竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 六五 酒を詠う歌を楽しむ

2014年03月08日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 六五 酒を詠う歌を楽しむ

 今回は、『万葉集』に載る、酒を歌に織り込んだ短歌を楽しみたいと思います。
 現代でも文学の世界でも酒は題材や場面として重要なものですので、『万葉集』でも酒をテーマとして歌に織り込んだ歌は相当数あるのではないかと調べますと、「酒」と云う言葉を織り込んだ短歌は二十九首しかありませんでした。この歌数の中には枕詞として扱われるような「味酒」の言葉が四首、「神酒」が二首ほど含まれていますから、実質上では二十三首が飲む酒に関係する歌となります。また、集歌五五四の歌での「酒」の文字は、場合によっては「洒」が本来ではないかとも考えられますので、酒をテーマとして歌に織り込んだ歌で確定が出来るものは二十二首ほどになります。
 さて、この二十三首の内、十一首は都合十三首で構成する歌群に含まれる歌ですから、その歌群のものは最後に紹介するとして、問題の集歌五五四の歌を最初に取り上げ、次いで残りの十二首を紹介しようと思います。

集歌554 古 人乃令食有 吉備能洒 痛者為便無 貫簀賜牟
試訓 古(いにしへ)し人の食(き)こせる吉備(きび)の洒(みず)痛(いた)めばすべなし貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ
試訳 亡くなられた大王がお召になられた吉備の御方の御体を洗い清めたい。このように亡くなられたのならばしかたがない。葬送の寝台に敷く清らかな簀を吉備の御方に賜りたい。

標準的な解釈として紹介
訓読 古人(ふるひと)のたまへしめたる吉備(きび)の酒(さけ)病(や)まばすべなし貫簀(ぬきす)賜(たは)らむ (『萬葉集釋注』による)
意訳 昔馴染の方が送って下さった吉備の酒、このお酒も飲み過ごして気分が悪くなったら、どうしようもありません。今度は枕許に置く貫簀を頂けたらと存じます。そしたら安心して頂けましょう。

訓読 古(いにしへ)の人の食(き)こせる吉備(きび)の酒病(や)めばすべなし貫簀(ぬきす)賜(たは)らむ (『万葉集全訳注原文付』による)
意訳 昔の人の召し上がったという吉備の酒も病気の私には無用のものです。御当地に名だかい貫簀を下さいまし。
注意 『万葉集全訳注原文付』の脚注では、「貫簀は竹で編み手洗に用いた。筑後の正税帳にこの工人を貢ずる記事がある」と解説します。なお、平安時代中期以降ではこの解説で正しいのですが、奈良時代以前は「寝台(ベッド)に敷いた竹を編んだ筵」を意味します。

 紹介しました集歌五五四の歌の原文「痛者為便無」の「痛」の文字は、一般に「病」の誤記と解釈して「病めばすべなし」と訓みます。また、「吉備能洒」の「洒」の文字は「酒」の誤記として「吉備の酒」と訓みます。なお、原文での「洒」の文字は『說文解字』では「浴、洒身也。洗、洒足也」とその語意を説明します。個人の鑑賞での試訓は奈良時代の文化風習を下に原文を尊重して歌を訓んでいますので、集歌554の歌の解釈は平安時代中期以降の風習を下にした一般のものとは大きく違います。今回は、一般的な「酒」を楽しむ歌として標準的な訓みでの「酒」の歌としました。標準的には、この歌は参考歌として紹介します集歌五五三の歌と合わせて丹生女王との恋愛相聞歌として解釈します。

参考歌
丹生女王贈太宰帥大伴卿謌二首
標訓 丹生女王(にふのおほきみ)の太宰帥大伴卿に贈れる謌二首
集歌553 天雲乃 遠隔乃極 遠鷄跡裳 情志行者 戀流物可聞
訓読 天雲のそくへの極み遠けども心し行けば恋ふるものかも (『萬葉集釋注』による)
意訳 あなたのいらっしゃる筑紫は、天雲の果ての遥かかなたですが、心はどんなに遠くても通って行くので、こうも恋しく思うものなのですね。
試訓 天雲の遠隔(そくへ)の極(きはみ)遠けども心し行けば恋ふるものかも
試訳 亡くなられた御方がいらっしゃる天雲の遥か彼方の極みは遠いのですが、私の心はそこに通って行っているので、それで、あの御方が恋しいのでしょうか。

 以下に紹介します「酒」を歌に織り込んだ歌について、ここで紹介するものと標準的な解釈とはそれほどには乖離はないものと考えています。そのため特別には解説を入れません。歌のままに楽しんで下さい。

「太宰帥大伴卿贈大貳丹比縣守卿遷任民部卿謌一首」より
集歌555 為君 醸之待酒 安野尓 獨哉将飲 友無二思手
訓読 君しため醸(か)みし待酒(まちさけ)安し野にひとりや飲まむ友無しにして
私訳 貴方のために醸(かも)して造ったもてなしの酒を、太宰の夜須の野で私は一人で飲むのでしょう。貴方と云う友を失くして。

「梅花歌三十二首并序」より 壹岐目村氏彼方の歌
集歌840 波流楊那宜 可豆良尓乎利志 烏梅能波奈 多礼可有可倍志 佐加豆岐能倍尓
訓読 春(はる)柳(やなぎ)鬘(かづら)に折りし梅の花誰れか浮かべし酒坏の上に
私訳 春の柳の若芽の枝を鬘に手折り、梅の花を誰れもが浮かべている。酒坏の上に。

「梅花歌三十二首并序」に対する「後追和梅謌四首」より
集歌852 烏梅能波奈 伊米尓加多良久 美也備多流 波奈等阿例母布 左氣尓于可倍許曽
訓読 梅の花夢に語らく風流(みや)びたる花と吾(あ)れ思(も)ふ酒に浮かべこそ
私訳 梅の花が夢に語るには「雅な花だと私は想う」、その雅な梅の花である私を酒に浮かべましょう。

「湯原王打酒謌一首」より
集歌989 焼刀之 加度打放 大夫之 壽豊御酒尓 吾酔尓家里 (壽は、示+壽の当て字)
訓読 焼(やき)太刀(たち)し稜(かど)打ち放(は)ち大夫(ますらを)し寿(は)く豊御酒(とよみさけ)に吾れ酔(よ)ひにけり
私訳 焼いて鍛えた太刀の稜を鞘から打ち放ち舞い、大夫の寿を祝う立派な御酒に私は酔ってしまった。

巻七 旋頭歌より
集歌1295 春日在 三笠乃山二 月船出 遊士之 飲酒坏尓 陰尓所見管
訓読 春日(かすが)なる三笠の山に月船し出づ 遊士(みやびを)し飲む酒杯(さかづき)に影にし見つつ
私訳 春日にある三笠の山に月の船が出る。風流の人の飲む杯の中にその月の姿を影として見せながら。

「大伴坂上郎女謌一首」より
集歌1656 酒杯尓 梅花浮 念共 飲而後者 落去登母与之
訓読 酒杯(さかづき)に梅の花浮け思ふどち飲みての後(のち)は落(ち)りぬともよし
私訳 酒盃に梅の花びらを浮かべ、風流を共にするものが酒を飲んだ後は、花が散ってしまっても良い。
和謌一首
標訓 和(こた)へたる謌一首
集歌1657 官尓毛 縦賜有 今夜耳 将欲酒可毛 散許須奈由米
訓読 官(つかさ)にも許(ゆる)したまへり今夜(こよひ)のみ飲まむ酒(さけ)かも散りこすなゆめ
私訳 天皇は「酒は禁制」とおっしゃっても、太政官はお許しくださっている。今夜だけ特別に飲む酒です。梅の花よ、決して散ってくれるな。
右、酒者宮禁制、称京中閭里不得集宴。但親々一二飲樂聴許者。縁此和人作此發句焉。
注訓 右は、酒は宮の禁制(きんせい)にして、称(い)はく「京(みやこ)の中(うち)の閭里(さと)に集宴(うたげ)することを得ざれ。ただ親々一二(はらからひとりふたり)の飲樂(うたげ)を許すは聴く」といへり。此の縁(えにし)に和(こた)ふる人、此の發句(はつく)を作れり。
注意 左注の「宮禁制称京中閭里不得集宴」の「宮」は、一般に「官」の誤記とします。ただし、誤記論を取ると、歌の内容と左注の内容に矛盾が現れます。

「太上皇御在於難波宮之時謌七首」より
河内女王謌一首
標訓 河内(かふちの)女王(おほきみ)の謌一首
集歌4059 多知婆奈能 之多泥流尓波尓 等能多弖天 佐可弥豆伎伊麻須 和我於保伎美可母
訓読 橘の下(した)照(て)る庭に殿(との)建てて酒みづきいます我が大王(おほきみ)かも
私訳 橘の根元も輝くように美しい庭に御殿を建てて、酒を杯に盛っていらっしゃる吾等の大王よ。
注意 原文の「和我於保伎美可母」の「於保伎美」は、一般の解釈とは違い、大王と訓み、左大臣橘卿を意味します。

「見攀折保寶葉謌二首」より
集歌4205 皇神祖之 遠御代三世波 射布折 酒飲等伊布曽 此保寶我之波
訓読 皇神祖(すめろぎ)し遠(とほ)御代(みよ)御代(みよ)はい重(し)き折(お)り酒(さけ)飲むといふぞこの保寶(ほおがし)葉(は)
私訳 天皇の遠い昔の御代御代には、この大きな葉を折り重ねて杯として酒を飲んだと云います。この保寶(=ホウノキ)の葉を。
守大伴宿祢家持
注訓 守大伴宿祢家持

「閏三月、於衛門督大伴古慈悲宿祢家、餞之入唐副使同胡麻呂宿祢等謌二首」より
集歌4262 韓國尓 由伎多良波之氏 可敝里許牟 麻須良多家乎尓 美伎多弖麻都流
訓読 唐国(からくに)に行き足(た)らはして帰り来む大夫(ますら)健男(たけを)に御酒(みき)奉(たてまつ)る
私訳 唐の国に行き勤めを果たして帰って来るでしょう、その立派な大夫や健男に御酒を奉ります。
右一首、多治比真人鷹主壽副使大伴胡麻呂宿祢也
注訓 右の一首は、多治比真人鷹主の副使大伴胡麻呂宿祢を壽(いは)ひけり

「廿五日、新甞會肆宴、應詔謌六首」より
集歌4275 天地与 久万弖尓 万代尓 都可倍麻都良牟 黒酒白酒乎
訓読 天地と久しきまでに万代(よろづよ)に仕へまつらむ黒酒(くろき)白酒(しろき)を
私訳 天地と共に永遠に、万代までお仕えしよう。新嘗の黒酒と白酒を捧げて。
右一首、従三位文屋知奴麿真人
注訓 右の一首は、従三位文屋知奴麿真人

 ここまでの「酒」を織り込んだ歌は、ほぼ、通り一遍のような感じを抱かせるような歌です。宴会なら、いかにも詠いそうな雰囲気の歌と考えます。
 ところが次に紹介するものは、ここまでに紹介したものと少し様子が違います。最初に歌を紹介して、話題を提供しようと思います。なお、十三首の内、二首には「酒」の言葉はありませんが、同じテーマのものとして紹介します。

大宰帥大伴卿讃酒謌十三首
標訓 大宰帥大伴卿の酒を讃(たた)へる歌十三首
集歌338 験無 物乎不念者 一坏乃 濁酒乎 可飲有良師
訓読 験(しるし)なき物を念(おも)はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし
私訳 考えてもせん無いことを物思いせずに一杯の濁り酒を飲むほうが良いのらしい。

集歌339 酒名乎 聖跡負師 古昔 大聖之 言乃宜左
訓読 酒し名を聖(ひじり)と負(お)ほせし古(いにしへ)し大き聖(ひじり)し言(こと)の宣(よろ)しさ
私訳 酒の名を聖と名付けた昔の大聖の言葉の良さよ。

集歌340 古之 七賢 人等毛 欲為物者 酒西有良師
訓読 古(いにしへ)し七(なな)し賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせしものは酒にしあるらし
私訳 昔の七人の賢人たちも欲しいと思ったのは酒であるらしい。

集歌341 賢跡 物言従者 酒飲而 酔哭為師 益有良之
訓読 賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするしまさりたるらし
私訳 賢ぶってあれこれと物事を語るよりは、酒を飲んで酔い泣きするほうが良いらしい。

集歌342 将言為便 将為便不知 極 貴物者 酒西有良之
訓読 言(い)はむすべ為(せ)むすべ知らず極(きは)まりて貴(たふと)きものは酒にしあるらし
私訳 語ることや事を行うことの方法を知らず、出所進退が窮まると、そんな私に貴いものは酒らしい。

集歌343 中々尓 人跡不有者 酒壷二 成而師鴨 酒二染甞
訓読 なかなかに人とあらずは酒壷(さかつぼ)になりにてしかも酒に染(し)みなむ
私訳 中途半端に人として生きていくより、酒壷になりたかったものを。酒に身を染めてみよう。

集歌344 痛醜 賢良乎為跡 酒不飲 人乎熟見 猿二鴨似
訓読 あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
私訳 なんと醜い。賢ぶって酒を飲まない人をよく見るとまるで猿に似ている。

集歌345 價無 寳跡言十方 一坏乃 濁酒尓 豈益目八
訓読 価(あたひ)なき宝といふとも一杯(ひとつき)の濁れる酒にあにまさめや
私訳 価格を付けようもない貴い宝といっても、一杯の濁った酒にどうして勝るでしょう。

集歌346 夜光 玉跡言十方 酒飲而 情乎遣尓 豈若目八方
訓読 夜光る玉といふとも酒飲みて情(ここら)を遣(や)るにあに若(し)かめやも
私訳 夜に光ると云う玉といっても、酒を飲んで心の憂さを払い遣るのにどうして及びましょう。

集歌347 世間之 遊道尓 冷者 酔泣為尓 可有良師
訓読 世間(よのなか)し遊(みや)びし道に冷(つめ)たきは酔ひ泣きするにあるべくあるらし
私訳 世間で流行る漢詩の道に背を向ける行いとは、酒に酔って泣いていることであるらしい。
注意 原文の「冷者」の「冷」は、一般に「怜」に改訂されています。ここでは原文のままとします。

集歌348 今代尓之 樂有者 来生者 蟲尓鳥尓毛 吾羽成奈武
訓読 この世にし楽しくあらば来(こ)む世には虫に鳥にも吾はなりなむ
私訳 この世が楽しく過ごせるのなら、来世では虫でも鳥でも私はなってもよい。

集歌349 生者 遂毛死 物尓有者 今生在間者 樂乎有名
訓読 生(い)ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間(ま)は楽しくをあらな
私訳 生きている者は最後には死ぬものであるならば、この世に居る間は楽しくこそあってほしい。

集歌350 黙然居而 賢良為者 飲酒而 酔泣為尓 尚不如来
訓読 黙然(もだ)居(を)りて賢(さか)しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほ若(し)かずけり
私訳 ただ沈黙して賢ぶっているよりは、酒を飲んで酔い泣きすることにどうして及びましょう。

 紹介しましたものは有名な大伴旅人が詠う「讃酒歌十三首」の標題を持つ歌群です。最初に紹介したものと比べますと、すぐにお判りになると思いますが、この「讃酒歌十三首」は『万葉集』に載る他の酒を歌に取り込むものとは異質なものなのです。そのため、この異質性から万葉集鑑賞が明治時代の斎藤茂吉氏を代表とする好事家や和歌人のものから学問としての研究対象になるにつれ、享楽としての酒を讃える歌として解釈するものから、人生の悲嘆を酒と云うものの名を借りて詠うものへと研究深度と鑑賞態度が変化しました。
 こうしたとき、この大伴旅人が詠う「讃酒歌」は、『万葉集』にこの歌々が詠われた時期は記述されていません。しかしながら、『万葉の歌人と作品』第四巻 大伴旅人・山上憶良(一) (和泉書院) (以下、『万葉の歌人と作品』)において、伊藤益氏は、この「讃酒歌」はおよそ神亀六年三月下旬から四月上旬にかけて詠われたと推定されています。そして、同じ『万葉の歌人と作品』に論文を載せる大久保氏や村山氏を始め、多くの研究者もまた「讃酒歌」は神亀六年(天平元年)三月中旬からその年のものと推定しています。つまり、現代の万葉集研究では、この「讃酒歌」と神亀六年二月に藤原一族が引き起こした、当時の政府首班を取る太政大臣であった長屋親王を襲撃・殺害した「長屋王の変」と云うクーデターとの関係を疑い、同時に大伴旅人は殺された長屋親王に組する側に立つ人物であったと想像します。
 他方、弊著「(仮称)山上憶良 日本挽歌を鑑賞する」で詳しく説明しますように「万葉集暦 神亀五年」は「公暦 神亀六年」と同じ年代です。つまり、この「讃酒歌十三首」が詠われた時、同時に大伴旅人は「報凶問歌」を詠っていたと推定されるのです。

大宰帥大伴卿報凶問歌一首
標訓 大宰帥大伴卿の凶問(きょうもん)に報(こた)へたる歌一首
(書簡文)
禍故重疊 禍故(くわこち)重疊(ようてふ)し
凶問累集 凶問(きょうもん)累集(るいじふ)す
永懐崩心之悲 永(ひたふる)に崩心の悲しびを懐(むだ)き
獨流断腸之泣 獨り断腸の泣(なみだ)を流す
但 ただ
依両君大助 両君の大きなる助(たすけ)に依りて
傾命纔継耳 命を傾け纔(わづか)に継ぐのみ
(筆不盡言 古今所歎) (筆の言を盡さぬは、古今の歎く所なり)

私訳 禍の種が度重なり、京からの死亡通知が机に積み上がります。いつまでも、心が崩れ落ちるような深い悲しみを胸の内に抱き、独り 身を切り裂くような辛い涙を流しています。ひたすら、両君の大きなご助援により、私の命をかけて、これから、我が使命を継いで行くだけです。(手紙で伝えたいことを伝えきれないのは、昔も今も、そのもどかしさを嘆くところです。)

集歌793 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
訓読 世間(よのなか)は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
私訳 人の世が空しいものと思い知らされたとき、いよいよ、ますます、悲しいことです。


 「(仮称)山上憶良 日本挽歌を鑑賞する」で説明するように、雰囲気として、皇太子夫人として嫁いだ娘が「長屋王の変」と云うクーデターで殺され、その娘の遺髪と共に元正太上天皇からの葬送に使う恩賜の品物が祭壇に置かれているとして、歌を鑑賞してみてください。そうしたとき、「價無 寳跡言十方 一坏乃 濁酒尓 豈益目八」の意味が沁みると思います。そして、幼少から皇子の帝王教育に関与し、その殺された膳部親王に親しく仕えることが出来るのならと旅人が願ったと想像するとき、「今代尓之 樂有者 来生者 蟲尓鳥尓毛 吾羽成奈武」の心が判ると感じます。
 歴史を背景するとき、歌の感情は変わります。

 その歴史を背景に「讃酒歌十三首」の応歌として次の歌を鑑賞してみてください。今までの鑑賞とは違ってくるのではないでしょうか。

沙弥満誓謌一首
標訓 沙弥満誓の謌一首
集歌351 世間乎 何物尓将譬 且開 榜去師船之 跡無如
訓読 世間(よのなか)を何に譬(たと)へむ且(そ)は開(ひら)き榜(こ)ぎ去(い)にし船し跡なきごとし
私訳 この世を何に譬えましょう。それは、(実際に船は航海をしても)帆を開き帆走して去っていった船の跡が残らないのと同じようなものです。
注意 原文の「且開」の「且」は、一般に「旦」の誤記として「旦開」とし「朝開き」と訓みます。歌意は大幅に変わります。

 今回は個人の鑑賞を強いるようなものとなりました。本来、自由であるべき詩歌の鑑賞に個人の主張を押し付けると云う無作法をしてしまいました。恥ずかしいことです。ただ、このような考えもあるとして、寛容な心で御許しを。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前の記事へ | トップ | 次の記事へ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

万葉集 雑記」カテゴリの最新記事