竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 壬申の乱 吉野脱出

2014年02月09日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
壬申の乱 吉野脱出

 中元五年(672)四月、大唐の郭務宗が率いる大唐・百済残党連合軍の朝鮮半島出撃の行動計画を受け、近江朝廷は動員命令を出した。
 尾張国司守小子部連鋤鉤及び尾張国造大隅は、尾張と美濃の兵二万を募兵し、七月一日までに山科に集結すること。河内国司守来目臣塩籠は河内・播磨・山科の兵を同じく七月一日までに難波大津に集結させること。御史大夫紀臣大人は紀伊・志摩・三河の水軍を率い、七月一日までに難波大津に集結すること。吉備総領と伊予総領は六月半ばまでに兵糧と弓矢を吉備小島と伊予饒田津に集積すること。
 この動員令が出た直後、紀臣大人の密使が栗東の鍛冶の里にある高市皇子の屋敷に入った。
 高市皇子の屋敷は右大臣中臣金と百済人により十分に警戒されているが、兵器製造工場でもある鍛冶の里に新羅出兵の水軍を率いる御史大夫紀臣大人の使いが入ることは、極、自然な姿である。紀臣大人の使いは朝廷の動員令の全容を告げた。その情報は鍛冶の里を動かす物資のルートに乗り、高市皇子から各地に伝えられた。吉野で幽閉されている大海人皇子には伊勢王から伊勢の湯沐地の責任者である田中臣足麻呂へ、そこから米の運搬を装って吉野へと伝えられた。
 同時に大海人皇子の美濃にある湯沐地へ出向いていた舎人の朴井連雄君から美濃と尾張の情勢が伝えられた。
 雄君は、
「尾張の農民兵は六月二十四日までに熱田神社付近に集結し、二十六日朝、熱田を出発、木曽・長良川を渡河する。川船が次第に熱田神社の川筋に集められている」
と報告した。

 大海人皇子の指示が吉野から伊勢の湯沐地、伊勢王、そして、高市皇子へと順次、伝えられた。指示は簡潔に「大海人皇子に従う者は六月二十五日までに伊勢国桑名郡家に集結せよ」と云う。
 高市皇子は鍛冶の里を動かす物資のルートから、紀臣大人、北近江の坂田公雷、美濃の安八磨郡と牟義都郡、都袮の星川臣麻呂へと大海人皇子の指示を伝えた。
 一方、伊勢王もまた懇意にする諸王にそれとなく打診をする。伊勢王は倭の山部王と石川王の親子、摂津の三野王たちの大海人皇子への同情を確信した。

 紀臣阿閉麻呂が率いる紀伊水軍は六月二十日、志摩と三河水軍との合流の名目で和歌浦から出航していった。
 大海人皇子の触れに伊勢の国司守三宅連石床とその介三輪君子首、大海人皇子の湯沐令田中臣足麻呂と高田首新家たちは、尾張・美濃の軍勢二万の伊勢通過の対応を協議すると云う名目で伊勢国一宮のある鈴鹿郡家に手勢を率いて集結した。
 伊勢王は伊勢国の祝部どもに里の勇者を率いて六月二十五日までに桑名郡の桑名の神の杜に集うことを命じた。今年の神祀りを五月に終えたばかりであるが、今の祝部どもにとっては伊勢王の命令は神の声のように聞こえる。伊勢中の祝部どもは里の勇者をこぞって桑名へと駆けた。
 時を同じくして、美濃では安八磨郡と牟義都との勇者が安八磨郡の大海人皇子の屋敷に、北近江では浅井の坂田公の屋敷に、そして西三河では大海人皇子の舎人である丸部臣君手の屋敷に勇者が集結した。
 倭国都祢の星川臣麻呂は里人を栗東にある高市皇子の鍛冶屋敷に、また、甲賀街道の要所に密かに送り、高市皇子の大津宮脱出に備えた。

 そして、その六月二十四日が来た。
 朱雀元年(672)六月二十四日、大海人皇子は吉野を脱出し、桑名を目指して駆けに駆けた。この時、大海人皇子は四十一歳、高市皇子は十九歳。
 予定では二十五日夜には桑名郡家に着かなければならない。尾張国司守小子部連鋤鉤が率いる尾張・美濃の兵二万が木曽川を渡れば兵力で差がある大海人皇子には不利であり、それに、もし、肝心の大海人皇子がその姿を見せなければ伊勢王たち味方は霧散する。
 二十四日夜、高市皇子と近江朝廷は、ほぼ、同時に大海人皇子の吉野脱出の報を聞いた。高市皇子は大海人皇子に疑いの目が向けられないように、大海人皇子の吉野脱出の後でなければ近江の鍛冶の里から抜け出ることは出来ない。しかし、近江朝廷より遅れれば、自身が逮捕・殺害される。囮の立場でぎりぎりの瞬間まで、鍛冶の里に残る必要があった。
 そのぎりぎりのタイミングで高市皇子は鍛冶の里を脱出し、伊勢国桑名へと駆けた。道は野洲川を遡り、甲賀から伊賀へ抜け、大山越えから鈴鹿を経て、桑名に行く。その脱出を山の民である星川臣の里人が支えた。高市皇子は伊賀国積殖山口で大海人皇子の一行に合流した。

 その頃、近江朝廷にも大海人皇子の吉野脱出と伊賀名張方面への逃走の知らせが入った。
 人々は事情を想像した。そして、百済人の作戦参謀を始め、中臣金や蘇我果安たちは今後の成り行きを楽観した。
「大海人皇子の行き先は伊勢か美濃の湯沐地であろう」
「大海人皇子は知らないだろうが、尾張・美濃には尾張国司守小子部連鋤鉤と尾張国造大隅が率いる兵二万が居る。結局は美濃の湯沐地である安八磨郡に逃げ込むだけであろう。従って、近江から不破関越えで捕獲の兵を送れば、すぐに片は着く。新羅出兵の前に大海人皇子を始末出来て良いことじゃ」
「新羅出兵の良き演習じゃ、大和の正規の陣構えで不破関に兵を送るか」
「ただ、各地に警戒の使者を出す必要はある」
 衆議の後、近江朝廷は大和の正規の陣構えである三軍編成で大海人皇子討伐軍を送ることを決めた。総軍司令で後軍の将軍は山部王、前軍将軍は巨勢臣比等、中軍将軍に蘇我臣果安を指名し、山科で集結中の新羅討伐軍を転戦させた。総勢、二万四千、大和の正規の陣立てとなる。
 六月二十五日、近江朝廷は朝までに東国と尾張への使者として韋那公磐鍬、書直薬と忍坂直大摩侶を選任し、東山道から東国へと旅立たせた。三人の使者は馬で淡海東岸の道を駆けた。
 一方、大海人皇子軍に目を転じると、安八磨郡の湯沐地に集結していた和珥部臣君手が、決起予定日の二十四日中に美濃兵三千人を以って東山道を不破関(岐阜県不破郡関ヶ原町松尾)で閉鎖した。
 その二十五日、この日一日、近江朝廷の使者たちも苦労したが、桑名郡家と駆ける大海人皇子と高市皇子との一行も豪雨に悩まされた。
 桑名郡家に急行する一行の足は昨夜来からの豪雨に速度が落ちた。特に菟野皇女を始めとする女達の足が落ちる。女が行進からこぼれれば、身分を問わず追手の兵に犯された後、殺される。それを知る女たちは悲鳴をあげながらも、必死の形相で懸命に後を追う。男どもも、それを知るため顔見知りの女たちのために足が鈍った。
 しかし、大海人皇子と高市皇子とは一行の者どもを叱咤し、阿修羅の如く、夜通し駆けに駆けた。

 夜半、鈴鹿関から山部王と石川王の親子が大津皇子を連れ、駆けて来たと報告があった。大海人皇子は路直益人を使者として鈴鹿関に送った。
 路益人は山部王に挨拶をする、
「山部王と石川王、我が君は確かに王たちの馳走を頂いた。また、王たちの助力に感謝されている」
「ただ、今はひそやかに近江に戻り、王たちには穏やかにしていて頂きたい、宜しいであろうか」
「路益人、皇子の想いはよう判った。吾は近江に戻り、さらなる馳走をしようぞ、皇子にお伝えあれ」
「お分かり頂き、感謝いたしまする」
 路益人は大津皇子を受け取り、山部王と石川王の親子は闇の中を大津へと帰っていった。
 桑名陣屋に大津皇子を連れて合流して来た路益人は大声でどなりあげた。
「山部王と石川王の親子の話は、ガセじゃ。来られたのは大津皇子じゃ。ほれ、この通り、皇子が大津宮を抜けてやって来られたぞ」
 それに釣られ、陣営の兵たちが騒めく、
「なんじゃ、ガセか。しかし、幼い大津皇子が大津宮を抜けて来たとは目出たいことじゃ。これは幸先が良いのう」

 二十六日早朝、大海人皇子と高市皇子との一行は予定に遅れること半日ではあったが朝明郡迹太川の土手に辿り着いた。その時、先駆けの者は既に桑名郡家に集結している伊勢王や紀臣阿閉麻呂と連絡が取れていた。
 大海人皇子はこの迹太川の小高い土手の上から桑名沖の伊勢湾を眺めた。嵐は過ぎ去り、澄み切った真夏の朝日の中、おびただしい紀伊と志摩の水軍の軍船を見た。報告では尾張国司守小子部が率いる尾張・美濃軍は、まだ、木曽川の渡河を開始していない。伊勢湾に味方の紀伊と志摩の水軍が警戒し、桑名郡家に伊勢国と紀国との勇者が駐屯している。もう、この状況では尾張国司守小子部が率いる尾張・美濃軍の木曽川渡河は不可能に近い。予定より半日近く遅れたが、同時に尾張・美濃軍の木曽川渡河を遅らせた伊勢の風の神に大海人皇子は感謝した。そして、大海人皇子は「今度の戦は、勝った」と確信した。
 桑名郡家で大海人皇子は手早く応急の軍の体制を整えた。当座、近江朝廷の小子部が率いる尾張・美濃軍に対しては、桑名郡家を拠点に陸は伊勢王が、海上は紀臣阿閉麻呂が軍を取りまとめる。今後、近江大津宮から襲い来るであろう朝廷の正規軍に対抗するため、高市皇子を不破関に急行させ美濃と北近江の勇者たちで軍を編成させる。また、鈴鹿関には伊勢の国司守三宅連石床と湯沐令の田中臣足麻呂を置いた。
 高市皇子は新たに加わった伊勢や美濃の勇者を引き連れ、不破関からやや東、伊勢よりの和射見(関ヶ原町関ヶ原)に陣を置いた。その西方、近江側には美濃兵三千人を率いる和珥部臣君手が最前線の部隊として不破関に陣を置いている。高市皇子はこの二段構えの陣形で近江朝廷の東国との交通を遮断し、また、近江朝廷の正規軍の襲来に備えた。
 その布陣が功を制した。
 二十六日夜、近江朝廷の東国への使者が封鎖網に掛かった。東国への使者である書直薬と忍坂直大摩侶を捕獲した。ただ、韋那公磐鍬を逃がした。その磐鍬は大津宮に逃げ帰り、大海人皇子による不破関封鎖を報告した。
 同じ頃、熱田では尾張国造大隅ら一族が消えた。朝、新羅討伐のため集結した尾張の勇者たちを前に大演説をした、その直後、大隅は大海人皇子による尾張軍に対する包囲網の存在を知った。包囲網を作る兵卒の様子からすると伊勢、紀伊、志摩、西三河、それに美濃が大海人皇子の下にあることを知った。途端、尾張国造一族は尾張国司守小子部と近江朝廷を裏切り、闇夜に消えた。そして、その熱田に大海人皇子に馳走するため、尾張国造一族が国司守の小子部を暗殺するとの噂が流れた。
 二十七日、朝になって尾張国司守小子部から使者が送られて来た。尾張国造大隅ら一族に裏切られ、尾張一国を包囲された小子部は尾張国司守の立場を投げ出した。そして、小子部は大海人皇子に尾張・美濃の農民兵二万を、そっくりそのまま引き渡した。
 ここに大海人皇子は後方の憂いが無くなった。これを受け、尾張の近江朝廷軍の押さえとしていた桑名駐屯の兵に、投降してきたその農民兵二万を加え、軍の再編成を行った。
 新たな軍団の編成方針は、次の通り。
1、 東山道に軍団を置き、近江軍に対抗し、これを撃破する。撃破の後、大津宮に進軍する。軍団長は、高市皇子。
2、 東海道に軍団を置き、伊賀で各方面からの近江軍の伊勢への侵入を防ぐ。また、東山道軍団の進撃に呼応し、甲賀から野洲へ進撃し、東山道軍団と連絡する。軍団長は、紀臣阿閉麻呂。
3、 紀伊・志摩水軍は、西三河と志摩との伊良湖・伊勢水道の交通を確保し、東海道諸国の援軍の輸送を図る。責任者は膳臣摩漏。
4、 桑名郡家に尾張国造一族の監視部隊を置く。部隊長は伊勢王。
5、 安八磨郡に東山道信濃方面からの援軍の連絡所を置く。
6、 以上の総合指揮と近江正規軍との決戦に備えるため、美濃国野上に本陣を置く。

 この戦略方針に沿って、将兵と軍団の整備が行われた。
 大海人皇子は高市皇子と談合の上、高市皇子の舎人である柿本人麻呂を抜き、東国からの食料や弓矢等の軍事物資の調達と管理のため、実務責任者として膳臣摩漏の配下に置いた。大海人皇子軍の配下では栗東の鍛冶の里を経営している柿本人麻呂は、若いが信頼のおける実務家の筆頭である。武人ではない柿本人麻呂にとって実に打って付けの職務であった。
 また、伊賀国での陣地防衛が戦いの基本方針である東道将軍紀臣阿閉麻呂の配下に土木・建築の専門家である摂津の三野王を置いた。阿閉麻呂は三野王の指導の下、名張、莉萩野、倉歴などに砦を築いていった。

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