竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集 古曲を鑑賞する 前編

2011年02月25日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
万葉集 古曲を鑑賞する

 初めに、この「古曲を鑑賞する」は、葛井連広成に深く関係します。そこで、この葛井連広成を最初に紹介します。
 まず、葛井連一族は、仁徳天皇の時代に渡来した辰孫王の子孫で、葛井・船・津連は同祖の同族関係にあり、この葛井連は養老四年(720)に白猪史を改めて葛井連の姓を賜っています。葛井広成自身としては、養老三年(719)の遣新羅使への任官で大外記従六位下白猪史広成として正史に登場するのが最初です。その後、葛井連への改姓を経て天平三年(730)に外従五位下に昇位します。天平十五年(748)には、新羅使の饗応の任を行った後に備後守に任官し、従五位下に改まっています。この備後守を終えた天平二十年二月(748)に従五位上へ昇位し、直後に葛井広成の自宅(又は行基伝承から、葛井寺落慶の時の控所?)に聖武天皇の御出ましがあり、この功績で室の従五位下の位を持つ県犬養宿禰八重と共に正五位上の位を頂いています。その後の孝謙天皇即位の年の天平勝宝元年(749)の中務少輔への任官が正史に載る最後の記録です。なお、この高齢で正五位上の位での中務少輔は、実際の実務を行うことより公式の相談役のような任官です。また、文化人としての葛井広成は、万葉集に短歌三首、懐風藻に漢詩二首が伝わっています。一部では、これらの任官と職歴や懐風藻に載る順列から葛井広成を天平勝宝三年成立の懐風藻の編者と推定する人もいます。
 一方、神護慶雲四年(770)三月の称徳天皇(孝謙天皇重祚)の由義宮への御幸の時に創られたと思われる歌を、葛井・船・津・文・武生・蔵六氏の男女合わせて二百三十人が次に示す「古詩」の歌として共に歌垣を演じ奉じたとの記録があります。ここから、葛井連一族は天武天皇以来の伝統である歌舞を伝承する地位にあったと推定されます。参考にその時の古詩の歌を紹介します。歌は旋頭歌ではなく、短歌です。

歌垣の歌二曲
乎止売良爾 乎止古多智蘇比 布美奈良須 爾詩乃美夜古波 与呂豆与乃美夜
をとめらに をとこたちそひ ふみならす にしのみやこは よろづよのみや 
娘女に 壮士立ち添ひ 踏み鳴らす 西の京は 万代の宮

布知毛世毛 伎与久佐夜気志 波可多我波 知止世乎麻知弖 須売流可波可母
ふちもせも きよくさやけし はかたがは ちとせをまちて すめるかはかも
淵も瀬も 清くさやけし 博多川 千歳を待ちて 澄める川かも

注意 西の都は神護慶雲四年の由義宮遷都を示す。また、博多川は現在の八尾市の長瀬川のこと。


 前段が長くなりました。さて、万葉集には「古曲」と称する歌があります。それが、長い漢文の序を持つ集歌1011と集歌1012の歌です。ここでは、この古曲を鑑賞します。なお、集歌1011の歌の序文の「理宜共盡古情」の詞の解釈によっては、序の意図は大きく違います。ここでは普段の解説文ではなく、私訳の解釈で鑑賞します。そこでは「古曲」を「ふるきおもしろみ」と訓んでいます。
 さて、この古曲の鑑賞では、例によって紹介する歌は西本願寺本の表記に従っています。そのため、原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。また、勉学に勤しむ学生の御方にお願いですが、ここでは原文、訓読み、それに現代語訳や解説があり、それなりの体裁はしていますが、正統な学問からすると紹介するものは全くの「与太話」であることを、ご了解ください。つまり、コピペには全く向きません。あくまでも、大人の楽しみでの与太話であって、学問ではないことを承知願います。


冬十二月十二日、歌舞所之諸王臣子等、集葛井連廣成家宴歌二首
比来古舞盛興、古歳漸晩。理宜共盡古情、同唱此謌。故、擬此趣獻古曲二節。風流意氣之士、儻有此集之中、争發念、心々和古體。

標訓 冬十二月十二日に、歌舞所(うたまひところ)の諸(もろもろ)の王(おほきみ)、臣子(おみこの)等(たち)の、葛井連廣成の家に集(つど)ひて宴(うたげ)せる歌二首
比来(このごろ)、古舞(こぶ)盛(さかり)に興(おこ)りて、古歳(こさい)漸(やくやく)に晩(く)れぬ。理(ことはり)と宜(ぎ)を共に古情(こじょう)に盡(つく)して、同(とも)に此の謌を唱(うた)ふべし。故(かれ)、此の趣(おもむき)に擬(なそら)ひて古曲(こきょく)二節を獻(たてまつ)る。風流意氣の士の、儻(も)し、此の集(つどひ)の中にあらば、争ひて念(おもひ)を發(おこ)し、心々(こころこころ)に古體(こたい)に和(こた)へよ。

私訳 天平八年冬十二月十二日に、歌舞所に関係する多くの王族や臣下の者たちが、葛井連廣成の家に集まって宴をしたときの歌二首
近頃、古い歌舞が盛んになって、今年もようやく終ろうとしている。和歌の理想と道理を共にいにしえの歌に趣の頂点をもとめて、一同でこの歌を唱おう。そこで、この趣旨にそって古曲(本歌取りの意味か?)を二節、献上する。雅びにして意気のある者が、もし、この集いの中にいるならば、争って詩歌風流の想いを起こし、それぞれの感情で古体の歌に答えてほしい。


集歌1011 我屋戸之 梅咲有跡 告遣者 来云似有 散去十方吉
訓読 我が屋戸(やど)の梅咲きたりと告げ遣(や)らば来(こ)と云ふ似たり散りぬともよし

私訳 私の家に梅の花が咲いたと告げて使いを遣ったならば、私の家に御出で下さいと云うことと同じです。花が散ってしまっていても良い。


集歌1012 春去者 乎呼理尓乎呼里 鴬 吾嶋曽 不息通為
訓読 春さればををりにををり鴬よ吾(われ)の山斎(しま)ぞ息(やま)ず通はせ

私訳 春がやって来ると、枝が撓みに撓むほどに梅に花が咲く。鶯よ、それは、私の家の庭です。欠かさずにやって来てください。

 標の漢文の示すところは、平安時代の大歌所に相当する奈良時代に宮中歌舞の興隆を目的にした歌舞所の関係者が著す歌論です。著者は、古体に和歌の理(理想)と宜(道理)を求め、その心境で古曲二節をもって古体に答えたとしています。この漢文の序が示す「和歌論」によって、古くから集歌1011と集歌1012の歌をいかように鑑賞するかが話題になっています。
 普段の解説では序の「同唱此謌」を「同唱古謌」と換字をおこない、「同(とも)に古謌を唱(うた)ふべし」と訓みます。この訓に対して、古今和歌集の「月夜よし夜よしと人に告げ遣らば来てふに似たり待たずしもあらず」の歌を紹介して、直接の歌意が類似しているので、これが人々の心を示す「古歌」の一端であろうかと推測します。また、歌体から類推して、集歌1011の歌の結句の「散りぬともよし」の詞から笠沙弥の詠う集歌821の歌の「青柳(あほやぎ)梅との花を折りかざし飲みての後(のち)は散りぬともよし」や大伴坂上郎女の詠う集歌1656の歌の「酒杯(さかづき)に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後(のち)は落(ち)りぬともよし」を、「古歌」の姿を示している歌なのだろうかと推測します。
 本来、序の漢文は「同唱此謌」であって「同唱古謌」でありませんが、ここは素人考えで、序の私訳に示したように「古曲」とは本歌取りの技法を使った歌ではないかと考えています。その本歌取りの技法を行うには、当然ですが、古き歌を知り、その歌の心を理解する必要があります。その姿が「理(ことはり)と宜(ぎ)を共に古情(こじょう)に盡(つく)して、同(とも)に此の謌を唱(うた)ふべし」ではないでしょうか。当時の和歌の風潮を示すものとして万葉集の巻十六には長忌寸意吉麻呂が詠う即興歌や忌部首や境部王の詠う数種類の品物の名を競って織り込む歌などが載っています。世の中のこのような浮ついた風潮に対して、先代の歌の歴史に立ち戻り花鳥風月と心情を顕わす和歌を詠おうとの提議ではないでしょうか。その手段として、本歌取りの技法を示す「古曲」の詞と思っています。
 この似た風景としては、天平二十年の春三月二十三日に田邊史福麻呂が越中国の大伴家持の許を訪ねた時の歓迎の宴での歌の序に「爰(ここ)に新しき謌を作り、并せて便(すなは)ち古き詠(うた)を誦(よ)みて、各(おのおの)の心緒(おもひ)を述べたり(集歌4032の歌の序)」とあります。この葛井広成と田辺福麻呂との間には十二年の歳月がありますが、その意図するところは同じではないでしょうか。およそ、天平八年に葛井広成が唱えた「古曲」の技法が、天平二十年には一つの和歌作歌の基本となっていたと思われます。
 ここで、先の歌垣の歌に戻りますと、神護慶雲四年(770)三月に創られたと思われる歌を、続日本紀のその歌垣奉呈の記事では「古詩」と紹介しています。場合により、和語で記された記録では「古曲」の表記で在ったものを漢文で表す時に楽音を伴わないために「古詩」と曲訳したのかもしれません。
さて、肝心のこの漢文の序を著したと思われる葛井広成の歌を万葉集に求めると、先の二首以外には次の歌だけが求められます。歌論に先立つ六年前のことです。


天平二年庚午勅遣推駿馬使大伴道足宿祢時謌一首
標訓 天平二年庚午、勅(みことのり)して推駿馬使大伴道足宿祢を遣(つかは)しし時の謌一首
集歌962 奥山之 磐尓蘿生 恐毛 問賜鴨 念不堪國
訓読 奥山(おくやま)の磐(いは)に苔(こけ)生(む)し恐(かしこ)くも問ひ賜ふかも念(おも)ひ堪(あ)へなくに

私訳 奥山の岩に苔むすように神々しく、恐れ多くもお尋ね下さいますね。どのように歌を詠うか思いも付きません。

右、勅使大伴道足宿祢饗于帥家。此日、會集衆諸、相誘驛使葛井連廣成言須作歌詞。登時廣成應聲、即吟此歌。
注訓 右は、勅使(みことのりのつかひ)大伴道足宿祢を帥(そち)の家に饗(あへ)す。此の日に、會集(つど)ひし衆諸(もろもろ)の、相(あい)誘(さそ)ひて驛使(はゆまつかひ)葛井連廣成に「歌詞(うた)を作るべし」と須(もと)めて言へり。登時(すなはち)、廣成の聲に應(こた)へて、即(ただち)に此の歌を吟(うた)へり。

 集歌962の歌の感覚からしますと、葛井広成は漢詩歌人や歌学者ですが、和歌の歌人ではなかったようです。良くて、集歌962の歌は大伴旅人の父親である大伴安麿の詠う集歌299の歌を想像させますが、それまでです。およそ、詠み人知れずの集歌1334の歌は集歌962の歌の異伝に位置するのでしょうが、素人感覚で鑑賞していて、これまた、面白みはありません。


大納言大伴卿謌一首  未詳
標訓 大納言大伴卿の謌一首  未だ詳(つばび)らかならず
集歌299 奥山之 菅葉凌 零雪乃 消者将惜 雨莫零行年
訓読 奥山の菅の葉しのぎ降る雪の消(け)なば惜(を)しけむ雨な降りそね

私訳 奥山の菅の葉を押さえつけるように振る雪が融け消えたら残念です。雨よ、きっと降らないで。


巻七 詠み人知れず
集歌1334 奥山之 於石蘿生 恐常 思情乎 何如裳勢武
訓読 奥山(おくやま)の石(いは)に蘿(こけ)生(む)し恐(かしこ)けど思ふ情(こころ)をいかにかもせむ

私訳 奥山の岩に苔むして神々しくて恐れ多いのだけど、お慕いする気持ちをどの様に顕わしたらよいでしょうか。


 従いまして、万葉集の歌からは葛井広成の作風を探ることは、困難です。「古曲」とは何かを考えるとき、ただ、集歌1011と集歌1012の歌だけを手掛かりに推測するしか出来ないことになります。こうした時、葛井広成が「日本の短歌とはなんぞや」と語るとき、自慢に出来ることがあります。それは、天平二年正月の「梅花の歌三十二首」が詠われた、その直後に筑紫大宰に彼自身が訪れ、大伴旅人・山上憶良や一族の葛井大成と交流し、彼らの大和歌の興隆運動を当事者として肌で知っていることです。大和歌の興隆運動では、大伴旅人たちは中国の落梅の詩篇に対して、大和歌でもって梅の歌を詠おうと呼びかけ、敢えて「一字一音の万葉仮名だけ」で短歌を詠います。葛井広成が先の序を記した天平八年の時点では、その中心人物である大伴旅人や山上憶良は既に他界し、歌論を継ぐ者としては葛井広成が残るばかりだったのではないでしょうか。
 このように妄想するとき、集歌1011と集歌1012の歌は、この「梅花の歌三十二首」のダイジェストのような感がするのは、私だけの気のせいでしょうか。和歌の源流に位置しますので、飽きが来たとお思いでしょうが、再度、紹介します。

梅花謌卅二首并序
標訓 梅花の歌三十二首、并せて序
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。

訓読 天平二年正月十三日に、帥の老の宅に萃(あつ)まりて、宴會を申く。時、初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。加以(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は穀(うすもの)に封(こ)められて林に迷ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故鴈歸る。於是、天を盖(きにがさ)とし地を坐とし、膝を促け觴(さかずき)を飛ばす。言を一室の裏(うち)に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然と自ら放(ほしきさま)にし、快然と自ら足る。若し翰苑(かんゑん)に非ずは、何を以ちて情を濾(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。

私訳 天平二年正月十三日に、大宰の帥の旅人の宅に集まって、宴会を開いた。時期は、初春のよき月夜で、空気は澄んで風は和ぎ、梅は美女が鏡の前で白粉で装うように花を開き、梅の香りは身を飾った衣に香を薫ませたような匂いを漂わせている。それだけでなく、曙に染まる嶺に雲が移り行き、松はその枝に羅を掛け、またその枝葉を笠のように傾け、夕べの谷あいには霧が立ち込め、鳥は薄霧に遮られて林の中で迷い鳴く。庭には新蝶が舞ひ、空には故鴈が北に帰る。ここに、天を立派な覆いとし大地を座敷とし、お互いの膝を近づけ酒を酌み交わす。心を通わせて、他人行儀の声を掛け合う言葉を部屋の片隅に忘れ、正しく整えた衿を大自然に向かってくつろげて広げる。淡々と心の趣くままに振る舞い、快くおのおのが満ち足りている。これを書に表すことが出来ないのなら、どのようにこの感情を表すことが出来るだろう。漢詩に落梅の詩篇がある。感情を表すのに漢詩が作られた昔と和歌の今とで何が違うだろう。よろしく庭の梅を詠んで、いささかの大和歌を作ろうではないか。




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