竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集について

2017年05月02日 | 初めて万葉集に親しむ
万葉集について

 最初に『万葉集』と云う和歌集について簡単に説明しますと、現在の『万葉集』は伝存する日本最古の和歌集で、上は天皇、皇族、貴族から下は下級役人、防人、遊女などの様々な身分の人、また、大和の中心都市に住む人や各地の地方に住む人など色々な立場の人間が詠んだ歌 約四五〇〇首を二〇巻の編集で載せます。また、扱う時代としては説話・民話の時代となる仁徳天皇の時代から奈良時代中期となる孝謙天皇の時代に及ぶ数百年の歌々を集めたものとなっています。その載せるものは長歌、短歌、旋頭歌、仏足歌に漢文章・漢詩であり、後の『古今和歌集』などの短歌を中心とし僅かに長歌を載せるものとは大きく編集スタイルが異なります。また、編集では大きくは主に出来事や行事などを扱う「雑歌」、人間模様を扱う「相聞」、人の死を扱う「挽歌」に部を分かち、歌を載せます。その万葉集の歌の特徴として、他の勅撰和歌集である『古今和歌集』や『後撰和歌集』などと違い、「相聞」の歌に直接的に性愛を詠うものがあります。他方、編集時期に同時代性を持つとされる『古事記』や『日本書紀』に載る歌、所謂、「記紀歌謡」とは表現形式や使う漢字文字の選択が異なる特徴がありますし、短歌が持つ律詩と云う特徴は楽奏歌詞である「催馬楽」とも異なるものです。およそ、『万葉集』は数百年の歌々を集めた和歌集ではありますが、実際には形式が整っていないが、人々の中で伝わる歌謡や民謡などは編集の過程で律詩である和歌へとその姿を変えられたと推定されます。これもまた詠われた歌をそのままに扱う『古今和歌集』などとは違う特徴です。

例一 「記紀歌謡」 古事記より 歌謡十六と歌謡十七と組歌
歌謡十六
原歌 夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟
読下 やまとの たかさじのを ななゆく をとめとも たれをしまかむ
解釈 倭の 高佐士野を 七行く 媛女ども 誰をし捲かむ
歌謡十七
原歌 賀都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟
読下 かつかつも いやさきだてる えをしまはむ
解釈 かつがつも いや先立てる 兄をし捲かむ

例二 「催馬楽」 我駒
いてあかこま はやくいきこせ まつちやま まつちやま
まつちやま まつらむひとを いきてはや いきてはやみむ
比較参照 万葉集巻十二 集歌三一五四
原歌 乞吾駒 早去欲 亦打山 将待妹乎 去而速見牟
訓読 いで吾(あ)が駒(こま)早く行きこそ真土山(まつちやま)待つらむ妹を行きに速や見む

 万葉集の成立については多くの説があります。およそ、『万葉集』と云う和歌集は『古今和歌集』などとは違い、現代に伝わる二〇巻本万葉集がそのままに成立したのではありません。数次に亘る編集を経て今日の形になったと推定されています。その数次に亘る編集の最初として奈良時代初期の元明天皇の時代に巻一や巻二に載る歌を中心とする奈良遷都以前のものを集めた和歌集(原初万葉集)が編まれたと推定されています。また、この時代に柿本人麻呂歌集と称される私的和歌集が人々の間に伝わっていたようで、原初万葉集にはこの柿本人麻呂歌集の歌などが取り込まれています。その後、元正天皇の時代に奈良遷都以降のものを追加して古集や古歌集などと紹介される第二次原初万葉集の編集が行われたようです。さらに東大寺大仏落成行事を契機に孝謙天皇の時代に右大臣橘諸兄を中心として、それまでに編まれた原初万葉集に宮中歌舞所に残る記録や世に伝わる私的和歌集の歌々を加えて、現在につながる大和文化を集成する二部構成の原万葉集を編んだと思われます。ただし、この時点でもまた現代に伝わる二〇巻本万葉集の姿をしていません。時代が下り平安時代になって平城天皇が原万葉集に加えて世に伝わる奈良時代までに詠われた和歌をさらに採歌しましたが、薬子の変と云う事変による時間不足のためか和歌集としての編集までには至っていません。これが新撰万葉集で指摘する平城天皇の綜緝万葉集です。次の嵯峨天皇の時代にその平城天皇が収集・採歌したものの中から秀歌を選び四巻本の和歌集が編まれました。それが『源氏物語』に示す嵯峨天皇の四巻本万葉集です。さらに、時代が下って、新撰万葉集や古今和歌集の序文からしますと、『古今和歌集』が編まれた紀貫之たちの時代までには現代に伝わる二〇巻本万葉集と同等なものが整備・成立していたと思われます。ここで初めて二〇巻本万葉集の登場です。『万葉集』と云う場合、現代に伝わる二〇巻本万葉集を差しますが、歴史ではこのような数次の編集の歴史を経て編まれた和歌集と云うことになります。
 補足として万葉集に載る歌が平安時代初期に成立した『伊勢物語』や『古今和歌集』などに採歌、または本歌取技法で紹介されています。さらに新撰万葉集の序や古今和歌集の歌番九九七の詞書などからしますと、清和天皇の貞観年間以前には和歌人たちにとって万葉集は知るべき教養となっています。貞観年間は平城天皇の綜緝万葉集や嵯峨天皇の四巻本万葉集の時代から約三十年ですから、元明天皇の原初万葉集から始まる元正天皇、孝謙天皇、平城天皇、嵯峨天皇への流れは清和天皇へと確かに繋がっていたと思われます。なお、歴史資料からするとこのような編集史の解釈になりますが、この編集史の解釈は一般的なものではありません。標準では奈良時代末期 大伴家持による万葉集編集説を採用しますから、奈良時代末期までに万葉集は成立したとします。ただ、桓武天皇時代の政変で大伴家持は死後ですが除籍・家産没収の罪に問われたため、万葉集はこの処罰により一度は闇に消えたとします。標準的なこのような解釈を行う場合、四巻本万葉集、伊勢物語、新撰万葉集、古今和歌集に載る万葉集をどのように解釈するかは難しいものがあります。

 ここで、本編のテーマとします万葉集入門の解説に先だって重要なことですが、多くの人に忘れられていることを紹介します。それは古典の原典資料からしますと本来の『万葉集』や『古今和歌集』の和歌は現代人に馴染みのある次に示すような「漢字交じり平仮名」と云う表記スタイルで表現されていないことです。私たちに馴染みのある現代の古典文学の表記スタイルは、翻訳者や訓註者が生きていたその時代に使われる標準的な日本語へ原典から翻訳し、その時代の読者が読み易いようにと表記スタイルに工夫を凝らしたものなのです。和歌道では鎌倉時代初期となる藤原定家の翻訳本を大変に尊重しますから、多くの訓註本は定家スタイルに倣い鎌倉時代初期に流行した表記スタイルを踏襲します。
およそ、現代に紹介される古典和歌は、言葉遣いは平安時代末期から鎌倉時代初期のものを採用し、漢字と平仮名による表記スタイルは現代のものを使い紹介します。

漢字交じり平仮名表記の例
万葉集 歌番号四
霊(たま)きはる 宇智(うち)の大野(おおの)に 馬(むま)並(な)めて 朝(あさ)踏(ふ)ますらむ その草(くさ)深野(ふかの)

古今和歌集 歌番号一
年のうちに 春は来(き)にけり 一年(ひととせ)を 去年(こぞ)とや言(い)はむ 今年(ことし)とや言はむ

 現代での表記スタイルを最初に紹介しましたが、本来の万葉集の和歌の表記スタイルは、現代に通じる、時代としては平安最末期以降、和歌区分では新古今和歌集以降に一般的となる「漢字交じり平仮名」と云うもので記述されたものではありません。万葉集の歌とは次に示す「原歌」と名付けたもので示す表記スタイルが本来の姿なのです。

集歌一四二一
原歌 春山之開乃乎為黒尓春菜採妹之白紐見九四与四門
読下 はるやましさきのをしくにはるなつむいもししらひもみらくしよしも
訓読 春山し開(さ)きの愛(を)しくに春菜摘む妹し白紐見らくし良しも

 万葉集の原歌では、例えば春(はる)、山(やま)や妹(いも)のような漢語(訓字)に分類される言葉と之(し)、乃(の)や黒(を)のような音を表す音仮名文字(万葉仮名)だけで表現されたものです。先に示した集歌一四二一の原歌では、歌に使われる春、山、開、菜、採、妹、白、紐、見の漢字は漢語(訓字)と分類されるもので漢字自体が表語文字として言葉の意味を表します。一方、それ以外の漢字は日本語として発音する時の音を借りた音仮名文字(万葉仮名)であって、原則としてその漢字(音字)は言葉として意味を持たないものとして扱います。例として、末句「見九四与四門」の「九」は訓字では数字や物の数を意味しますが、ここでは「く」と云う日本語の発音でしかありません。同様に「四」、「与」、「門」は「し」、「よ」、「も」の発音だけです。作歌者はその漢字に漢字が持つ表語文字としての言葉の意味を表す力を持たせていません。つまり、「門」と云う漢字に建物などの入口を意味する「門(もん)」と云う意味を持たせていなくて、ただ、日本語発音の「も」と云うものを期待しているだけです。
 紹介しましたように万葉集の和歌は現代人が馴染んでいる漢字交じり平仮名表記での「春山し 咲きの愛(を)しくに 春菜摘む 妹し白紐 見らくし良しも」と云うような表記スタイルで創作されてはいません。従いまして、万葉集の和歌は本来の表記スタイルである「春山之開乃乎為黒尓春菜採妹之白紐見九四与四門」と云う漢字だけで表記されたものから読解し、鑑賞する必要があります。つまり、本編で紹介します原歌からの読解とは、漢字だけで表記された歌を現代人に馴染みある漢字交じり平仮名歌へと読解・翻訳する作業を意味します。この読解と云う作業を行う場面において、紹介した万葉集歌の原典の和歌表現を本編では「漢語と万葉仮名だけで表記された」と称します。
 その万葉集歌の表記スタイルを紹介しますと、万葉集に載る原歌は次のようなさまざまな姿をしています。その異なる表記スタイルは大きく四つの表記スタイルに集約され、この異なる表記スタイルは近世では江戸時代 賀茂真淵によって報告され、ついで明治期には関谷真可禰の『人麿考』、さらに昭和期の阿蘇瑞枝の『柿本人麻呂論考』によって世に知られるようになりました。特に阿蘇氏の『柿本人麻呂論考』は近代の万葉集学会の中で大きな反響があった出版で、この出版により万葉集での四つの異なる表記スタイルの存在が広く認知されるようになりました。なお、本編では詩体歌・非詩体歌などと称していますが、阿蘇氏はこれを略体歌・非略体歌と区分しています。名称は違いますが、示すものは同じです。

詩体歌
集歌一八九三 (人麻呂歌集 最初期:天智天皇期)
原歌 出見 向岡 本繁 開在花 不成不在
訓読 出(い)でて見る向(むこ)つし岡し本(もと)繁(しげ)し開(さ)きたる花し成らずは在らじ

非詩体歌
集歌一二九六 (人麻呂歌集 初期:天武天皇期)
原歌 今造 斑衣服 面就 吾尓所念 未服友
訓読 今造る斑(まだら)し衣服(ころも)面(おも)し就(つ)く吾(われ)にそ念(おも)ゆ未だ服(き)ずとも

常体歌
集歌二〇九 (人麻呂歌 後期:文武天皇期)
原歌 黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之 使乎見者 相日所念
訓読 黄葉(もみちは)し落(ち)り去(ゆ)くなへに玉梓(たまずさ)し使(つかひ)を見れば逢し日そ念(も)ゆ

一字一音万葉仮名歌
集歌七九八 (山上憶良:天平元年)
原歌 伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓
読下 いもかみし あふちのはなは ちりぬへし わかなくなみた いまだひなくに
訓読 妹が見し楝の花は落りぬべし吾が泣く涙未だ干なくに

 ここで、万葉集にある程度、詳しい人は「万葉集難訓歌」という言葉を聞いたことがあると思います。この難訓歌と云うものは現在まで万葉集の歌で共通認識を持つ漢字交じり平仮名表記、いわゆる「定訓歌」と称される訓読みされた歌が得られていないものを指します。なぜ、この話をここで出したかと云いますと、阿蘇氏の『柿本人麻呂論考』が出版されるまで万葉集の難訓歌の研究では、なぜか、万葉集が持つこの四つの異なる表記スタイルを考慮・認識していなかったと云う事実があるからなのです。つまり、万葉集を原歌から鑑賞するとき原歌表記が大きく異なる四つのグループが存在することは明白なのですが、研究者は難訓歌読解として原歌表記を研究しているはずなのにその表記の違いを知らなかったと云うことです。
 驚かれるでしょうが、平成時代に近づくまで万葉集の研究者は鎌倉時代からの伝統である「定訓歌」を疑似原歌テキストとして来ましたので、阿蘇氏が改めて指摘するまで万葉集の本来の原歌表記と云うものは視界の外にあったのです。つまり、万葉集の評釈や読解として紹介されるものは、実際には平安時代最末期から鎌倉時代初期に当時の貴族階級の人のために翻訳された古典的な「漢字交じり平仮名表記」の万葉集歌を、改めて近代日本語へと翻訳したものです。およそ、古典文学研究者にとって非常に都合の悪い事実ですが、万葉集の原歌表記に大きく異なる四つのグループが存在することを認知しないで、万葉集の原歌研究である難訓歌読解と云うものを行っていたのです。
 紹介しましたように本編では万葉集の編集の歴史や原歌表記スタイルの相違を認識して、万葉集の本来の原歌表記から鑑賞する態度を取ります。これは伝統や一般的な鑑賞方法とは違う独特なものとなります。

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