竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉集の歴史と訓点

2017年05月13日 | 初めて万葉集に親しむ
万葉集の歴史と訓点

 本編を終えるに際して、万葉集編集の歴史について雑談を致します。
 最初に、『万葉集 釋注』を書かれた伊藤博氏は、奈良時代の元明天皇の時に巻一と巻二を中心とする詩歌集が編まれ、これを万葉集の出発点とし、その後、複数の編集過程を経て出来上がったものが現在に伝わる『二十巻本万葉集』と解説されています。この伊藤博氏の説かれる万葉集編集の歴史認識は、ほぼ、正しいものと思います。そこから、その複数回に渡る編集の歴史において、節目毎にその節目を代表する人物から元明天皇時代の柿本人麻呂選定説、孝謙天皇時代の橘諸兄選定説、桓武天皇時代の大伴家持選定説などが現れたのではないでしょうか。
 一方、漢字だけで表記された万葉集は平安時代の早い時期から、その時代の言葉に翻訳する作業が行われてきたと伝承します。それが訓点付けと云うものです。その万葉集の訓点付けの歴史は、十一世紀半ばとなる村上天皇時代から始まるとし、これが有名な「梨壷の五人」による古点付けと云う伝承です。この古点付けに関係して、鎌倉時代初期の作品に『石山寺縁起絵巻』と云うものがあり、そこには「梨壷の五人」の一人である源順が万葉集に載る「左右」の表記を「まて」と読むのに苦心した、その苦心譚が説話として載せてあります。
 紹介する雑談は、この「梨壷の五人」や源順の「左右」の訓点付けの苦心譚から始めます。ただ、そこに至るまでに、すこし、寄り道をさせて下さい。

 さて、『古今和歌集』に真名序と呼ばれる序文があり、その中に次のような一節があります。

原文 昔、平城天子、詔侍臣令撰万葉集。自爾来、時歴十代、数過百年。其後、和歌弃不被採。雖風流如野宰相、軽情如在納言、而皆以他才聞、不以漸道顕。
訓読 昔、平城の天子、詔して侍臣に令じて万葉集を撰ばしむ。それより来(このかた)、時は十代を歴(ふ)り、数は百年を過ぎたり。その後、和歌は棄てられ採られず。風流は野宰相の如く、軽情は在納言の如しといへども、皆、他の才をもちて聞え、この道をもちて顕はれず。

 一度、弊ブログ「竹取翁と万葉集のお勉強」に載せた自説では、この「平城天子」を聖武天皇(実際は孝謙天皇)としました。しかし、その後、色々と検討をしてみますと、これはやはり平城天皇のことでした。
 ブログで紹介したものが間違いであった背景には万葉集なるものを現代の二十巻本万葉集からの思い込みで想像していたことがあります。現代の二十巻本万葉集は何度もの編集を経て成立したものですから、二十巻本万葉集が成立するまでには複数の「万葉集」の名称を与えられた詩歌集があったはずですが、これを失念していました。さらに、二十巻本万葉集の核となる詩歌集に最初から万葉集の名称が与えられていたかと云うと、その保障もまたないことに配慮が足りませんでした。実にうかつです。
 こうした時、古今和歌集に先行し、万葉集について述べた文章があります。それが『新撰万葉集』の序文です。その当該する部分を抜粋して紹介します。

新撰萬葉集序  (菅家万葉集)
原文 夫萬葉集者、古歌之流也。非未嘗稱警策之名焉、況復不屑鄭衛之音乎。
聞説、古者、飛文染翰之士、興詠吟嘯之客、青春之時、玄冬之節、隨見而興既作、觸聆而感自生。凡、厥所草稿、不知幾千。漸尋筆墨之跡、文句錯亂、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。所謂仰彌高、鑽彌堅者乎。然而、有意者進、無智者退而已。於是奉綸、綍鎍綜緝之外、更在人口、盡以撰集、成數十卷。裝其要妙、韞匱待價。唯、媿非凡眼之所可及。

訓読 夫れ萬葉集は、古歌の流(たぐひ)なり。未だ嘗って警策(けいさく)の名を稱えざるにあらざり、況(いはん)や復、鄭衛(ていえい)の音を屑(いさぎよ)しとせず。
説を聞くに、「古には、飛文染翰の士、興詠吟嘯の客、青春の時、玄冬の節(とき)、見るに隨(したが)ひて既に作を興し、聆(き)くを觸れるに感は自(おのづ)から生まれる。凡そ、厥(そ)の草稿は、幾千を知らず。漸(やくや)く筆墨の跡を尋ねるに、文句錯亂、詩に非ず賦に非ず、字對は雜揉し、雖、入るに悟り難き。所謂、彌高(いやたか)を仰ぎ、鑽(きわめ)るに彌(いやいや)堅き者か。然而(しかるに)、意有る者は進み、智無き者は退き已(や)む。是に於いて綸を奉じ、綍鎍(ふつさく)綜緝(そうしゅう)の外、更に人の口に在るを、盡(ことごと)く以つて撰集し、數十卷を成す。其の要妙(ようみょう)を裝ひ、匱(ひつ)に韞(おさ)め價(あたひ)を待たん。唯、凡眼の及ぶべき所に非ずを媿(とがめ)む」と。

 この新撰万葉集は菅原道真とその門弟たちによって編まれた、和歌にその和歌が詠う世界を漢詩で表したものを添えた詩歌集で伝本書題から「菅家万葉集」とも称されています。その歌集に採られた和歌は主に寛平御時后宮歌合で詠われたもので、それを唐人や漢字文化圏の人々でもある程度は理解ができるようにと万葉調表記方法で表記し直しています。この新撰万葉集は一つのテーマの下、和歌と漢詩とが対となるように編集を行った日本文学史でも非常に特殊な歌集で、寬平五年(八九三)に成立しています。
 参考としてその新撰万葉集から一組を抜粋して紹介します。なお、「原歌」は参考資料として載せたもので新撰万葉集には載りません。載るのは「和歌」と「漢詩」の部分です。

歌番一 伊勢
和歌 水之上 丹文織紊 春之雨哉 山之綠緒 那倍手染濫
漢詩 春来天氣有何力 細雨濛濛水面穀 忽忘遲遲暖日中 山河物色染深綠
原歌 みつのうへに あやおりみたる はるのあめや やまのみとりを なへてそむらむ (寛平御時后宮歌合)

 最初に紹介した新撰万葉集の序文は全文を紹介していませんが、序文の後半部に「先生、非啻賞倭歌之佳麗、兼亦綴一絶之詩、插數首之左」と云う一節を持ちます。ここから、序文は菅原道真の門弟の誰かによって創られたものと考えられ、新撰万葉集もまた菅原道真一門による作品と推定されています。旧来の「菅家万葉集」と云う書題を根拠に菅原道真によるとする説は「菅家」と云う言葉に対する解釈に無理があります。
 さて、新撰萬葉集の序に「於是奉綸、綍鎍綜緝之外、更在人口、盡以撰集、成數十卷」とあります。ここで使われる言葉を詩歌集と云うものを前提に説明しますと、「綍鎍」は詠われた歌の原本や資料が編集などを行うことなく、ただ、丈夫な紐で束ねられただけの状態を示し、「綜緝」は詩歌集としての編集が行われ巻本や冊本として整えられたものを示します。また、「人口」は朝廷などの公的機関ではなく在野にあったものと云う意味となります。さらに「撰集」と云う言葉の原義は詩歌集を編むと云う意味であって、歌に対し秀凡区別し選択すると云う直接の意味合いはありません。つまり、万葉集選集の綸旨が出された時に、宮中に保管されていた古歌集や資料として保管されていた古歌、それに在野の古歌を、その歌の表記のままに巻子本の形に転写・再録したと云うことになります。この背景から新撰萬葉集の序では「万葉集」のことを「古歌之流也」と表現したのではないでしょうか。そして、後の時代の人、ここで後の時代と云っても少なくとも古今和歌集に載る歌などを参考にしますと貞観元年以前になりますが、この時代以降の人たちはこの古歌を撰集した巻子本を「万葉集」と認識していたと考えられます。これが、平安時代の書物に、度々、顔を出す「古万葉集」なのでしょう。

『平安時代における万葉集』 西田禎元より「古万葉集」に関わる部分を抜粋
・ 集は古萬葉集、古今、後撰。『枕草子』六十八段 清少納言
・ 嵯峨の帝の古万葉集を選び書かせたまへる四巻、延喜の帝の古今和歌集を、唐の浅縹の紙を継ぎて、同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、緞の唐組の紐など、なまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじう書き尽くさせたまへる。 『源氏物語』梅枝巻 紫式部
・ 凡素盞鳴尊、聖德太子御世代、定三十一字以降、古萬葉集、新萬葉集、古今、後撰、拾遺抄、諸家集等、盡以了見。 『新猿楽記』 藤原明衡
・ 柿本人麿八首 ・・(中略)・・ 但古万葉集第二云大寶元年・・・。・・(中略)・・奈良之帝然而蔵古万葉集尋人丸在世之時・・(中略)・・。萬葉集第二云柿本朝・・・(後略)。 『古今和歌集目録』藤原仲実
・ 万葉集和歌四千三百十三首。此中長歌二百五十九首。但本々不同。・・(中略)・・ 予按之。此集聖武撰歎。・・(中略)・・ 此集末代之人称古万葉集。『袋草子』巻一 藤原清輔

 ただし、平安時代の後期には「古万葉集」なる言葉は、どうも、二つの意味合いで理解されていたようです。清少納言や紫式部たち宮中の女性たちは平城天皇の時代に巻子本として残された「万葉集=平城万葉集」の中から嵯峨天皇の時代に短歌の秀歌集として選び編まれた四巻本を「古万葉集=嵯峨万葉集」と称し、一方、歌学者たちは平城天皇の時代に数十巻の巻子本として残された平城万葉集を「古万葉集」と呼んだようです。ややこしいのですが、ここでは平城天皇の時代の数十巻の巻子本である平城万葉集の方を「古万葉集」と呼ぶことにします。
 では、その撰集した時代は何時かと云うと、古今和歌集の真名序から、この「古万葉集」が撰集されたのは平城天皇・上皇の時代(八〇六~八一〇)のことと思われます。およそ、万葉集の核となる原初万葉集は元明天皇の時代に巻一と巻二とを中心に編集され、次いで、孝謙天皇の時代に再度編集が行われ巻一から巻十六までの原万葉集となったのではないでしょうか。これが「綜緝」が意味する先行して編まれた詩歌集と考えます。なお、弊ブログでは孝謙天皇の時代に編まれた原万葉集を「奈弖之故」と「宇梅之波奈」との名称を持つ詩歌集と推定しています。
 次の時代、古今和歌集の仮名序は「万葉集に入らぬ古き歌 みづからのをもたてまつらしめたまひてなむ」と述べ、万葉集と古今和歌集とで採録された歌の重複を避けることが求められたとします。この綸旨を裏読みしますと、紀貫之たちが古今和歌集を編集するとき、宮中の人々に万葉集に載る歌の定義が確立しているか、もし、そうでないのなら紀貫之たちは万葉集の歌の定義付けを行う必要がありました。そうでなければ「万葉集に入らぬ古き歌」と云う判定が出来ません。
 その状況を確かめるために重複歌を調べて見てみますと、現在の二十巻本万葉集が四千五百首余、古今和歌集が千百首余としたとき、西本願寺本基準と伝紀貫之筆の奏覧本基準とでは四首、さらに後年の翻訳写本である定家本とでは墨滅歌を含めて七首しか重複はありません。ただ、本歌取りの技法による類型歌を重複歌として含めますと、最大十二首まで増えると云う説もあります。
 この本歌取りの技法について藤原定家は『詠歌大概』などで次のように規定しています。

• 本歌と句の置き所を変えないで用いる場合には二句未満とする。
• 本歌と句の置き所を変えて用いる場合には二句+三又は四字までとする。
• 著名歌人の秀句と評される歌を除いて、枕詞・序詞を含む初二句を本歌をそのまま用いるのは許容される。
• 本歌とは主題を合致させない。

 一方、藤原定家より一世代前の藤原清輔は本歌取りの技法を「盗古歌」と評論していましたから、定家や清輔の評論・提案を総合しますと、時には、そっくりそのままに近いような本歌取りの歌が詠まれていたと思われます。紀貫之自身も額田王の歌(集歌一八)から頭二句を使う本歌取りの歌を詠い、古今和歌集(歌番九四)に載せていますから、全句が一致せず、歌の景色が違えば、紀貫之たちからすれば本歌取りの技法からの別の歌と考えていたと思います。従いまして、万葉集と古今和歌集との間での重複歌は最大でも四首とするのが良いようです。

万葉集 集歌一八 額田王
原歌 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
訓読 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや
私訳 三輪山をこのように隠すのでしょうか。雲としても、もし、情け心があれば隠すでしょうか。

古今和歌集 歌番九四 紀貫之
和歌 三輪山をしかも隠すか春霞人に知られぬ花や咲くらん

 さて、奏覧本古今和歌集を基準とした時、重複数が約千百首中に四首もあると見るか、四首しかないと見るかは立場ですが、ほぼ、綸旨が求めた重複を避けることは達成されています。なお、この論争の前提条件として、村上天皇の時代の古点以前に、重複を避けると云う行為そのものからしますと、当時の人々は万葉集を自在に読みこなしそれぞれの歌を認識していたと云うことが暗黙の了解事項となります。従いまして、紀貫之たちは現代の二十巻本万葉集と同等な万葉集に対して古今和歌集を編集したと考えて良いのではないでしょうか。つまり、古今和歌集の編集を開始した時に現在の二十巻本万葉集と同等な万葉集は、その当時の人々には定義が為されていたことになります。ここで村上天皇の「梨壷の五人」の伝承から生まれた常識には反しますが、古今和歌集の編集時点で現在の二十巻本万葉集と同等な万葉集は成立し、同時に平安貴族たちは二十巻本万葉集の歌を原歌から読み解き理解していたことになります。そうでなければ、古今和歌集に載せられている読み人知れずの古歌のほとんどが万葉集と重複しないこと自体が「偶然」ということになります。
 ちなみに、万葉集の古点の作業が行われていた時に編まれた『後撰和歌集』について、古い論説では後撰和歌集と万葉集との間には二十四首の重複歌があると唱えられていました。ところが、現在では本歌取りの技法を下に慎重に検討し、それぞれの歌意を精査すると、重複歌ではなく本歌取りの技法による類型歌が大半と論じられています。「梨壷の五人」による後撰和歌集の奏覧(天徳二年、九五八年頃)と万葉集の古点の完了(康保年間頃、九六四~九六八)には約十年の年代差がありますから、後撰和歌集の編集態度からしますと、どうも、万葉集の古点付け作業と万葉集の読み解きとは、直接には関係がないようです。

 最初に説明した新撰万葉集の序は寬平五年九月廿五日の日付を持ち、古今和歌集の真名序は延喜五年四月十五日の日付を持ちます。その間、わずかに十二年です。可能性として綸旨が延喜五年に出、その後に編集作業を経て完成し、その奏覧が延喜十三年としても、古今和歌集で載せる歌の採録・編集は延喜五年中には開始されている訳です。また、綸旨での任命からして、紀友則・紀貫之・河内躬恒・壬生忠峯たち、四人以上の人々で作業を開始するわけですから、その編集の最初には編集方針を決めたと考えられます。およそ、延喜五年中には「万葉集に入らぬ古き歌」の定義は決まっていたはずです。つまり、現在の二十巻本万葉集と同等の「万葉集」は人々の共通認識であったか、対比照合資料として整えられていたことになります。そして、この時点で原歌の万葉集の歌を全て訓じて理解していなければならないことになります。一方、古今和歌集の編集を求める綸旨からして、その綸旨を出した人物やその相談役もまた論理的に考えれば、編まれた歌集を受領し点検を行う責任がありますから、ある程度以上に原歌の万葉集の歌を理解していたことになります。
 ここで、二つの序を検討しますと、新撰万葉集を編んだ菅家一門の人々が見た「万葉集=古万葉集」は数十巻の編集未了の、ただ、資料集のような詩歌集の巻物であったのに対し、古今和歌集の編集時代には二十巻本万葉集と同等な「万葉集」が成立し、それに載る歌は定義されたものになっています。さて、この差はどこから来るのでしょうか。可能性として新撰万葉集の編まれた時、「古万葉集」は整理のされていない詩歌資料のようなものであったと考えられ、宇多天皇がその整備を菅家一門の人々、特に文章博士や大学頭を歴任した紀長谷雄に命じたのではないでしょうか。宇多天皇は醍醐天皇への譲位の後も上皇や法皇として政治や文化をリードしていますし、寛平初年(八八九)頃の寛平御時后宮歌合や延喜十三年(九一三)には亭子院歌合を開くなど和歌への深い造詣・態度があります。およそ、この頃に二十巻本万葉集と同等な「万葉集」が編集されたのではないでしょうか。そうした時、万葉集に入らぬ歌で編集する古今和歌集に紀友則と紀貫之が参画し、真名序を紀長谷雄の子である紀淑望が書くのは、極、自然な姿と考えます。

 もう少し与太話を続けますと、源順の私家集である『順集』に載る一一七番歌の詞書に「天暦五年、宣旨ありて、やまとうたはえらぶところ、なしつぼにおかせ給ふ、古万葉集よみときえらばし給ふなり、めしおかれたるは河内掾清原元輔、近江掾紀時文、讃岐掾大中臣能宣、学生源順、御書所預坂上茂樹らなり、蔵人左近衛少将藤原朝臣伊尹を其ところの別当にさだめさせたまふ」とあります。これが有名な村上天皇の「梨壷の五人」の伝承です。この文章から鎌倉時代以降の人々は、村上天皇の時代、天暦五年(九五一)には万葉集は読めない詩歌集になっていたと想像します。
 ところで、この類の話を紹介する別の資料もあります。それが次のものです。

・ 梨壺の五人に仰せて万葉集をやはらげられける 『十訓抄』
・ 康保のころ、広幡の御息所の申させたまひけるによりて、源順勅を承りて、万葉集を和らげて点じはべりけるに、訓み解かれぬ所々多くて、当寺に祈り申さむとて参りにけり。左右といふ文字の訓みをさとらずして、下向の道すがら、案じもて行くほどに、大津の浦にて物負せたる馬に行きあひたりけるが、口付の翁、左右の手にて負せたるものを押し直すとて、己がどち、までより。といふことを言ひけるに、始めてこの心をさとりはべりけるとぞ 『石山寺縁起絵巻』

 文中の「やはらげ」と云う言葉は古語辞典によると文章や言葉に使う場合は「わかりやすくする、平易にする」の意味としていますから、「梨壷の五人」が行った「よみときえらばし」の作業は原歌の万葉集の歌に片仮名で適切な訓みを与え、歌の読み下しを容易にする作業と考えられます。つまり、村上天皇の時代以前には、どうも、原歌の万葉集の歌には読み仮名は振られていなかったようです。一方、古今和歌集の時代に、人々は万葉集の歌を読み解き、大勢において重複が無いことを認識・確認しています。さらに、本歌取りの技法を認める、認めないはさて置き、本歌取りの技法を使用した重複歌又は類型歌が存在することから、それらの万葉集の歌は確実に読めたことになります。
 ここで先ほど紹介しました『石山寺縁起絵巻』に載る説話では万葉集の歌の言葉「左右」を源順が苦心して「まで」と訓じる例が取り上げられています。ところが、不思議なことに源順の時代より少し前に成った新撰万葉集には次のような歌が載せられていて、源順の時代でも「左右」は難訓ではないはずです。新撰万葉集で和語「まて」に「左右」の漢字文字を当てたのは源順から一世代前の菅原道真一門の人々であって、万葉集だけの表記ではないのです。それに奈良時代では「左右」は「さふ」と云う訓じの可能性があり、この「左右」を「まて」とする訓じは奈良時代の万葉集からではなく、平安時代初期 新撰万葉集からかもしれないのです。

歌番和二三 佚名
和歌 夏之夜之 霜哉降禮留砥 見左右丹 荒垂屋門緒 照栖月影
漢詩 夜月凝来夏見霜 姮娥觸處翫清光 荒涼院裏終宵讌 白兔千群人幾堂
寛平御時后宮歌合 夏五番右
原歌 なつのよの しもやふれると みるまてに あれたるやとを てらすつきかけ

歌番和一〇三 佚名
和歌 都例裳那杵 人緒待砥手 山彦之 音為左右 歎鶴鉋
漢詩 千般怨殺厭吾人 何日相逢萬緒甲 歎息高低閨裏亂 含情泣血袖紅新
寛平御時后宮歌合 戀五番左
原歌 つれもなき ひとをまつとて やまひこの おとのするまて なけきつるかな

 この新撰万葉集に載る和歌は平安時代の『寛平御時后宮歌合』を中心に詠われた和歌を万葉集と同じような漢字表現に戻して表したものです。従いまして、石山寺縁起絵巻の内容が鎌倉時代の人々に信じられていたとしますと、後撰和歌集選定の頃には万葉集を原歌から読むことは困難になっていたと考えたのでしょう。または、平安時代最末期以降にはそのように信じたと思われます。ただし、源順は後撰和歌集時代を代表する歌人であり、「規子内親王前栽歌合」などの歌会では判者を執るほどの人物ですから一つ前の時代の有名な寛平御時后宮歌合で詠われた歌を知らないとも思えませんし、新撰万葉集を知らないとも思えません。従いまして、逆説的ですが、平安時代最末期以降の人々は次のように考えたと想像されます。

・ 自分たちでは、直接、万葉集本文は読めない。
・ その前提でいつから万葉集に訓点が付けられたかを調べた。
・ 綸旨や日記記録から村上天皇の時代の訓点付けの綸旨が最古にあたると判明した。
・ それ以前の古今和歌集時代は仮名序などから紀貫之たちは万葉集本文を読めたと推定出来る。

 推定で、鎌倉時代に成立した石山寺縁起絵巻に載る源順の説話とは、当時の人々の認識や現実を下にした、その時代の人々にとって万葉集を原歌から訓じることが難しいことを判り易く説明した作り話なのでしょう。つまり、与太話です。およそ、当時の仙覚のような知恵者が学力・教養の落ちた歌人たちに対し「有意者進、無智者退而已」と云うことで、からかったのでしょう。
 最後に、「康保のころ、広幡の御息所の申させたまひけるによりて、源順勅を承りて、万葉集を和らげて点じはべりける」との伝承が残るように、後撰和歌集が編集された時代に、女御や更衣が宴に参加するため、また、和歌などの教養から天皇の寵愛を受けると云う必要性から宮中の女性たちに和歌を学習することが求められ、その一貫で万葉集の平仮名翻訳本が求められたと云う説があります。なお、この広幡の御息所とは村上天皇の更衣であった源計子で、彼女は内裏歌合では歌人が集う自陣の中から歌を選定し歌合に合わせるものを提出する役目である女房方人(にょうぼうかたうど)を務めるほどの大物歌人であったと伝わっています。場合により、そのような状況での平仮名翻訳を「万葉集をやはらげられける」と云う文章が説明しているのかもしれません。その時、後撰和歌集に万葉集との重複歌が限定的であることからして源順は万葉集を原歌から読む能力は十分にあったと云うことになりますから、村上天皇の時代に万葉集を原歌から訓じることが困難になっていたとの現在にする説明は、結構、怪しい話となります。なお、両歌集合わせて約六千首ほどの歌の中で重複歌がわずかでもあれば、それを根拠に万葉集の読解能力が無かったとする、資料整理での誤差・錯誤を一斉認めない態度には組みしません。
 さらに源氏物語を参照しますと、その源氏物語には万葉集や古今和歌集の歌が引歌されており、源氏物語を楽しむとき、その引歌された本歌が示す世界観も同時に楽しむようにと仕掛けが為されています。今日の源氏物語引歌研究と云う方面からしますと、紫式部は源氏物語に万葉集の巻二から巻二十に渡り、総数三十三首の歌を引歌しています。つまり、紫式部やその有名な読者である藤原道長たちは二十巻本万葉集を教養としていたのです。なお、紫式部や清少納言たちにとって万葉集は難しい作品だから平安中期までの和歌を集め、平仮名表記により編まれた『古今和歌六帖』からの引歌とする説が江戸末期から昭和時代まで唱えられていました。しかし、最新の源氏物語引歌研究ではそれは完全に否定され、二十巻本万葉集からの引歌と証明されています。もし、人が源氏物語に古今和歌集の姿を見るのですと、公平に万葉集の姿をも見る必要があります。
 結局は時代に置ける歌人での「有意者進、無智者退而已」の比率と云うことになるのでしょうか。紀貫之時代 歌人の多くが万葉集に対して「有意者」であり、平安時代末期以降では過半が「無智者」になったと云うことでしょうか。
『コラム』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
« 平安貴族の万葉集の訓みを考える | トップ | 改訂 社会人のための万葉集... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

初めて万葉集に親しむ」カテゴリの最新記事