或本謌
標訓 或る本の謌
集歌二六
原文 三芳野之 耳我山尓 時自久曽 雪者落等言 無間曽 雨者落等言 其雪 不時如 其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎
訓読 み吉野し 耳(みみ)我(が)し山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間(ま)無くぞ 雨は降るといふ その雪し 時じきがごと その雨し 間無きがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
私訳 この美しい吉野にある耳我の嶺に、季節外れの雪が降ると云う。絶え間なく雨が降ると云う。その雪が降る時を択ばないように、その雨が絶え間がないように、片時も忘れずに想い焦がれてやって来ました。その吉野への山道を。
天皇、幸于吉野宮時御製謌
標訓 天皇の、吉野宮に幸(いでま)しし時の御(かた)りて製(つく)らせし謌
集歌二七
原文 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見多 良人四来三
訓読 淑(よ)き人の良(よ)しとよく見に好(よ)しと言ひし芳野よく見た良き人よく見つ
私訳 徳行が良い人が「あの土地は立派だ」と吉野を見てから良い所と云うので、その吉野をめでたくも沢山眺めた。善良な人よ、よく見なさい。
左注 紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。
注訓 紀に曰はく「八年己卯五月庚辰の朔の甲申に、吉野宮に幸(いでま)す」といへり。
注意 万葉集の歌が万葉仮名で記された和歌であり、訓読み万葉集に翻訳されたものからは鑑賞できないことを端的に示す歌です。同じ発音「よし」でも漢字表記が違うと意味は変わります。
淑;徳行が良い、良;善良な、好;すぐれている、芳;美徳、吉;めでたい
藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇 元年丁亥十一年譲位軽太子 号曰太上天皇
標訓 藤原宮に御宇天皇の代(みよ)
高天原(たかまのはら)廣野姫(ひろのひめの)天皇(すめらみこと) 元年丁亥(ていがい)、十一年に位を軽太子に譲りたまへる 号(なづ)けて曰はく太上天皇
天皇御製謌
標訓 天皇の御(かた)りて製(つく)らせし謌
集歌二八
原文 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
訓読 春過ぎに夏来(き)るらし白栲の衣(ころも)乾(ほ)しあり天し香来山(かくやま)
私訳 寒さ厳しい初春が過ぎたので、もう、御田植祭の夏がやって来たのでしょうか。まるで、白栲の衣を干しているような白一面に雪に覆われた天の香具山よ。
注意 初春の香具山を寿ぐ集歌二八の歌を鑑賞するとき、この歌を踏まえて詠われた東歌があります。それが巻十四の集歌三三五一の歌です。なお、万葉集歌全体を俯瞰せずに万葉時代にはまだ比喩歌や本歌取り技法が無かったと和歌論を唱える人は、集歌二八の歌を夏の景色と解釈します。
過近江荒都時、柿本朝臣人麿作歌
標訓 近江の荒れたる都を過ぎし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌
集歌二九
原文 玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従(或云、自宮) 阿礼座師 神之書 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎(或云、食来) 天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎越(或云 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而) 何方 御念食可(或云、所念計米可) 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流(或云、霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留) 百磯城之 大宮處 見者悲毛(或云、見者左夫思毛)
訓読 玉(たま)襷(たすき) 畝(うね)火(ひ)し山の 橿原の 日知し御世ゆ(或は云はく、宮ゆ) 生(あ)れましし 神し書(ことば)の 樛(つが)し木の いや継(つ)ぎ嗣(つ)ぎに 天つ下 知らしめししを(或は云はく、めしける) 天にみつ 大和を置きに あをによし 奈良山を越え(或は云はく、空みつ 大和を置きて あをによし 奈良山越えに) いかさまに 思ほしめせか(或は云はく、そもほしけめか) 天離る 夷にはあれど 石(いは)走(はし)る 淡海(あふみ)し国の 楽浪(ささなみ)の 大津し宮に 天つ下 知らしめけむ 天皇(すめろぎ)し 神し御言(みこと)の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草し 繁く生(お)ひたる 霞立ち 春日し霧(き)れる(或は云はく、霞立ち 春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬる) ももしきし 大宮処 見れば悲しも(或は云はく、見ればさぶしも)
私訳 美しい襷を掛ける畝傍の山の橿原の地で、天下を統治された神武天皇が作られた神の書を、樛の木々が育つように代代に天下の人々に教えられているのを、その天の神の国まで満たす天皇の治める大和の国を後に残して、青葉の美しい奈良山を越えて、どのようにお思いになられたのか大和から離れた田舎ですが、岩が流れ下る淡海の国の楽浪の大津の宮で天下を御統治なされた天皇が、神の御言葉に従って造った大宮はここと聞いたけれど、大殿はここだと云うけれど、春草が繁って育っていて、霞が立ち春の日に霧が差し込んで来る多くの岩を積み上げる大宮の場所を見ると悲しくなる。
反歌
集歌三〇
原文 樂浪之 思賀乃辛碕 雖幸有 大宮人之 舡麻知兼津
訓読 ささなみし志賀の辛崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人し船待ちかねつ
私訳 楽波の志賀の唐崎は今も美しいのですが、大宮人は今もあの朱塗りの大御船を待っているのでしょうか。
標訓 或る本の謌
集歌二六
原文 三芳野之 耳我山尓 時自久曽 雪者落等言 無間曽 雨者落等言 其雪 不時如 其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎
訓読 み吉野し 耳(みみ)我(が)し山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間(ま)無くぞ 雨は降るといふ その雪し 時じきがごと その雨し 間無きがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
私訳 この美しい吉野にある耳我の嶺に、季節外れの雪が降ると云う。絶え間なく雨が降ると云う。その雪が降る時を択ばないように、その雨が絶え間がないように、片時も忘れずに想い焦がれてやって来ました。その吉野への山道を。
天皇、幸于吉野宮時御製謌
標訓 天皇の、吉野宮に幸(いでま)しし時の御(かた)りて製(つく)らせし謌
集歌二七
原文 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見多 良人四来三
訓読 淑(よ)き人の良(よ)しとよく見に好(よ)しと言ひし芳野よく見た良き人よく見つ
私訳 徳行が良い人が「あの土地は立派だ」と吉野を見てから良い所と云うので、その吉野をめでたくも沢山眺めた。善良な人よ、よく見なさい。
左注 紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。
注訓 紀に曰はく「八年己卯五月庚辰の朔の甲申に、吉野宮に幸(いでま)す」といへり。
注意 万葉集の歌が万葉仮名で記された和歌であり、訓読み万葉集に翻訳されたものからは鑑賞できないことを端的に示す歌です。同じ発音「よし」でも漢字表記が違うと意味は変わります。
淑;徳行が良い、良;善良な、好;すぐれている、芳;美徳、吉;めでたい
藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇 元年丁亥十一年譲位軽太子 号曰太上天皇
標訓 藤原宮に御宇天皇の代(みよ)
高天原(たかまのはら)廣野姫(ひろのひめの)天皇(すめらみこと) 元年丁亥(ていがい)、十一年に位を軽太子に譲りたまへる 号(なづ)けて曰はく太上天皇
天皇御製謌
標訓 天皇の御(かた)りて製(つく)らせし謌
集歌二八
原文 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
訓読 春過ぎに夏来(き)るらし白栲の衣(ころも)乾(ほ)しあり天し香来山(かくやま)
私訳 寒さ厳しい初春が過ぎたので、もう、御田植祭の夏がやって来たのでしょうか。まるで、白栲の衣を干しているような白一面に雪に覆われた天の香具山よ。
注意 初春の香具山を寿ぐ集歌二八の歌を鑑賞するとき、この歌を踏まえて詠われた東歌があります。それが巻十四の集歌三三五一の歌です。なお、万葉集歌全体を俯瞰せずに万葉時代にはまだ比喩歌や本歌取り技法が無かったと和歌論を唱える人は、集歌二八の歌を夏の景色と解釈します。
過近江荒都時、柿本朝臣人麿作歌
標訓 近江の荒れたる都を過ぎし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌
集歌二九
原文 玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従(或云、自宮) 阿礼座師 神之書 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎(或云、食来) 天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎越(或云 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而) 何方 御念食可(或云、所念計米可) 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流(或云、霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留) 百磯城之 大宮處 見者悲毛(或云、見者左夫思毛)
訓読 玉(たま)襷(たすき) 畝(うね)火(ひ)し山の 橿原の 日知し御世ゆ(或は云はく、宮ゆ) 生(あ)れましし 神し書(ことば)の 樛(つが)し木の いや継(つ)ぎ嗣(つ)ぎに 天つ下 知らしめししを(或は云はく、めしける) 天にみつ 大和を置きに あをによし 奈良山を越え(或は云はく、空みつ 大和を置きて あをによし 奈良山越えに) いかさまに 思ほしめせか(或は云はく、そもほしけめか) 天離る 夷にはあれど 石(いは)走(はし)る 淡海(あふみ)し国の 楽浪(ささなみ)の 大津し宮に 天つ下 知らしめけむ 天皇(すめろぎ)し 神し御言(みこと)の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草し 繁く生(お)ひたる 霞立ち 春日し霧(き)れる(或は云はく、霞立ち 春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬる) ももしきし 大宮処 見れば悲しも(或は云はく、見ればさぶしも)
私訳 美しい襷を掛ける畝傍の山の橿原の地で、天下を統治された神武天皇が作られた神の書を、樛の木々が育つように代代に天下の人々に教えられているのを、その天の神の国まで満たす天皇の治める大和の国を後に残して、青葉の美しい奈良山を越えて、どのようにお思いになられたのか大和から離れた田舎ですが、岩が流れ下る淡海の国の楽浪の大津の宮で天下を御統治なされた天皇が、神の御言葉に従って造った大宮はここと聞いたけれど、大殿はここだと云うけれど、春草が繁って育っていて、霞が立ち春の日に霧が差し込んで来る多くの岩を積み上げる大宮の場所を見ると悲しくなる。
反歌
集歌三〇
原文 樂浪之 思賀乃辛碕 雖幸有 大宮人之 舡麻知兼津
訓読 ささなみし志賀の辛崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人し船待ちかねつ
私訳 楽波の志賀の唐崎は今も美しいのですが、大宮人は今もあの朱塗りの大御船を待っているのでしょうか。
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