竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 番外雑話 墨子と聖徳太子と11月22日

2020年10月10日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 番外雑話 墨子と聖徳太子と11月22日

 始めに、11月22日は大工さんの日という記念日で、その記念日の行事の中で大工さんの重要な道具や技術を伝えた人として聖徳太子を讃えるそうです。ただ、一般に紹介するような聖徳太子が大工道具の尺金を世に紹介したとするのは誤解釈です。ここで、聖徳太子の場合の大工とは大匠(おおたくみ)のことで、本来は古代の土木建築事業の総監督を意味します。同じ漢字ですが現代の建築職人さんに区分される大工さんを意味しません。強いて言えば、棟梁です。つまり、聖徳太子が大工の神と讃えられるのは古代の建築土木事業の総監督を養成する師匠だったからなのです。今回は、この話題から古代日本社会と墨子の関係について与太話を行います。

 最初に寄り道します。
 中国では「墨学學派與道教、前者為學術流派、後者為宗教、二者之性質當是南轅北轍」と評論する言葉があります。墨学は学術の側面を、他方、道教は宗教の側面を持ち、それは人力車の引き棒と車輪の関係と同じと評論します。「道」と云うものの見方により墨学であり、道教です。
 話が飛びますが、日本には修験道という独自の宗教形態があり、それは日本古来の山岳信仰を基底に置き、それに真言密教と道教が習合したもので、平安時代の聖宝によって体系化されたと解説します。その修験道の先駆を代表する人として飛鳥から奈良時代の役行者がおり、その彼には百済経由の道教思想と金剛蔵菩薩に代表される華厳系の密教との関係が想定されるとも指摘されます。加えて、その時代より少し前の斉明天皇に関係する多武峰の両槻宮は道観の指摘がありますから、従来の古代史研究者は古代日本に道教や墨子の影はないとなっていますが、実際は隋・唐もそうであったように相当な影響があったと考えられます。唐では道教は国教ですから遣隋使や遣唐使の一行、また、渡来知識人が道教の概要を知らない可能性は全くにありません。現代において米国に文化・科学・行政を学びにそれぞれに派遣された留学生が、その全員が全くにキリスト教についてその概要を知らずに帰国する可能性はありません。少なくとも指定された研究者はその学域においてキリスト教の概要と影響を含めて研究し、その成果を持ち帰ったはずです。そのように推定するのが社会人と思いますが、昭和期までの古典研究者は、どうもそのようには考えなかったようです。なお、当然ですが、近代自由主義を研究する時にキリスト教の影響を考慮しない研究が成り立たないと同じように、飛鳥時代から平安時代中期までの研究をするときに中国の隋から唐時代の社会情勢を反映して道教とそれに影響を与えた墨学を儒学や仏学と同様に基礎知識として知る必要があります。一方、日本では一般の古代史に興味を持つ人向けの道教や墨学のテキストがほとんどありませんから、興味を持つ人が自力で資料を整備する必要がある分、大変です。

 さて、少し先の期日になりますが、最初に紹介しましたように11月22日は大工さんの日だそうで、その大工さんの重要道具を日本へと導入した貢献者に聖徳太子に置くそうです。大工仕事の重要な製作図を行うときの最重要で基礎となる技術に規矩術(きくじゅつ)というものがあります。木材などを加工する時に直線と直角を得て、それを材木に印し、それを基準に加工するという基礎中の基礎の製作図技術です。土台も同じように直線と直角に基準高さを得て整えます。この建築土木の基礎的技術を規矩術と云います。
 この規矩術は大工の数学のようなもので、古語成語の規矩準縄(きくじゅんじょう)というものを由来とします。成語の「規」とは「円を描く」、「矩」とは「直角」、「準」とは「基準、水平」、「縄」とは「直線」ということを意味し、家造りでの最も基本となるキーワードです。更に大工道具の中でもモノを計る道具を指し、「規=コンパス」、「矩=差し金」、「準=水盛り」、「縄=墨縄」です。墨子の『法儀篇』では「百工、為方以矩、為圓以規、直衡以、水以繩、正以縣。無巧工不巧工、皆以此五者為法。(百工は矩(く)を以(もち)い方(ほう)を為(つく)り、規(き)を以(もち)い圓(えん)を為(つく)り、直(ちょく)は衡(さし)を以(もち)い、水(すい)は繩(じょう)を以(もち)い、正(せい)は縣(けん)を以(もち)う。巧工と巧工あらずと無く、皆此の五者を以って法(のり)と為す。)」と紹介し、材木などの加工・組み立て技術以前の建築の基礎知識を紹介します。
 先に聖徳太子を大工さんの始祖と紹介しましたがその理由は、この規矩準縄の技術と理論を日本の職人さんたちに教え、建築土木や造船を行う上で最重要な測定・測量の技術を持った建築建設技術者となる大匠たちを育成したと伝わるからです。
 その話題とします測定・測量の技術は本質的に数学の分野であり、そこには数学として点、線、面、立体等の概念と定義が必要となります。師匠弟子間の徒弟制度による技能伝承ではなく、広い範囲での技術の普及や大規模な構造物の建築には統一された技術・理論が必要となり、それには科学としての理論形成が必要です。例えば、飛鳥時代を代表する超巨大建築物となる大官大寺の中心伽藍の敷地の大きさは144m x 197m、建物では金堂の規模は45m x 21mであり、九重塔は塔の初層一辺長15mで高さ100mと発掘された基礎構造から推定されています。そこには正確にモノを計測し、計画通りに整える必要があります。それを実行させるのが規矩準縄で示す測定の理論と技術なのです。聖徳太子の大工の神様とは尺金の道具のようなレベルの話ではないのです。当時の最先端の科学技術の話なのです。
 この分野での科学としての理論形成を東アジア文化圏で最初に行ったのが墨学集団で、その墨子の経篇で概念の定義や理論の展開を行っています。経篇では基礎となる幾何学の基本概念について厳格に定義を行います。例として、空間を“同じではない全ての場所”と定義し、また、東、西、南、北、中という方向概念を提案します。さらに、低い所を基準として高い所の高さを量として測定することを提案します。相対的なものではなく量を計る為に計測の概念を定め、計測での基準を定義します。経篇からすると墨学は既に、東西(縦)、南北(経)、高低という空間の三つの概念を持っていたことが推定出来ます。つまり、墨学は点、線、面、立体など一連の幾何学概念を考え出しており、墨子の経篇においてはそれらを、“端”、“尺”、“区”、“穴”と定義としての名称を与えます。
 墨子の経篇では、その空間概念を基準にその他のいくつかの重要な概念を示します。例えば、“平”は二つの高さが同じものを意味し(“同高也”)、“直”は三点が同一線上にあることを意味し(“参也”)、“円”は一つの中心から等距離にある線で構成されるもの(“一中同長也”)、“方”は辺と角が四つそれぞれ等しいもの(“方柱隅四讙也”)。これらの定義は、作図を行うときの操作を説明をすることでも表現できます。例えば、正方形は“矩(=直角定規)”で描いて線が交わる(“方、矩之交也”)、円は“規(コンパス)”で描いて線が交わる(“圓、規写交也”)などです。なお、墨子で使う漢字は隋から前漢初期での言葉ですので、近現代での漢字の意味と相違する場面があります。例として、「参」とは“参、承也、覲也。三相参爲参”ですから、経上篇で「直、参也」と示す定義は「直線とは三点が同一線上にある」と解釈することになります。
 ここで幾何学からの重要なことは、コンパスで円を描くことが出来、同時に直線と直角の概念を持つと、コンパスと直線を用いて直角を得ることが出来ます。また、円と直線の組み合わせから相似形を描くことも可能となり、基準の図形に対して縮尺・拡大を得ることもできます。大官大寺の超巨大な建築物も最初にスケールダウンした模型を作り、その模型部材を計測し均等にすべての部材を拡大すると、予定する超巨大建築物が得られます。ただ、古代では構造力学や材料工学はまだありませんから、構造体や部材の強度、また、そこから定まる部材断面や継ぎ手方法などは経験工学の扱いです。そこは経験と経験の延長線に立つ感性の世界です。世に云う巧工と不巧工との差はここにあります。
 墨子の経篇では規矩準縄の技術の基盤となる幾何学の基本概念と定義付けを行い、用法も示します。さらに墨学の集団は経篇で示す理論を用い防護陣地や城郭の構築で実践・実用を示します。それを応用すると古代にあっても超巨大な建築物が建設できるのです。つまり、墨子の経篇は建築土木の定義書であり、理論書ですが、同時に実学書でもあるのです。古代において、このような建築技術に係る理論・実学書は墨子以外にはありませんから、聖徳太子が規矩準縄の理論知識を持っていたとしますと墨学に学んでいた可能性が非常に高くなります。確認しますが、聖徳太子は現場監督ではありませんから、規矩準縄の技術に加えて経験工学が必要な「巧工不巧工」の世界とは違う立場の人です。そこを誤解しないようにお願いします。

 ここで、聖徳太子の話題に戻りますと、有名な憲法十七条の内、次に示す第八条は墨子の非楽上編に載る言葉に由来すると考えられていますから、時代と社会状況からすると聖徳太子は秦朝始皇帝の末裔を自称する秦一族などから墨子を学んでいた可能性があります。ただ、従来の学説では「日本には墨学は到来していない」を前提に議論をしますから、専門家になるほどこれを拘束され荘子、孟子などに根拠を求めるようになります。その分、若い真面目な研究者には辛い慣習や古風です。

日本書紀;推古天皇十二年の夏四月丙寅朔戊辰の条より抜粋。
原文 八曰、群卿百寮、早朝晏退。公事靡監、終日難盡。是以、遲朝不逮于急、早退必事不盡。
解釈 八に曰く、群卿(ぐんけい)百寮(ひゃくりょう)、早く朝(ちょう)し晏(おそ)く退(さが)れ。公事(くじ)は監(うしお)に靡(なび)きて、終日(ひねもす)にても尽(つく)しがたし。是を以って、遅く朝(ちょう)すれば急に逮(およ)ばず、早く退(さが)れば必ず事(こと)尽さず。

引用されたと推定される墨子の文章
巻八 非楽上編より抜粋
1. 王公大人蚤朝晏退、聴獄治政。此其分事也。
王公(おうこう)大人(たいじん)は蚤(はや)く朝(ちょう)し晏(おそ)く退(しりぞ)き、獄(ごく)を聴き政を治む。此れ其の分事なり。
2. 今唯母在乎王公大人説楽而聴之、則必不能蚤早朝晏退聴獄治政。
今唯母(ただ)王公(おうこう)大人(たいじん)に在りて楽を説(よろこ)びて之を聴かば、則ち必ずや蚤(はや)く朝(ちょう)し晏(おそ)く退(しりぞ)き獄を聴き政を治めること能(あた)わざらむ。

 ここで少し墨子に対し車の轅と轍の関係に等しいとされる道教について飛鳥・奈良時代に遊びますと、「神道」と云う言葉が重要な問題を提起します。もし、この「神道」と云う漢字文字を中国語となる漢語の言葉としますと、三世紀以後の中国の典籍では、道家の思想や神仙の術ならびにそれに依拠する種々の呪術、すなわち、道教ないし道教的なものを総括して「神道」の名で呼ぶのが一般的であったと評論しますから、つまり、「漢語」の「神道」とは現代での道教を指します。この問題を受けて、日本書紀が編纂された時代、そこで使われる「神道」なる言葉は「和語」の言葉か、「漢語」の言葉かを問題にする研究者がいます。

日本書紀に「神道」の言葉が使われる箇所
 用明天皇即位前紀;天皇信仏法尊神道
 孝徳天皇即位前紀;尊仏法、軽神道。
 大化三年四月壬午;惟神者、謂随神道。亦謂自有神道也。

 その研究者は次の延喜式 祝詞「東文忌寸部献横刀時呪の祝詞(東文祝詞)」を紹介し、そこで朝廷からの祝詞奏上を受ける皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司命司籍、東王父、西王母、五方五帝、四時四気は道教の神々であることを指摘します。なぜ、朝廷が国家を挙げて行う六月と十二月の年二回の祓い神事で道教の神々に国土からの邪気退散をお願いするのかです。「神道」が和語であれば、日本古来の神々にお願いするのが本来ではないかの主張です。ここから日本書紀の原型が創られつつあった飛鳥時代の「神道」は「漢語」のものではないかと確認します。つまり、日本書紀の「神道」とは中国語であり、道教ではなかったとの指摘です。

延喜式 東文忌寸部献横刀時呪の祝詞(東文祝詞)
謹請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司命司籍、左は東王父、右は西王母、五方の五帝、四時の四気、捧ぐるに緑人をもちてし、禍災を除かむことを請ふ。捧ぐるに金刀をもちてし、帝柞を延べむことを請ふ。呪に曰く、東は扶桑に至り、西は虞淵に至り、南は炎光に至り、北は弱水に至る、千の城百の闘、精治万歳、万歳万歳。

 道教についてその歴史的なあり方からいえば、成立道教(又は教団道教)と民間道教の二つに分れます。成立道教は教団や組織の体裁を備えているもので、寺院に相当する道観と云う建物を布教や修道の中心にして、そこを拠点とする僧尼に当る道士や女道士によって維持されているものです。いわゆる教団道教です。一方、民間道教は在野の個々人の信心に従い教団や組織の体裁を持ちません。その分、民間道教は歴史の表舞台には現れません。逆に教団道教は斉明天皇の多武峰の両槻宮は道観と指摘があるように、斉明天皇は道教の信者ではないかなどと物的証拠での議論が容易になります。
 現在の神道を確認すると、延喜式 祝詞「東文祝詞」などが示すものが神道の古風の姿とするならば、飛鳥時代から奈良時代にかけて土着原始宗教が道教と習合したのではないかと指摘できます。その時、歴代の朝廷指導者がそれを公式に容認するかです。もし、平安時代以降の神道なるものが道教を理論基盤に置き飛鳥時代から奈良時代に古来の土着原始宗教を取り込んで、儒学や仏学に相当する古代宗教たる様式・形式が整ったものして成り立っているとすると、日本神話の根底が崩れます。古事記や日本書紀が示す国家神道は飛鳥時代以降の非常に若い宗教となり、日本神話に示す久遠の過去の物語にはなり得ません。ほんの200年程度の話になります。為政者の立場からすれば、国家神道の基盤となるような道教は日本に存在しなかった。和語の神道は久遠の過去から存在した。だから、天皇とそれを補佐する人々の祖は天に命じられ天降りしてこの日本を統治すると扱うはずです。それを証明するように、国学を研究する人たちが信心するように聖徳太子の憲法十七条に道教と表裏一体と指摘される墨子があってはいけないのです。
 墨子があるとすれば「以和為貴。無忤為宗」は「和」を「同」に置き換えれば唱える本質は尚同篇の理論そのままですし、「承詔必謹。君則天之。臣則地之」もまた尚賢篇の理論そのままです。ちなみに聖徳太子の時代の漢字解釈は、「和;順也、諧也。同;共也、又和也。」となっています。つまり、和と同は同義語です。このように墨子があると認めると憲法十七条の条文は非常に判り易いものになりますし、それ以降の朝廷が取る儒学と相反する薄葬政策との整合性も取れます。しかしながら、墨子は無かったとする古代史専門家の立場からすれば、和語の神道は久遠の過去から存在しますし、聖徳太子に墨子はありません。
 一方、聖徳太子の憲法十七条に道教と表裏一体と指摘される墨子があるなら、聖徳太子(又はブレーン)が墨子の書籍を読み、それを構成する経篇の内容を理解した上で建築技術の部分を抜き出し、規矩準縄の技術として人々に教えた可能性があります。そこから伝説が生まれますと、聖徳太子は大工さんの祖となり、毎年11月22日にお祭りをする必要とその根拠が明白になります。
 いろいろと述べて来ましたが今回も全くに与太話ですし、トンデモ論です。読み捨ての笑論としてください。

おまけ、その1
 飛鳥奈良時代の道教と神道の習合に関して、ネット上には次のような文があります。そこでは「神」とは神仙思想の神のことを指すとしますから、認識は漢語の「神」であって、和語の「神」ではありません。
 日本書紀の天武紀を見ますと、第四十代天武天皇の和風の諡は、「天淳中原瀛真人」(あまのぬなかはらおきのまひと)といいます。「天淳中原」は沼の中の原ということで、天武天皇が水沼を開拓して飛鳥浄御原宮の都づくりをしたことに由来しています。瀛州は東海に浮かぶ神山の一つです。八色の姓の最上位は真人であり、真人は仙人の上位階級になるので、天皇も道教の最高神に近い存在であることを示しています。ここに天武天皇の宗教観に道教の要素がみられるのです。「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神のことを指し、仙人の上位にいる存在であったのです。天武天皇は天文遁甲を重視していたことがわかります。この道教への関心は天武天皇だけではなく、母の斉明天皇に顕著にみえます。天武天皇の没後以後は、日本の道教と神道と分かちがたく融合し、独立には存在していないといいます。

おまけ、その2
 天武天皇以降の伊勢の皇大神宮を頂点とする国家神道は神が常座する御舎を持ち、定型の祝詞とその奏上儀礼・式次第を持ちます。それも律令が施行された地域ではほぼ統一された様式を持ちます。太古の和語の「神道」の神は天に常座し、時に磐座に天降りします。また、奇祭が伝わるように神祀りには地域独自性があります。つまり、土着原始宗教が昇華して飛鳥・奈良時代の神道になったのではありません。天武天皇以降の国家神道は土着原始宗教と何かが習合し、国際都市である藤原京や平城京に相応しい儀礼の整った宗教となったのです。
 さて、日本人の多くは東照宮の華よりも皇大神宮の素を好みます。また、天皇が神祭りの為に自ら田植えをすると祝詞奏上の形で宣言します。このような精神構造は天武天皇以降に整ったようですが、どこに由来するのでしょうか。
 当然、昭和までの古代史や哲学者には墨子の精神は存在しないことになっています。ですから、墨子は研究者が読んではいけない禁書なのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする