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万葉雑記 番外雑記 万葉時代と化粧美容

2021年04月17日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 番外雑記 万葉時代と化粧美容

 前回、「平安貴族、遊びの教養 その二」で、下記に示す万葉集の集歌2408の歌を扱いました。この歌の言葉「眉根削」を改めて検討する過程で万葉時代の化粧や美容について再確認する必要が生じ、その確認作業で標準的な解説と現時点での考古報告などとに大きなギャップがあるのではないかと疑問が生じました。
 化粧法について、男が見てそれぞれの時代で大きく違うのは眉の位置と描き方です。法隆寺由来の御物「聖徳太子及び二王子像」、正倉院蔵の「鳥毛立女屏風」や各種の落書絵から奈良時代の眉の位置は自然に眉が生える位置と同じです。ただ、資料が少なすぎるために時代としての化粧法の詳細は不明です。
 次に資料が揃うとされる平安時代から化粧を考えますと、一般的に厚塗りの白粉による化粧法を前提として、歌舞伎系のその化粧法から想像し、平安女性の化粧姿は眉を剃り落とし、額の高い位置に置眉した姿、俗に云う「麿顔」を想像します。ところが平安時代の作品と確認出来る「堤大納言絵巻」、「源氏物語絵巻物」、「信貴山縁起」を確認すると平安女性の眉は高い位置での置眉ではなく、自然の眉の位置での横一文字型の太眉毛です。眉の作り方は飛鳥・奈良時代が柳眉と称される細い三日月型が平安時代中期には太い横一文字型に近い姿に変化したようです。しかしながら、平安時代後期までにあっても眉の位置は地毛と同じです。なお、男性のものとなりますが、鎌倉時代の作品の「中殿御会図」では同じ絵画の中で同時に太い横一文字型の眉と高い位置の置眉とが確認できますので、その例を使い、置眉の言葉の定義と眉の描き方の判定基準としてください。
 確かに平安時代末期から鎌倉時代初頭の「病草紙」の庶民の顔に置眉(高眉)に類似した太く、ぼやけた眉を描く姿を確認できます。ただ、鎌倉時代の「北野天神縁起絵巻」、「公家列影図」、「天子摂関御影」、「中殿御会図」などに見る平安時代後期から鎌倉時代前期での天皇や公家の姿からすると男性貴族では標準眉が一般で、置眉は少数派です。これらから置眉の初期を鎌倉時代初頭と考えますと、眉化粧は平安時代末期から鎌倉時代ごろに変化が現れ、高い位置での置眉は室町から江戸初期に公家化粧の主流になったと考えるのが正しい認識です。
 下衆の憶測で、背景として明治26年に青木嵩山堂から出版された単なる娯楽書である『中古諸名家美人競』や江戸時代に描かれた各種の物語絵巻などを時代考証無しで上古絵として引用する姿があり、ポーラ文化研究所のようにそれらは歴史風俗を忠実に反映したものとして考えた可能性があります。江戸期に描かれた公家姿がそのまま上古を反映しているかは保証していません。
 なお、平安期に「虫愛でる姫」のように個性を強烈に主張し、規定から外れた好みの化粧を施した例も記録に残りますから、絵巻に見る横一文字の太眉毛化粧は典型例でしかありません。「虫愛でる姫」は剃毛や抜毛をしていないゲジゲジ眉と批判的に伝わりますが、「源氏物語絵巻」の女性たちもまた柳眉ではなく太眉毛で表現されています。いつの時代も女性の美容の目的は本人の姿をより美しく見せるものですから、確かに伝わる「堤大納言絵巻」、「源氏物語絵巻物」や「信貴山縁起」に示す女性像は、それが描かれた平安時代末期の絵師たちが想う典型様式だけの可能性もあります。それに『源氏物語』では衣装などにそれぞれの女性の個性を表現しますから、衣装と顔の造りとをマッチングさせる感覚があるなら、万葉時代から平安時代にあって個人の資産を保有し、希望すれば女官や商業・農園経営などの職業に就く時代、そのような自由な女性は美容・ファッションでも想像以上に自由だった可能性があります。
 ただ、平安時代の美人判定で女性の目は細目が美人としていますと、顔を絵画で表現する時に細目をデホルムして細い一本線としますと、バランス上、柳眉ではなく眉を太く描く可能性があります。それがちょうど「源氏物語絵巻物」や「信貴山縁起」に示す女性像です。一方、文学側からは平安時代でも柳眉は生きた言葉ですので、柳眉の化粧を行った可能性はあります。しかしながら、平安時代の絵画は宗教上の迷信などから特徴的に人物写実性を持たないために同時代性の絵画などでは確認できていません。場合により、「源氏物語絵巻物」は、現代マンガが女性の目を極端に大きくデホルムして描くのと同じ、顔についてはマンガ絵以外の役割を持たない可能性があります。この場合、平安時代の化粧法の資料は無くなります。
 また、伝統和刃物の生産地などの情報では庶民が化粧をする時に剃刀を使うようになるのはおおむね生産地の起源と重なる鎌倉から室町時代以降とします。一般にはそれぞれの産地の都合があり、和刃物の生産地の起源とその地域での剃刀の普及時期を合わせるようです。ところが、剃刀自体は剃髪を目的に頭や顔の形に馴染むように開発された刃物で、日本には飛鳥時代の仏教僧侶の到来と時期を合わせます。つまり、飛鳥時代後半までには大和中心地までに到来し生産されています。さらに、この剃刀と同様な小さなサイズ感の刃物に刀子があり、これは仏教僧侶の到来以前の弥生時代から使用されています。ちなみに平安時代の『和名類聚抄』の区分では「剃刀」は髪剃り専用の刃物で、「刀子」は髪剃り、爪切り、筆先切り、物切りなどの汎用の小型刃物として区分します。このため、刀子を髪剃り専用に使うと「加美曽利(剃刀)」と呼ぶことになります。なお、今回の化粧の与太話は、上古代の貴族階級の女性が行っていたものが対象で、五節舞などでの神事巫女化粧や庶民の女性は対象としません。
 ここで、万葉時代の化粧に関わる集歌2408の歌を眺めます。

集歌2408 
原文 眉根削 鼻鳴紐解 待哉 何時見 念吾君
訓読 眉根(まよね)削(か)き鼻(は)鳴(な)き紐(ひも)解(と)け待つらむか何時(いつ)しも見むと念(ねが)ふ吾が君
私訳 (あの時と同じように)眉を刮り整へて、甘えた声で下着の紐を解かれる時をいつまで待つのでしょうか。いつ何時でも抱かれたいと思う、私の貴方。

 流れの関係で集歌2408の歌を先に紹介しましたが、次の集歌993の歌や集歌1853の歌に示すように万葉時代の女性の眉は横一文字型に近い三日月型をした細い柳眉です。これは遣隋使や遣唐使による情報、また、高句麗などの大陸文化の影響を持つ帰化人から情報を得て、宮殿の板吹き屋根が瓦葺き屋根に置き換わるような怒涛の近代化の中で大和の女性が衣装や装飾品を含めて大陸の最先端ファッションとして取り入れた結果と考えます。

集歌993
原文 月立而 直三日月之 眉根掻 氣長戀之 君尓相有鴨
訓読 月立ちてただ三日月し眉根(まよね)掻き日(け)長く恋ひし君に逢へるかも
私訳 月が変わり、真っ直ぐな三日月のような細い眉毛を刮り整へる。すると、日一日をずっと慕う貴方に逢えるのでしょうか。

集歌1853
原文 梅花 取持見者 吾屋前之 柳乃眉師 所念可聞
訓読 梅の花取り持ち見れば吾(あ)が屋前(やと)し柳の眉(まよ)し念(おも)ほゆるかも
私訳 梅の花を手に取り持って見つめると、私の家の前庭にある柳の、その柳の葉のような眉をした貴女を思い出してしまいます。

 さらに万葉時代人の美少女の感覚は大陸の漢詩に示すような十六から十八歳ぐらいの健康な少女がピンクの色濃い桃の花の下に立つ風情です。文学世界の美少女は表情を消すヌリカベのような厚塗りの白粉姿ではありません。素肌そのものの顔の状態を示す言葉「素賓」の語源そのものです。

集歌4139 
原文 春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立感嬬 (感は女+感の当字)
訓読 春し苑紅(くれなゐ)にほふ桃し花下照る道に出で立つ感嬬(おとめ)
私訳 春の庭園の紅色に輝く桃の花の下の光輝く道に出で立つ官女の少女。

 万葉時代、近代に類する化粧品が無かった訳ではありません。白粉は既にあり、それは大正時代までのものと同じ鉛を主材とする鉛白白粉ですし、口紅では水銀系の朱、鉛系の丹、紅花系の赤があります。特に万葉時代の白粉の主材となる鉛白は、正倉院御物などの分析から奈良時代に限り大陸よりも高度な生産技術を下に純白からやや青みがかかった白まで色調を変えることが出来ました。
 加えて化粧法の研究者は集歌1911の歌の「左丹頬經」の言葉に、李白の詩『王昭君』の「上馬啼紅頬」に示す大陸での頬にピンクを載せる化粧法と似た化粧法を見、白粉である鉛白に鉛系の丹を加え淡くピンク色としたものを頬に載せたのではないかと推測します。参考として、平安時代に描かれた各種の絵巻物での女性は太い横一文字眉に頬はピンクで表現するのが標準となっています。

集歌1911
原文 左丹頬經 妹乎念登 霞立 春日毛晩尓 戀度可母
訓読 さ丹つらふ妹を念(おも)ふと霞立つ春日(はるひ)も暗(くれ)に恋ひわたるかも
私訳 頬ほんのりと赤みが挿す愛しい貴女を思い浮かべると、霞が立つ春の一日も暗く感じるほどに思いつめて恋い慕います。

 改めて美容法を眺めますと、万葉時代、大陸では隋時代までには絹糸除毛法が生まれており、大陸の高貴な女性は絹糸除毛法で顔の産毛やムダ毛を処理し、その後にスキンケアとして『千金翼方』に示す「面脂」を塗り、肌に潤いを与えると共に、その油分で白粉を受け止めたとします。この「面脂」は木蘭や白芷などを調合しアルコール等で抽出した植物系の生薬エキスを麝香油などの動物性油脂で軟膏としたもので、現代での保湿クリームであり、化粧下地のクリームです。面脂で油性下地を整えた後に白粉を塗り色白にベースを調え、唇のアクセントに個性により濃い赤なら朱、ややオレンジ系の赤なら丹、明るい赤は紅花で口紅を施します。さらに頬に紅白粉を薄く掃き、紅頬顔で明るく見せるのが隋・唐の大陸風です。参考に歌舞伎では水白粉を使う場合、基礎に椿油を薄く均等に施してから塗り白粉をするそうですから、油性の面脂を施してから白粉を施す方法と同じ理屈なのでしょう。
 大陸・台湾側の天然由来の化粧品メーカーはこのような化粧方法を則天武后が好んだと宣伝します。同じように大陸で則天武后への拝謁や宮廷官女から情報を仕入れた遣隋使・遣唐使たちが、推古天皇、斉明天皇、元明天皇たち、歴代の女帝に最新の隋・唐の化粧方法を伝えたと思います。また、面脂は中医の処方薬ですから、女性それぞれの肌質と好みの匂いに合わせたオーダーメイド化粧品です。
 平安時代の美容情報を確認しますと、宮廷の儀式内容を研究し、それを明らかにすることを目的とした『江家次第』が平安時代後期に編まれており、その十七巻に天皇元服で使用する調度品に壷厨子を示し、その厨子に納める鏡台の中に『神農本草経』の「千金翼方」に記す檀香などで調合された口臭予防の「口脂」、肌への潤いを目的とする「面脂」を備えるとします。『江家次第』では皇太子の顔作りの用具を示しますが、女性も同様でしょうから奈良時代までに到来した中医書に載る「口脂」、「面脂」などは貴族階級では標準に使用されていたと考えます。ちなみに『医心方』巻四では、腋臭、体臭などの匂い改善や予防法、痣、ホクロや肌荒れ対策など、現代の美容に関わるものと同様なトラブルへの処方を記載します。
 以前に『医心方』の「房内」を紹介しましたが、房中術では肉体的美人を色白で、骨格は細く、肌に潤いがあり、滑らかでやや脂肪がついており、陰毛は無いか、淡いのが良く、脛毛の濃いのは不可とします。これを受けて、大陸では隋代からの伝統で良家の正妻となる女性は絹糸除毛法による全身脱毛法を施すと伝わります。その伝統を受けて中国、台湾、韓国などの絹糸除毛法のエステサロンでは隋以来の伝統技法としてその技術解説を行います。
 一方、大和では美容法の中で全身脱毛法だけは取り入れなかったようで、伝統的に大陸とは違い、大和の偃息図や春画では男女ともに豊かに陰毛を描くのが伝統です。ただし、技術の由来は不明ですが、江戸期の江戸市中の女性にも蛤、軽石や線香などを使った手足、陰部、眉の脱毛・手入れが広まったと記録します。技法では、二枚の蛤の貝殻で切り揃える、小さな軽石どうしで陰毛を挟んで擦り切り整える、線香で一本一本を焼き揃える方法があり、また、油と軽石の粉を混ぜて作った脱毛剤を使用し手足に塗って擦ることで体毛を脱毛し、眉毛は毛抜きを使用して抜毛して整えたとします。江戸の高級遊郭は上方が由来と伝わりますから、脱毛法などもまた、上方・京文化と推定されます。つまり、上方・京文化にそのような技術伝承の歴史的な素地があったと考えます。それでも、伝統的に大陸とは違い、陰部は手入れをしても無毛ではありません。
 なお、大陸や半島では房中術で示す養生法では陰毛は無いか、淡いのが良き女性とし、そのような女性と交わることが保養とします。この保養法から発展して童女性交の悪習がありますし、無毛からの全身脱毛法です。一方、万葉集の集歌3822の歌に暗に半島人の悪癖を批判するものがあり、大和人は成女となっていない年少の女性との性交をタブーとしています。大和の風習では、まず、初潮を確認し、妊娠が可能なほどに成熟したと認められた少女は「髪上げ」、「腰巻祝」、「裳着」などの成女式の儀礼を行い、周囲に成女を披露してから始めて夜這いや野合などの性行為が可能になります。ところが、集歌3822の歌はそれ以前の童女を寺の空き家に連れ込んでの性交渉を示唆します。大和の女性の肉体上の成熟の確認と周囲への周知の風習の下では、成熟を明確に示すためにも陰部は無毛よりも和毛の状態が好ましいこととなります。大陸のものとは違い、日本の春画では身分を問わずに女性に陰毛を描くのは童女性交ではないとする、暗黙の了解かもしれません。このような風習がありますと、大陸や半島とは違い、美容術に化粧を行うための顔剃りの風習はあっても全身脱毛法の風習は育ちません。

集歌3822 
原文 橘 寺之長屋尓 吾率宿之 童女波奈理波 髪上都良武可
訓読 橘の寺の長屋に我が率(ゐ)寝(ね)し童女(をとめ)放髪(はなり)は髪上げつらむか
私訳 橘の寺の長屋に私が引き込んで抱いたまだ童女でお下げ髪の児は、もう、一人前の娘になり髪上げの儀(成女式)をしただろうか。
左注 右謌、椎野連長年脉曰、夫寺家之屋者不有俗人寝處。亦稱若冠女曰放髪丱矣。然則腹句已云放髪丱者、尾句不可重云著冠之辞哉
注訓 右の歌は、椎野連長年の脉(み)て曰はく「夫れ、寺家(じけ)の屋は俗人の寝る処にあらず。また稱へて冠(かふむり)の女を『放髪丱(うなゐはなり)』といふが若(ごと)し。然らば則ち腹句已(すで)に『放髪丱』といへれば、尾句に重ねて著冠(ちゃくくわん)の辞(こと)を云ふべからざるか」といへり。
注訳 右の歌は、椎野連長年が評論して云うには「そもそも、寺の家屋は俗世間の人が寝る処ではない。また、成人の女を称して『放髪丱(うなゐはなり)』と呼ぶではないか。それであるならば、第四句に既に『放髪丱』というのであれば、末句に重ねて成人となった証の儀式のことを云うべきではないのではないか」といった。

 気を取り直して、先に化粧品を紹介しましたが、具体的には現代の舞妓さんなどが使うような白、朱、丹、赤、緑、青、黄などの着色材・染料はあり、それを化粧品の用途に合わせて配合し、各種の植物油、へちま水などで肌に馴染むように展ばし使用したと伝わります。一方、正倉院御物などから推測して、貴族階層には剃刀(かみそり)、箏刀(たとう)、鉸刀(はさみ)、刀子(とうす)、鑷子(けぬき)、筆、絹綿(わた)などの用具が使われています。箏刀については丸太の皮剥ぎに使う円弧刃のような形状のものと思われますが『和名類聚抄』にも載らないほどに実態は判らなくなっています。ただ、奈良時代には既に江戸期から明治期初頭と同じ程度の化粧品、化粧用具、美容医薬品はありました。逆に体内摂取により体臭や口臭を改善する漢方薬などは万葉時代から平安時代中期までの方が豊富だった可能性があります。
 以前にも紹介しましたように貴族階級では飛鳥時代から既に大規模な夜通しの宴会、豊明節会などを行うように十分な夜間の室内照明(灯明や蝋燭など)はあります。平安時代でも『紫式部日記』の土御門邸行幸の段で示すように、御幸に参列する小少将の君は明け方に実家から戻って来ますが、世話をする女房達はそれ以前に屋敷内で化粧をしています。ここから、人前に出ても恥ずかしくないほどの化粧の施すための明りは十分にあったことが読み取れるのです。従来の説明での、室内が日中でも薄暗く、よく判らないから真っ白に塗りたくった化粧方法だったというのは単なる想像ですし、そのような結論を先に用意して意図的に照明器具の配置や数を減らした上で、歌舞伎顔を想像しての提案です。本来なら夜間の宴会で笏に墨で漢詩を書き、読むための明るさはどれほどかを確認し、灯明や蝋燭の配置を決めてから議論すべき話です。
 従来の説明とは違い、清少納言にしろ、紫式部にしろ、高級な女房の立場の女性でも日の光の下で、業務上、多くの貴族たちと対面します。それで十分な化粧をしていない時に顔を見られたとか、化粧が崩れた時の顔を見られたとか、大騒ぎをした様子を物語するのです。そのようなとき、高級女房たちは単独ではなく、周囲には年齢や経済力などの関係からうら若い素肌に近い化粧の御付きの女たちもいる訳ですから、さて、美意識として表情を表さないヌリカベのような厚塗り化粧法を採用したでしょうか。彼女たちの美意識ならヌリカベにならない程度で、歳相応の化粧を施したと思います。
 参考として、平安中期の女性たちのファッション感覚を示すもので、現在の『枕草子』には存在しませんが、古くから『源氏物語』の「師走の月夜」へのセンス問答について、『原本 枕草子』に載る「すさまじきもの、媼の化粧、師走の月」を引用していると解説し、この「媼の化粧」とは小皺やシミなどの欠点をカバーする厚化粧のこととします。つまり、清少納言や紫式部たちは厚化粧を「すさまじきもの」と批判しますが、従来の化粧法解説は、逆にこの「すさまじきもの」を標準化粧法として紹介します。
 なお、その塗り白粉による化粧法をしたと思われる明治6年頃の写真を「和子内親王(実際は熾仁親王妃董子)」の名称で、また、明治20年頃の写真を「紀州徳川美人三姉妹」の名称で検索が可能です。言葉からのイメージと写真画とでそのギャップを確認して見て下さい。明治初頭の和子内親王と勘違いされた王妃董子は伝統の宮内衣装姿ですから、お顔も伝統で作られたと思いますが、歌舞伎の「麿顔」ではありません。庶民レベルとしても、日本女性の最古の写真はフェリーチェ・ベアトが横浜の高級娼婦や芸者をモデルに採用して撮ったものとされ、時期は文久3年(1863)から明治10年(1877)です。この時代、まだ西洋化粧術は紹介されておらず、女性の顔は伝統の大和化粧法です。明治初期の写真を検索していただき、そこから江戸時代後期の市中や宮中の女性を想像してもらうと、従来の説明に強烈な違和感を持つのではないでしょうか。いつの時代も、自分は美人だと認識する若い女性は素肌に近い透明感を持った化粧法が一番、美しく見せることを承知していると思います。
 調べでは、白粉は水などで溶いて塗るため、江戸期にはこの塗り白粉用の化粧刷毛や極太の化粧筆が花嫁化粧用具に入れられています。一方、室町時代の化粧用具では国の重要文化財に指定された「松梅蒔絵手箱及び内容品」が有名で、その手箱に納めた化粧用具に歯黒箱一合、白粉箱二合、薫物箱一合、櫛三枚、眉作三本、髪掻二本、鬢板一個、油壷一合が目録と現品で確認できます。ところが、江戸期になって現れる塗り白粉用の化粧刷毛や太い化粧筆はありません。刷毛自体は平安時代初期ごろには仏教経典制作などの用具として筆から改良して生まれたとしますから、必要があれば化粧筆と同様に化粧刷毛として転用できたはずです。解説では平安時代には塗り白粉を厚塗りしたとしますが、化粧用具類からしますと厚さを持った厚塗りした方法と用具が不明です。
 現代の白粉の使用方法をネットで確認しますと、歌舞伎や舞妓のようなこってりした白塗り姿を目指さないのなら、椿油などの油性でベースを調えた後、水などで溶いた白粉を指で塗り、乾いてきたらガーゼやパフでムラを消すように調えるとツヤ感のある白い肌になるそうです。時代からするとパフの代わりに絹綿を使ったと考えます。また、この化粧法時に眉毛は邪魔との説明はありません。一般に平安時代の白粉の使用法の解説では暗黙の上で歌舞伎風の厚塗りの塗り白粉を基本とするようですが、解説と実際ではその厚さの定義や化粧方法が全くに違うのかもしれません。
 なお、奈良時代、正倉院蔵の「鳥毛立女屏風」に示す額の花鈿は、女性が人でなく空を飛ぶ天女や仙女であることを示すために入れたアクセントと思われますので、あの化粧法が奈良時代を代表するものではありません。また、正倉院蔵の「鳥毛立女屏風」や薬師寺の「吉祥天像」などは高貴な中高年の女性を描く唐絵の典型様式ですので、あのふくよかな立姿図が万葉美人を示すものでもありません。万葉時代の美少女の感性は大伴家持が詠う集歌4139の歌の美少女であり、集歌1738の歌で「胸別之廣吾妹 腰細之須軽娘子之 其姿之端正尓如花」と理想の美少女姿を詠われた珠名の娘にあります。具体的には興福寺の阿修羅像のお顔や体形にあります。あのお顔と体形に「胸別之廣」と、やや大きく胸に膨らみを持たせて万葉時代の女性の着物を着せ、透明感を持って色白に化粧し、頬ピンクで桃花の下に立たせると、ほぼ、天平の美少女となります。
 女性が化粧を行うのは誰の為でしょうか。やはり、主流としては異性に抱かれて貴女は誰よりも美しいとほめてもらうことにあると思います。すると、女性の化粧法の主流は、男性が見て美しいと思う女性の顔であり、姿と思います。集歌51の歌は最新最先端の王都である藤原京落成の儀式で舞いを披露する全国選りすぐりからさらに選抜された采女の姿を詠うもので、特定の恋人の姿ではありません。大和天平様式として興福寺の阿修羅像を作り出した感性を持つ人たちがヌリカベのような表情を消す白い厚塗り化粧法を女性たちに求めたでしょうか。

集歌51
原文 采女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久
訓読 采女の袖吹きかへす明日香(あすか)風(かぜ)京都(みやこ)を遠み無用(いたづら)に吹く
私訳 采女の袖を吹き返す明日香からの風よ。古い明日香の宮はこの新しい藤原京から遠い。風が采女の袖を振って、心を過去に呼び戻すかのように無用に吹いている。

 万葉時代、奈良の大仏の開眼法要に代表されるように高貴な女性も、太陽の下、御出座しを行い、人々に顔を見せる機会があります。また、『源氏物語』の「蛍」の巻などで示すように御簾内の高貴な女性も色々な折に顔や姿を覗かれることを承知しています。平安時代、貴族女性は折々の儀式などで御簾の内から漏れ流す香りや裾模様から美的センスを男どもに見せつけ、惹かれた男どもは御付き女へ賄賂を使い、関心を持つ女性を庭先から覗き見します。その姿や声などが気に入れば、さらに御付き女の手引きを求め、暗黙の了解の下、寝所に忍び込みます。これが風習ですから、女性もまた光の下に男どもに覗き見されていることを承知しています。
 また、万葉時代から平安時代には自分の美に敏感な女性たちと仏教は非常に近い距離にありますし、時に寺の重要なパトロンになります。弊ブログの与太の感覚では、その時代の仏様のお顔立ちは大陸型や男性型から大和特有の優美で温和なものへとなっています。それが時代の美意識の現れとしますと、さて、そのような時代の女性が自分の顔にどのような化粧を施し、男どもに覗かせ見せ付けたでしょうか。
 現代はネット検索が容易ですので、「口脂」は口紅やリップクリームではなく、口臭を消す清涼剤であること、また、「面脂」は白粉を施す前の産毛処理後の肌の保護と白粉を定着させるための薬用油性軟膏であることが簡単に確認できます。また、幕末から明治初頭の美人写真が存在しますから、幕末期の西洋化粧法紹介以前の化粧の様子を知ることは出来ます。しかしながら、なぜ、解説では特殊な歌舞伎俳優や遊女の化粧法を基準としたり、また、原資料を調べずに「口脂」を口紅と想像したりするのでしょうか。平安時代の貴族女性は江戸期から大正時代と同等な入浴・洗髪頻度の慣習を持ちますが、複数の資料確認をすることなく、なぜか、めったに入浴しないと云う俗説を「専門家」は創作します。これと同様なことなのでしょうか。疑問です。

 おまけとして、平安末期から鎌倉初期に白塗・置眉化粧法が現れた背景に、厳格な身分階級制度の崩壊と宮中での儀礼との折衷による結果なのかもしれません。本来、宮中で床に昇れるのは正規の官職を持つ官人だけですし、儀式や会合で部屋内に列席できるのは五位以上の貴族だけです。この規定からすると、後白河法皇たちが好んだ白拍子は、応接でも、本来、儀礼・規定からすれば床に昇れませんが、有髪の女性でも神道の巫女の立場を取れば神事の方便で可能です。ただ、白拍子は巫女に類似した顔作りと姿が求められます。巫女は神事として神遊(神楽)を舞いますから、その装いの中で表情を消すような厚塗りの白粉化粧をしていた可能性があります。ある種、能で演者が置眉化粧法の女面を付けることで、人から変身して人以外の物の怪などを表現するものに似た感覚です。その白拍子たちは京から全国に遊芸しながら流れ、その時、人々は京で評判の白拍子の化粧法を宮中の女性たちのものと考えた可能性はありますし、加えて、時代として白拍子と遊女との境界線はあいまいです。
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