竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 エピローグ 野辺送り

2014年07月27日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
エピローグ

 大和の王宮は高市大王の死後、十四年で明日香の新益京から奈良の平城京へと遷都した。新益宮はその遷都によって主な建物は解体され、平城宮へと持ち去られた。そして、わずかな間に新益京は農地に変わり、人々の間からその存在の記憶もまた歴史の闇に消えた。
 すでに明日香新益京物語は終えたが、今少し、この時代を生きた柿本人麻呂の残りの人生を紹介する。


野辺送り

 人麻呂の恋妻、巨勢媛は伊勢御幸の翌年、朱鳥八年(692)、四十歳を機会に出家した。
 当時、女の四十歳は老女と呼ばれる年齢である。宮中で御婆と呼ばれるのを嫌がった巨勢媛は出家し、尼寺である豊浦の豊浦寺に入った。この豊浦寺は皇太后天皇額田部皇女(諱、推古天皇)の豊浦宮に由来する。また、阿部・山田道の傍で、当時としては賑やかな場所にある。

 大長二年(699)晩秋、巨勢媛は尼僧として四十五歳の生涯を豊浦寺で閉じた。五十二歳になった人麻呂は、最愛の人生の伴侶と和歌の同志を失った。その人麻呂の心に二人の人麻呂が宿る。巨勢媛を失った悲しみや辛さに人生の虚しさを感じ投げやりになる自分と、その姿を冷静に眺めている自分がいる。息が詰まるような、身を潰されるような、そのような悲しみと侘しさに苛まれる心の奥底を、他人事のように冷静に観察し、それを長文の大和歌として記録する。悲しむのも人麻呂であるが、記録するものまた人麻呂である。
 媛の葬送を取り仕切るその人麻呂の姿は、いかにも大和を代表する男の中の男である“大夫”の姿である。悲しみの感情を表すことなく、淡々に、だが、厳かに式次第をこなして行く。人はその姿に感心する。だが、素顔の人麻呂は違う。尼として尼寺の豊浦寺で死んだ巨勢媛の臨終には、忍坂の里人でもない人麻呂は立ち会うことは出来ない。ただ、病の知らせを以前から受け覚悟はしていたが、現実に危篤と臨終の知らせを受けると、気は動転し、息も詰まるような嫌な、重い気分の下、悲しみが込み上がる。そして、薄汚れた捨て犬のように、倭の想い出の地を巨勢媛の姿を求めて彷徨い歩くだけであった。
 人はそのような素顔の人麻呂を知らない。人麻呂は歯を食いしばり、後、あの世で再び会えるだろう媛と、このときの人麻呂の想いを物語するために、全力で媛の挽歌を詠った。

秋山之黄葉乎茂迷流妹乎将求山道不知母
訓読 秋山し黄葉(もみち)を茂み迷(まと)ひぬる妹を求めむ山道知らずも
私訳 秋山の黄葉の落ち葉が沢山落ちているので私の大切な貴女は道に迷ってしまった。居なくなった貴女を探そう、その山の道を知らなくても。

黄葉之落去奈倍尓玉梓之使乎見者相日所念
訓読 黄葉(もみちは)し落(ち)り去(ゆ)くなへに玉梓し使(つかひ)を見れば逢ふ日そ念(も)ふ
私訳 黄葉が散り逝くとともに愛しい私の貴女がこの世から去っていったと告げに来た玉梓の使いを見ると、昔、最初に貴女に会ったときの、文の遣り取りを使いに託した、その日々が思い出されます。

 巨勢媛の遺体は、当時の最新の風習に従い、泊瀬で荼毘に付された。そして、その遺骨は大三輪寺の坊が立ち並ぶ三輪山の東の森で散骨された。
 人麻呂は豊浦寺からの尼僧巨勢媛の野辺の送りに、あたかも媛の背の君として正妻を葬送するかのように振る舞う。人々もまた、その人麻呂の姿を奇異とはせず、それが当然のことのように従った。
 人麻呂は、その野辺送りの間も、不思議な感覚に陥った。人麻呂と巨勢媛の間には、媛の死と云う別れではなく、今度は、人麻呂ではなく巨勢媛が長い旅に出たのではないか、あの伊勢国への旅のように。そして、その旅が終われば、人麻呂が石見国から戻って来たように、戻ってきてくれるのではないかと思った。その一方で、遺体は荼毘に付され、焼ける匂いと煙は現実であり、散骨で撒く灰の温もりは人麻呂の手の実感であった。確かに最愛の妻である巨勢媛は死んだ。
 人麻呂は、その二つの心の狭間で歌を詠った。

秋山黄葉可怜浦觸而入西妹者待不来
訓読 秋山し黄葉(もみち)あはれびうらぶれて入りにし妹は待てど来まさず
私訳 秋山の黄葉は可怜で美しいが、なぜか、うら寂しい。秋山の美しい黄葉に引かれて行った私の愛しい貴女は、何時まで待っていても帰ってきません。

福何有人香黒髪之白成左右妹之音乎聞
訓読 福(さきはい)しいかなる人か黒髪し白くなるまで妹し声を聞く
私訳 幸福な人とは、どのような人でしょうか。黒髪が白髪に変わるまで愛しい妻の声を聞くことでしょうか。

玉梓能妹者珠氈足氷木乃清山邊蒔散染
訓読 玉梓の妹は珠かもあしひきの清(きよ)き山辺(やまへ)し蒔(ま)けば散り染(そ)む
私訳 玉梓の使いが知らせをもたらした私の愛しい貴女は、まるで大切な珠や渡来の毛氈のように高貴で大切な人なのでしょう。冬のようなさびしいの木々の茂る清らかな山に貴女の灰を撒くと、その山は珠や毛氈のように美しく黄葉に染まりました。


 巨勢媛の野辺の送りも終わり、人々は何事も無かったかのように日常へと戻って行く。日常の喧噪の中、人麻呂は一人残された。その人麻呂は折に付け媛が散骨された三輪山にやって来た。
 ここは、媛の生まれた故郷の忍坂の里や母と暮らし人麻呂が妻問った媛の屋敷を見渡す場所である。人麻呂は、折々に、ここにやって来ては、その景色を眺め、媛の霊と物語をした。
「今日は、もう、七七の日か」
「のう、若茅。何度、ここに来ても、主人は帰って来ないのか」
「若茅が仏となりあの世に旅立ったのなら、もう、ここへ来るのはよそうか。なあ、若茅」

念西餘西鹿齒為便乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾
訓読 想ふにし余りにしかばすべを無み吾は言ひてき忌むべきものを
私訳 心の内に貴女の面影を追い、貴女を慕うあまりにどうしようもなく、私は何度も何日も貴女の名前を口に出してしまった。霊を呼び戻すことは慎むべきなのに。

古尓有險人母如吾等架弥和乃檜原尓挿頭折兼
訓読 古(いにしへ)にありけむ人も吾とかや三輪の檜原(ひはら)に挿頭(かざし)折(を)りけむ
私訳 昔にいらした伊邪那岐命も、その想いは私と同じようだったのでしょうか。私は三輪の檜原で鬘(かづら)を断ち切り、亡き妻への偲ぶ思いを断ち切りました。

徃川之過去人之手不折者裏觸立三和之檜原者
訓読 往(ゆ)く川し過ぎにし人し手折(たを)らねばうらぶれ立てり三輪し檜原は
私訳 流れ逝く川のように過ぎ逝ってしまった人よ、その霊に手を合わせて祈らなければ、寂しそうに立っているでしょう。貴女の霊を包む、この三輪の檜原の木々は。

 当時の知識階級は根本仏教で仏教を理解していた。このため、人が仏を信じ、その仏の慈悲で成仏するのなら、その人の霊はこの世一切から切り離されて仏の世界へと往き、その霊は再びにはこの世には帰って来ない。現在の営利を目的とする近代日本仏教が人は成仏することなく霊はこの世に留まり、その霊は永遠に供養と名の寄付を求めると云う姿とは違う。近代日本仏教が布教される以前は、七七の日(四十九日目)に人は成仏し、この世から縁が切れるとされていた。人麻呂の歌はこの七七の日を詠った。

 大宝元年(701年)十月、巨勢媛の死からおよそ二年が経った。
 五十五歳になった人麻呂は、また、紀国に来ている。人麻呂は、軽皇子(諱、文武天皇)が、大王即位の礼として高市大王が定めた熊野速玉の御社で祀る皇祖、伊邪那岐への奉幣のための御幸に随行して来た。御幸の行列はあの朱鳥五年の時と変わらない。眺める紀国の景色も変わらない。ただ、肝心の巨勢媛の姿だけがない。その紀国に人麻呂は、再び、やって来た。
 熊野速玉神社での大王就任の祝詞奏上での作詞の大役を終えた人麻呂は、新益京への帰途の途中、名高の浦の黒牛潟の磯浜に来ている。朱鳥五年の、あの時の月は九月の十八夜、今日の月は十月の十三夜。昔、巨勢媛と二人して見た月の光の道や月光に輝く波頭は、今日も、その姿を見せている。
 その浜で、人麻呂は巨勢媛が傍にいると感じた。そして、その幻の巨勢媛と海を見、物語をした。今、人麻呂の目には白衣に緋の裳裾を着けた官女姿の媛が浪打ちで戯れ、また、真珠を枕元に置き人麻呂の愛に応えたあの媛の姿があった。

為妹我玉求於伎邊有白玉依来於伎都白浪
訓読 妹しため我が玉求む沖辺(おきへ)なる白玉寄せ来(こ)沖つ白波
私訳 貴女のために私は真珠の玉が欲しい。沖の方から白い真珠の玉を波とともに寄せて来い。沖に立つ美しい玉のような波立つ白浪よ。

黒牛方塩干乃浦乎紅玉裾須蘇延徃者誰妻
訓読 黒牛潟(くろうしがた)潮干(しほひ)の浦を紅(くれなゐ)し玉裳(たまも)裾(すそ)引(ひ)き行くは誰(た)が妻
私訳 黒牛の潟の潮が干いた浜辺を紅の美しい裳の裾を引いて歩いているのは誰の恋人でしょうか。

 朝が来た。朝の兆しと共に幻の巨勢媛はその姿を消した。そして、潮騒の黒牛潟の磯浜に人麻呂一人が残された。残された人麻呂は浜に両手を突き、涙を流し、そして、虚しいと詠った。

風莫乃濱之白浪徒於斯依久流見人無
訓読 風莫(かぜなし)の浜し白波いたづらしここし寄せ来(く)る見る人なみに
私訳 風があっても風莫の浜と呼ばれる浜の白波は、ただ無性に寄せてくる。見る人もいないのに。

黄葉之過去子等携遊礒麻見者悲裳
訓読 黄葉(もみちは)し過ぎにし子らと携(たづさ)はり遊びし礒間見れば悲しも
私訳 黄葉の時に逝ってしまった貴女と手を携えて遊んだ幾つもの磯を今独りで見ると悲しいことです。

玉津嶋礒之裏未之真名子仁文尓保比去名妹觸險
訓読 玉津島(たまつしま)礒し浦廻(うらみ)し真砂(まなご)にも色付(にほひ)て行かな妹し触れけむ
私訳 玉津嶋の磯の砂浜での愛しい貴女、その真砂にも偲んでいきましょう。その貴女がこのように触れた砂です。

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