた。地形は、佐保川と富雄川に挟まれた低平地である。倭の磐余や飛鳥からは遠く離れた場所となる。ただ、大海人大王は大和の政治を行うと云う早急な問題解決として、その本格的な王都の建設に先だって仮の手当てとして飛鳥岡本宮の西に西宮を建て、岡本宮と併せて王宮として使われた。神祀りによる国家の統一の実が見え始め、それに連れ、新都建設の機運が満ちて来た。
 朱雀十年(681)三月、大海人大王は三野王や宮内省の大夫たちを添下郡新城に送り、再度、その土地の調査と大王御覧の準備をさせた。そして、同じ三月に大王は新都となる添下郡新城の地に御幸された。
 朱雀十三年(684)三月、その土地に関わる広瀬王や大伴安麻呂たちに命じ、添下郡新城での王宮建設の準備が開始された。この時点では、大王は東国経営を見据えて信州筑摩郡(長野県松本市付近)に副都を置くことも構想されていた。新城での王都の建設準備が進む中、大海人大王は朱雀十四年九月頃から体調を崩された。やがて、国家の優先順位において大王の疾病治癒を願う神祀りや仏供養が優先され、王都の建設準備は中止状態となった。その大海人大王は朱雀十五年(686)九月に崩御され、結局、新城での王都建設計画は取りやめになった。さらに、大海人大王の崩御に次いで、その後を継ぐはずの草壁皇子が大嘗祭を待たずに病死されるという不幸な事態が続いた。

 大海人大王と草壁皇子の喪が明けた朱鳥五年(690)正月、高市皇子は大王に即位された。その高市大王は王都建設において朱雀五年の時点では技術的観点から捨てた真神の原とも呼ばれる藤井ガ原に、新たな王都となる新益京を築くことを決めた。
 その藤井ガ原は香具山、甘樫丘、畝傍山、耳成山に囲まれ、飛鳥川と八釣川とが流れ込む湿地帯である。その湿地帯を高市大王は河川の付け替えや干拓を行い、平城京や平安京を凌ぐ、古代史最大の王都を建設した。大海人大王が朱雀五年に添下郡新城に都を置くことを決めてから十五年、その間に育った大和の国力と技術力が大湿地帯である藤井ガ原の開発を可能とした。ただ、この古代史最大の王都はその地形の制約で、南には甘樫丘から始まる吉野への山並みを持つため大唐、長安城のように南に向けて開くと云う形式ではない。京のほぼ中心部に宮を持つと云う独特の形となった。

 大海人大王が右大臣丹比真人嶋を呼んだ。
「右大臣、新益京じゃが、二つの心得で考え置いてくれ」
「一つは、大和は大唐とは違い、神祀りを行う。国々の神主や祝部どもが集う」
「二つは、国々の神主や祝部どもが都へともたらす善き農作の種を試す場所がいる」
「君、大唐の宮は皇帝とその官人どもの物でありますが、我が大和の宮は民と共にあるように考えまする。その民の代表たる国々の神主や祝部どもが集う場所を宮内に考えまする」
「また、善き農作の種を試す場所は、宮の北、農作に便のある場所を取り置きましょう」
「右大臣、大和は戦いをすることなく、一つになった。それもこれも、国々の神主や祝部どもの馳走じゃ。大和の神祀りを、一番に考えてくれ」

 新益京は大和の最初の本格的な王都であるが、その京は宋・唐の模倣ではない。地形の制限があったとしても、その形式において朝堂の朝庭には数千の人々が集える規模が確保されている。大宮に勤める官人だけであれば、これほどの規模は要らない。その形式からも大和の王都には大王と民が共に国家の安寧と豊穣を祝うと云う思想がある。支配の為の権威を示すと云うものではない。
 また、新益京の北、飛鳥川・八釣川・初瀬川の影響を受ける一帯には官営の圃場が広がる。これは班弊の稲穂を確保するために設けられた新益京だけの特徴であった。

 大王が、さらに右大臣丹比嶋に問い質した。
「右大臣、京を造る元手は大丈夫か」
「京造りに集う者どもには舂米や銅銭を渡します。稲穂の手当てや籾舂の手間は銅銭で贖いますが、里人に栗東の鍛冶の里からの鉄鍬を売ることで銅銭を世に回しまする」
「その大本となる鉄鍬と銅銭は、十分、手当はされております。また、倭、山背、摂津、河内、播磨の国々の里には十分に稲穂の蓄えがありまする。数万の者どもが、この明日香に集っても、食い尽くすことはありますまい」
「そうか、京を造って、民が飢えることのないように、良く見張るように」

 昔、古代の王宮や大規模建設物は奴隷を使役して建設されたと云う専門家の迷信があった。だが、国際的規模の王宮や大規模構造物の建設には熟練された技術者が大量に必要であり、その熟練された技術者の養成は奴隷制度では成り立たない。通常、社会通念では数万以上の労働者を扱う経験や知識のある人々をこの種の専門家と云い、大学教員と云う立場だけでは建設専門家とは云わない。また、大量な労働者の管理・運営実務からすると、王宮のような巨大な建設プロジェクトには技量・技術に合わせた報酬制度やそれを円滑化する貨幣経済が必要である。日本以外の先進国において、経済と制度への考察が抜け落ちた社会学は存在しない。
 時代として、この新益京の建設を開始するまでには労働報酬制度やそれを裏付ける貨幣の流通は整ってきている。その社会的背景を下に、藤井ガ原の大湿地帯に王都を築くと云う新益京の建設は造京司である衣縫王を中心に進められて行った。
 万葉集に、その干拓の様子が歌に詠われている。

大王者神尓之座者水鳥乃須太久水奴麻乎皇都常成通
訓読 大王(おほきみ)は神にしませば水鳥のすだく水沼(みぬま)を皇都(みやこ)と成しつ
私訳 大王は神であられるので、水鳥が棲みかとする水沼を皇都と成された。

皇者神尓之座者赤駒之腹婆布田為乎京師跡奈之都
訓読 皇(すめらぎ)は神にし坐(ま)せば赤駒し腹這ふ田(た)為(い)を京師(みやこ)と成しつ
私訳 天皇は神であられるので、赤馬が腹をも漬く沼田を都と成された。

 朱鳥五年(690)十月、高市大王は公卿・百寮を率いて新益京の予定地を飛鳥川の埴安の堤の上から御覧になった。さらに、その十二月、天皇菟野皇女が新益京の地を予祝された。これを皮切りに飛鳥川や八釣川の付け替えや、条里に沿った小川の床浚えで新益京地を干拓して行った。その干拓は南から北へと進んだ。
 朱鳥六年(691)十月、干拓は進み新益宮の地鎮祭が行われた。さらにその十二月、官人たちに新益京の地でおのおのが建てる屋敷の用地が降し渡された。
 朱鳥七年(692)正月、新益京の南の大路が完成し、高市大王の御幸があった。新益宮の建設は進む。材木は近江国の田上山から切り出し、宇治川を下り、小椋の池から木津川を遡り、平山の峠を越え、再び、佐保川から大和川、飛鳥川と運ばれた。また、王都の宮のシンボルとなる葺瓦は巨勢の里で焼かれ、紀路を通って運ばれた。さらに擬木や軒などを飾る金具、宮を彩る塗料の類は飛鳥池の官営工房で作られた。次第、次第、新益宮はその威容を現してきた。
 朱鳥九年(694)十二月、新益宮はついに完成した。そして、高市大王は遷都を宣言した。ここに、壬申の乱から二十二年、大海人大王と高市大王とが目指した大和の国創りは、一端の完成を見た。十二月九日、全国の国司守や祝部どもを新益宮の朝堂院前庭に集め、その落成を祝う神祀りを行った。その神祀りで神祇伯中臣朝臣意美麻呂が御門祭の神寿詞を最初に宣べた。

御門祭(みかとほかい)の神寿詞
櫛磐窓(くしいはまと)の命(みこと)、豐磐窓(とよいはまと)の命(みこと)と御名を申す事は、四方(よも)内外(うちそと)の御門(みかと)に、湯津磐村(ゆついはむら)の如く塞(さや)り坐(ま)して、四方(よも)四角(よすみ)より疎(うと)び荒び来む、天のまがつひと云ふ神の言はむ悪事(まかこと)にあひまじこり、あひ口会(くちあひ)といふへ賜ふ事尤(な)く、上より往かば上を護り、下より往かば下を護り、待ち防ぎ掃(はら)ひ却(や)り、言ひ排(そ)け坐して、朝には門を開き、夕には門を閉てて、参入り罷出る人の名を問ひ知しめし、咎過(とがあやまち)在らむをば、神直備(かむなほび)、大直備(おほなほび)に見直し聞き直し坐して、平けく安けく仕へ奉らしめ賜ふが故に、豐磐窓(とよいはまと)の命(みこと)・櫛磐窓(くしいはまと)の命と御名を稱辭(たたへこと)竟へ奉(まつ)らくと白す

 翌日、祝部どもは落成の式に集った名誉と賜り物を抱え、今まで見たことも無い巨大な新益宮で見聞きしたことを土産に里へと帰っていった。
 十二日、宮に殿上人どもを集め、新益宮の落成を祝賀する宴があった。采女の舞う御節舞、男踏歌や女踏歌などが演じられ、宴を祝った。その後、内宴では風流人が歌を披露した。最初、志貴皇子が口火を切り、その五節の舞に霊振り神事を重ね合わせて歌に詠った。人麻呂は、さらに大和歌の長歌と短歌を添えた。

志貴皇子
采女乃袖吹反明日香風京都乎遠見無用尓布久
訓読 采女の袖吹きかへす明日香(あすか)風(かぜ)京都(みやこ)を遠み無用(いたづら)に吹く
私訳 采女の袖を吹き返す明日香からの風よ。古い明日香の宮はこの新しい藤原京から遠い。風が采女の袖を振って過去に呼び戻すかのように無用に吹いている。

人麻呂
藤原之大宮都加倍安礼衝哉處女之友者之吉召賀聞
訓読 藤原し大宮仕へ生(あ)れつぐや処女(おとめ)し友は扱(こ)き召(よば)ふかも
私訳 この藤原の宮城に仕えるために生まれてきたのでしょう。その家の子たる娘女たちは、お仕えするために宮中に召されたのでしょう。

 志貴皇子は官女の霊寄せの袖振りで新益宮と浄御原宮とを並べ新益宮を予祝する。それを受けて、人麻呂は新益宮で舞う、その清々しく美しい官女を詠った。
 人麻呂は高市大王が成した新益宮の落成を祝うが、同時に登り詰めたと云う感覚を覚えた。大和で初めての大陸の王都にも劣らない本格的な王都の完成から、これから新しい時代が開くと云う感覚は無い。目指したものが予定通りに終わったと云う気分に満ちて、歌を詠った。人麻呂もまた、年老いたようだ。

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