竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 人麻呂の日本挽歌

2014年07月20日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
人麻呂の日本挽歌

 朱鳥八年(693)、神祇伯の中臣大嶋が死んだ。そして、伊勢皇太神宮神主の伊勢王もまた、もうこの世に居ない。朝廷の神祀りの事業は伊勢王や中臣大嶋から一世代若い中臣意美麻呂に引き継がれた。
 この時代、平均寿命は短い。十五歳の裳着や袴着の成人式を迎えたものでも、その余命は二十年を行かない。つまり、多くは四十歳になる前に死ぬ。壬申の乱を戦い、大和の国創りをした者どもが、時と共に次第にこの世からこぼれていく。そして、臣下の代変わりが起きる度、その者が育つまでの間、大和の国創りの基本設計を書き、それを実行する高市大王の激務の度は増して行く。

 朱鳥九年(694)、宮中で氷高皇女の裳着の儀が話題になって来た。皇女はもうすぐ十五歳になる。高貴な皇女や王女の場合、妻問いと云う行為での夫選びが許されない。そのため、裳着の祝い頃には夫となる相手の男を決める必要がある。
 この時、皇女の祖母である天皇鵜野皇女と母親である阿閉皇女が高市大王に氷高皇女を大王の室に入れることを要求した。高市大王は草壁皇子が亡くなった時に、阿閉皇女に皇太后の地位を与え、氷高王を氷高皇女と為した。このため、氷高皇女の婚姻の相手は限られる。そこで、その代償として四十歳の高市大王に氷高皇女をその室に入れることを求めた。
 朱鳥十年(695)、草壁皇子の御子である氷高皇女は裳着の祝いを行い、高市大王の室に入られた。この裳着による成人と婚姻とにより皇女に正広肆(三品相当)の女叙位が為された。後、氷高皇女は、母親、元明天皇の後を襲い、高市大王の一品の妃として元正天皇となられる。

 朱鳥十一年(696)五月、高市大王は病により床に就かれた。
 朝廷は全国の祝部どもに疾病治癒の神祀りを命じ、六月になって公卿百寮の者どもが薬師寺に大王の疾病治癒を願い仏像喜捨の願掛けをした。また、恩赦放免も行った。しかし、功無く、その七月七日の夜、大王は危篤となった。朝廷は俄かに真夜中ではあるが盗賊などの重犯罪者へにも恩赦などを行い、最後の病魔からの回復祈願を立てた。だが、人々の願いも甲斐なく、七月十日、大王は崩御された。
 この時、大王は四十二歳であった。現在から見れば四十二歳は若いが、当時としては若死にという感覚は無い。ただ、総てを成し遂げた高市大王は若い氷高皇女を室に入れ、皇女へ注ぐ豊かな愛情の中、十代から全速力で走り続けた大王の気が緩んだのかも知れない。
 後、その氷高皇女が平城京遷都の折、新益京を偲んで長屋原(奈良市市役所付近)で詠った歌がある。そこからは皇女が大王に、ずいぶん、慈しまれていたことが窺える。

飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆君之當者不所見香聞安良武
訓読 飛ぶ鳥し明日香し里を置きて去(い)なば君しあたりは見えずかもあらむ
私訳 あの倭猛命の故事ではないが御霊の印である白千鳥が飛ぶ、その明日香の里を後にして奈良の京へと去って行ったなら、貴方の新益京の辺りはもう見えなくなってしまうのでしょうか。

 高市大王の崩御後、朝廷は直ちに大海人大王や草壁皇子の例に習い、高市大王の喪に入った。大海人大王の例では、最初、正妻鵜野皇女を施主として僧侶による法要が行われた後、崩御から数えて十八日目から草壁皇子を祭主として倭の古風での誄が行われた。
 高市大王の崩御から十九日目となる八月一日、神祇伯中臣意美麻呂が皇族及び大官や主だった氏長を招集し、高市大王の喪を執る日嗣について談合を持った。
 この時、高市大王の神葬祭を行うために全国の祝部どもが新益宮に集結しつつあった。

 生前の高市大王の意志は「次の日嗣には草壁皇子の御子、軽皇子」と定められている。
 人々は、ただそれは四十二歳のまだ若い大王の将来の意思だったと考える。それに、その軽皇子は、未だ、袴着を畢えた成人とはなってない。また、日嗣となる肝心の要件である皇女との婚姻もしていない。つまり、倭の古風では日嗣の要件を満たしていない。神祀りを執る天皇位は、現天皇鵜野皇女以外に阿閉皇女、御名部皇女、氷高皇女の御三方が続く。従って、倭の古風からすれば急いで大王を定める必要はない。
 しかし、今の大和は古風の倭では無い。肝心なその神祀りも変質して来ており、朝廷が大王の名で招聘する大和の神祀りでは大王が重要な役割を果たすようになってきている。神祇伯中臣意美麻呂は大和の神祀りを執る祭主を決めるよう、皇族たちに求めた。
 その神祇伯中臣意美麻呂の求めに、高市大王亡き後、長老となった忍壁皇子が裁定を出した。その裁定は「大王となる日嗣はあくまでも軽皇子である。しかし、軽皇子の成人と皇女との婚姻まで、長皇子を仮の日嗣である摂政とする。その間、長皇子が大和の神祀りを執る」であった。この長皇子は葛城大王の御子、大江皇女を母とする。忍壁皇子より年下だが、母親の身分は遥かに高い。大海人大王の遺訓で皇位継承などの序列は母親の身分によって決まる。
 さらに忍壁皇子は「軽皇子の妃に大海人大王の御子、託基皇女を充てる」と裁定を下した。この託基皇女は穀媛娘を母親とし忍壁皇子の妹であるが、母親の身分は低い。皇女ではあるが、軽皇子の妃として、また、将来の皇后としてはその血筋は軽い。そのため、託基皇女は再び伊勢にいる大来皇女の許に養女とし、その身分を改め、後、大来皇女の御子として軽皇子の室に入る。また、阿閉皇女の御子である吉備皇女は高市大王の御子の長屋皇子の室に入り、長屋皇子は義弟の立場で軽皇子を支えると付け加えた。

 議論はあった。人々は軽皇子の体力と性格を思う。特に老人達には草壁皇子と大津皇子との比較が蘇る。軽皇子は草壁皇子に似て、大王たる体力に疑問がある。その思いが議論を呼んだ。
「長皇子を仮の日嗣ではなく、本格的な日嗣では駄目なのか」と云うもの、「もし、長皇子を仮の日嗣とするなら、日嗣は高市大王の御子、長屋皇子では駄目なのか」と云うもの、「忍壁皇子は明日香皇女を室に入れられており、今、長老の位置にある。忍壁皇子ではだめなのか」と云うものなど、人々は口々に説を述べた。
 それを忍壁皇子が押さえた、
「皆の者、思え。大和の大王の御威光とこの新益京を誰が築いた。誰が、壬申の乱を戦い勝ち、今の平和な世を創り成し遂げた」
「確かに大海人大王は偉大であった。しかし、高市大王は大海人大王を支え、そして、それを受け継ぎ、今の大和を成し遂げた」
「その高市大王の御意志じゃ。軽皇子の日嗣は変わらん。そこが出発点じゃ。そこから、物を云え」

 人々は黙り込み、古老から時折昔話として聞く五十年前の飛鳥を想像した。
 田村大王(諱、舒明天皇)の時代は板葺の宮殿すら作れず茅葺であったと云う。やっと、皇太后天皇宝皇女(諱、皇極天皇)から軽大王(諱、孝徳天皇)の時代になって、板葺檜皮の宮が出来、人々はそれを祝って飛鳥板蓋宮と誉め称したと云う。また、豪族どもは政治の場面で勝手気ままに振る舞い軽大王を責め悩まし、その豪族たちの振る舞いが軽大王の命を縮めたとも云う。
 それが、今、飛鳥には瓦葺の新益京の建物や大官大寺、薬師寺などの大寺院が建つ。そして、神祀りには大王の招聘に従い、全国から三千を超える祝部どもがそれぞれの国の国司守に連れられ飛鳥新益京に集う。大王の威光は天下に届いている。また、金銀銅やガラスの宝飾は国産で適うし、錦や羅も呉物にひけを取らない。里の倉には稲穂が貯まり、国の蔵には銀、銅、鉄が貯まっている。
 わずか五十年、壬申の乱からすれば二十五年。それだけの期間で、大和は世界第一級の国家となった。それを高市大王が為した。また、集う者、皆が知るように忍壁皇子はややもすると技術者に走る大王を法務者の目で修正し、支えた。そして、今、高市大王亡き後、皇族の長老の位置にあった。その忍壁皇子の裁定である。
 宮内の鵜野皇女と阿閉皇女はこの裁定に納得した。年齢から考えて祭祀を行う天皇位は阿閉皇女の後は氷高皇女へと行く。もし、病弱な軽皇子になにかがあっても、大王位は長屋皇子が継ぎ、天皇位は吉備皇女の娘が継ぐ。どのようになっても天皇位は鵜野皇女の直系の女の血で繋がる。倭に流れる社会基盤の根底は母系社会である。忍壁皇子は、その倭の習わしと女の血筋を尊んだ。
 天皇鵜野皇女は忍壁皇子を「さすが、大海人大王の時代から大和の律令を練り上げて来た人」と感心する。それに託基皇女は軽皇子より一歳年下で、この皇女より高貴な娘で年が叶う女子はいない。軽皇子を引き立てるため、そこも、しっかり押さえてある。
 高市大王の正妻である皇后御名部皇女と妃であった氷高皇女は大王の意志を尊び、異議を唱えない。その御名部皇女は、彼女自身としても実妹である阿閉皇女の御子である吉備皇女を自分の子である長屋皇子の正妻に迎える裁定に満足した。息子の長屋皇子は夫であった高市大王の若かりし時の姿と同じ形で朝廷を支える。

 日嗣の衆議は忍壁皇子の示した裁定で決した。
 高市大王の葬礼は忍壁皇子の示した裁定に従い、この日嗣と序列で行われる。高市大王の葬礼は大和の神祀り、あの草壁皇子の葬礼と同じで行われる。その葬礼の仕儀次第を執る神祇伯中臣朝臣意美麻呂は木工寮頭柿本朝臣人麻呂を呼び出し、大王の誄となる挽歌の奏上を命じた。
 翌朱鳥十二年正月、高市大王の葬送の大礼が行われた。大礼の後、高市大王の遺体は百済の原の三立岡(広陵町三吉付近)の御稜に葬られ、その御霊は大海人大王に習い伊勢国度会の月讀神宮に祀られることになった。
 この時代から偉大な大王に対しては御稜を築くより、神祀りの儀礼である御社を建てることの方が重要となった。このため、偉大なる人物には、死後、人が神となり御社に祀られるようになった。
 伊勢月讀神宮の祭神は月読神である。この月読神は古事記によると天照大御神と対等の神である。そして、天照大御神が高天の原を統治するに対して、月読神は夜の世界を統治せよと定められている。本来、伊勢皇太神宮の祭神、皇太神とは大海人大王を示す。それが、今、皇太神は天照大御神と成り変っている。つまり、根源的には月読神は皇太神と同等の神である。皇太神が大海人大王を意味するなら、月読神は高市大王を意味せざるを得ない。同じように平安京を建てた桓武天皇は平野神宮(現在は平野神社)を建て、後の天皇は祭神である皇大御神を祀った。
 大海人大王を祀る皇太神宮は平安期には伊勢月讀神宮をも管理した。その皇太神宮が作る皇太神宮儀式帳では月読神の御姿を次のように記している。
「月讀命。御形は馬に乗る男の形なり。紫の御衣を着、金作の太刀を佩きたまう」
 高市大王は大海人大王から馬上、軍を統べる人として御鞍を授けられた大将軍でもあった。その姿は、人々の中に月読神の御姿と同様に鞍持ちの皇子として竹取物語にも登場し、記憶に残った。
 三月、大海人大王の葬礼に習い、大官大寺で摂政長皇子が施主となり高市大王を悼む供養布施の無遮大会を行った。いわゆる、百箇日法要である。その一周忌となる七月、薬師寺で金銅仏を奉納し、高市大王の一周忌の法要が執り行われた。

 柿本人麻呂は朱鳥十二年正月の高市大王の葬送の大礼で次のような挽歌を詠い、誄とした。

挽歌、長歌抜粋
桂文 忌之伎鴨 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 真神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼母 定賜而 神佐扶跡 磐隠座 八隅知之 吾大王乃

訓読 かけまくも ゆゆしきかも 言(こと)はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真(ま)神(かみ)し原に ひさかたの 天つ御門(みかど)を 懼(かしこ)くも 定め賜ひて 神さぶと 磐(いは)隠(かく)り座(いま)す やすみしし 吾(わ)が大王(おほきみ)の

私訳 口にするのも憚れる、言葉でいうのも畏れ多い。明日香の真神の原に長久の天の王宮を尊くもお定めになって、今は神として岩戸に御隠れなされた天下をあまねく承知なされる我が大王の高市皇子尊が、

挽歌、短歌二首
久堅之天所知流君故尓日月毛不知戀渡鴨
訓読 ひさかたし天知らしぬる君ゆゑに日月も知らに恋ひ渡るかも
私訳 遥か彼方の天上の世界を統治なされる貴方のために、日月の時も思わずに貴方をお慕いいたします。

垣安乃池之堤之隠沼乃去方乎不知舎人者迷惑
訓読 垣安(かきやす)の池し堤し隠(こもり)沼(ぬ)の去方(ゆくへ)を知らに舎人(とねり)は惑ふ
私訳 垣安の池の堤で囲まれた隠沼の水の行方を知らないように、どうしていいのか判らない舎人たちは戸惑っている。

 また、穢れと国つ神に斎く立場として、高市大王の葬送の儀礼に出席出来なかった檜隅女王は遠く紀国一宮の日前神社で、紀伊国御幸での在田郡泣沢にある藤並神社での大王との思い出を下に偲ぶ歌を詠われた。

哭澤之神社尓三輪須恵雖祷祈我王者高日所知奴
訓読 哭沢(なきさは)し神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祷祈(いの)れども我が王(おほきみ)は高日知らしぬ
私訳 哭沢の神の社に御神酒を据えて神に祈るのですが、我が王は天上の世界をお治めになった。

 十月、高市大王を支えた右大臣丹比真人嶋が、大王の崩御に併せ引退し、朝廷は摂政長皇子の下、阿倍朝臣御主人、大伴宿禰御行、石上朝臣麻呂たちが率いることになった。
 これに伴い朱鳥の年号は十二年正月を以って、大長元年(698)へと変わった。


 高市大王は二カ月ほどの闘病の末、崩御された。急死でもないが、長患いでもない。人々の心の準備を確かめるかのような崩御であった。
 高市大王が幼い時から傍に仕えてきた人麻呂は、不思議と己が詠った草壁皇子の挽歌の前節を想い出した。
「葦原の 瑞穂し国を 天地し 寄り合ひし極 知らします 神し命と 天雲し 八重かき別けて 神下し 座せまつりし 高照らす 日し皇子は 飛鳥し 浄し宮に 神ながら 太敷きまして 天皇(すめろぎ)し 敷きます国と 天つ原 石門を開き 神あがり あがり座しぬ」

私訳 葦原の豊かに稲穂を実らせる国を天と地が接する地上の果てまで統治なされる神の皇子として、天雲の豊かに重なる雲を掻き分けて、この地上に神として下りなされた天まで高くその輝きで照らされる日の皇子は、飛ぶ鳥の浄御原の宮に、神でありながら宮殿を御建てになられ、そして、天の皇子が統治なされる国と天の原への磐門を開き、天の原に神登られなされた。

 天が示した高市大王が成すべきことをその大王が成し遂げた時、高市大王は天つ国へ戻られた。そう思うと、その姿はいかにも高市大王らしいと感じた。
 大海人大王は大和の歌舞音曲を好み、自ら大和歌を詠い、五節舞など舞踏をも企画された。大和を形作る大仕事をされたが、同時に人生を楽しまれた。一方、高市大王は、『日本書紀』、『万葉集』や『懐風藻』など歴史に残る物からは、何が楽しみで生きていかれたのかは分からない。確かに大和統一の仕上げを行い、税制や行政法の法体系を作り上げ全国に施行させている。そして、世界有数の工業国家を作り上げた。大王は技術者のように淡々と目標を定め、そこへ向かっていかれた。その姿から高市大王の崩御もまた、人麻呂には予定行動のようにも感じた。
 人麻呂は虚しいと云う感情より、大王らしいと云う感情が先にくる。悲しいのだが、なにか不思議な感覚を感じていた。

 高市大王の葬送の大礼の後、世の中に不思議な感情が流れた。確かに偉大な大王であった高市皇子の死は悲しい。だが、なにか、人々の心の底にはほっとした感覚が流れた。
 この時、人々は疲れていた。高市大王の死が、人々の間に休みたいと云う感情と終わったと云う感情を引き起こした。大海人大王と高市大王とが大和の国を創るまで、人々には国が定めた刻に合わせて働き、生活する風習は無かった。今、朝、決まった時間に起き、朝廷で働き、決まった日にだけ休む。その働きには日々優劣を点けられ、それにより褒賞や身分が変わる。さらにそれが子孫の生活にも大きく影響を与える。農民や漁民もまた決まった量の生産物を造り、さらに庸役では決まった日に、決まった時間で働くことが求められた。大海人大王や高市大王の時代になって人々の生活に強度な規律がはめ込まれた。
 また、日頃、見慣れた倭の湿地帯が、気がついた時、巨大な建物が立ち並ぶ都となった。国々へと繋がる道はどこまでも真っ直ぐ、大きな官路が通じ、大船は難波大津を中心として東は伊豆国田方郡御嶋(みしま)(静岡県三島市)から西は豊前国京都郡草野津(かやののつ)(福岡県行橋市草野)へと結ぶ。そして、各地の品物が飛鳥の都に集まる。さらに、その路を使って、一度、大王の招聘が掛かると全国から数千の人々が飛鳥へとやってきて、大王にひれ伏す。
 確かに里に多くの子が生まれ、餓死することもなく育つようになった。田畑も増えた。里毎に稲穂を蓄える倉も建ち並び、飢饉の備えもある。疫病が流行れば、大王の命での薬草の降し渡しや医師の派遣もある。また、戦乱が無くなって既に久しい。確かに暮しは良くなった。しかし、里でも読み書きにより人を選抜し、官人へと取り立てる。飛鳥から遠く離れた雛の里でも官途に就く者と就かない者とで貧富の差が顕著になった。また、里の神祀りも変わった。白木の清々しい神の御社が建ち、大和の大王が定めた仕儀で神祀りが行われる。そこには古来の猥雑さは無く、また、里毎の特徴ある祭は廃れていった。
 これが、たった二十五年である。この急激な変化に人々は疲れ、高市大王の葬送の大礼を機に休息を求めた。

 そして、高市大王と云う重しを失くし、休息を求める大和の人々のタガが外れた。
 宮中では女達は陀羅尼を唱える雑密仏教に溺れ、そして、房中術の薬と称して若い男を求めた。その施薬の結果、大海人大王の夫人であった藤原鎌足の娘、五百重娘は次々と房中術の子を産んだ。その都度、その子は宮内の内臣である藤原史が己の子とした。のち、その五百重娘の子等が身分の劣等感と積み上がる朝廷の財(銀貨)への欲望から高市大王の御子、長屋親王と膳部皇太子を殺し、大和大王家を滅ぼした。
 倭の神祀りを下にした天皇・大王制での天皇は、大宝元年(701)に軽皇子と婚姻した託基皇女が天皇氷高皇女の後を襲い、天平勝宝元年(749)に最後の天皇となられた。しかし、天平勝宝三年、その崩御と共に倭の天皇・大王制の残り火は消えた。なお、託基皇女を『万葉集』の標注から志貴皇子の正妻、春日王の母親とする説があるが、その春日王は公式の貴族の戸籍に相当する『新撰姓氏録』では川島皇子の御子となっている。つまり、託基皇女が志貴皇子の正妻であったとする根拠は公式には存在しない。一方、その氷高皇女と託基皇女の御二方だけが、奈良時代、一品の官位を賜った皇女である。つまり、朝廷序列での立場は同じである。

 大王殺しの五百重娘の子たちは、己の身分の卑しさからくる大海人大王の定めた制約の下、天皇・大王制から大唐に習い皇帝・皇后と云う制度に変えた。その初代の皇帝に軽皇子(諱、文武天皇)の添い臥の児、首王を就け、世の人々に聖武皇帝と呼ばせた。さらに皇帝・皇后の制度の下、大和の神祀りから仏教による統治へと統制を変えた。この時、聖武皇帝の皇后、夫人藤原安宿媛は伊勢皇太神宮にも寺を建て、神祀りから仏を拝むように変えた。
 ただ、慣習・風習や信仰にも寄らない国分寺・国分尼寺制は、その努力と資金投入にも関わらず、民衆に根付くことはなかった。安宿媛皇后の死後、直ちに大中臣清麻呂たちの手によって伊勢皇太神宮の域内にあった寺は、すべて神聖な度会の地から遠く蛮地へと遷され、皇太神宮に寺を受け入れた神主もまたその職から放逐された。

 大海人大王と高市大王とが創った大和の国は、神亀・天平年間を頂点として平安時代末期まで、ぎりぎり、その寿命を保ったが、その大和の国体は一族の為への簒奪しか知らない藤原氏と云う化け物に食い散らかされ、朽ち果てた。
 農業とは違い工業国家を運営するには複雑な社会システムを安定的に維持・運営する必要がある。藤原貴族は、工業が求めるその社会システムの維持・運営のための再投資や人材の確保と云う概念を持たなかったし、また、理解も出来なかった。経済実務を知らない、その藤原貴族は新益京建設から始まった大規模開発を伴う高度成長の社会をコントロールすることが出来なかった。
 都での大規模開発を目当てに全国から人々は倭に集まった。確かにその人々は元の出身は農民であったかもしれないが、次第、賃働きの職人として生活をするようになる。王宮・大寺や官人たちの屋敷の建設、それに全国規模の官路の建設など大規模な開発工事は続いていた。それと同時に社会システムの整備と複雑化に伴い大宮で勤める人々をさらに支える職人群も増えてくる。それが、また、常に公共投資の継続と増加を要求する圧力となる。そうした中、東大寺の大仏建立を含む全国規模の国分寺・国分尼寺の建設の詔に端を発した極端な大規模開発が、全国に大インフレーションを引き起こした。
 インフレーションと紙幣と云う通貨システムをもたない状況下、通貨不足に苦しんだ朝廷は、天平宝字四年(760)、和同開珎に替わって萬年通寳を発行し、十分の一のデノミを断行した。これが、さらなる通貨の混乱を引き起こした。その通貨の混乱中、鉱山資源の枯渇が原因ではなく、乱れた行政が引き起こした物流網の混乱などから銅鉱山の維持・管理能力自体が次第に失われて行った。これが、紙幣と云う通貨を持たない古代では人々は競って経済価値が高い古銅銭を銅地金や金銅仏像に鋳直して退蔵すると云う現象を引き起こし、さらなる通貨不足という経済混乱を引き起こしてしまった。
 奈良時代、藤原仲麻呂時代には既に社会システムは崩壊を始め、平安時代に入って国家としての海上交通網を含めた工業力を維持する能力を失った。そして、平安時代、村上天皇の天徳二年(958)を最後に、貨幣を鋳造し、発行すること自体も出来なくなった。
 貨幣経済の停滞は社会全体の停滞へと遡及して行く。そして、平安時代、奈良時代には世界有数の工業国家であった大和は経済的に死んだ。次に大和が工業国家として再興し、それに伴い農業生産力が向上して人口の爆発が起きるのは安土桃山時代まで待つ必要がある。
 奈良時代、既に王族は藤原氏と云う化け物をつぎのように嘆いていた。

蓙莢尓延於保登礼流屎葛絶事無宦将為
訓読 さう莢(けふ)に延(は)ひおほとれる屎葛(まりかづら)絶ゆることなく宦仕(みやつかへ)せむ
私訳 人を寄せ付けないサイカチの巨木に蔓を延ばし絡み付いたくだらない葛(=藤氏)よ。それでもこれからもくだらないその葛(=藤氏)の奴隷のような下僕として仕えよう。

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