竹取翁と万葉集のお勉強

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竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その12

2009年04月27日 | 万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する
竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その12

原文 經而織布 日曝之 朝手作尾
訓読 延(は)へて織る布(ぬの) 日晒(ひさら)しの 麻手(あさて)作りを(12)
私訳 麻を植えて織る布を日に晒して麻手を作って

私は、竹取翁の詠う長歌の一節の「延(は)へて織る布(ぬの) 日晒(ひさら)しの 麻手(あさて)作りを」を「麻を植えて織る布を日に晒して麻手を作って」と意訳して、次の藤原宇合が詠う集歌0521の歌を想像しました。

藤原宇合大夫遷任上京時常陸娘子贈謌一首
標訓 藤原宇合大夫の遷任して京に上りし時に、常陸娘子の贈れる歌一首
集歌0521 庭立 麻手苅干 布慕 東女乎 忘賜名
訓読 庭に立つ麻手(あさて)刈り干し布慕う東女(あづまをみな)を忘れたまふな
私訳 庭に植えた麻を刈り取り干して布に仕立てて着ることを慕うように、貴方が刈り取って召した東女をお忘れにならないでください。

 万葉集はその成り立ちから天武天皇系の人々が中心にならざるを得ません。この藤原宇合は天武天皇系の人々からとって敵対する勢力の人ですが、藤原宇合は後期万葉時代を代表する教養人として欠くことが出来ません。
 まず、藤原宇合の概略を説明すると、皇子でない藤原宇合は蔭位の特権があったとしても二十五歳で従五位下に任官するのが相当ですが、彼の場合は二十三歳で遣唐使の副使への任命と同時に正六位下に叙位され、翌月には従五位下へ昇階しています。遣唐使副使への異例の抜擢に伴う任官と昇階です。
 そして、無事に遣唐使副使の大役を果たした直後の養老三年(719)正月に二十六歳で正五位上に昇階し、同年七月に常陸国の守と安房・上総・下総三国を監督する按察使を兼務しています。そのわずか二年後の養老五年には常陸国から帰京し、長屋王の右大臣就任と同時に四階特進し正四位上で式部卿に就任します。若干、二十八歳の出来事です。そして、死没するまで官僚の人権を持つ式部卿の地位を離れることなく、官僚組織を支配します。このように、藤原宇合は非常の秀才です。彼は普段の人が四十・五十歳で就任する地位を二十台後半でこなし、順調に官位を挙げています。
 一方、歌人としては懐風藻に六首、万葉集にも六首、彼の歌が採録されていますが、私の感覚では漢詩の才の方が優れていると思っています。また、藤原宇合の常陸国の守の時代に部下に高橋虫麻呂がいて、東国の歌や民謡の採録が行なわれたのではないかと推定されています。
 このような背景から、藤原宇合は万葉時代では欠くことの出来ない人物と思われます。集歌0521の歌は、藤原宇合が正四位上で式部卿に就任するために都に帰るときに持たれた宴会での歌でしょう。宮中の女官や貴族の女性に対しての鄙の女の比喩に女性の労働が詠われていますが、詠ったと想われる常陸娘子はその働く女達を管理する立場です。常陸娘子は東女で親の身分は下級ですが、地方の国造階級の豪族の娘としての地位と教養があります。
 ここで、参考に万葉集に載る藤原宇合の歌六首を紹介します。

集歌0072 玉藻苅 奥敝波不榜 敷妙乃 枕之邊 忘可祢津藻
訓読 玉藻刈る沖辺(おきへ)は漕がじ敷妙の枕の辺(あたり)忘れかねつも
意訳 玉藻を刈るからとて沖遠くは舟を出すまい。敷妙の枕を交わした人が忘れられないものを。
呆訳 柔毛を別け奥の部屋ですることは疲れ果てもう出来ません。褥を敷いて待っていた美しい枕もとのあの人が忘れられないでしょう。

説明 この歌は藤原宇合が十三歳の時に文武天皇の難波への御幸の夜に、男として夜伽をあてがわれた翌朝の歌とされています。この「敝」の字には破れるの意味だけでなく、疲れ果てるの意味もあります。ただし、歌には女性の匂いはしても閨の姿は見せません。あくまでも、「枕乃辺」で座って待つ女性です。大人が少年の藤原宇合に昨夜の夜伽の女性との首尾を聞いて、からかったときの答えの歌とすると、とんでもない秀才ですし、男として主導権を持って夜伽の女性を扱ったとする自負があります。それで、二十三歳で遣唐使副使なのでしょう。

式部卿藤原宇合卿被使改造難波堵之時作謌一首
標訓 式部卿藤原宇合卿の難波の堵(みやこ)を改め造らしめらえし時に作れる歌一首
集歌0312 昔者社 難波居中跡 所言奚米 今者京引 都備仁鷄里
訓読 昔こそ難波(なには)田舎(ゐなか)と言はれけめ今は京引(みやひ)き都(みやこ)びにけり
私訳 昔でこそ森のような難波は奈良と大宰府の間の田舎と言われていただろうが、今は雅の帝都となりざわめき活気ある都らしくなったことよ。

藤原宇合卿謌一首
集歌1535 我背兒乎 何時曽且今登 待苗尓 於毛也者将見 秋風吹
訓読 我が背子をいつぞ今かと待つなへに面(おも)やは見えむ秋の風吹く
私訳 私の尊敬する貴方が来るのは今か今かと待つだけで、貴方はお出でになるのだろうか。秋の風が吹くだけです。

宇合卿謌三首
集歌1729 暁之 夢所見乍 梶嶋乃 石越浪乃 敷弖志所念
訓読 暁(あかとき)の夢(いめ)に見えつつ梶島(かぢしま)の石(いは)越す波のしきてし思ほゆ
私訳 うつらうつら見る明け方の夢に見えつつ、梶島の巖を越す波が覆い被さるように私の心に貴方の姿が被さっています。

集歌1730 山品之 石田乃小野之 母蘇原 見乍哉公之 山道越良武
訓読 山科(やましな)の石田の小野の柞原(ははそはら)見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ
私訳 山科の石田の小野のクヌギの林を見ながら、貴方は山道を越えるのでしょうか。

集歌1731 山科乃 石田社尓 布靡越者 蓋吾妹尓 直相鴨
訓読 山科の石田の杜(もり)にしま越せばけだし吾妹(わぎも)に直(ただ)に逢はむかも
私訳 山科の石田の杜を袖を靡かせて暫しの間に越えて来れば、たぶんきっと、私の愛しい貴女に直ぐに逢えるでしょう。

一首単独の和歌でも、三首一組の和歌でも、超一流の歌です。人麻呂調の和歌は漢語・漢字が多くの情景を語っています、組の歌は恋人に逢うために訪れる男の距離感と時間が迫ってきて巧みです。万葉集では短歌が六首だけですが、やはり、欠くことの出来ない人物のようです。


 さて、話変わって、万葉集では常陸娘子の他にもう一人、布を日に晒して干した有名な御方がいらっしゃいます。若いときに東国に落ち延びられて壬申の乱を戦い勝った後の持統天皇です。天武八年五月の吉野の盟約の建前で高市皇子は持統天皇の御子と同等な扱いですから、長屋王は持統天皇の建前上の孫になります。

天皇御製謌
集歌0028 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
訓読 春過ぎて夏来(き)るらし白栲の衣(ころも)乾(ほ)したり天の香来山(かくやま)
私訳 もう、寒さ厳しい初春が終わって夏がやってきたようです。白栲の衣を干しているような白一面の天の香具山よ。

 穿って、集歌28の歌を踏まえて集歌521の歌を読むと、天武天皇の直系の孫である長屋王を殺した藤原宇合よ。けっして、天皇家を忘れてはならないぞ。とも取れます。
私は、手前味噌でこちらの意味合いで丹比国人は藤原宇合に関係する集歌521の歌を載せたと思っています。なお、藤原宇合は本来は藤原馬養が正しい表記だったようですが、養老五六年頃に藤原宇合へ表記を変えたようです。

藤原宇合大夫遷任上京時常陸娘子贈謌一首
標訓 藤原宇合大夫の(知造難波宮事の立場から反乱軍の近衛大将として)遷任して(難波から)京に上りし時に、日の立つ娘子の贈れる歌一首
集歌0521 庭立 麻手苅 干布慕 東女乎 忘賜名
訓読 庭に立つ袖(そて)刈り干しし布(ころも)慕(も)ふ東女(あずまをみな)や賜名(しな)を忘(わす)れそ
呆訳 今は宇合の名の馬養よ。御庭に立つ天皇の袖のような人物を殺したな。昔に布を干したような天の香具山を慕われ壬申の乱で東下りをなされた持統天皇から賜った名を忘れてしまったな。

「乎」には凝乎、牢乎や巍乎のような用法があり、状態の「サマ」を示す意味合いも有るようですので、漢語としては「東女乎」は「東女のような状態」の意味合いとしても良いようです。
 当然、この解釈は言葉の上での遊びですが、集歌521の歌の表記方法は「古体歌」に近いので天武天皇から持統天皇初期の時代のものでしょう。まず、藤原宇合の時代ではありません。集歌521の歌には、なにか編集の意図と寓意があることは確かです。

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