竹取翁と万葉集のお勉強

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大人のための万葉集の歌

2017年05月04日 | 初めて万葉集に親しむ
大人のための万葉集の歌

 古く、万葉集は性をおおらかに詠うと評論されます。その一面を特徴的に示すのが「詠和琴」と云う部立で紹介される次の歌です。なお、最初に紹介するものは古典的な伝統の解釈のもので妻の死をテーマにした歌として解釈しますが、それは本編で提唱する原歌から忠実に鑑賞するものではありません。その伝統の解釈では原歌に使う漢字文字が示す歌の世界よりも、和歌人が感じた解釈を根拠として漢字交じり平仮名への翻訳を行います。

詠和琴
標訓 和琴(やまとこと)を詠める
集歌一一二九
原歌 琴取者 嘆先立 盖毛 琴之下樋尓 嬬哉匿有
訓読 琴取れば嘆き先立ちけだしくも琴し下樋(したひ)に妻や匿(こも)れる
標準 琴を手に取るとまず嘆きが先立ってきます。もしかしたら琴の空ろの中に亡き妻の魂が籠もっているのだろうか (「万葉集遊楽」より引用)

 歌の詳細な解説の前にこの集歌一一二九の歌の万葉集の中での配置と扱いを紹介しますと、歌は巻七の「雑歌」と云う大きな編集区分である「部立」に含まれ、その中でさらに「詠和琴」と云う「部」の中で一首単独で紹介されています。
 鑑賞・解釈からこの歌を眺めますと、従来の標準的な歌の解釈では翻訳された「漢字交じり平仮名歌」での言葉「嘆き」、「妻」、「匿れる」から、死亡した妻の面影を琴の音色に見るとします。鎌倉時代以降の古典的な伝統からの歌への解釈としますと、これで十分だと思います。訓読み万葉集として、最初からそのように結論付けた解釈に合わせて翻訳を施しているのですから当たり前のことです。
 一方、万葉集の歌の区分では死者に関する歌は「挽歌」と云う部立に区分されます。一方、紹介します集歌一一二九の歌は「雑歌」の部立の、さらに「詠和琴」と云う部に区分されます。つまり、歌は宮中や貴族たちの宴会などで詠われた歌と推定されるものなのです。おおよそ、歌が詠われた場面からしますと、歌は死んだ妻を偲ぶ歌ではありません。なお、古典的な万葉集研究では巻二に載る柿本人麻呂が詠う集歌二〇七の泣血哀慟作歌を代表として、宮中の高貴な人の求めに応じて自分の妻の死であっても宴会の余興として歌を献じることはあったとする説を受け入れます。死を悼む歌として「挽歌」に分類されていても宴会での座興の歌は存在するとしますから、逆に宴での歌として「雑歌」に分類されていても死を悼む歌があってもよいと云うことになります。このような説を唱える研究者に対して、歌を分類区分する部立からの歌の解釈への疑義提議や人倫からして近親者の死亡を余興として歌を詠うことはないという考えは意味を持ちません。そのような古典的な研究者の態度は自説のためなら、なんでもありありです。ここに近代万葉集の研究と和歌道からの研究との間に大いなるギャップがあります。伝統の翻訳からの訓読み万葉集の解釈は、本来の万葉集にそぐわないのです。
ここから、本編で紹介する歌を原歌から鑑賞する方法を紹介します。
 さて、集歌一一二九の歌を部立から推測してくだけた宴会で詠われた歌と仮定します。そうしたとき、歌で使われる漢字文字に注目しますと、「嬬」の漢語的な意味合いは妾や下妻ですから正妻ではなく恋人や愛人のような意味合いの強い文字です。また、「盖毛」と云う表記では大和言葉の発音「も」を得るに「盖母」ではなく「盖毛」の表記を採用します。さらに「和琴」の部分になぜか「下樋」と云う言葉が使われています。およそ、歌を原歌から鑑賞する立場からしますと、歌で使われる漢字表記には違和感のある漢字文字の選定が為されているのです。
 ここで、少し、歌の鑑賞から離れ、当時の時代性に注目しますと、奈良時代の貴族が好んだ医学施術に「丹術」と云うものがあります。奈良時代からの医学書を類聚して成った平安時代初期の漢方医学書『医心方』に第二十八巻 房内と云うものがあり、この中で「丹術」を詳細に紹介します。その房内で紹介する中国医学用語からの身体部位名称では女性器全体を丹穴、玉戸や玉門と称え、陰核部付近を琴弦、また、陰唇の始まりの地点を金溝と称します。さらに女性の陰毛を莎苗と呼びます。房内と云う巻はその内容からしますとある種の愛撫と性交体位の方法を記したハウツウ本であることを了解して下さい。ただ、東洋ではこの房内が示す性交渉はある種の滋養強壮の医学療法であり、薬として処方するものだったのです。中国大陸側では唐末・宋時代までには失せた医学書ですが、日本では今日までその姿を留めています。それほどに大切に受け継がれてきた療法書なのです。集歌一一二九の歌は、このような東洋医学の知識を下に創られた歌です。さらに追記しますと、古語で「嘆く」と云う言葉には「強く望む、やっきになる」と云う別な意味もあります。悲しみにくれるという意味合いだけではないのです。
 他方、伝統的な解釈では、「『下樋』とは琴の表板、裏板の間のうつろになっている部分。元来の意味は地下に設けた木製の水路、すなわち暗渠(あんきょ)のこと。古代、物が空洞になっているところには霊的なものが宿ると信じられており、作者は亡き妻の愛用の琴を弾き出す前から、妙なる音色が聴こえてきたと感じた」とします。そうして、「『嘆き』は単に悲嘆、哀傷の意ではあるまい。その心情をもこめつつ、音色にいたく引かれてしまう切実な感動をいうのであろう。格別に気高い音色をだす琴なのだが、妻との思い出がこもるので弾く前にいっそう感極まってしまうという心。つまりは、きわめて複雑微妙な形で琴をほめるのがこの一首 」(伊藤博)と解説します。当然、現代の歌人は「歌意は『妻を偲ぶ』となると思われるが、部立分類は『雑歌』であり『詠和琴』である。分類は『挽歌』ではない。なにか、おかしい」と感じ、従来の権威がする解釈・解説に違和感を示します。これについて、識者は「題材別に古今の歌を集成することに主眼がおかれ、歌を別の角度から取り上げて新しい編集者意識、方法論を示そうとした。これこそ古今和歌集以降もっとも際立った特徴で、和歌の歴史全体を通じて編集者がどれほど重大な存在であったかを示すものであり、読者の関心をうながしておきたい」(大岡信)などと回答します。(注意:文中の「古今」とは巻十一の総題に示す「古今相聞往来歌類」と云う意味での「古今」です)ただ、大岡信氏もその解説において、説が示すように自分で何を主張し、どのように解説しているかについて自己消化が出来ていなかったと思われます。それは、阿蘇氏が再発見した「略体・非略体」などの表記システム問題の認知以前の時代に、漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された原歌における、歌を表記する用字に対しその選択された表語文字たる漢字に十分に注意を払って読解するという、万葉集歌読解での基礎的要請に対して、十分に教育訓練を受けていなかった弱点からと考えられます。
 漢語と漢字だけで表現された万葉集の歌での感情表現手法の一つとしての「孤悲」や「痛多豆多頭思」などの表記もまた、歌を表記する用字においてその選択された漢字が作歌意図や感情を端的に示します。文字としては音字「こひ」や「たづたづし」ですが、その用字選択に作歌者の意図が明確に示されているのです。この方面において、残念ながら伊藤博氏や大岡信氏は万葉集歌における表語文字である漢字の選択とその文字から示される感情表現と云う問題について教育を受けた世代ではありません。万葉集の読解では、いわゆる、「万葉仮名」として字音読解だけに専念した旧世代に属する人たちです。
 紹介しましたように万葉時代の貴族の教養と洒落の世界から集歌一一二九の歌を鑑賞しますと、中医学用語から琴は琴弦であり陰核を暗示しますし、樋は溝であり、その溝は中医学用語の金溝からすれば現代語での陰唇です。さらに嬬は「つま」と訓じて妻(つま)や端(つま)を類推させ、それまでに暗示して来た女陰部において陰唇の先に隠れているものから膣と云う部位を示すことになります。さらに視覚から歌の表記を読解しますと「先立盖毛琴」と云うものを漢文読みしますと「琴(=陰核)に先立ちて毛で蓋われている」となります。
 およそ、歌を原歌からその使われる漢語と漢字に注目して解釈しますと、次のようなものになります。つまり、原歌は非常なるバレ歌と云うことになります。これが万葉貴族の教養であり、遊びです。これですと宴会歌として「雑歌」と云う部立に組み込んでも違和感がないものとなります。

集歌一一二九
原歌 琴取者 嘆先立 盖毛 琴之下樋尓 嬬哉匿有
訓読 琴取れば 嘆き先立ち けだしくも 琴し下樋(したひ)に 妻や匿(こも)れる
試訳 琴(=陰核)を奏でるとその響す音色に賞讃の想いがまず現れ、覆う和毛、さらにその先の、素晴らしい音色を響す琴(=陰核)から樋(=陰唇)を下へと辿って行くと、そこには妻(=膣)が隠れています。

 次に同じような部立で紹介されるを集歌一三二八の歌を集歌一一二九の歌から眺めてみます。歌は巻七 譬喩謌の部立の「寄日本琴」と云う部に一首単独で載る歌です。つまり、歌は譬喩を詠うのですから「小琴」は歌の本意として「日本琴」を意味していないことになります。何か他のものを示していることになります。つまり、先の集歌一一二九の歌からしますと「小琴」は経験浅い乙女の女性器全体か、陰核を意味するのでしょう。そうした時、「伏膝」と云う漢字表現をどのように解釈するかが、経験を持つ大人には大きな問題となります。

集歌一三二八
原歌 伏膝 玉之小琴之 事無者 甚幾許 吾将戀也毛
訓読 伏す膝(ひざ)し玉し小琴(をこと)し事無くはいたく幾許(ここだく)し吾恋ひめやも
試訳 伏した膝、その先の美しい貴女のかわいい琴(=陰核)に、なにもしなければ、これほども、何度でも、貴女との愛の営みをしたいと思うでしょうか。

 伝統の標準的解釈では「小琴」は小さな和琴とそのままに解釈します。その立場で新日本古典文学大系は、この「伏膝」を「膝の上に横たわる」、新編日本古典文学全集は「膝に置く」、萬葉集(中西進)は「膝にのせる」、萬葉集註釈(澤瀉久孝)は「膝の上にのせて弾く」とします。この伝統の「伏膝」と云う解釈を「小琴」が示すものが経験浅い乙女の女性器全体と云う別の解釈に転用しますと、伝統の言葉解釈からしますと男性の膝の上に帯解けの女性が背を向けて座るような情景です。一方、初句の「伏膝」を「伏した膝」と語順に訓じますと、横たわる女性に男性が寄り添い、手を添えるという情景となります。さて、どちらに取りましょうか。
 なお、本編での「恋」と云う言葉の解釈には男女の性交も含めています。夜を共にする情景が覗える歌で「恋」と云う言葉が使われていますと、抽象的な恋愛感情よりも具体的な性交渉を優先して解釈します。そのために、この集歌一三二八の歌では前戯の愛撫から性交までを見ることになります。
 このように万葉集は性愛をおおらかに詠います。この方面をもう少し追求しますと、次の集歌二九二五の歌があります。この歌は直接的に男の性癖を詠いますから非常に判り易いのではないでしょうか。

集歌二九二五
原歌 緑兒之 為社乳母者 求云 乳飲哉君之 於毛求覧
訓読 緑児(みどりこ)し為こそ乳母(おも)は求むと云ふ乳(ち)飲めや君し乳母(おも)求むらむ
私訳 「緑児の為にこそ、乳母は探し求められる」と云います。でも、さあ、私の乳房をしゃぶりなさい。愛しい貴方が乳母(乳房)を求めていらっしゃる。

 ただ、歌を従来の訓読み万葉集のままに鑑賞しますと乳房だけへの情景ですが、末句「於毛求覧」を漢文的に解釈しますと「毛に於いて求め覧む」となります。漢字において「覧」は「観」であり、非日常で見る行為を「観」であり「覧」とし、日常的に見る行為を「視」とすると解説します。漢字の原義からしますと、言葉には「たまに貴方は私を裸にする」と云う意味合いが隠されています。つまり、昔、関係を持ったその男性は乳房への口での愛撫から陰部へと進むという性癖を持つと暗示させます。この歌は「正述心緒(正(まさ)に心緒(こころを)を述べたる)」と云う部立に含まれるもので、扱いとして、一度は交渉のあった女性から相手であった男性に贈られた性癖を下にしたからかいの歌です。このように万葉集は特徴だって性愛を詠います。
 紹介しました歌三首は竹生政資氏の論文などからしてバレ歌では有名な歌で、本編だけが特にバレ歌として解釈しているのではありません。他と違う点は漢字が持つ表語文字の力に注目し、その漢字の原義まで踏み込んだところです。加えて、万葉集の全盛時代 公文書は漢文で記述し、その公文書を扱う官僚や官吏は公平な試験を経て登用される時代でした。蔭位制度は発足したばかりの時代ですから蔭位の対象となるその子の親は蔭位制度の恩恵による登用ではなく、実力でその官僚や官吏の地位を獲得した人々です。そのような漢文や漢語に教養を持つ人による「漢語と漢字だけで表現された和歌」なのです。漢語や漢字のプロたちによる「漢語と漢字だけで表現された和歌」としますと、使われる漢字文字が、ただ、大和言葉の発声音を指示する音文字と云う記号だけでしょうか。社会人の常識からすれば、表語文字である漢字と云う文字のその力をも利用して歌を表現していると推定するのが自然ではないでしょうか。
 参考として、万葉集時代に中国からもたらされた艶本に遊郭遊びを仙人譚風にアレンジした『遊仙窟』と云うものがあります。当然、全文が漢文です。今日の万葉集の研究からしますと万葉集の歌が詠われた時代 大伴家持が幼妻の大伴坂上大嬢に贈った歌からして、人々はその遊仙窟を自在に読みこなし、相聞歌などの題材に使用しています。その相聞歌の建前からしますと、歌を貰った大伴坂上大嬢でも歌の素材先の遊仙窟は自在に読めたということになります。さらに『源氏物語』の第五二帖「蜻蛉」にもその遊仙窟が引用されています。先に和歌の表記方法でも一字一音万葉仮名歌において大伴旅人と紀貫之との間に違いが無いことを確認しました。つまり、奈良時代から平安時代中期ごろまでは文学において共通の基盤があったのです。ところが、現代の万葉集解釈の基準となる新点が整備された平安時代最末期から鎌倉時代では、その艶本『遊仙窟』は平安時代初期の段階で神仏に祈願し助けを得なければ国文学者でも容易に読解できない書物であったと云う伝説が生まれています。つまり、鎌倉時代の人々では現代で云うポルノ小説『遊仙窟』は読めないものとなっています。およそ、歌を詠う人々は遊仙窟を自在に扱い、それを解釈する人々は遊仙窟ですら解釈に難渋したとします。それに鎌倉時代人は漢文で記述された『房内』が読めたのでしょうか。現在の訓読み万葉集はその遊仙窟ですら難渋した人たちが解釈したものが起点です。さて、そのような解釈に万全な信頼を置きますか。それに対して本編は独自の立場をとります。
 いかがでしょうか、正統な万葉集読解からしますと、ここまでに紹介したことは実に為にするバレ歌としての解釈ですし、胡散臭いこじつけです。弊ブログ「竹取翁と万葉集のお勉強」では、このような説明を「酔論」や「与太話」として自己分類をしています。

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