竹取翁と万葉集のお勉強

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車持朝臣千年を鑑賞する  神亀五年(728)の歌 幸于難波宮

2011年01月22日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
神亀五年(728)の歌 幸于難波宮
 集歌953の歌の左注の「笠朝臣金村之謌中出也」の意味合いは、笠朝臣金村歌集の中にある歌として良いと思います。そして、「或云、車持朝臣千年作也」とありますから、万葉集の編纂者は「確信は無いが、作歌者は車持朝臣千年であろう」と判断したようです。
 この推測を展開しますと、その状況は「神亀五年の難波宮への御幸の折りに笠金村が車持千年の詠う歌を書き留めた」となります。ここでは、この推測を下に歌を鑑賞します。また、万葉集の編纂を尊重して、車持朝臣千年の歌四首と膳王の詠う集歌954の歌とになんらかの関連があるとして同時に鑑賞します。
 なお、普段の解説では集歌952の歌で「嶋待尓」の表記について、これでは意味が取れないとして「嬬待尓」と改字します。ここではこの「嶋待尓」の表記には四首の歌の中心的意味合いがありますので、改字することなくままに、一種、巫女が詠う童謡(わざうた)の感覚で鑑賞します。

五年戊辰、幸于難波宮時作謌四首
標訓 五年戊辰に、難波宮に幸しし時に、作れる謌四首
集歌950 大王之 界賜跡 山守居 守云山尓 不入者不止
訓読 大王(おほきみ)の境ひ賜ふと山守(やまもり)据ゑ守(も)るといふ山に入らずは止まじ

私訳 大王が境をお定めになったと山守りを置いてその山を警護すると云う。その禁断の山に入らずにはいられない。


集歌951 見渡者 近物可良 石隠 加我欲布珠乎 不取不巳
訓読 見渡せば近きものから石(いは)隠(かく)りかがよふ珠を取らずはやまじ

私訳 見渡すと近くにあるのだから、禁断の山の巌陰に隠れている、その輝く珠を手に入れずにはいられない。


集歌952 韓衣 服楢乃里之 嶋待尓 玉乎師付牟 好人欲得
訓読 韓衣(からころも)服(き)楢(なら)の里の嶋松(しままつ)に玉をし付けむ好(よ)き人もがも

私訳 韓の衣を着ると云う服楢の里にある山斎(しま)で待つ、その山斎の松に玉を付ける高貴な人がいてほしい。
呆訳 韓人の織る綾の衣を身に着けると云う奈良の京にある松林苑で待っています。松林苑で天下を冒(おお)う公を玉座に就ける高貴な人が居て欲しい。
注意 呆訳では「待つ」から「松」を導き、その漢字を「木」と「公」に分解してみました。その「木」には大地を冒(おお)うと云う意味があります。また、松林苑は平城京における天皇が宴を催すための大規模な山斎である禁苑とされています。この松林苑は天平元年三月に聖武天皇が宴を開いたとの記録がありますので、神亀五年秋の段階では奈良の人には有名な山斎です。


集歌953 竿牡鹿之 鳴奈流山乎 越将去 日谷八君 當不相将有
訓読 さ雄鹿(をしか)の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君がはた逢はざらむ

私訳 立派な角を持つ牡鹿が鳴いている山を越えて行こう。その山を越えて行くその日さえも、貴方にはまだ逢えないのでしょうか。
注意 詩経の小雅に載る「鹿鳴」の故事から、松林苑で君王が臣下に対し宴を張ることを暗示します。ここでの「君」は松林苑での宴の主催たる君王への就任を示すとして鑑賞しています。

右、笠朝臣金村之謌中出也。或云、車持朝臣千年作也。
注訓 右は、笠朝臣金村の謌の中に出ず。或は云はく、車持朝臣千年の作なり。


膳王謌一首
標訓 膳王(かしはでのおほきみ)の謌一首
集歌954 朝波 海邊尓安左里為 暮去者 倭部越 鴈四乏母
訓読 朝(あした)は海辺(うみへ)に漁(あさり)し夕(ゆふ)されば大和へ越ゆる雁し羨(とも)しも

私訳 朝には海辺で餌をあさり、夕べには大和へ峠を越えて行く雁よ、(その姿に思うと大和を思い出し)、吾を忘れてしまう。
右、作謌之年不審。但、以謌類便載此次。
注訓 右は、謌の作れる年の審(つばび)らかならず。但し、謌の類(たぐひ)を以つて便(すなは)ち此の次(しだい)に載す。

 非常に恣意的な鑑賞です。以下、この恣意的な鑑賞を下に述べます。
 万葉集の編纂者は、集歌954の歌の左注において、車持千年の詠う神亀五年の難波御幸での歌四首と膳王の詠う歌は関連があるとします。そうしたとき、私は集歌951の歌の「見渡者 近物可良」の意味合いに興味を惹かれます。
 ここで、この膳王を紹介しますと、本来は和銅八年の詔勅からすると膳親王が正しい表記で、父親が長屋王で、母親が吉備内親王です。長屋王は太政大臣であり後日並皇子と称された高市皇子と御名部皇女との長子で、この御名部皇女は元明天皇の実の姉です。また、吉備内親王は草壁日並皇子と元明天皇との御子ですので元正天皇とは実の姉妹になり、当時、元正天皇にとって唯一の身寄りです。つまり、膳王は奈良時代では最高の血筋を引く親王となりますし、皇位継承において天武天皇の、皇子の母親の血筋を重要視する勅命からすると皇位継承の筆頭に位置します。また、長屋王と吉備内親王との婚姻には叔母であり母親である元明天皇も直接に関与したでしょうから、長子である膳親王の立場は、正史に載るものとは相当に違うのではないでしょうか。事実、長屋王遺跡の発掘等の成果から、従来の「普段の解説では正史とされるもの」は訂正されつつあるようです。
 こうしたとき、万葉集に元明天皇と御名部皇女との関係を示す歌があります。


和銅元年戊申
天皇御製謌
標訓 天皇(すめらみこと)の御(かた)りて製(つく)らしし謌
集歌76 大夫之 鞆乃音為奈利 物部乃 大臣 楯立良思母
訓読 大夫(ますらを)の鞆(とも)の音(おと)すなり物部の大臣(おほまえつきみ)盾立つらしも

私訳 立派な武人の弓の鞆を弦がはじく音がする。そして、物部の大臣が日嗣の大盾を立てているらしい。


御名部皇女奉和御謌
標訓 御名部(みなべの)皇女(ひめみこ)の和(こた)へ奉(たてまつ)れし御謌(おほみうた)
集歌77 吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓
訓読 吾(わ)ご大王(おほきみ)物(もの)な念(おも)ほし皇神(すめかみ)の嗣(つ)ぎ而(ぢ)賜へる吾れ無けなくに

私訳 吾らの大王よ。御心配なされるな。皇祖から日嗣をその貴女に賜られたのです。それに、吾らがいないわけではありません。

 この歌の限りでは、元明天皇と御名部皇女とは非常に仲の良い姉妹であったことが判ります。ここで、先の車持千年の詠う歌四首に戻り、私の恣意的な鑑賞が正しいものとしますと、車持千年は元正天皇の意向を汲んで歌を詠った可能性が出てきます。つまり、正史とは違いますが政教分離があるならば、元正天皇から大王に対して自分や母親の血にきわめて近い膳親王に対する皇太子への擁立の要請か、自己の天皇位の譲位の意向です。奈良時代の漢詩集である懐風藻に載る漢詩によると、神亀年間に長屋王は新羅使節を招いた宴で漢語の「君王」と尊称されていますから大和言葉での「大王」に相当します。
 歴史を眺めますと、集歌953の歌や集歌954の歌が示す季節感から、この車持千年の詠う歌四首が神亀五年の秋に詠われたものならば、ご存知のように、この元正天皇の意志表示の直後の神亀六年二月に首王(聖武天皇)とその支持者である藤原氏により、後年に「長屋王の変」と呼ばれるクーデタによって膳親王は殺害されます。そして、そのクーデタで反乱軍を率いたのは、難波宮で車持千年の詠う歌を聞いた知造難波宮事の藤原宇合です。その藤原宇合は難波宮から奈良の京に駆け戻り、近衛大将で禁裏を警護する藤原房前を監禁した上で、長屋王の邸宅を急襲します。

 参考に、歴史の専門家は知っていても一般には決して説明しないことですが、日本後紀の本文にあるように、日本紀と続日本紀前編は、一度は成立したものに対して桓武天皇の勅命で延暦十三年の続日本紀前編の奉呈直後に、その改定作業が開始されています。そして、延暦十六年二月にその続日本紀前編の改定作業が完了し、再度の奉呈が行われています。このとき、どうも、持統天皇に関する記述などから推定して、続日本紀前編の改定に沿うように日本紀も改定されたようです。つまり、桓武天皇にとって延暦十三年時点での日本の正史は、その意にそぐわなかったようです。さらに日本後紀は時の朝廷の意にそぐわない、諸家に伝わる皇統紀に関する書籍は大同四年(809)二月の平城天皇の詔により朝廷によって回収されたとしています。それを歴史の専門家は神皇正統記の記載から「桓武天皇の焚書事件」と称します。これは正史である六国史に載る歴史ですが、まず、世の人には紹介しない事項です。
 その上、桓武天皇の「延暦十六年の日本紀」は「日本書紀」へと再度、編纂・改名されたものだけが今日に伝わっていますので、日本書紀、続日本紀と万葉集の記事や内容を比べたとき、なにが正しいかの判定は難しいものがあります。現在の万葉集の研究は、延暦十六年の続日本紀前編や藤氏家伝が正しい正史を伝えていることを前提として「必要に応じて万葉集を校訂して」組み立てられていることは、ご承知の通りです。

参考資料その一 持統天皇に関する日本後紀の記事
日本後紀巻三逸文(欠補類聚国史)の延暦十三年八月の項より
原文
若、夫襲山肇基以降、清原御寓之前、神代草昧之功、往帝庇民之略、前史所著、燦然可知。除自文武天皇、訖聖武皇帝、記注不昧、余烈存焉。

訓読
若(けだ)し、夫れ襲山の基を肇(ひら)くを以つて降(の)ち、清原御寓(注)の前、神代の草昧(そうまい)の功、往(いに)しへの帝の庇民の略、前史の著すところ、燦然として知るべし。除(さず)くる文武天皇より聖武皇帝までの、記する注は昧(くら)からず、余(あま)す烈(れつ)は焉(ここ)に存(あ)る。

意訳
それは瓊瓊杵尊(神武天皇)が襲山(高千穂峰)に降臨して日本国の基を開いて以降、明日香清御原(天武天皇)の朝廷まで、神代の草創の功績、過去の天皇の人民愛護の政略、それらは前史(日本紀)に著述してあり、燦然として明らかである。前史に入らない文武天皇より聖武皇帝までの間の歴史を記録したもの(続日本紀前編三十巻)は、不確かな記述はなく、すべての功績はここに纏められている。

注 続日本紀慶雲四年七月の記事から、持統天皇の尊称は「藤原宮御宇倭根子天皇」であって、「清原御寓」には相当しません。また、養老六年十二月に次のような記事があり、「浄御原宮御宇」と「藤原宮御宇」とは別な天皇であることが判りますから、日本最初の本格的な王都である藤原宮の規模を思う時に、やはり、日本後紀巻三逸文にある「清原御寓」を持統天皇の尊称(又は在位)と解釈することは出来ません。ただし、正式な学会の日本史では、正史にどのように書いてあっても日本後紀の「清原御寓」を持統天皇の尊称(又は在位)と解釈して日本書紀や続日本紀を研究するのが約束です。逆に日本後紀巻三逸文(欠補類聚国史)の延暦十三年八月の項は、真実を後年に託した平安朝の大和人学者の良心です。
 推理として、先代の国学者や史学者にとって昭和四十年代中ごろまで都としては藤原京自体が存在しない扱いとなっていましたので、日本最初の本格的な王都としての藤原京の存在を前提にした史学や万葉集研究は認められなかったと云う歴史を確認する必要があります。そのため、万葉学でも藤原京に関係する歌々(人麻呂以降の雑歌・相聞・挽歌に分類されるすべての歌々)については、その誘導された歴史観から昭和五十年頃以前に発表された研究については特にその扱いに注意が必要です。ご承知のように藤原京を本格的な王都として、平城京や平安京とその規模において比較するようになるのは平成八年の「大藤原京」の研究報告以降のことです。


養老六年(722)十二月戊戌朔庚戌(13)の記事より
原文
十二月庚戌、勅奉為浄御原宮御宇天皇、造弥勒像。藤原宮御宇太上天皇、釈迦像。其本願縁記、写以金泥。安置仏殿焉。

訓読
十二月の庚戌に、勅(みことのり)して浄御原宮(きよみはらのみやに)御宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと)(天武天皇)の為に弥勒像を造らしめ、藤原宮(ふぢわらのみやに)御宇(あめのしたしらしめし)太上天皇(おほきすめらみこと)(持統天皇)の為に釈迦像を造らしめ、奉(たてまつ)らしめる。其の本願の縁(えにし)を記し、金泥を以つて写す。仏殿に安置せしむ。


参考資料その二 懐風藻より長屋王を君王と尊称する資料
大學頭從五位下山田史三方
五言 秋日於長王宅宴新羅客 一首並序
秋日長王の宅において新羅の客を宴す
君王以敬愛之沖衿、      君王敬愛の沖衿を以つて
廣闢琴樽之賞         廣く琴樽の賞を闢く
使人承敦厚之榮命、      使人敦厚の榮命を承け
欣戴鳳鸞之儀         鳳鸞の儀を欣戴す
於是琳瑯滿目、蘿薜充筵    是に於て琳瑯目に滿ち、蘿薜筵に充つ
玉爼彫華、列星光於煙幕    玉爼華を彫りて、星光を煙幕に列ね
珍羞錯味、分綺色於霞帷    珍羞味を錯へて、綺色を霞帷に分つ
羽爵騰飛、混賓主於浮蟻    羽爵騰飛して、賓主を浮蟻に混じ
清談振發、忘貴賤於窗鶏    清談振發して、貴賤を窓鶏に忘る
歌臺落塵、郢曲與巴音雜響   歌臺に塵を落して、郢曲と巴音と響を雜へ
笑林開靨、珠輝其霞影相依   笑林に靨を開けば、珠輝と其の霞影相依る
于時、露凝旻序、風轉商郊   時に、露旻序に凝り、風商郊に轉ず
寒蝉唱而柳葉飄、       寒蝉唱へて柳葉飄り
霜雁度而蘆花落        霜雁度りて蘆花落つ
小山丹桂、流彩別愁之篇    小山の丹桂、彩を別愁の篇に流し
長坂紫蘭、散馥同心之翼    長坂の紫蘭、馥を同心の翼に散ず
日云暮矣、月將除焉      日云に暮れむとし、月將に除せんとす
醉我以五千之文、       我を醉むるに五千の文を以てし
既舞踏於飽之地       既に飽の地に舞踏し
博我以三百之什、       我を博むるに三百の什を以てし
且狂簡於劔志之場       且つ劔志の場に狂簡す
請寫西園之遊、        請う西園の遊を寫し
兼陳南浦之送         兼て南浦の送を陳ぶ
含毫振藻、式贊高風、     毫を含みて藻を振り、以つて高風を贊す
云爾             と云うことしかり

白露懸珠日          白露 珠を懸くる日
黄葉散風朝          黄葉 風に散ずる朝
對揖三朝使          對し揖す 三朝の使
言盡九秋韶          言に盡す 九秋の韶
牙水含調激          牙水 調べを含み激し
虞葵落扇飄          虞葵 扇に落ちて飄る
已謝靈臺下          すでに謝す 靈臺の下
徒欲報瓊瑤          徒らに瓊瑤に報いむと欲す


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