竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 嵐の前触れ

2014年01月26日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
嵐の前触れ

 中元四年(671)九月になって葛城大王は重病を患った。
 十月十七日、既に新羅征伐の体制を整えている朝廷は大王の承認の下、大海人皇子に新羅征伐の合意を迫った。左大臣蘇我赤兄や右大臣中臣金は、葛城大王が重病の時、皇子が和平の道を説くことを恐れた。大王亡き後、皇太弟が和平を唱えれば事態は紛糾する。大王の子、大友王は廿四歳。まだ若い上に、母親は百済人で貢の采女である。その血から大友王に大和の大王になる資格は無い。大和の決まりでは血筋と身分から大王位の後を襲う筆頭は皇太弟の大海人皇子である。
 皇位継承筆頭の大海人皇子はあくまでも和平の道を説く。窮した蘇我赤兄は皇子に隠棲を願った。赤兄の傍に座り、これ以上、異議を唱えると殺すとばかりの形相の中臣金の様子をみて、皇子は隠棲を了承した。その言質を取った朝廷は、そのまま皇子を宮中で幽閉した。
 十九日朝、大海人皇子は改めて吉野で幽閉されるために護送されていった。朝廷は同時に私兵の収容と云う名目で大津宮と飛鳥旧宮の皇子の屋敷とその私奴を公収した。
 十一月になって、死期を悟った葛城大王は、子の太政大臣大友王以下、重臣を錦織の仏画が懸かる西殿に集め遺言を託した。
「吾は、田村大王、軽大王、太皇太后天皇宝皇女や皇太后天皇間人皇女たちを葬った。その殯りで体が腐り、蛆が湧き食われる姿を見た。吾はあのような姿にはならん」
「吾を仏教徒として涅槃経に従い火葬とせよ。その次第は沙宅紹明と許率母に聞け。誄を行うのは良いが、殯りはならん」
「妹の皇太后天皇間人皇女は、仏教徒として墓は要らんと云うた。吾はそれを尊び、母の御陵に併せた。その吾が陵や塚を持つわけにはいかん。吾を仏教徒として散骨せよ」
蘇我赤兄が泣きながら訴える、
「大王、それは大和の習いではござりません。誄を行い、殯りを建てまする。そして、吾は供をいたします」
「蘇我赤兄。供はいらん。大王の命じゃ、誰も供になってはならん」
さらに、葛城大王は仏の香炉を差し出し、己の命に従う誓いを宣べさせた。
「吾を仏教徒として火葬し散骨することを、この仏の香炉に誓え。大友王、まず、己から誓え」

 葛城大王は大友王以下重臣たちに、二度、大王を仏教徒として火葬することを仏に誓かわさせた後、亡くなった。大友王は遺言を守り、誄の後、小乗涅槃経に従い火葬を行い、山科の森に散骨した。
 こうして、葛城大王は大和の初めての仏教徒の大王として亡くなられた。
 葛城大王の崩御を受け、近江朝廷は皇后天皇倭姫王を皇太后天皇倭姫王と直し、大王を空位として太政大臣大友王を首班とする新羅討伐の戦時体制を敷いた。

 葛城大王は亡くなられたが、大王の意思を継ぎ新羅討伐の準備は進む。
 中元五年(672)正月、大唐の郭務宗が大唐の兵六百に加え、韓国耽羅で百済の残党千四百を合わせ、総勢二千の兵を乗せた軍船四十七隻が筑紫娜の大津に入った。前年の盟約に従い、近江朝廷は甲冑、弓矢を引き渡し、合わせて軍事物資として紡一千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六斤などを引き渡した。大唐の郭務宗は盟約に従い、これらの武器と軍事物資で韓国耽羅を拠点に近江朝廷の新羅討伐軍のための橋頭保を築く。
 五月、大唐と百済残党の連合軍は筑紫娜の大津から半島南部へと出撃していった。

 一方、大海人皇子は、中元二年(669)、大唐に使者として河内直鯨を送ったとの報を聞いて、近江朝廷が新羅討伐の意思を固めたと確信した。最悪の場合、実力で新羅討伐を阻止する腹を固めた。謀反で殺されたとしても、乙巳の変と同じように内乱の混乱で新羅討伐は止む。
 皇子は、最初に蘇我臣安麻侶を新羅討伐阻止の仲間に引き入れた。
 安麻侶の父、蘇我臣連子は蘇我石川麻呂が倭の百済派の豪族たちに殺された時から蘇我一族の長老となった。その長老となった蘇我連子は石川麻呂の残した娘、越智媛と姪媛を庇護し、彼女たちの家産の経営を援助した。この関係で蘇我連子は越智媛の児である大田皇女と鵜野皇女の裳着の儀礼で紐親をした。
 大王に近い大海人皇子の室となる娘は、血の混じりを防ぐため裳着をすると、そのまま、皇子の家に入る。王家を継ぐ可能性のある児を産む妃や夫人には妻問いと云う風習はない。古来、王家への入り嫁制である。それにより、入り嫁した娘が産む児の父親が明らかになる。
 大田皇女と鵜野皇女との姉妹は、葛城大王の意向で裳着の前から大海人皇子の室に入ることが決まっていた。この事情で、蘇我連子は裳着での紐親の儀礼から義理の祖父のような立場で大海人皇子と関係を持った。
 白鳳十七年(664)に蘇我連子が死んだ後は、子の蘇我安麻侶が姪媛や大田皇女と鵜野皇女の姉妹の家産の面倒や蘇我家の娘としての神祀りの面倒を見た。蘇我連子と大海人皇子との関係は、そのまま、蘇我安麻侶に引き継がれた。ただ、蘇我安麻侶は、元来、武闘派では無い。安麻侶はその範囲で大海人皇子に味方することを約束した。

 ちょうどその頃、偶然の出来事があった。
 栗東の鍛冶の里の鉄鉱石は田上山系の褐鉄鉱を使うことで計画されていた。ところが、製鉄の歩留まりや製法の関係で、そのころ発見された北近江の高島の磁鉄鉱石を使うことに変更となった。この北近江全域は坂田公が支配し、その高島一帯は坂田公配下の胆香瓦臣が支配している。その関係で、鍛冶の里の管理者である高市皇子と坂田公、胆香瓦臣との関係が出来た。
 高市皇子は鍛冶の里の経営を確かにするため坂田公雷の娘を室に入れ、胆香瓦臣阿部を舎人として傍に置いた。図らずも坂田公は高市皇子の係累となり、息子を高市皇子の舎人とした胆香瓦臣は大海人皇子・高市皇子と一蓮托生の関係となった。結果、北近江は大海人皇子の影響下にある。
 目を東に向けると、美濃国の交通の要所である不破関に近接して大海人皇子の湯沐地が美濃国安八磨郡にある。そして、この安八磨郡に西接する位置に美濃国牟義都郡がある。この国造一族の身毛(牟義)君広が、今、大海人皇子の舎人となっている。俯瞰すると、不破関を挟み、東西の豪族が大海人皇子と一蓮托生の関係にある。
 さらに、鍛冶の里では製鉄の工程上、大量な藻塩を使う。この藻塩は河内の日下部が調達する。その日下部は丹比公の支配下にある。貨幣経済以前の当時、河内の日下部は藻塩の代価を米で貰う。その米は丹比公が近隣の農民から鍛冶の里で作られた鉄の鍬刃と交換することで手に入れる。舟運や陸上運搬は大海人皇子の壬生であり、運輸を生業とする河内凡海臣や高市県主の者どもが行う。その代価もまた米と鉄である。結果、鍛冶の里を動かすことで、多くの氏族が大海人皇子・高市皇子親子の利害関係者となった。

 この状況の下、大海人皇子は伊勢国の国造である伊勢王に接近した。
 少し、昔、白鳳十七年(664)の位階と氏上の制度の改正では、大海人皇子は氏上の制度の新設などで諸王の代表である伊勢王の顔を立てた。そのため、伊勢王は皇子の配慮に恩義を感じていた。
 そうした中、大海人皇子は伊勢国の湯沐地の責任者である田中臣足麻呂を通じて、工作をした。伊勢国では鈴鹿山で古式の倭鍛冶によって製鉄をしている。ただ、規模は小さい。大海人皇子は製鉄では利害関係にある伊勢王を栗東の鍛冶の里に誘った。

 中元四年(671)春、伊勢王は大海人皇子の誘いに乗り、栗東の鍛冶の里にやって来た。そして、高市皇子が経営する鍛冶の里の規模と技術水準に心を奪われた。
 王は心の内につぶやく、
「これなら新羅伽耶に兵を出す必要はない。吾ら大和人に百済復興の恩義なんぞ無い。ただ、鉄がほしいだけじゃ。しかし、これなら新羅の鉄はもういらん」
「これだと、下手に葛城大王の新羅討伐の誘いに乗ったら、酷い目に遭いそうじゃ。先の百済の役では、我が父と伯父が筑紫の陣屋で半島の息のかかった者どもに暗殺された。もし、大王が死んだら、百済人の児、大友王が後を継ぐのか。それでは大和人は誰も付いては行かん。戦の最中に大混乱に陥る」
「新羅には行きたくもないし、さりとて、吾から和平じゃと唱えるのも危ない」
「吾はまだ、死にたくはない。なんぞ、良い考えをせねばのう」

 思案の中、伊勢王は大海人皇子と高市皇子親子に会った。
 高市皇子は両者の談合で
「栗東の鍛冶の里が本格的に稼働すると鈴鹿山の鍛冶衆は生業を失う。そこで、鈴鹿山の鍛冶衆が承知するなら鍛冶の里にその者どもを引き受ける」
と提案した。
 さらに、伊勢王には「毎年、鉄の保障をする」と重ねて条件を示した。鉄の保障として、毎年、鉄の鍬刃百口を渡す。これは、伊勢王にとって法外な申し出であった。鈴鹿山の鍛冶衆は鉄の鍬刃を年五十口も作れれば良い方である。鈴鹿山の鍛冶衆の規模は実に小さく、未熟であった。
 高市皇子は鍛冶の里のこと以外は何も云わない。父、大海人皇子もまた会談の保証人の立場で、二人の間に立つだけであった。優位な談合条件に伊勢王は高市皇子の申し出を承知した。ただ、条件として先に鉄の鍬刃百口を貰い、それから鈴鹿山の鍛冶衆を近江栗東に遷すと付けた。これは、高市皇子が承知した。

 談合の後、伊勢王は高市皇子に聞いた。
「高市皇子、栗東の鍛冶の里は大和の鍛冶の里であって、皇子だけの鍛冶の里ではあるまい。出来た鉄鍬をこのように主の腹だけで談合が出来るのか」
「伊勢王、朝廷には決められた量の太刀、矢尻、甲羅を納めている。鉄鍬はその残りじゃ。談合で決めた毎年百口の鍬は、心配なされるな」
「そうか、近江の朝廷は鍬や鋤より、太刀が欲しいのか」
「そうじゃ、太刀と甲羅だけを求めている」
「高市皇子、吾は太刀と甲羅には興味がない。民が欲する鍬や鋤が欲しい」
二人のやり取りを聞いていた大海人皇子が伊勢王に声を掛けた、
「伊勢王、心配なされるな。この大海人が今度の談合を保証する」
「末の大兄、吾は高市皇子を疑いはせん。ただ、高市皇子の身を案じただけじゃ」
「心配り、有り難く頂戴する」
「ところでじゃ、高市皇子。吾、伊勢王は承知の通り、諸王の長老と目されておる。吾だけが存分な馳走を受けると、皆がやっかむ。そこで、談合じゃが、今度だけ、あと五十口ほど余分に融通してくれんか。だめかのう」
一瞬、高市皇子は宙で手持ちの数を数えた。瞬間、それを押さえ、大海人皇子が伊勢王に答えた、
「伊勢王、主人は諸王の長老じゃ。顔を潰すわけにはいかん。鍬五十口。確かに承知した。この、大海人が受けた」
「なんと、剛毅なことじゃ。いや、云うてみるもんじゃ。しかし、これで諸王の者どもは田興しが進み、高市皇子に恩を感じるであろうて」
「伊勢王、大和の国々が栄えるように頼み入る」

 大海人皇子と高市皇子親子との談合を終えた伊勢王は、早速、諸王の主だった者たちに鈴鹿山の鍛冶衆の近江栗東への移住の話をした。ただ、己が貰う保障の鍬百口の数字は云わない。
 倭の山部王には直接会い、大宰師栗隅王や吉備総領当摩公広嶋には使いを立てた。当摩公広嶋は大海人皇子が、昔、妻問い、児を生した山背姫王の父親である。そのため、互いに見知り姻戚となっている広嶋と大海人皇子との関係は悪くない。
 伊勢王は諸王に説明した。
「大和の国々を開拓する鉄鍬を数多く作るため、鈴鹿山の鍛冶衆を高市皇子の栗東の鍛冶の里に併せる。その出来た鉄鍬は王たちに優先的に配分する。これを承知されたし。ついては、鍛冶の里の鉄鍬五口を印として贈る。ただ、百済のために朝廷が太刀を欲しているため、なかなか鉄鍬を数作ることは出来ない。許されよ」
 諸王たちは承知した。伊勢の鈴鹿山の鍛冶衆が高市皇子の栗東の鍛冶の里に合流することは、他人事でどうでも良いことである。ただ、鉄鍬が優先的に手に入ることには興味が湧いた。特に朝廷の鍛冶の里の品であるなら、王族には毎年、恩賞として貰える可能性がある。当然、伊勢王はそこを匂わせる。サンプルとして配る鍬の数が少ないことを「大海人皇子と高市皇子親子には、そのような意向がある。ただし、今の朝廷は百済復興と新羅討伐のため、太刀と甲羅を優先的に作る。よって、鉄鍬の数は少ない」と云い訳をした。
 さらに伊勢王は伊勢国に接する志摩国の膳臣一族にも挨拶をした。
「鈴鹿山の鍛冶衆を高市皇子の栗東の鍛冶の里に遷す。その代償に鉄鍬を貰うた。その鉄鍬を伊勢国に配る。承知されよ。苦情があれば高市皇子に云え」
 急に伊勢の国中で伊勢王から里人に鉄鍬が配られたら、伊勢に接する志摩の里人は動揺する。その事前の通告である。驚いた膳臣摩漏は大海人皇子に泣きを入れた。高市皇子はわずかだが船人や海人が多い志摩国に刀子や鉄片を流した。膳臣摩漏はそれで面目が立った。
 また、古くから熊野水軍で縁がある紀国造には「鍛冶衆の代償の鉄鍬を、伊勢一宮で戦勝の神祀りの形で国の祝部どもに配る。それは志摩の膳部臣にも云うた。ところで、もし、紀一宮で同じように戦勝の神祀りをする気があるなら、神主の立場で大海人皇子と高市皇子に口を聞いてやっても良いぞ」と告げた。
 伊勢王が匂わす貰えそうな鉄鍬の数を聞いて、紀国造たる紀臣はその話に乗った。

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