竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 柿本比等の恋

2014年01月05日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
柿本比等の恋

 白鳳十九年(666)五月、柿本比等は一人の乙女に恋をした。
 出会いは倭の布留の里の石上神社の祭礼である。相手の名は忍坂巨勢媛。倭の忍坂の里の娘で、父親は巨勢臣比等である。その巨勢臣比等は葛城大王の御史大夫を務め、政府首班の一人である。
 斉明天皇の飛鳥岡本宮の時代、その巨勢臣比等が己の勤める飛鳥岡本宮から目と鼻の先の忍坂の里に通い、忍坂中媛に子を産ませた。その忍坂巨勢媛が、白鳳十九年、十三歳となり、一族の祭礼で霊振り神事の巫女として出た。柿本比等はその娘の姿に一目惚れした。
 倭山辺では貴族階級である柿本比等は十五歳で袴着の儀礼をし、男になった。その後、結構の数の里娘と肌を交わした。しかし、その女子の中に、後、歌聖柿本朝臣人麻呂と呼ばれる柿本比等が持つ、大和歌への感性やその大和歌を漢字・漢語で表記する面白さに興味を示す女子はいなかった。柿本比等は若い性欲よりも己の感性に共感してくれる聡い娘に飢えていた。
 柿本比等は、その求めていた聡さを霊振り神事の巫女をする娘に見た。幼いが、ふくよかな乙女と云うより美男子に近い顔立ちをした、その姿が、いかにも賢げに見える。それに年上の大きな娘女達が舞う霊振りの舞に負けまいとしてする、その娘の舞い姿に強い負けん気と感の良さを感じた。
 確かに顔立ちはある種の美人だが、それよりも姿と身振りが醸し出す、娘の雰囲気に一目ぼれした。比等は、その忍坂巨勢媛に歌を贈った。

玉坂吾見人何有依以亦一目見
訓読 たまさかし吾(わ)が見し人し如何(いか)ならむ縁(よし)しもちてかまた一目見む
私訳 美しい坂で偶然に私が見知った人を、どのような縁があって、もう一度逢うことができるでしょうか

 当然、十三歳の忍坂巨勢媛に比等の歌が判るはずもない。贈る和歌は、その母親、忍坂中媛に託したに等しい。その忍坂中媛から比等に色好い返事が来た。
「娘はまだ稚い。育つまでこの歌を預かるが、それでも良いか」
 己の感性に共感してくれる聡い娘に飢える柿本比等は聞いた、
「育つまで、巨勢媛に手は決して出さぬ。しかし、この吾が媛に大和歌とそれを記述する大和の真仮名を教えても良いか」
 柿本比等と母親、忍坂中媛との間で談合はなった。ある種、許嫁のような形で柿本比等は忍坂巨勢媛の家庭教師をする。

 その柿本比等と母親、忍坂中媛との談合の裏で、別な談合があった。
 柿本比等の恋心を娘の母親である忍坂中媛は通いの背の君で、娘の父親である巨勢臣比等に話した。
 当時、巨勢臣は葛城山に銅や水銀の鉱山を持っていた。ただ、腕の良い鍛冶集団を持っていない。いわゆる、宝の持ち腐れである。一方、倭の鍛冶集団である柿本一族は、穴師から三笠での一族の縄張りである山々で鉱石の枯渇に苦しんでいた。そして、柿本の者どもは葛城山に有望な銅鉱山があるのを知っている。
 巨勢臣比等と柿本臣鮪とは、一族の利害関係から別の談合を決めた。本人同士の好き嫌いに関わらず忍坂巨勢媛と柿本比等とを婚姻させる。巨勢臣一族は、本来は忍坂部の里娘である忍坂巨勢媛を巨勢の里の娘として裳着を行い、世に忍坂巨勢媛を巨勢の里の娘と認知させる。そして、巨勢臣一族の子、忍坂巨勢媛として柿本臣比等の妻問いを迎える。つまり、巨勢臣と柿本臣とは縁者となり、柿本臣は巨勢臣の縁者として共に葛城の山を開く。
 よそ者の里への立ち入りを嫌う「穢れと祓い」と云う大和の習いでは、山を必要とする鍛冶人にとって、こうした縁者関係を結ぶことは重要な事柄であった。

 柿本比等と忍坂巨勢媛はこの裏談合を知らない。柿本比等は忍坂巨勢媛の聡さに感心し、また、媛が柿本比等の歌の世界に共感することに喜びを感じた。この繋がりで比等は純粋に巨勢媛に恋をした。

柿本比等より、
我故所云妹高山之峯朝霧過兼鴨
訓読 我がゆゑそ云はれし妹し高山(たかやま)し峯(みね)し朝霧過ぎしけむかも
私訳 私がそうしたために色々噂された貴女は高い山の峰の朝霧が晴れるように噂はもう通り過ぎたでしょうか

巨勢媛より、
垣廬鳴人雖云狛錦紐解開公無
訓読 垣(かき)廬(ほ)鳴く人し云へども高麗錦(こまにしき)紐(ひも)解(と)き開(あ)けし君ならなくに
私訳 薦で囲った粗末な小屋を風がざわめき鳴らすように人はあれこれと云いますが、その粗末な私の家で、まだ、美しい高麗の錦の紐を解いて私の床で衣を脱いだ貴方ではないのに

 白鳳二十年(667)春、忍坂巨勢媛は、遷都に伴い、母、忍坂中媛に連れられ大津宮へと遷って行った。
 同じ年、柿本比等は二十一歳となり、正式に高市皇子の大舎人の身分で出仕することになった。そして、大舎人の身分となった柿本比等は、人々に柿本臣人麻呂と呼ばれるようになった。この物語では、この後、二人を柿本人麻呂と巨勢媛と呼ぶことにする。
 柿本人麻呂は高市皇子の名代として近江栗東に製鉄の鍛冶の里を造っているが、まだ、半ばである。そのため、本拠は倭、穴師の柿本鍛冶屋敷にある。この事情で、二人は恋を詠う和歌を使者に託す形で遠距離恋愛をする。

人麻呂より、
遠山霞被益遐妹目不見吾戀
訓読 遠山(とほやま)し霞たなびきいや遠(とほ)し妹し目見ねば吾(われ)恋ひにけり
私訳 遠くの山に霞が棚引き、もっと遠いと思う、貴女と直接に逢えないと。私は貴女に恋をしているのです。

巨勢媛より、
君家尓吾住坂乃家道乎毛吾者不忘命不死者
訓読 君し家(へ)に吾が住(す)む坂の家道(いへぢ)をも吾は忘れじ命死なずは
私訳 貴方の家に私が住む。私が住んでいた忍坂の家への道も故郷も、私は忘れることはありません。生きている限りは。

 中元元年(668)初夏、十五歳で忍坂巨勢媛は初潮を見た。巨勢媛本人もそうだが、周囲の皆が待ち焦がれた媛の裳着が執り行われた。裳着が終わり、成女となった巨勢媛は人麻呂に妻問われることが可能となった。
 柿本人麻呂もまた、このころには栗東の鍛冶の里の建設を終え、倭から栗東へと移ってきていた。同時に、人麻呂は高市皇子の大舎人であり、倭の柿本臣の大津宮での代表として、大津宮にも小さな屋敷を持った。巨勢媛への妻問いは、この大津宮の柿本屋敷からする。
 巨勢媛が成女となったすぐ後、母親、忍坂中媛は籠り間や夜床の調度品など、妻問いの用意を整えた。その用意が成った忍坂中媛から人麻呂の許に使者が入った。その使者は妻問いの整いを告げ、巨勢媛から人麻呂への和歌を渡した。

 倭の習いで、身分ある者達の妻問いは、男が、その日、思い付いたからと云って、いきなり女の許に通うのではない。
 最初に、男は評判や周囲の勧めで娘の母親(や乳母)と縁を持つ。そして、娘の母親が納得すると、娘の家は妻問いの用意をする。妻問いの用意はすべて妻問われる女側がする。身を交わす場所である籠り間(塗り籠)、夜床となる敷き栲、男の着る白栲の夜着、木製の枕、男が使う食器など、これらをすべて誂える。これらの用意が出来た後、妻問う男の許に使者が立つ。男は妻問う日に娘に物忌み(=月の障り)がないかなどを確かめ、その日を告げる。
 当日の昼下がり、男から娘の許に妻問いの先駆けが走る。娘の家では、その先駆けの到来に合わせ、酒肴や付き人の夜食などを用意し、娘は夜化粧や夜着への着替えなど身を整えて男の訪れを待つ。男は娘の屋敷に着くと小者を屋敷に入れ、屋敷の者の案内を促す。そして、屋敷の案内で男は籠り間へと入っていくことになる。
 このように妻問いには面倒な仕儀・次第がある。
 ただ、盛り塩の説明などからすると、平安時代になると、数度、通った男がよその女子の許に行くのを、道中、途中に屋敷を構える女子がその男の牛車を牛の好物の塩などで引き止め、男との依りを取り戻すようなことがあったらしい。

 柿本人麻呂はその使者に妻問う日を告げ、巨勢媛への和歌を託した。

巨勢媛より、
故無吾裏紐令解人莫知及正逢
訓読 故(ゆゑ)も無し吾(あ)が下紐を解(と)けしめて人にな知らせ直(ただ)し逢ふまでに
私訳 私は貴方に私の敷栲で逢ってもいないのに私の下着の紐を貴方は夢の中で解かさせて、そんなことを人には気づかせないで。本当に逢って紐を解くまでは。

人麻呂より、
新治今作路清聞鴨妹於事矣
訓読 新墾(にひはり)し今作る路(みち)さやかにも聞きてけるかも妹し上(へ)しことを
私訳 新しく切り開いた今作った道が清らかであるように、はっきりと聞きました。貴女の身が、新しく路を開くように、その時を迎え女性になったという身の上の出来事を。

 こうして、柿本人麻呂は巨勢臣比等の娘である巨勢媛の許に妻問うようになった。
 初めて妻問った日、人麻呂は巨勢媛の本名、若芽を知った。その巨勢媛もまた、人麻呂の本名、猿(良字では佐留)を知った。
 身分ある者たちの本名(もとな)は忌名の風習で親と血を分けた兄弟しか知らない。古代では人に隠している、その本名を恋人に明かすことが、一番の夫婦の契りであり、愛の独占であった。
 人麻呂と巨勢媛は互いに本名を知り、夫婦の契りと愛の独占を確かめた。その初めての妻問いで肌を合わせ、その温もりを知った人麻呂は新妻巨勢媛に後朝の歌を贈った。

人麻呂より、
淡海々沈白玉不知従戀者今益
訓読 淡海(あふみ)し海(み)沈(しづ)く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそ益(まさ)れ
私訳 淡海の海の底深くにあるような白玉のような白肌の貴女を知らないで恋をしていたときより、それを知った今はもっと恋しくなります。

 人麻呂は習いに従い三夜続けて通い、四日目の朝、人麻呂と巨勢媛は、母親、忍坂中媛が用意した餅を食べた。女の里の食物を共に食べると云う産土儀礼を終えることで人麻呂は巨勢の一員と見做され、ここに巨勢臣と柿本臣とは表だった縁者の関係が出来た。
 およそ二年待たされた巨勢媛との婚姻がなった、今、人麻呂は媛の肌が恋しく、度々、通う。
通う人麻呂は、昔、里の女が教えてくれた技と経験ある余裕で媛に女の喜びを教えて行く。その媛は、日々、人麻呂の愛撫に変わって行く己の体の不思議に驚き、戸惑った。そのようなある日、媛は夜の営みの最中、身は宙を舞い、気は飛び、どこに居て、何をしているのかも判らなくなった。その身は敷栲の布を己の湿りで染め上げるほど潤い、ただ、夢中に上に乗る人麻呂の体にしがみついた。
 その人麻呂が巨勢媛の許へと後朝の歌を送って来た。その歌で媛は昨夜の出来事を思い出した。夜声を聞かせた己の身に恥ずかしさを感じるが、同時にこの身をそのようにした人麻呂の愛撫も思い出す。また、早く再び抱かれたいと願った。

人麻呂より、
玉響昨夕見物今朝可戀物
訓読 玉(たま)響(とよ)む昨日(きのふ)し夕(ゆふべ)見しものを今日(けふ)し朝(あした)し恋ふべきものを
私訳 美しい玉のような響きの声。昨日の夜に見せた貴女の姿は、今日の朝、私が恋い慕うべき姿です。

巨勢媛の返し
我背子之朝明形吉不見今日間戀暮鴨
訓読 我が背子し朝明(あさけ)し姿よく見ずて今日し間(あひだ)し恋ひ暮らすかも
私訳 私の貴方がまだ薄暗い朝明けの中を帰っていく姿がはっきりと見えなくて、おぼつかなく、今日の一日を恋しく暮らすのでしょうか。

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