竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

明日香新益京物語 大和の鉄

2013年12月22日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
大和の鉄

 三年に渡る百済の役の間、筑紫宗像の血を引く大海人皇子の長男となる高市皇子は、本来の生国となる筑紫娜の大津に同行されることなく倭に留め置かれた。そのため、幼い高市皇子は戦乱に巻き込まれることなく、柿本比等と野で遊び、書根麻呂や村国男依によって文武を仕込まれた。
 ただ、父、大海人皇子から巻狩りは遠慮するようにとの指示を受けた。そのため、里人を使った、大がかりな冬の巻狩りはしていない。多くの騎馬や徒歩の里人を集め、弓を携えて野を行く、そのような鹿や猪を狙う大がかりな巻狩りの準備は、見方によっては戦いの準備と、ほぼ、同じである。疑いの目で見る人には謀反と見える。大海人皇子は、それを恐れた。

 白鳳十四年(661)、やや年長ではあるが、高市皇子の遊び友達を任されている柿本比等は十五歳となり、袴着の儀礼を行った。その袴着の夜、母方、櫟本の女がねんごろに比等を男とした。
 青年へと育った馬上の柿本比等が、高市皇子の馬を先導して野を行く。その比等の姿は布留から忍坂の里の娘たちには手が届くあこがれの若者となっていた。年頃の娘の母親もまた、比等を娘の相手として目を付けた。
 その柿本比等は大和歌を詠う。布留の里の石上神社の祭礼や折々の集いでの祝いの集団歌を創り、里の若い男や女に教え、祭りで歌う。大人たちもその口調の良さに感心し、折々の祭りでは比等の歌を楽しみにするようになった。それもまた、里の娘たちのあこがれを募らせ、娘の母親もまた、婿引きに煽られた。

新室壁草苅迩御座給根 草如依逢未通女者公随
訓読 新室(にひむろ)し壁草(かべかや)刈りに坐(いま)し給はね 草(かや)し如寄り合ふ未通女(をとめ)は公(きみ)しまにまに
私訳 新室の壁を葺く草刈りに御出で下さい 刈った草が束ね寄り合うように寄り添う未通女は貴方の御気のますままに

新室踏静子之手玉鳴裳 玉如所照公乎内等白世
訓読 新室(にひむろ)し踏み静む子し手玉(たたま)鳴らすも 玉(たま)如(こと)そ照らせる公(きみ)を内にと申せ
私訳 新室を足踏み鎮める子が手玉を鳴らす 玉のように美しく周囲を照らすような立派な貴方を新室の中に御入り下さいと申し上げろ

 倭の柿本一族は、古来、銅を精錬・鋳造する技術者集団である。柿本比等はその柿本一族の長である柿本鮪の長男として生まれた。正式の名前は猿。古代、人々は名前に霊力が宿ると信じ、自然界の強い力が子供に宿るようにと動物や人が恐れるような名前を付けた。ただ、その名前は家族だけが知る名前で、他人はあだ名で当人を呼ぶ。柿本鮪の長男である柿本比等は「ひとつめ」の子の意味から「ひと(文字では比等、人、一)」とあだ名された。ちょうど、後年、武士の子を順に太郎、次郎、三郎のあだ名で呼ぶ姿と同じである。

 その青年となった柿本比等を柿本鍛冶の頭、鍛冶主が鍛冶の技を鍛えた。鍛冶主がその技を鍛える銅の鍛冶仕事は穴師の森で行われていた。
 柿本比等と鍛冶主は連れ立って穴師の里にある柿本鍛冶屋敷から穴師の森の中へと向かっていた。
「比等の若子、眠いか。朝まで盛んじゃのう」
「鍛冶主の爺、吾は朝には家に居った」

 母系社会の時代、無理に入り婿は要らないが、娘に児は欲しいという家はある。そのような家の母親が、皇太弟の御子の小舎人であり、里の長者の長男である柿本比等に目を付けた。その母親が「我が娘に夜這に来い」とけしかけた。もし、比等が娘を気に入り、児が出来、家に入り浸ってくれれば儲けものと云う考えであった。
 若い柿本比等は、当然、若い女の体に興味があるし、若い体がそれを求める。それに袴着の儀式で男女の目合いの技は仕込まれており、女の体は知っている。比等はその母親の誘いに乗り、夜這うようになった。
 夜這った娘は比等より三つ年上だった。少し前、数人の男が競って夜這いを掛けたが、その時、男同士のいざこざがあり、結果、誰も夜這いに来なくなっていた。娘は家を継ぐ子で家産や家子郎党の予定はある。そのため、無理には入り婿は要らない。ただ、家を継ぐ児が欲しいと云う事情があった。
 その姉さんの娘が夜床で年下の比等を鍛えた。後に家長になる娘らしく、己の身にして欲しいことを比等に伝え、それを比等に求めた。比等は比等で、娘が求めることをすると、娘の身が潤い、悶え、夜声を挙げることに興味が湧く。それが女を征服した気にさせる。それだけでなく、当然、目合いは気持ちが良い。
 そうやこうやで、柿本比等はたびたび夜這うようになった。鍛冶主は比等の夜這いが里で評判になって来たことを、じんわりと云った。
「夜這いも良いが、気を締めんと鍛冶場で怪我をするぞ」
「気は張っておる。それに纏向川で禊を済まして清い躰ぞ。その清き吾身を穴師の神が守るわ、怪我なぞせん」
「それでこそ、若子じゃ。では、吹き場に参ろうで」
 穴師の森の中に萱で葺かれた小屋の群れがある。いくつかの小屋からは煙が立ち上り、人のざわめきが流れている。柿本猿と鍛冶主は連れだってその森の中へ入っていった。
 やがて、二人は一番大きな小屋に入った。ここは柿本一族が銅を鋳る吹き場である。小屋の正面奥に吹き炉が見える。炉の右手奥に足踏み鞴の踏み板があり、屋根骨から踏み手の掴み紐が垂れている。入口脇には木炭が積み上げられ、傍には瓶に入れられた灰褐色の粉が見える。どうやら藻塩(ソーダ灰)のようだ。
 小屋では粗末な榛で染めた褐色の荒栲(あらたえ)の小袖に小袴を着た柿本一族の小者達十人ばかりが鍛冶主の到着を待ち構えていた。
「やい、小供ども、準備はよいか」
「鍛冶主、炉は焚いて熱うなってござる。いつでも、荒銅(あらかね)は燃やせまする」
鍛冶主は吹き炉の縁を濡れた松枝で撫で水蒸気が勢いよく立ちあがるのを満足し、餅のようなものが準備されているのを確かめた。
「良かろう、では、参る」
 鍛冶主は炎を上げる吹き炉に木炭を山積みし、その木炭の山の表面に餅のようなものを載せていった。餅を載せ終わると、鞴吹きの小者に炉吹きを命じた。すると、足踏み鞴の踏み板がきしむ音を上げるたびに、鞴はブオーブオーと音を立て、吹き炉は盛んに炎を吹き上げていった。
「若子、この炎気(ほのけ)を見なされ。陽炎に黄がかすかに見えるのが良い。炎気が茜に黄を射すようでは、銅湯(ゆ)は煮えん」
「爺、この色か」
「そうじゃ、この色じゃ。炎気が強く、色は淡いのが良い」
「しかし、熱いのう。顔が焼ける」
「なに云うか。吾は柿本の男ではないか。焼けた顔が柿本一族の証じゃ。じゃが、炎気を見つめてはだめじゃ、長く見つめると一箇目になるぞ。音を感じながら、ちらりちらりと見るのが肝心じゃ」
「そうじゃ、眉を焼かない加減で近づくのじゃ。まあ、若子は聡いで、二三度、燃やしゃ、加減は判るで」
 小屋掛けの鋳場で、鍛冶主は脚踏み鞴の踏み手に加減を指示しつつ、炎を噴きあげる炉に木炭を足していく。吹き炉は脚踏みの音頭に合わすようにブオーブオーと火花を散らしながら盛んに火炎をあげる。銅の鉱石を粉砕した粉を藻塩と水で練り、餅状としたものが炉の木炭の山の上に置かれている。それが炎と時折はじける木炭の火花に焙られて赤い飴のように融け始めた。
 鍛冶主は、しばらく、火炎を立ち昇らせた。
「そら、銅餅(かねもち)が融け、銅湯(ゆ)がたぎってきたであろう」
 吹き炉に盛られた木炭と鉱砕餅は焼け融け、表面に赤黒い鉱滓のを浮かべた真っ赤な液体の表面が現れてきた。鍛冶主は合図をし、松の若木の枝を束ねササラになった棒を小者から受け取った。
「たぎってきたら、この枝で垢を撫で取るのじゃ。ほれ、こうやって。爺のように、若子もやってみなされ」
 柿本猿は、松の枝を受け取り銅湯の表面に浮かぶを撫でて絡み付けようとするが、失敗して枝を銅湯の中に押し込み燃やしてしまう。
「若子は下手じゃのう。文字は上手で仏の文も読み書きできるが、これでは柿本の鍛冶頭にはまだまだじゃ」
「女子の乳を撫でるように、やさしく撫でるのじゃ。ただ、勢いに任せて突っ込み、腰を振るだけだと女子に嫌われるでな。ほれ、この通り、爺の方が銅湯も女子も扱いは上のようじゃ。のう、若子」
「ぬかすのう、爺」
 鍛冶主は新しい松の枝を受け取り、銅湯の表面に浮かぶをたんねんに撫で取った。その銅湯の表面は金属沢に輝く膜が浮かぶだけとなった。
「若子、ここからが速いぞ、良くみてくだされ」
 鍛冶主は小さな竹尺に水を汲むと、いきなり、たぎる銅湯に撒き散らした。銅湯の表面は水を受け蒸気を熱く吹き上げた。蒸気を上げることで銅湯の表面は急激に温度を下げ、そこに膜状に銅板が姿を現す。瞬間、鍛冶主はこの膜銅を鐡の棒で掻き上げる。さらに次の瞬間、鞴の踏み手に送気を命じ、木炭粉と共に銅湯を再びたぎらせる。速い。鍛冶主は、熟練された技でこの作業を数度繰り返した。
「さて、若子。銅湯の色が変わってきたであろう。このように黄き赤に白きが増してきたら、銅湯が赤銅(あかかね)から鉛に代わる徴じゃ。そうなれば赤銅の鋳吹きの作業は終わりじゃ」
 鍛冶主は小者に命じ、垢として掻き取った鉱滓、膜状の銅板と吹き炉の底に残った鉛を仕分けさせた。この後、炉の底に残った鉛塊は人力の唐臼で砕かれ、再度、原料となる。掻き上げた膜状の銅板は、もう一度、真吹き用の炉で融かされた後、鋳型に流し荒製錬された竿銅となり、銅の鋳物の原料となる。

 柿本比等が倭の銅製錬を生業とする一族の者として鍛えられて行く間も、歴史は動く。
 白鳳十八年(665)、葛城皇子の妹で孝徳大王の妃であった皇太后天皇間人皇女が三十七歳で崩御された。その後を葛城皇子の妃、倭姫王が皇后天皇として大和の祭祀を執る天皇位を継がれた。
 この頃、百済滅亡後の朝鮮半島では大唐と新羅との間で、その後の朝鮮半島をめぐる支配権闘争が激化して来た。新羅の攻勢に手を焼いた大唐は百済傀儡政権を樹立し、新羅攻略の工作を始めた。この工作に大和朝廷の力を得るべく、大唐は葛城皇子の率いる朝廷に大唐との軍事同盟の道をさぐった。
 大唐・新羅連合軍により、朝鮮半島からの鉄の輸入が止められている大和の国内で、この大唐の動きに呼応する機運が高まって来た。そして、百済傀儡政権の樹立を期に百済の役を指導した大和の百済派が再び勢力を盛り返して来た。
 一方、学者肌の大海人皇子は政治の動きから身を離し、淡々と、大和の製鉄や銅製錬等の金属製錬・鋳造の鍛冶を興し、渡来系の土木技術者が持つ技術を築城などの形で西日本各地の豪族に伝授して行く。伝授する築城の技術は河川の切り替えや干拓に使えるし、その築城を行う間は今来の渡来系の人々は日々の生活に困らない。また、金属製錬の技術は大海人皇子の息の懸った倭纏向、近江野洲、但馬竹野、吉備赤坂、筑紫糸島などを中心に伝えられていった。

 大海人皇子は考える。
 大和が新羅伽耶に鉄の権益を求め、その確保に軍を送るのは大和でする農地の開拓の需要を満たすのに十分な鉄が供給できないからである。もし、大和で十分な鉄の供給が可能であれば、朝鮮に出兵する必要は無くなる。
 大和にはまだまだ開拓に有望な土地もあり、民も増えている。一方、人々はその開拓に必要な鉄製の鍬や鋤を渇望している。だから、新羅伽耶を求める。平和を築くには鉄が要る。従って、いかに大和で鉱石を見つけ、鉄や銅の製錬を行うかにかかっている。

 大海人皇子は先の百済の役で製鉄を行うための一連の工程で必要な職人集団を手に入れた。もし、大和の地に有望な鉄の鉱山を見つければ、大海人皇子が考える平和への道は開ける。
 今、大海人皇子は倭、但馬、筑紫の山中に鉄の鉱山を求めて人を送り込んだ。
 こうした中、十八歳になった柿本比等は鉄鉱石や銅鉱石を求め、泉川(現在の木津川)を遡り、笠置の山中を歩いている。大海人皇子の平和への道と云う構想の中に柿本比等を含めて柿本一族はしっかりと組み込まれている。その柿本比等は、山背国の加茂郡小野邑を拠点に、笠置山地を縄張りとする星川臣の手を借り泉川の流域を探った。そして、比等は近江の田上山に褐鉄鉱の鉱山を見つけた。それは大和国家として製鉄が出来るほどの規模であり、鉄の自立への希望が見えた。
 大海人皇子は、己の夢を叶えるため、子の高市皇子に技術者の道を歩ませた。大海人皇子や高市皇子の母方や壬生は鍛冶に関係する氏族である。その氏族から人を選び、高市皇子の教師とした。また、遊びと教育とを兼ねて、柿本や高市宗像の鍛冶場を訪ね歩かせた。その姿に倭の豪族どもは、高市皇子の姿と行く末を想像する。あれは政治家にはならん。あって、技人の長じゃ。

 およそ十八歳の時代に、柿本比等が木津から笠置の山中を歩いた時の歌が万葉集に残っている。比等は山背国加茂郡小野邑の小野一族の屋敷に宿を取り、鉱石の探査に向かった。
 その高市皇子の小舎人であり、柿本臣の長男たる比等に小野の里長は大和の習いとして屋敷の娘を夜床の温めに出した。比等は大和歌の手習いを兼ねてその娘子に歌を創った。それが、万葉集に残っている。

白鳥鷺坂山松影宿而往奈夜毛深往乎
訓読 白鳥し鷺坂山し松蔭に宿りに行かな夜も深け行くを
私訳 白い鳥の鷺の、その鷺坂山の松の木陰に野宿して行きましょう。夜が更けていくので。

妹門入出見川乃床奈馬尓三雪遺未冬鴨
訓読 妹し門入り泉川の常滑(とこなめ)にみ雪残れりいまだ冬かも
私訳 貴女の家の門に入る。その泉川の滑らかな川の岩に雪が残っている。暦と違って、未だ、冬なのでしょう。

コメント   この記事についてブログを書く
« 万葉雑記 色眼鏡 五十八 ... | トップ | 今日のみそひと歌 月曜日 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

実験 小説で万葉時代を説明する 」カテゴリの最新記事