竹取翁と万葉集のお勉強

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古代史から山上憶良 日本挽歌を鑑賞する はじめに

2018年09月17日 | 日本挽歌を鑑賞する
古代史から山上憶良 日本挽歌を鑑賞する

はじめに

 最初に、この本の題名に『古代史から山上憶良 日本挽歌を鑑賞する』(以下、「日本挽歌を鑑賞する」)と少し長い名前を付けた理由を紹介します。この本は『万葉集』を趣味とする筆者自身のために、奈良時代での最大の事変である「長屋王の変」を正しく解釈し、その理解を下に『万葉集』をより一層、楽しむことを目的として作成した、ある種の覚書です。『日本挽歌を鑑賞する』と題していますが、歴史から万葉歌を鑑賞すると云う側面からすると「長屋王の変」に対する歴史の謎解きでもあります。そのため、内容は万葉歌の鑑賞と云うものよりは、歴史の謎解きの色合いが強いものとなっています。そこで題名に「古代史から」と言葉を付け加えています。従いまして、副題に「万葉集鑑賞」とありますが、この本は純粋に和歌を鑑賞するものではないことを了解願います。
 さて、『万葉集』巻五に「日本挽歌」という題名を持つ歌群があります。この歌群は山上憶良が作歌したもので、大和歌の前に置かれた漢文による序文(以下、前置漢文)、大和歌の長歌一首とそれに呼応する短歌五首で構成し、憶良自身が「日本挽歌」と云う題詞を付けたと推定される、数ある『万葉集』の歌々の中でも特異な形式を持つものです。ここでは、日本人にとって特別な意味合いを想像させる「日本挽歌」と云う題詞を持つ、この歌群とそれを取り巻く『万葉集』の歌々について当時の時代背景を考察しながら鑑賞を行います。
 ここで鑑賞に先立ち、ある約束事をいたします。この「日本挽歌」の鑑賞の過程で『万葉集』の大和歌及びその大和歌に付随する前置漢文や左注の漢文を扱う場合は、鑑賞の目的である作品の読み解きを明らかにするために、煩雑ですが、最初にテキストとして使用する原文、その訓読み試案と現代語試訳を紹介し、その後に試訳の下となった大和歌や前置漢文に対する鑑賞の過程を説明します。また、この『日本挽歌を鑑賞する』においてテキストとして使用する『万葉集』は、原則として『萬葉集』(鶴久・森山隆編、おうふう)の底本となった「西本願寺本萬葉集」に準拠しています。このため、『萬葉集』(日本古典文学大系、岩波書店)などに代表される標準的な「校本版の万葉集」の原文と比すると異なる場合があります。さらに前置漢文や漢詩の表示については、そこで使われる詞の理解を進めるために、本来ですと句読点や句切りの無い連続した一行十七文字表記のスタイルとなるところを、特別に漢詩風の表記スタイルに変更する場合があります。なお、テキストとして『万葉集』の原文を紹介するのは、その原文が未だにすべてが確定していないことと、それにより歌の訓読みや解釈が不安定なことに起因します。逆に、『万葉集』の原文が未確定で不安定な状況を考えますと、万葉歌の鑑賞ではその使用する万葉歌を定義する必要があり、その定義のために使用した原文を示すのは基本事項です。従いまして、校本版万葉集などからの訓読み文でもって原文の代用とする安易な態度は取らないこととします。
 御承知のように『万葉集』 巻五の編纂順序では、巻五の巻頭に神亀五年六月廿三日の日付を持つ大伴旅人の「報凶問歌」が置かれ、次に神亀五年七月廿一日の日付を持つ山上憶良が詠う「日本挽歌」と嘉摩三部作と称される「令反惑情謌」、「思子等謌」、「哀世間難住謌」の都合、四歌群が順に配置されています。これらの歌群の配置とその内容を勘案した上で、大伴旅人の「報凶問歌」と山上憶良の「日本挽歌」及び嘉摩三部作と称される作品群とは緊密な関連が存在するとの仮定の下にこの「日本挽歌」を鑑賞します。つまり、憶良が詠う「日本挽歌」や嘉摩三部作とは、旅人の「報凶問歌」に対する応答歌であると捉えています。なお、この憶良が詠う四歌群について、その歌に付けられた奉呈の言葉である「上」と「撰定」での用字の違いを認識し、この四歌群は公務先の筑前国嘉摩郡から旅人に対してすべての歌が一度に取り纏められて奉呈されたが、「日本挽歌」と他の嘉摩三部作と称される「令反惑情謌」、「思子等謌」、「哀世間難住謌」とは違う意味合いを持って大伴旅人に奉呈されたと推理します。
 さらに、山上憶良が詠う「日本挽歌」や大伴旅人の「報凶問歌」の歌に付けられた題詞に対して、その大仰な題詞自体に何か大きな事件の存在を想像します。題名の頭に「古代史への挑戦」と付けましたように、ここでは「日本挽歌」が詠われた時代に起きた「長屋王の変」を中心に奈良時代中期に対して多方面から検討を行い、題詞から想像される何か大きな事件の存在とその背景を検証します。先走りしますが、ここでの推理と検証の帰結は現代の奈良時代史からすると非常に突飛なものとなっています。本題が示すようにこの本は『万葉集』に載る歌の鑑賞を目的としますが、その鑑賞の過程では「日本挽歌」なる題詞の由来に対し、古代史の謎を解く一面も持つものでもあります。この本をお手に取られた方には、このような背景を含めて『万葉集』が持つ多様な世界に遊んで頂けることを期待します。
 この読み物を読み進める上での注意事項として、テキストとなる『万葉集』は『萬葉集』(鶴久・森山隆編、おうふう)に載る校本版の原文をその脚注を頼りに筆者の作業で底本となった西本願寺本万葉集の原文の形に戻し、これを『万葉集』と称しています。そして、この西本願寺本万葉集に準拠した『万葉集』に対して訓読みと現代語訳を施しています。その筆者単独での作業の背景からしますと、およそ、この『日本挽歌を鑑賞する』と題する読み物とは、正規の教育を受けていない者が行った山上憶良が詠う「日本挽歌」とそれを取り巻く万葉歌への「鑑賞」です。つまり、富山大学の忘言堂朴斎氏が定義する「正規の教育を受けていない者が正統な手続きを経ていないものを世に曝す」と云う、まさにアカデミーの世界からすると「トンデモ研究」の代表となるものです。さらに、ここでのものは、弊ブログ「竹取翁と万葉集のお勉強」に載せたものを編集したものです。つまり、専門家が特別に区分する世に云う「ブログ本」です。従いまして、体裁的には「いかにも」と云う姿をしていますが、当然のこと学問的な背景はまったくありません。
 御断りとして、ここでのものの多くはインターネット上に公表された論文や古典作品を中心に論拠資料として借用・使用しています。その引用については、極力、引用先を記載しておりますが、自費出版によるブログ本と云う本の性格上、すべてを点検・紹介しきれていません。それについては、それらはインターネット上に公開され、既に周知のものであるとし、作品全体としてはオリジナリティがあるものと考えています。


目次
古代史から山上憶良 日本挽歌を鑑賞する

はじめに
第一部 言葉と歴史を確認する
言葉と歴史を確認する
報凶問歌の書簡文を考える
日本挽歌の前置漢文の序を考える
日本後紀から国書を考える
漢語から北宮を考える
長屋王を再評価する
日本紀の朱鳥の元号から神亀五年を考える
養老八年格の問題
歴史と日食観測
神亀六年の検討
大伴郎女の死亡時期を再評する

第二部 日本挽歌、憶良と旅人
日本挽歌、憶良と旅人
讃酒歌十三首から大伴旅人と山上憶良との関係を考える
大伴旅人と藤原房前を考える
嘉摩三部作を考える
再び、日本挽歌を鑑賞する
男子の名は古日
おわりに
参照資料



第一部 言葉と歴史を確認する


言葉と歴史を確認する

 第一部では、『万葉集』巻五に載る大伴旅人の「報凶問歌」や山上憶良の「日本挽歌」の歌で使われるキーワードとなる言葉を抜き出し、その言葉の意味を検討します。また、歌はその歌が詠われた時代と共にあることから、歌が詠われた神亀年間と云う時代を『日本後紀』や『日本紀私記』を通じて正史である『日本書紀』や『続日本紀』を点検・検討し、再確認をします。
 この読み物を初めるにあたって、対象となる大伴旅人や山上憶良が詠う歌への今日での研究とその動向は、『セミナー 万葉の歌人と作品 第四巻 大伴旅人・山上憶良(一)』及び『ー同ー 第五巻 大伴旅人・山上憶良(二)』 (和泉書院)に集約されていると考えます。この書籍はその出版趣旨からして二〇〇〇年までの最新の研究や今後の研究課題を集約するものですし、載せるものは『万葉集』を専門とする人だけでなく、一般の読者となる万葉集愛好家においても、大伴旅人や山上憶良への案内として意義あるものとして設計されています。第一部では、その『セミナー 万葉の歌人と作品 第四巻』及び『第五巻』から受けた疑問についても、それを紹介し、感じた疑問に対する検討も行います。


報凶問歌の書簡文を考える

 最初に『万葉集』 巻五の巻頭に載る大伴旅人の「報凶問歌」を紹介し、その書簡文に載る言葉を吟味します。なお、紹介します作品の表示は標準的な『校本万葉集』のものとは違い、漢文章を強調することからより理解が進むことを期待して漢詩での四六駢儷体のようなスタイルで紹介します。

大宰帥大伴卿報凶問歌一首
標訓 大宰帥大伴卿の凶問(きょうもん)に報(こた)へたる歌一首
(書簡文)
禍故重疊 禍故(くわこち)重疊(ようてふ)し
凶問累集 凶問(きょうもん)累集(るいじふ)す
永懐崩心之悲 永(ひたふる)に崩心の悲しびを懐(むだ)き
獨流断腸之泣 獨り断腸の泣(なみだ)を流す
但 ただ
依両君大助 両君の大きなる助(たすけ)に依りて
傾命纔継耳 命を傾け纔(わづか)に継ぐのみ
(筆不盡言 古今所歎) (筆の言(ことば)を盡さぬは、古今の歎く所なり)

私訳 禍の種が度重なり、京からの死亡通知が机に積み上がります。いつまでも、心が崩れ落ちるような深い悲しみを胸の内に抱き、独り 身を切り裂くような辛い涙を流しています。ひたすら、両君の大きなご助援により、私の命をかけて、これから、我が使命を継いで行くだけです。(手紙で伝えたいことを伝えきれないのは、昔も今も、そのもどかしさを嘆くところです。)

歌番号七九三
原文 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
訓読 世間(よのなか)は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
私訳 人の世が空しいものと思い知らされたとき、いよいよ、ますます、悲しいことです。
神亀五年六月二十三日

 基本事項の確認です。大伴旅人が記すこの「報凶問歌」とは書簡文の一節に「依両君大助」と述べるように「誰か」から「旅人」に贈られた慰問や支援の書面に対する返書の位置にあります。本書ではここを出発点とします。
 手順として、この書簡文の鑑賞に際し文中で使われるキーとなる言葉の意味を確認します。
 最初に「禍故」の言葉とは、大乗仏教の僧侶の戒律を規定する『梵網経菩薩戒』の一節「不宜得財者、謂用財造悪、或因財得禍故」に示すように「禍の原因、禍の種」を意味し、また「凶問」の言葉は、『唐書』の一節「因是道路阻絶、一時未知煬帝凶問」が代表するように「死亡、死亡通知」を意味します。従いまして、この書簡文の内容に従えば、この「凶問累集」が示すものとは、大宰府に住む大宰師大伴旅人の身の回りの人(妻である大伴郎女)の単独の死亡ではなく、遠く、奈良の都に住む人々の死亡通知が相次いだと解釈するのが相当となります。そのため、それに応える歌として題詞に「報凶問歌」と付けられたと考えます。従いまして、昭和期以前に行われた「凶問」の言葉とは「弔問」を意味すると解釈して、この「報凶問歌」を鑑賞することは間違いです。漢語において「凶問」の言葉が意味するものが死亡通知ですと、大伴旅人は大宰師の地位を持つ官人ですので、その立場から考えると「報凶問歌」での「凶問」の意味するものとは、令規定に従い奈良の太政官から大宰府に対しての五位以上の官位を持つ人々の死亡通知とその関係者への喪葬の処置が公式伝達されたと解釈するのが本来となります。つまり、書簡文の前半部は、その公式の死亡通知の数の多さとそこに記される名前に大伴旅人が涙したと解釈するのがよいと考えます。書簡文は大宰府に住む旅人の身の回りの人々のことを話題にしていませんから、およそ、旅人が返書を返す相手は奈良の都に住んでいたと推定されます。ここで強く確認しますが、「凶問」の意味するものが不幸の通知であるならば、それは大宰府に住む人々の死亡を意味しません。つまり、旧来、想定されていた大伴郎女の死亡、または、山上憶良の妻の死亡と云うものを意味しません。
 次に「傾命」の言葉には、「生命が傾く」と云う意味の他に「命を傾て物事を行う」と云う意味がありますが、一般には書簡文の「傾命」の言葉を「生命が傾く」と解釈します。ところが、書簡文で使われる「纔」の文字には「かろうじて、やっと」と云う意味の他に「今、始めた」と云う意味もあります。そこで、ここでは「依両君大助」の「大助」の言葉に注目して「傾命」の言葉を「命を傾て物事を行う」、「纔」の文字を「今、始めた」と解釈するのがよいと考えます。それが私訳に示すものです。つまり、「依両君大助」に対する大伴旅人のある決意表明の意図が隠されているとして、この書簡文を捉えています。そして、この「纔」の文字を「今、始めた」と解釈することにより、旅人が書簡文の文末に付加した「筆不盡言 古今所歎」の言葉は非常に重い内容を含むことになります。この付加した言葉により旅人の許に届けられた書簡に載る内容に対して、旅人は相手に対して「傾命纔継耳」の言葉だけでは彼の意図が十分に了解されないことを恐れ、念押しとしてこの付加した言葉で以って相手の提案や援助の申し出を承知したとの推定が可能となります。
 当然、文脈においてその「『大助』とは何か」が問題になりますが、この「報凶問歌」では「筆不盡言 古今所歎」の言葉が語るように、それは示されていません。個人の想像ですが、この大伴旅人の「報凶問歌」を載せる『万葉集』 巻五全体が一つの壮大な叙事詩であると想像するとき、その中にその答えが示されていると考えます。推定で、藤原房前と山上憶良による「何か」です。これについては「大伴旅人と藤原房前を考える」の章で鑑賞します。
なお、大和歌の解釈としては、書簡文の前半部の「獨流断腸之泣」に対して大和歌を詠ったと解釈し、後半部の「傾命纔継耳」に対するものではないとする立場をとります。紹介した私訳はその解釈に従い行っています。






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日本挽歌の前置漢文の序を考える

2018年09月17日 | 日本挽歌を鑑賞する
日本挽歌の前置漢文の序を考える

 一般に大伴旅人の「報凶問歌」と山上憶良の「日本挽歌」との間に関連を認める場合、「報凶問歌」には旅人の妻である大伴郎女の死亡が詠われているとして「日本挽歌」を鑑賞します。ところが、先にその「報凶問歌」を鑑賞しましたが、旅人の詠う「報凶問歌」に、書簡文を含めても、期待される大宰府の旅人の役宅に暮らしていた大伴郎女の死亡を確認することが出来るかと云うと、それは出来ません。ここに、従来に為された鑑賞の前提が崩れます(1)。
 なぜ、このような相違が生じたのかと云いますと、従来、『万葉集』の鑑賞では一つの作品であっても、それを構成する前置漢文、長歌や短歌はそれぞれが個々の独立した漢文や詩歌として扱い、統合した一つの作品として扱っていませんでした。このような観点から個々の詩歌を鑑賞する時、前置漢文自体は大和歌ではなく漢文ですから、伝統的な『万葉集』の詩歌鑑賞では前置漢文は鑑賞する対象ではありませんでした。およそ、『万葉集』に載る漢文や漢詩を鑑賞する行為とは現代の鑑賞スタイルであり、昭和期までの伝統の万葉学からすると反則技に等しいことなのです。従いまして、前置漢文から順に作品全体を一つのものとして鑑賞・評論することは行わないのが従来の鑑賞法です。しかしながら、ここではそうした伝統的な鑑賞法から離れ、一つの作品を構成する前置漢文、長歌や短歌はそれぞれが有機的に結びつき機能しているとし、鑑賞を行います。このような鑑賞法の相違から先に示したように作品の解釈が変わるのです。また、先に紹介しましたように「報凶問歌」での「凶問」の言葉を、従来は大伴旅人による造語として考え、和語として「弔問」を意味すると解釈していました。漢語ですと死亡通知となり、造語としての和語では葬儀への弔問です。つまり、「凶問」を和語と判断した上での葬儀への弔問と云う解釈となりますから、旅人の大宰師への任官と地理的観点を下にすると「報凶問歌」は大宰府での葬儀の場面を詠ったとの解釈が必然となります。ここに大伴郎女の死亡説が生まれた訳です。このような語釈の背景を確認しますと、明治から昭和期までの文学者が無謬無く漢文が読めたと仮定することは『万葉集』の鑑賞では危険なのかもしれません。
 再確認しますが、ここで行う作品鑑賞において、『万葉集』に載る作品はそれを構成する前置漢文、長歌や短歌などはそれぞれが有機的に結びつき機能するものと仮定します。さらに伊藤博氏がその著書『萬葉集釋注』(集英社文庫)で指摘するように『万葉集』に載る作品にはそれぞれが関連を持つものがあるとして扱います。また、解釈においてキーワードとなる言葉については、極力、漢語としての意味合いを探っていくこととします。この態度を下に、先の「報凶問歌」の鑑賞を前提として、憶良の詠う「日本挽歌」は旅人が詠う「報凶問歌」との間に相互に関連する作品とし、その前置漢文の序を鑑賞します。
その序文の鑑賞に先だって、ここでもまた、作品全体の基本的事項を確認します。
 「日本挽歌」は歌番号七九九の歌の左注に「筑前國守山上憶良上」と記し、また、この歌群は「挽歌」と云う題詞を持ちます。つまり、社会儀礼において葬送をする相手に対して献上の意味合いを持つ「上」と云う詞を使っていますから、この歌群は憶良自身の身の上の不幸を題材にした歌ではありません。まず、葬送儀礼の一貫での挽歌と云う歌を献上すると云うことは、その挽歌は相手の身の上の不幸を題材にした歌であることは明解です。ここに議論の余地はありません。なお、「挽歌」と云う題詞を持つ文学作品を憶良が創作し、その文学作品の評価を得るために旅人に献上したと云う、そのような可能性を否定はしませんが、学会への論文作成という目的を前提とした思考遊戯のような外部社会から遊離した虚構説は取りません。
 次に、この歌は「日本挽歌」と云う題詞を持つ歌ですから、士(をのこ)との自負を持つ筑前國守たる山上憶良が「日本(やまと)の終わり」とも解釈可能な「日本挽歌」と云う題詞を付けなければならなかったほどの重大な不幸を詠った歌です。つまり、この歌を鑑賞するには、筑前國守たる山上憶良が「日本の終わり」と思うような重大な不幸を明らかにする必要があります。ここで、先に推論を行った大伴旅人の「報凶問歌」とこの「日本挽歌」との関連性を考慮するならば、奈良の都からの凶問、つまり、奈良の都での旅人に関わる重大な死亡事件に「日本挽歌」の根源を求める必要があります。およそ、ここが鑑賞の出発点であり、この要点を外した作品鑑賞は排除されなければいけません。
 さて、「日本挽歌」の前置漢文は、「嗟乎痛哉」までの前半部、「嗚呼哀哉」までの後半部と七言詩の三部に分かれます。漢文の前半部は、大自然ですら移り変わり行くことに対して、人の生死は対策の取りようもない束の間の儚さであることを詠います。その後半部では、そのような儚い人の世において、ある若い夫婦、特にその夫人の死の悲しみを詠います。最後に七言詩によって、亡くなりあの世へと去って逝った人々に取り残された、この挽歌を贈った今を生きている相手(大伴旅人)に対して、今後をどのように生きるべきかを問い掛けています。
 この前置漢文の前半部に使われる言葉の多くは仏教や道教などの多方面に渡る書籍から採られています。例えば「泥洹」の言葉はサンスクリット語の「ニルヴァーナ」の漢音訳造語で「涅槃」とも表記される言葉です。その山上憶良が云う「泥洹」の言葉の意味は、聖徳太子の説く三経義疏(勝鬘経、維摩経、法華経の解説書)の謂わんとすることを正確に理解していることが原点になっているために、私のような正規教育を受けていない者には非常に難解です。ただ、もし「泥洹」の言葉を「死」と捉えるなら、その解釈はまったくの間違いです。仏教は生死の輪廻の彼方に涅槃の理想の境地があると説きます。従いまして、「坐於雙林、無免泥洹之苦」とは、句に「座」と「雙」の文字を使うように釈迦が菩提樹下において開悟(=涅槃に入る)した情景と榕樹下における梵天勧請の情景とを想うのがよいと考えます。およそ、その姿は中世以降の仏教家が維摩黙然と釈迦緘黙とを一組にして真理不可説を説く姿の裏返しです。つまり、維摩大士の「在手方丈、有懐染疾之患」の言葉とは、維摩が病と称し部屋に籠り、その見舞いに訪れる人々に仏の道を説き、衆生救済を行ったことを示します。また、釈迦能仁の「坐於雙林、無免泥洹之苦」の言葉とは、釈迦が菩提樹の下で自身の開悟を果たし、さらに榕樹の下で座禅し梵天と問答を行ったことから、真理不可説とするのではなく、釈迦が人々に真理を説き解脱からの衆生救済の労苦を惜しまないとの決意を為したことを示すと解釈すべきです。ここに「坐於雙林」が示すものがあります。つまり、維摩や釈迦は衆生を見捨てることなく、労苦を惜しまず、仏教の教えを下に人々の心の迷いや今生の苦しみからの救済を決心したことを指します。逆の立場からすれば、その衆生救済を約束した仏教への帰依と仏教信仰による現世煩悩からの解脱への渇望です。従いまして、文脈において、「坐於雙林」の「雙林」を「沙羅双樹」と想像して前置漢文を解釈することは完全なる間違いです。それでは、仏教として維摩大士と釈迦能仁とへの理解が至りません。
 次に「力負」の言葉は、その後の「過隙之駒」の一節から共に『荘子』の内篇・大宗司篇と外篇・知北遊篇の中の言葉が元になっていると思われます。つまり、「力負」とは荘子が大宗司篇で説く「夫蔵舟於壑、蔵山於澤、謂之固矣。然而夜半有力者、負之而走、昧者不知也。蔵小大有宜、猶有所遯」を代表して、憶良が創った言葉なのでしょう。意味する所は「考えに考え抜き手当てを万全に行ったとしても、何がしら抜かりはある」と云うことです。山上憶良は「確かに維摩大士や釈迦能仁はこの世の八苦からの衆生救済を発念した。しかし、だからと云って荘子が説くように物事には何がしらかの抜かりがあり、仏教帰依によって、すべての煩悩から救済されるのではない」と諭します。それ故に、仏(=仏門)にすがっても全ての禍を避けることは出来ないと論じます。
 およそ、ここで示す解釈には、原文の「泥洹」、また、「力負」や「黒闇」の言葉に、従来、解釈されて来たような死の世界観はありません。そのため、紹介する私訳は従来の解釈とは前半部分の解釈が相当に違います。この新たな解釈を下に『万葉集』 巻五に載る山上憶良の作品「令反惑情謌」を鑑賞しますと、このとき、大伴旅人は仏門へ入る願望を周囲に告げていた可能性が見えてきます。そこまで踏まえて、これらの作品群を鑑賞する必要があると考えます。
 次に、前置漢文の後半部に「紅顏共三従長逝、素質与四徳永滅」と云う一節があります。この一節での「紅顔」の言葉は、大和歌である「日本挽歌」の長歌で詠われる主人公を暗示する言葉です。そのため、古来、この「紅顔」は誰を暗示するのかと云う議論があります。その議論の集約が「大伴旅人の妻」説と「山上憶良の妻」説の二説です。
 ここで、この議論の集約において、「大伴旅人の妻」説や「山上憶良の妻」説に共通しますが、前置漢文で使われる「紅顔」の言葉とは万葉学の世界では「女性」を象徴すると解釈する「暗黙の了解」があります。この「紅顔」の言葉が女性を象徴するものとして解釈する具体的例を『万葉集』の注釈書から口訳を紹介します。

妻の桃色の顔は (新日本古典文学大系 岩波書店)
うるわしい美貌も (日本古典文学全集 小学館)

 この「紅顔」の言葉に対する「暗黙の了解」と云う言葉を使った背景を説明しますと、大陸では隋唐時代では「紅顔」と云う言葉は一般的に「少年」や「青年」を意味しており、女性を意味する言葉ではありません。ところが、平安中期以降の日本では大陸での標準的な漢語の用法ではなく、独自に「若い女性」や「美人」のような意味合いで扱います。
 「日本挽歌」の前置漢文以外で日本での「紅顔」の言葉の用法を探りますと、平安初期の漢詩集『文華秀麗集』に巨勢識人が詠う「奉和春閨愁一首」(2)に「長思長歎紅顔老」の一節があり、また、平安中期の漢詩集『扶桑集』に源英明が詠う「又賦」(3)の句に「劉伶常有紅顔色」とあります。巨勢識人の「奉和春閨愁一首」は嵯峨天皇の「春閨愁」に和するものですから、「紅顔」の示すものは「妾」を残し戦地に赴いた若き「夫」を意味し、「紅顔老」の「老」の語は動詞では「死ぬ」や「疲れさせる」と解釈します。つまり、「紅顔老」とは戦地に赴いた夫の死の暗示です。そのため漢詩では「君不見妾離別」と続いて詠います。一方、源英明が詠う「常有紅顔色」は「常に紅顔の色有り」と訓みますが、それは酒乱だったと伝わる劉伶の日常的な赤ら顔の酔っ払いのありさまを示すものですから、ここで検討を行っている人物像を比喩する「紅顔」と云う言葉とは若干意味合いが違います。ただし、源英明もまた「紅顔」の文字が詩中に現れたとしても、竹林七賢人を題材にしていますから背景には女性の認識は無かったと思います。つまり、平安中期頃までは「紅顔」の言葉に対して「女性」と云う語感は無かったと思われます。
 一方、平安中期の作品『和漢朗詠集』に収容される藤原義孝が詠う「無常」(4)では「朝有紅顔誇世路」、大江朝綱が詠う「王昭君」(5)では「翠黛紅顔錦繍粧」とあります。この「無常」について鎌倉時代の注釈書 『和漢朗詠集永済注』では三代前の冷泉院の后であった麗景殿女御が二十五歳の若さで死去したことを題材に作られた漢詩と解説しています。その解説では、この麗景殿女御を「日本第二の美人」とも注釈をしていることから、鎌倉時代と云う時代性を踏まえると、永済が「無常」を鑑賞する態度には当時に流行していた仏教の九相観が背景にあったと推定することが可能と考えます。本来、九相観は僧侶の女犯への煩悩を除くことを目的とし、性欲の対象である美しき女性の素肌の肉体が死によって腐敗しウジ虫にたかられ、最後には白骨に成る、その目をそらしたくなるような現実を観想するものです。そして、その観想に使用する九相観図にはその時代の人々が妄想・想定する絶世の美女をモデルとし、名を借用します。それが嵯峨天皇(冷泉院上皇)の皇后であった檀林皇后をモデルとした檀林皇后九相観図であり、また、小野小町九相観図です。従いまして、「朝有紅顔誇世路」の「紅顔」は時代を代表する美女を示唆する言葉として解釈していたと考えられます。また、大江朝綱が詠う「王昭君」の漢詩の一節「翠黛紅顔」は王昭君の容姿とその本人を示す言葉ですから、その「紅顔」は美女を意味します。
 さらに、この「翠黛紅顔」の言葉に注目しますと、鎌倉時代の『太平記』には「驪姫、ただ紅顔翠黛、眼を迷はすのみにあらず」(6)と云う一節があり、この「紅顔翠黛」の言葉もまた驪姫の容姿を表す言葉として使われています。このような事例を下に推察しますと、少なくとも、平安時代中期以降の日本においては「紅顔」とは女性を象徴する言葉として解釈されていたと考えられます。さらに『万葉集』の古点が行われていた村上天皇の時代には大江朝綱は文章博士であり、漢文・漢詩の当時の第一人者とみなされた人物です。そこから、当時、行われていた『万葉集』の訓点作業において、その漢文・漢詩の解釈に影響を与えたであろうと想像されます。ここで、「紅顔」の言葉が女性を象徴するものとの解釈は現代の『新日本古典文学大系本』などでも確認が出来ますから、少なくとも大江朝綱以降の日本ではその「美女」と云う解釈が標準だったと考えることが出来ます。およそ、遣唐使などが廃止され、大陸との文化交流の機会が薄れた時代以降に、日本独特の漢語への解釈が生まれたのであろうと推定されます。
 さて、大江朝綱が詠う漢詩「王昭君」で使う言葉、「翠黛紅顔」が彼の独創による言葉かと云うとそうではありません。彼が漢詩を創作するとき、その文章博士と云う立場上からしても中国漢詩集の『文選』や『楽府詩集』に言葉を求めたと考えられます。つまり、「翠黛紅顔」なる言葉は中国漢詩集から引用したであろうとの推測が出来ます。そうしたとき、『楽府詩集』の中に徐陵が詠う「雑曲歌辞」(7)に「綠黛紅顏両相發」と詠う一節があり、この「綠黛紅顏」の「緑」を同じ「ミドリ」を表す別の漢字である「翠」に置き換えたものが大江朝綱の「翠黛紅顔」の言葉と考えられます。
 ここで、徐陵が詠う漢詩「雑曲歌辞」の抜粋を参照してください。この漢詩では「綠黛紅顏」の言葉とは「綠黛」と「紅顏」との二つの漢語の組み合わせであって、それぞれが女性と男性とを示す言葉となっています。およそ、徐陵が詠う『雑曲歌辞』の「綠黛紅顏」の言葉は女性の容姿を二つの言葉「綠黛」と「紅顏」とで表している訳ではありません。

「雑曲歌辞」より抜粋
為誰新起鳳凰樓 誰為に新(あらた)に起(た)つ鳳凰(ほうおう)樓(ろう)
綠黛紅顏両相發 綠黛(りょくたい)紅顔(こうがん) 両(つど)ひて相ひ発(あらわ)れ
千嬌百念情無歇 千嬌(ちきょう)百念(ひゃくねん) 情(じょう)歇(つ)くること無し

 一方、大江朝綱の「翠黛紅顔」では、その漢詩で使う言葉の意味合いは「翠黛」を持ち「紅顔」の顔(かんばせ)をした女性の容姿を示すものです。当然、大陸での認識である比喩の言葉としての綠黛=女性、紅顏=青年とはまったく違います。

「王昭君」より抜粋
翠黛紅顔錦繍粧  翠黛(りょくたい)紅顔(こうがん) 錦繍(きんしゅう)の粧(よそおい)
泣尋沙塞出家郷  泣いて沙塞(ささい)を尋(たづ)ねて家郷(かきょう)を出(い)づ

 つまり、『雑曲歌辞』では「綠黛紅顏」は、当然のこと、大陸で使われる漢語です。ところが、大江朝綱の「翠黛紅顔」なる言葉は、表記の上では徐陵のものの類型ですが、その意味するものは中国人では誤解するような日本の和製漢語です。『太平記』においても、大江朝綱の「翠黛紅顔」なる言葉の順を入れ替えて「紅顔翠黛」と表記しますが、これもまた、その表記は『雑曲歌辞』の類型ですが、意味するところは日本の和製漢語となっています。なお、この漢詩「王昭君」で使う「翠黛紅顔」の言葉について、大江朝綱が意図した造語なのか、それとも徐陵が詠う漢詩が理解できなかった上での使用なのかは、定かではありません。
 現在の『万葉集』の歌の解釈は、村上天皇の詔を下にした「梨壺の五人」による天暦古点が原点です。推定で、天暦古点での『万葉集』に載る漢文解釈には、その時代の文章博士である大江朝綱による影響や助援があったと考えられます。つまり、『太平記』に載る言葉にも大江朝綱の影響があったと推定が可能なように、天暦古点でも「日本挽歌」の前置漢文に載る「紅顏共三従長逝、素質与四徳永滅」の一節の「紅顔」の漢語を、和製漢語における「女性」を形容する言葉として解釈したとの推定が出来ると考えます。そして、この古点以降の「紅顔」の言葉への解釈が、その解釈の根拠に時代考証からの問題提起を為されることなく、天暦古点の持つ権威と相伝から今日に伝わっていると想像します。
 ここで、改めて問題を提起します。「日本挽歌」を詠った山上憶良やその同時代人は「紅顔」なる言葉を、どのように解釈していたのでしょうか。そこで、同じ文芸の範疇に含まれる中国の漢詩にその「紅顔」の言葉を求めてみますと、『万葉集』の歌が詠まれた時代、大陸では「紅顔」と云う言葉は特殊な用語ではありませんでした。現在にも有名な劉廷芝(8)、李白(9)や杜甫(10)が詠う漢詩に使われる言葉であり、特殊な用語では無いために、その言葉の意味に揺れはありません。劉廷芝、李白や杜甫が作歌した漢詩からは、初唐から盛唐において「紅顔」の言葉とは「少年又は男性」を意味していたとの判定が可能です。
 確かに、清朝康熙帝の勅命で編まれた『全唐詩』に初唐、高宗時代の中書舎人であった董思恭が詠う「昭君怨」(11)に「斟酌紅顏改」とあり、この「紅顔」は王昭君を示すものですからこれは女性を意味します。しかしながら、董思恭の詩をもって奈良時代の言葉の解釈の標準と出来るかと云うとそれは違うと考えます。こうしたとき、劉廷芝と杜甫とは河南省、李白は西域の出身で黄河文化圏に、董思恭は長江の呉人で南方文化圏に属する人物です。およそ、そこには人々の間に唐音・呉音との相違が存在したように美人を認識し表現する感覚の相違もまた存在したものと想像されます。これは、人種的には色白の北方系の新モンゴロイドと浅黒い南方系の古モンゴロイドとでその肌の色が違うことにも由来する生理的感覚だと思います。すると、「紅顔」なる言葉を「少年又は男性」と解釈する中原の劉廷芝や李白たちから見れば、董思恭の「美人又は若い女性」とするようなものは地方でのある種の「スラング」と感じたのではないでしょうか。従いまして、隋唐での標準的な漢語の解釈を前提にした時、「日本挽歌」の前置漢文で使われる「紅顔」と云う言葉が、一義的に女性を形容する意味を包括し、引いては女性を比喩するかと云うと非常に難しいと考えます。およそ、「日本挽歌」の前置漢文が隋唐時代の大陸での正式な漢語に従った漢文ならば、従来、論じられているように、その「紅顔」の言葉からそれを女性の比喩と規定し、さらに「日本挽歌」の長歌や「報凶問歌」との関係を考察して「大伴旅人の妻」説や「山上憶良の妻」説を導き出すことは前置漢文の言葉からは出来ないと考えます。山上憶良が「紅顔」と云う言葉を使用するとき、その言葉を大陸で標準的に使われる用法とは異なる女性を意味するものとして解釈するならば、その論証が改めて必要ではないでしょうか。なお、董思恭が詠う「昭君怨」は『全唐詩』に載る作品ですので清朝以前にどれほどの日本の人々に知られていたかは不明ですが、その健康な男性がやや浅黒く、美人の女性が色白であると云う肌に対する感覚は平安時代中期以降の日本の文人と同じものであったことは確かです。そのため、大江朝綱以降の比喩が同じものとなっています。
 他方、そうしたとき、今日の中国大陸の漢語でも使われる「紅顔薄命」の四文字熟語から「紅顔」の言葉は、漢唐時代の大陸の漢語でも一般的に女性を示す言葉ではないかとの指摘があるかと推測します。そこで、まず、「紅顔薄命」の語源と目される「佳人薄命」と云う四文字熟語について調べてみますと、この四文字熟語は、十一世紀代の北宋の詩人である蘇軾(通称、蘇東坡)が詠う「薄命佳人詩」(12)の一節「自古佳人多薄命」から生まれた言葉であることが分かります。従いまして、その派生語や類義語に位置する「美人薄命」や「紅顔薄命」と云う四文字熟語は、十一世紀以降の言葉と推定されます。つまり、隋から唐時代での「紅顔」の言葉を、従来の万葉集研究者の解釈のように断定的に「女性」を意味すると解釈することは困難ではないでしょうか。また、「紅顔薄命」の言葉に対し古典検索を行っても、清朝初めの『隋唐演義』に載るものが古い事例として紹介されるだけであり、これは十一世紀代北宋以降に誕生した言葉であることを裏付けると思います。

 さて、『万葉集』の世界に目を向けると、「日本挽歌」では「紅顔」の言葉は「紅顏共三従長逝、素質与四徳永滅」の文節中で使われるものです。その「紅顏共三従長逝」の文節で使われる「共」の文字に注目し、万葉集中に山上憶良が創る漢詩・漢文に同じ「共」の用字を求めますと、巻五に載る「悲歎俗道、假合即離、易去難留詩一首并序」の漢詩文に「心力共盡無所寄」の一節があります。この「共」の用字は「心=精神」と「力=肉体」との並立状態を示し、一緒に行動する様や並立・対比を示す文字として使用されています。それは、「共」の本来の字義が持つ「手をそろえて奉げ持つ様」や「供をする」と云う解釈ではありません。
 さらに山上憶良以外での「共」の用字を万葉集中の漢文に求めますと、次のような使用例をみることが出来ます。これらの「共」の使用例では、全て、太上天皇と皇后、理と宜など、一緒に行動する様や二つ以上のものの並立を示す文字として使用していることが分かります。つまり、山上憶良にしても万葉集中の標題や左注で使われる事例にしても「共」と云う文字は標準的な使われ方をしており、特殊な用法で使われてはいません。つまり、「共」が持つ本来の字義から「紅顏は三従の長逝に供をした」、又は「紅顔は三従に供をし長逝した」とする訳文まで展開する必要はないと考えます。

巻六歌番一〇〇九の左注、 「於時太上天皇々后、共在于皇后宮」
巻六歌番一〇一〇の標題、 「理宜共盡古情」
巻八歌番一四七二の左注、 「其事既畢驛使及府諸卿大夫等、共登記夷城而望遊之日」
巻十六歌番三七八六の標題、 「于時有二壮子、共誂此娘」
巻十六歌番三七九一の標題、 「良久娘子等皆共含咲相推譲之曰」
巻十九歌番四二五一の標題、 「仍國司次官已下諸僚、皆共視送」
巻十九歌番四二五二の標題、 「適遇於越前國掾大伴宿祢池主之舘。仍共飲樂也」
巻十九歌番四二六八の標題、 「天皇、太后、共幸於大納言藤原家之日」、

 従いまして、万葉集中での「共」と云う文字の漢文における用法の検討から、前置漢文「紅顏共三従長逝」の文節において「紅顔」と「三従」との言葉は一緒に行動する様や並立するものを比喩するものであろうと推定することが出来ると考えます。
 では、この「紅顔」の言葉は人物を示すものなのでしょうか、それとも状態を示すものなのでしょうか。もし、「紅顔」が人物を示すものなら「三従」もまた人物を示し、「紅顔」と並立、又は、一緒に行動する人物と云うことになります。ここで、再度、前置漢文を確認しますと「紅顏共三従長逝、素質与四徳永滅」とあります。この文節で使われる「三従」、「素質」、「四徳」の言葉は中国の五経『儀禮』や『礼記』、また漢字本来が持つ言葉の意味に由来し、それぞれが中国社会において理想とする女性の生き方、容姿、性格を含む生活態度(女性の四つの徳目)を表した異なる意味を持つ言葉です。つまり、女性の生き方を示す「三従」と、「共」の文字で予定される、並立するものとは男性の生き方となります。また、「素質」の言葉は色白の顔色を持つ女性を意味しますから、「紅顔」を和製漢語として「女性の頬がほんのり」と云うのであれば、「紅顔」と「素質」との言葉が示すものに矛盾が生じ、同時には成り立たないものとなります。化粧方法として「女性の頬がほんのり」としても、それは白き肌に紅を装うものであって漢詩では「紅頬」と云うものです。すると、「共」の文字の用法から「三従」とは「紅顔」と一緒に行動を共にする女性=夫人と云うことになり、必然的に「紅顏共三従長逝」なる文節は「若き夫が貞淑な夫人と共に亡くなった」と解釈せざるを得なくなります。
 当然、この解釈は従来の『校本万葉集』をテキストにする評釈では予定がされていません。大勢では「大伴旅人の妻」説であり、あるいは「山上憶良の妻」説です。そのとき、亡くなった人物は「妻」だけであって、その「夫」である旅人、または憶良は生きている人となります。一方、「紅顔」が人物を意味する比喩ですと、「日本挽歌」で詠う世界は夫と共に亡くなった妻を悼むものとなり、現在、知られる「日本挽歌」の評釈は根本的に変更を求められることとなります。
ここで前置漢文をその構造がより視覚的となる漢詩スタイルで表記しますと次のような形となり、前置漢文は厳密な対句形式で構成されていることが分かります。憶良は厳密な四六駢儷体による対句形式を以って前置漢文を創り、そこで使われる言葉に和製漢語はありません。そうしたとき、「紅顔」と云う言葉だけを和製漢語として採用したでしょうか。甚だ、疑問です。
 また、古代の社会通念では「女性は家族を持ち、児を産むもの」との認識だったと考えます。すると、前置漢文「染筠之涙逾落」の一節で使われる「染筠」の故事からして、それは亡くなった女性は君王の夫人を示唆する言葉ですから、三従なる女性は嫁いだ人であることが想像されます。そうしたとき、そのような女性に対しては「嫁ぎ、夫に愛された貞淑な女性であった」と挽歌を奉げるのが礼儀ではないでしょうか。やはり、古代の社会通念や儀礼からすると、妙齢な女性の伴侶として相応しいものとして、「紅顔」の言葉を解釈するのが相当と考えます。
 帰結として、前置漢文の「紅顏共三従長逝、素質与四徳永滅」の一節は「青年は婦徳の女性と死出の世界へと長途に逝き、美しき白き肌の女性は四つの婦徳の心得とともに永遠に消え失せる」と現代語訳をせざるを得ません。
 この解釈が可能なら前置漢文の次の一節「何圖、偕老違於要期、獨飛生於半路」は、どのような解釈が可能でしょうか。漢語の「偕老」の言葉は、『詩経』に載る「君子偕老」の詩に由来する言葉で「共に年老いる。特に婦人が良人と共に年老いる」を意味します。そのため、「偕老の要期に違ひ、独飛して半路に生きむこと」とは、「誰か」が夫婦の「偕老」であることを「要期」していたのに反して、その「誰か」が一人生き残り、残りの半生を生きることと解釈することになります。前節の「紅顏共三従長逝」を「青年は婦徳の女性と死出の世界へと長途に逝き」と解釈しますと、文脈から「要期」を持った人物は「偕老」となる夫人本人やその夫となる人物ではありません。つまり、「誰か」とはこの漢文を起草した山上憶良です。
 さらに、山上憶良は『詩経』に載る「君子偕老」の詩(13)から「偕老」の言葉を採用したと想像します。その「君子偕老」の詩自体はその国の早世した君主の夫人を悼む挽歌ですので、山上憶良はその出典元の内容を踏まえて、「日本挽歌」の前置漢文で「偕老」の言葉を使用している可能性があります。およそ、そこには亡くなられた「三従」たる女性とは「展如之人兮 邦之媛也」の立場の女性、つまり、君主の妃に相当する女性だったと憶良は比喩したと考えます。
 このような解釈が出来るとしますと、「枕頭明鏡空懸、染筠之涙逾落」での「染筠」の言葉が重要な意味合いを持ってきます。この「染筠」の言葉は流す涙の形容ですが、その言葉は「皇帝舜が亡くなられたときに、娥皇と女英との二人の妃が流した涙が竹(=筠)を斑に染め、そして、その実の姉妹である娥皇と女英との二人の妃は皇帝舜を追ってこの世を去った」との故事によるものです。つまり「染筠」の言葉は、良人は君主たる人物であり、その君夫人が良人と共に亡くなられたことを暗示していることになります。この推測が正しく、皇太子に相応しい君とその君夫人が同時に亡くなられたのであれば、それは「日本挽歌」の言葉が端的にしめす「日本の重大な不幸」ではないでしょうか。
 以上の私案と鑑賞を下に前置漢文の序に続く七言詩を鑑賞しますと、四句目の「本願託生彼浄刹」の解釈において、従来のものである「弥陀の本願のままに、浄土に身を委ねたい」(新日本古典文学大系)、「仏の本願にすがって、妻のいるかの極楽浄土に命を寄せたいものだ」(萬葉集釋注)などとは違う解釈が出来る可能性があります。
 この前置漢文の序に示す仏教精神は後年の念仏仏教ではなく、大乗の根本仏教たる維摩経や法華経にあります。つまり、維摩経の「浄土を得んと欲せば、まさにその心を浄くすべし。その心の浄きに随って、すなわち仏土も浄し」の精神があります。従いまして、憶良や旅人の精神が、念仏仏教のように「厭離穢土」から「滅度成仏」へと直線的に進むとの保障はありません。反って、「託」の字義に「・・にかこつけて為す、ことばに頼んで」や「ひと所にあずけて定着させる」との意味があるように、維摩大士の教えに従い、仏の本願にすがってこの穢土を己の浄き明き心で浄刹(=浄土)と為すことを決意したのかもしれないのです。つまり、その基盤には、徳川家康ではありませんが「厭離穢土欣求浄土」の思想の存在を考える必要があると考えます。
 ここまで、私論を述べてきましたが、それを集約して説明するために、以下に先に述べたものを踏まえた漢詩スタイルでの漢文表記、その訓読みと現代語訳文を示します。

(前置漢文 序) (序)
盖聞 盖(けだ)し聞く
四生起滅 方夢皆空 四生(ししやう)の起き滅ぶることは、夢の皆空しきが方(ごと)く
三界漂流 喩環不息 三界の漂ひ流るることは、環(たまき)の息(や)まにが喩(ごと)し
所以 所以(かれ)
維摩大士 在手方丈 維摩大士は手に方丈が在りて
有懐染疾之患 染疾(せんしつ)の患(うれへ)を懐(おも)ふことあり
釋迦能仁 坐於雙林 釋迦(しゃか)能仁(のうにん)は、雙林に坐して
無免泥洹之苦 泥洹(ないをん)の苦(く)を免(まぬが)るること無し
故知 故(かれ)知る
二聖至極 不能拂力負之尋至 二聖の至極も、力負(りきふ)の尋ね至るを拂(さから)ふこと能はず
三千世界 誰能逃黒闇之捜来 三千の世界に、誰か能く黒闇(こくあん)の捜(たづ)ね来(きた)るを逃れむと
二鼠競走 而度目之鳥旦飛 二つの鼠は競い走り、目を度(わ)たる鳥旦(あした)に飛び
四蛇争侵 而過隙之駒夕走 四つの蛇は争ひ侵し、隙(げき)を過ぐる駒(こま)夕(ゆふへ)に走る
嗟乎痛哉 嗟乎(ああ)、痛(いたま)しき哉
紅顏共三従長逝 紅顏は三従と長(とこしへ)に逝(ゆ)き
素質与四徳永滅 素質(そしつ)は四徳と永(とこしへ)に滅ぶ
何圖 何そ圖(はか)らむ
偕老違於要期 獨飛生於半路 偕老(かいらう)の要期(えうご)に違ひ、獨飛(どくひ)して半路に生きむことを
蘭室屏風徒張 断腸之哀弥痛 蘭室(らんしつ)の屏風は徒(いたづ)らに張りて、腸を断つ哀しび弥(いよいよ)痛く
枕頭明鏡空懸 染筠之涙逾落 枕頭の明鏡空しく懸りて、染筠(せんゐん)の涙逾(いよいよ)落つ
泉門一掩 無由再見 泉門一たび掩(おほ)はれて、再(また)見るに由無し
嗚呼哀哉 嗚呼、哀しき哉
愛河波浪已先滅 愛河(あいか)の波浪は已先(すで)に滅(き)え
苦海煩悩亦無結 苦海の煩悩もまた結ぼほることなし
従来厭離此穢土 従来(このかた)、この穢土(ゑど)を厭離(えんり)す
本願託生彼浄刹 本願(ほんがん)をもちて、生を彼(そ)の浄刹(じょうせつ)に託(よ)せむ

現代語訳文
このように聞いている。すべての生きとし生けるものが生まれ死滅し、それは夢が皆空しいのと同じようだと。精神にあっては欲界・色界・無色界の三界の世界を心が漂い流れ、その円環に安らぐことがないのと同じようだと。それ故に、維摩大士の神力の手の内に方丈が在り、衆生の病疾の苦しみに思い巡らせること(=衆生に病疾の苦しみがあれば、菩薩もまたそれを思って病疾の苦しみがある)があり、釈迦能仁は双林(菩提樹と榕樹)に座禅を組み開悟するが、衆生を涅槃(=煩悩を超越し、さとりの境地に入ること)へ導くことの苦しみから免れることは無い。と。
そこで知る。二人の聖人が解脱の極みをしても、如何に隠してもその隠したものを担い去ると云う「力負」が捜し来ることに逆らうことが出来ないように何がしら抜かりがあるのに、仏が照らすと云う総ての世界である三千世界において、誰が禍をもたらすと云う天部の黒闇女が捜し来ることから逃れることが出来るであろうか。
人の月日は昼と夜を表す二匹の鼠が争うように走り去り、人の生は目前を飛び渡る鳥のように一朝にして飛び去り、地水火風を表す四つの大蛇は互いに争い領分を侵し大地は変化し、人の一生は間隙を一瞬に過ぎて行く馬のように一夕にして走り去って逝く。なんと、悲しいことだろう。
青年は婦徳の女性と死出の世界へと長途に逝き、美しき白き肌の女性は四つの婦徳の心得とともに永遠に消え失せる。どのようにしたらよいのであろうか。夫人が夫と共に年老いられるでしょうとの期待に反して、私独りだけが生き残り群れから外れた独り鳥となって残りの半生を生きていくことを。夫人の閨房の屏風は空しく張られ、断腸の悲しみはいよいよ深く、枕辺の化粧の明鏡は意味もなく懸けられ、皇帝が亡くなられたことを嘆く妃の竹をも染める涙のような悲しみの涙がますます流れる。二度と開くことのない泉路への門は既に閉じられ、再び、逢う術はない。なんと、悲しいことでしょう。
愛するものと別れる愛別離苦の苦悩が波のように次々と襲い来ることは無くなり、この世の四苦八苦の煩悩も、もう、訪れることはない。古来、この穢悪に満ちたこの世を嫌い離れたいと願っていた。しかし、仏の本願に頼って、この生命をその維摩大士が示す浄き国土に傾けよう。

 次に、山上憶良の詠う「日本挽歌」の大和歌である長歌とその反歌を鑑賞するに際して、一般社会では当たり前なことですが、再確認のために「一つの作品において、それを構成する前置漢文と大和歌の長歌や反歌とはそれぞれが相互に強い連携を持つ」と規定します。
 さて、長歌の一節に「尓保鳥能 布多利那良比為(鳰鳥の 二人並び居)」と云う表現があり、先の前置漢文の解釈を踏まえ、この「二人」について検討を試みます。前置漢文の「紅顏共三従長逝」の一節は「青年は婦徳の女性と死出の世界へと長途に逝く」との解釈が可能ですから、長歌で詠う「鳰鳥のように二人が寄り添い暮らしている」で云う「二人」とは「青年とその夫人」と云うことになります。およそ、そこには大伴旅人とその妻である大伴郎女と云う老夫婦なる姿はありませんし、同様に山上憶良とその妻と云う組み合わせもありません。約束に従い、前置漢文と長歌は連携します。
 さらに長歌や反歌に「伊弊=家」と云う言葉が使われています。万葉の世界では「家」と「旅」との言葉の概念において、「家」なるものはその人の倭の本宅や本拠、または所属する一族の本拠を意味し、単純に「単なる居住する建物」ではありません。つまり、「日本挽歌」が山上憶良から大伴旅人へ献上された挽歌ですと、「家」は奈良の都での大伴旅人の本宅、又は娘が嫁いだ先の「紅顔」なる男性の屋敷となります。確実に大宰府での役宅ではありません。前置漢文は嫁いだ女性の死亡を示唆するものですから、漢文と長歌が連携するとしますと、「家」が意味する一番の可能性は旅人の娘が嫁いだ先の「紅顔」なる男性の屋敷となります。夫人はそこで夫と共に一時期に突然の死に遭遇したことになります。そして、その若き夫婦の突然の死は、山上憶良をはじめとして大伴旅人、そして、『万葉集』を編纂した人々にとって、「日本の死亡=日本挽歌」と感じられるものだったのです。さらに、妻問い婚の時代に従三位以上の高官である大伴旅人の娘は「紅顔」なる男性の屋敷へ嫁いでいたと考えられますから、相手となる男性は皇位継承の可能性のある皇族やそれに準じた高貴な身分であったと推定されます。
 この推定から長歌と反歌とを検討しますと、その解釈は次に示すものとなります。なお、長歌とその反歌などから推定しますと、「青年とその夫人」たる人物は、青年が将来に「国見の行為」を行うと期待された北宮であり、夫人は大伴旅人の娘と考えられます。この推定が正しいものであるならば、その事件は「日本挽歌」の標題に相当するものになるのではないでしょうか。

日本挽謌一首
標訓 日本(やまと)の挽謌一首
歌番号七九四
原文 大王能 等保乃朝廷等 斯良農比 筑紫國尓 泣子那須 斯多比枳摩斯提 伊企陀尓母 伊摩陀夜周米受 年月母 伊摩他阿良祢婆 許々呂由母 於母波奴阿比陀尓 宇知那比枳 許夜斯努礼 伊波牟須弊 世武須弊斯良尓 石木乎母 刀比佐氣斯良受 伊弊那良婆 迦多知波阿良牟乎 宇良賣斯企 伊毛乃美許等能 阿礼乎婆母 伊可尓世与等可 尓保鳥能 布多利那良比為 加多良比斯 許々呂曽牟企弖 伊弊社可利伊摩須 (比は田+比の当て字)
訓読 大王(おほきみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫し国に 泣く子なす 慕(した)ひ来(き)まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間(あひだ)に うち靡き 臥(こ)やしぬれ 言(い)はむすべ 為(せ)むすべ知らに 石木(いはき)をも 問ひ放(さ)け知らず 家ならば 形はあらむを 恨めしき 妹(いも)の命(みこと)の 在(あ)れをばも 如何にせよとか 鳰鳥(にほとり)の 二人並び居(ゐ) 語らひし 心背(そむ)きて 家離(さか)り座(い)ます
私訳 大王の遠い宮殿として知られる白日別(しらぬわけ)の国の、その筑紫の国に、親を乞う泣く子のように筑紫の国を(貴方=旅人は)慕い来まして、その息もまだ整えるほど休める暇もなく、(娘である貴女と奈良の京でお別れして)年月もいまだ経っていないので、心根にもまったく想像もしていない間に、草を靡かせ倒すように、貴女は臥せるように亡くなってしまった。言いようもなく為す術もなく、石や木に問うても、せんなく、家にいらしたのでしたら貴女のお姿があるでしょうが、恨めしい。愛しい貴女が生きていたならば、私は何をすればよいのでしょうか。鳰鳥のように、(あの御方と貴女は)二人連れ添って語らっていた。しかし、私の思いに反して、その貴女は亡くなられ家から遠離っていらっしゃいます。

反謌
歌番号七九五
原文 伊弊尓由伎弖 伊可尓可阿我世武 摩久良豆久 都摩夜左夫斯久 於母保由倍斯母
訓読 家に行きて如何(いか)にか吾(あ)がせむ枕(まくら)付(つ)く妻屋(つまや)寂(さぶ)しく思ほゆべしも
私訳 貴女の家に行って、どのように私はしましょうか。貴女が亡くなられ横になっている妻屋で寂しく想ったとしても。

歌番号七九六
原文 伴之伎与之 加久乃未可良尓 之多比己之 伊毛我己許呂乃 須別毛須別那左
訓読 愛(は)しきよし如(か)くのみからに慕(した)ひ来(こ)し妹(いも)が情(こころ)の術(すべ)もすべなさ
私訳 「愛しいことは、このように」と、ばかり慕っていた愛しい貴女の亡くなられたときの、その貴女の想いを思うと、どうしようもないことです。

歌番号七九七
原文 久夜斯可母 可久斯良摩世婆 阿乎尓与斯 久奴知許等其等 美世摩斯母乃乎
訓読 悔しかもかく知らませばあをによし国内(くぬち)尽(ことごと)見せましものを
私訳 残念なことです。こうなると判っていたならば青葉が照り輝く美しい大和の国を、ことごとく、お見せしましたものを。

歌番号七九八
原文 伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓
訓読 妹(いも)が見し楝(あふち)の花は散りぬべし吾(わ)が泣く涙いまだ干(ひ)なくに
私訳 愛しい貴女が見た楝の花。その(妹に)逢いたいと思う思い出の楝の花は、もう、散り去ったでしょう。私の泣く涙は未だに乾くことがないのに。

歌番号七九九 
原文 大野山 紀利多知和多流 和何那宜久 於伎蘇乃可是尓 紀利多知和多流
訓読 大野山(おほのやま)霧立ち渡る吾(わ)が嘆く沖瀟(おきそ)の風に霧立ち渡る
私訳 大野の山に霧が立ち渡って逝く。私の嘆きの溜息が風となり霧が立ち渡って逝く。

左注 神龜五年七月廿一日 筑前國守山上憶良上
注訓 神亀五年七月廿一日に、筑前國守山上憶良が上(たてまつ)る

 ここまで鑑賞を進めて来ましたが、重大な問題があります。歌番号七九九の歌の左注の「神龜五年七月廿一日」の年号を下に、ではその神亀五年春に「日本挽歌」を意味するような重大な社会事件があったかと云いますと、そのような事件はありません。ただ、神亀六年二月十日にあっただけです。ただし、『万葉集』 巻五での神亀五年の年号は、「長屋王の変」に伴う政治的忌諱から神亀六年の年号への政治的改変と解釈しますと、前置漢文の漢文構成において、前半「嗟乎痛哉」までは神亀六年二月十日の長屋王の変で亡くなられた人々へのかなしみの詞となり、後半「嗚呼哀哉」までは、特定の若き夫婦への哀悼の辞となります。そして、最後の七言詩はその不幸な事件に対する世直しの決意を促すものと想像することが可能となります。
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日本後紀から国書を考える

2018年09月17日 | 日本挽歌を鑑賞する
日本後紀から国書を考える

 『万葉集』の歌々を鑑賞するに当たって、一般にその時代背景を参照するときに、当然ですが、正史である『日本書紀』や『続日本紀』に載る記事が正しいものとしますし、その補完資料に『藤氏家伝』等を第二次資料として使用します。では、その『日本書紀』や『続日本紀』が正しい歴史を記しているかと云うと、そこには重大な疑惑があるようです。ここではその『日本書紀』や『続日本紀』に対して、ある問題を提起したいと思います。
 『大日本史』を編纂した水戸藩の学者から、『大日本史』の編纂の都合上、江戸期では偽書とされた書物に「伝日本後紀」があり、その中に『日本紀』に関する、次のような記事があります。なお、現存する正史として確認された「伝日本後紀」は、全四十巻の内、十巻分だけです。散佚した残りの三十巻分については佐伯有義氏が逸文を集成し、昭和十六年にその成果として朝日新聞社版『増補六国史 日本後紀』が出版されています。これを、再度、新たに発見した逸文で補填したものが平成十五年に集英社から『訳注日本史料 日本後紀』として出版され、さらに、この集英社本を下に平成十八年に原文付の全現代語訳本として講談社学術文庫から『日本後紀』が出版されています。紹介する『日本後紀』の記事は、朝日新聞社版『日本後紀』のものを講談社学術文庫の『日本後紀』に載る原文と照合・校訂し、訓は私訓を載せています。参考として、結論を先取る形になりますが、水戸藩の学者が「伝日本後紀」を偽書とした理由は、これを偽書としなければその内容が示す正史の姿を下にすると、現在に伝わる『日本書紀』や『続日本紀』を『大日本史』の編纂において信頼できる資料として採用することが出来ないという問題が生じたためと考えます。つまり、「伝日本後紀」を正とすると、『日本書紀』や『続日本紀』に歴史の改竄の存在を認めることになります。

日本後紀 弘仁三年六月戊子(二)の条
原文 是日、始令参議従四位下紀臣広浜・陰陽頭正五位下阿部朝臣真勝等十余人読日本紀、散位従五位下多朝臣人長執講。
訓読 この日、始めて参議従四位下紀臣広浜・陰陽頭正五位下阿部朝臣真勝等(たち)十余人に日本紀を読ましめ、散位従五位下多朝臣人長に講を執しめる。

 さて、示しました記事に示す「執講」の意味は「講(会合、集会)を執る」ですから、『日本紀』の講読会を取り纏めたであって、講義を行ったのではありません。つまり、紀臣広浜以下十余人によって、『日本紀』の講読が行われ、その講義の記録や講の開催の連絡・準備の事務方を正規の官職から外れていた多朝臣人長が臨時職として行っています。この記事だけですと、既にある『日本紀』の書物を下に紀広浜たちによって講読会(日本紀講筵)が開かれたとしか、解釈出来ません。ところが、このときの講読会の裏事情を、当時の人々が『日本紀私記』と云う名で覚書として残しています。平安初期の嵯峨前太上天皇・淳和後太上天皇・仁明天皇の時代の承和十年六月頃、弘仁年間に第二回目の日本紀講筵を行った多朝臣人長たちが保存する当時の記録から内史局(図書寮)が第三回目の日本紀講筵を開講する準備として、その前例を資料集として作成したようです。そのときの事情を第二回目の日本紀講筵の事務局を執った多朝臣人長が『日本紀私記』の形で書き残しました。なお、この時点での正史の名称は『日本書紀』ではありません。『日本紀』です。
 この『日本紀私記』の文章は、その書写されたものがインターネットで閲覧可能であり、それには愛媛大学と早稲田大学のものがあります。愛媛大学公開本は『日本紀私記序(承平六年日本紀私記零本)』(14)、早稲田大学公開本は『日本書紀私記巻上并序』(14)との書題が付けられています。これが、所謂、『弘仁私記序』(以下、「弘仁私記」又は「序」と云います)の伝本です。この「弘仁私記」の漢文は、本文となる大字体で記されたものと、その注釈となる小字体で記されたものとで構成されています。その注釈となる小字体で記されたものは愛媛大学や早稲田大学の公開書写や古典ファンの間ではよく引用されるHP「久遠之絆」(14)に載るものとでは相互に異同があります。また、題詞自体も「日本紀」と「日本書紀」との二種類があります。ここでは、HP「久遠之絆」から引用した「弘仁私記」を元に、愛媛大学公開の『日本紀私記序』で点検・校訂し、その校訂したものをテキストとして訓読を行っています。そのテキストの「弘仁私記」の本文(大字体部分)を抜き出したものを資料として本文中に紹介し、小字体注記を含む「弘仁私記」全文は 参考資料(15)として巻末に載せます。

(本文となる大字体表記のみを抜き出したもの)
夫日本書紀者、一品舍人親王、從四位下勳五等太朝臣安麻呂等、奉敕所撰也。
先是、淨御原天武天皇御宇之日、有舍人、姓稗田、名阿禮。年廿八。為人謹恪、聞見聽慧。天皇敕阿禮使習帝王本記及先代舊事。未令撰録、世運遷代。
豐國成姫元明天皇臨軒之季、詔正五位上安麻呂俾撰阿禮所誦之言。和銅五年正月廿八日、初上彼書。所謂、古事記三卷者也。
清足姫元正天皇負扆之時、親王及安麻呂等、更撰此日本書紀三十卷并帝王系圖一卷。養老四年五月廿一日、功夫甫就獻於有司。
上起天地混淪之先、下終品彙瓢成之後。神胤皇裔、指掌灼然、慕化古風、舉自明白。異端小説、恠力亂神、莫不該愽。
世有神別紀十卷、自此之外、更有帝王系圖。諸民雜姓記、新撰姓氏目録者、如此之書、觸類而夥。踳駮舊説、眩曜人看。或以馬為牛、或以羊為犬。輙假有識之號、以為述者之名。謂借古人及當代人之名。即知、官書之外、多穿鑿之人。是以官禁而令焚、人惡而不愛。今猶遺漏、遍在民間、多偽少真、無由刊謬。是則不讀舊記。無置師資、之所致也。
凢厥天平勝寶之前、毎一代使天下諸民各獻本系。永藏秘府、不得輙出、令存圖書寮者是也。
冷然聖主嵯峨帝弘仁四年在祚之日、愍舊説將滅、本紀合訛。詔刑部少輔從五位下多朝臣人長、使講日本紀。即課大外記正六位上大春日朝臣穎雄・民部少丞正六位上藤原朝臣菊池麻呂・兵部少丞正六位上安倍朝臣藏繼・文章生從八位上滋野朝臣貞主・無位嶋田臣清田・無位美努連清庭等受業、就外記曹局而開講席。
一周之後、卷袟既竟。其第一・第二両卷、義縁神代、語多古質。授受之人、動易訛謬。故以倭音辨詞語、以丹點明輕重、凢抄三十卷、勒為三卷。
夫天常立命、至畏根命、八千萬億歳。是雖古記、尚不緊切。
自伊諾命、至彦瀲尊、史官不備、歳次不記。
但、自神倭天皇庚申年、至冷然聖主嵯峨弘仁十年、一千五百五十七歳御宇五十二帝庶。後賢君子留情々察之云爾。

訓読
夫れ日本書紀は、一品舍人親王、從四位下勳五等太朝臣安麻呂等、敕(みことのり)を奉りて撰する所なり。
是より先、淨御原天武天皇御宇の日(とき)、舍人有り、姓を稗田、名を阿禮。年廿八。人は謹恪(きんかく)と為し、聞見(ぶんけん)聽慧(ちょうすい)。天皇の阿禮に敕(みことのり)して帝王・本記及び先代舊事を習(ならわ)しめる。未だ撰録せしめずに、世は運(めぐ)り代は遷(うつ)る。
豐國成姫元明天皇臨軒(りんけん)の季(とき)、詔(みことのり)して正五位上安麻呂をして阿禮の誦む所の言(ことば)を撰(しる)せしむ。和銅五年正月廿八日、初めて彼(か)の書を上(たてまつ)る。所謂(いわゆる)、古事記三卷なり。
清足姫元正天皇負扆(ふい)の時、親王及び安麻呂等は、更に此の日本書紀三十卷并びに帝王系圖一卷を撰ぶ。養老四年五月廿一日、功(いさ)しき夫甫の有司に獻ずるを就(な)す。
上は天地混淪の先に起き、下は品彙(ひんい)瓢成(ひょうせい)の後に終える。神胤皇裔、指(ししょ)掌灼(しゃくぜん)然。慕化古風、舉自明白。異端小説、恠力亂神。聞くを多く備ふを為し、該愽(かいはく)ならざることなし。
世に神別紀十卷有り、此の外に、更に帝王の系圖有り。諸(もろもろ)の蕃の雜姓の記、新撰姓氏目録、今此の書は、踳駮(しゅんばく)舊説(きゅうせつ)、眩曜(げんよう)人看(じんかん)なり。或(ある)は馬を以って牛と為し、或は羊を以って犬と為す。輙(すなわ)ち假(かり)そめの有識と之を號(よびな)し、以って述(しる)す者の名と為す。謂く、古人及び當代人の名を借る。即ち知る、官書の外、穿鑿(せんさく)の人多し。是を以って官は禁じ、而(すなは)ち焚(や)かしむ、人は惡(にく)み而(しか)るも愛(したが)わず。今なお遺漏あり、遍(あまね)く民の間に在り、偽り多く真(まこと)は少なし、由(ゆゑ)無く謬(あやまち)を刊(きざ)む。是れ則ち舊記を読まず。師(=規範)の資(よりどころ)を置くこと無くして、之を致す所なり。
およそ、かの天平勝寶の前(とき)、一代毎に天下諸民を使(つか)いて各(おのおの)本系(もとつすじ)を獻じ、永藏秘府し、輙り出すを得ず、圖書寮に存らしめるは是なり。
冷然聖主嵯峨帝の弘仁四年在祚の日に、舊(ふる)き説(はなし)の滅するを愍(あわれ)み、本(もと)つ紀(き)に訛(か)を合させしめる。詔して刑部少輔從五位下多朝臣人長に日本紀の講を使(つか)はしめ、即ち、大外記正六位上大春日朝臣穎雄・民部少丞正六位上藤原朝臣菊池麻呂・兵部少丞正六位上安倍朝臣藏繼・文章生從八位上滋野朝臣貞主・無位嶋田臣清田・無位美努連清庭等(たち)に業(わざ)を受くることを課し、外記曹局に就かしめ、講の席を開かしめる。
一周の後、卷袟(けんちつ)は既に竟(お)わる。その第一・第二の両卷は、義は神代に縁り、語(ことば)は多く古質、世の質は民淳、言詞(ことば)は今に異なる。之を授け受くる人、訛謬(かびゅう)は動き易し。故に倭(やまと)の音を以って詞語(ことば)を辨(わか)ち、丹(あか)き點(てん)を以って輕重を明(あきら)からにし、およそ抄三十卷、勒して三卷と為す。
それ天常立命(あめのとこたちのみこと)より、畏根命(かしこねのみこと)まで、八千萬億歳。これ古記にして、なお緊切(きんせつ)あらず。伊諾命(いざなぎのみこと)より、彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)まで、官に不備、歳次を記さず。
但し、神倭天皇の庚申年より、冷然聖主嵯峨弘仁十年まで、一千五百五十七歳の御宇五十二帝の庶(もろもろ)。後(すえ)の賢き君子、情々を留め、これを察(み)ると云ふ。

 最初に、巻末の参考資料として載せる「弘仁私記」全文の注記でも説明していますが、この「弘仁私記」は、冷然聖主嵯峨帝の「冷然聖主」の表記から、嵯峨天皇が淳和天皇に譲位されて太上天皇として冷然院に住まわれた期間、弘仁十四年(八二三)四月から承和九年(八四二)七月の崩御までの期間、または、それ以降に記されたと推定されます。
この「弘仁私記」は、弘仁四年(八一三)の嵯峨天皇の詔に端を発した第二回目の日本紀講筵に引き続き、仁明天皇の詔を下に承和十年(八四三)六月からの第三回目となる日本紀講筵の開始に備え、その講師となる菅野高年の要請により第二回目の講筵の取り纏めを行った多人長が当時の関係者である参議滋野貞主たちの資料や記録から弘仁年間の日本紀講筵の覚書を、その前例資料として内史局に対して作成したものと思われます。内容として、弘仁四年の日本紀講筵の開始からそれが終わる弘仁十年までの事情を述べていますが、この日本紀講筵覚書の作成自体は第三回目の日本紀講筵が始まる直前の承和十年六月ごろのことと考えます。
 次に、『万葉集』を鑑賞する上でこの「弘仁私記」の重要な点は「冷然聖主嵯峨帝弘仁四年在祚之日、愍舊説將滅、本紀合訛」の一節です。つまり、弘仁四年に嵯峨天皇が詔を下し、氏族の中にあったそれぞれ一族の伝承を正史である『日本紀』に歴史の異説として合併させ、その合本作業の世話人をこの多人長たちが行ったと記録していることです。また、「授受之人、動易訛謬。故以倭音辨詞語、以丹點明輕重」と記すように、同時に『日本紀』の解釈や訓みを安定させるために小字体や赤点で注記や倭音を表記する作業を行ったとも記しています。この状況を踏まえて『日本後紀』の弘仁三年六月二日の条と多人長の「弘仁私記」を合わせて読みますと、『日本紀』の講読作業は参議で従四位下である紀臣広浜を筆頭として陰陽頭で正五位下である阿部真勝たちが行い、その講読作業の成果の記録や旧説との合併の実務は大外記で正六位上の大春日穎雄ら、外記曹局の官人達が行ったと考えられます。そして、その講読作業や合本作業の取りまとめを「講」の責任者として多人長が行ったと推定されます。
 延暦十八年十二月二十九日の桓武天皇の詔に端を発する入り乱れた氏族の戸籍簿に相当する本係帳と氏族の先祖の由来の根拠を示す『日本紀』との整合をとる「本紀合訛」の作業に加え、『日本紀』自体の訓読みを安定させる「丹點明輕重」との作業の結果として、嵯峨天皇の時代には本来の伝えられた国書である『日本紀』と、嵯峨天皇の詔に従って氏族の戸籍簿である『新撰姓氏目録』に載る記事の根拠解釈を示すことと日本紀講筵で使う注釈書と為すと云うことの二つの目的を持たされた『日本書紀』との二種類の書物が併存していたとの推定が出来ます。この原本と註釈書との二種類の書物の存在を窺わせる記事として、『続日本紀』の神亀元年(七二四)十月丁亥朔の条に「白鳳以来、朱雀以前」と云う語句を含む詔が降されています。つまり、延暦年間(建前では天平宝字年間)頃に校訂された『藤氏家伝』等の資料を含めて検討しますと、『日本紀』においては斉明天皇の即位以来、白鳳、朱雀、朱鳥と元号は続いていたと考えられます。ここに『日本紀』と現在に伝わる嵯峨天皇の『日本書紀』との違いが明白に表れて来ます。こうしたとき、「序」の小字体での注釈では、『日本紀』は図書寮に収納されているとしていますが、同時に「是則不讀舊記 日本書紀・古事記・諸民等之類」と述べ、国家の定める正しい歴史を人々が知らないのは、『旧記』、『日本書紀』、『古事記』や民間にあるこの類の書物を一般の人が読まないからだとも指摘しています。逆説ですが、この文章から、多人長たちは朝廷の特別な人以外の人たちでも『旧記』(過去の事件などを記した記録)、『日本書紀』や『古事記』などの書物を読む機会は得られると認識をしていたことになります。つまり、図書寮で厳重に保管される『日本紀』は別として、『旧記』、『日本書紀』や『古事記』などの写本は民間に流布していたことになります。
 もしここでこの推定が許されるのなら、『万葉集』の左注に見られる『日本紀』と『日本書紀』との表記の違いや区分から、『万葉集』に対し左注が行われた時期の推定が可能になる希望があります。それは、第一に現在の『日本書紀』は弘仁十年頃に完成したとの推定が可能ですから、『万葉集』での『日本書紀』の表字を使った左注は自動的に弘仁十年頃以降となります。逆に『日本紀』とあれば弘仁十年頃以前となります。ここに廿巻本万葉集の編纂が嵯峨天皇の時代以降を示唆する『新撰万葉集』の序文との関連が見出されます。さらに、その注記において『日本紀』を参照して注釈が行える人物はその図書寮に保管されている『日本紀』の原本を閲覧が出来る人物に限定されますので、朝廷の承認の下に『万葉集』の編纂や注記作業を行ったとの推定が可能になります。つまり、初期万葉集は確実に勅撰和歌集の性格を持ちます。従いまして、このような点から『万葉集』を研究する上でもこの『弘仁私記』は非常に重要なものとなります。
 なお、『万葉集』から離れれば、この『弘仁私記』が意味するところは朝廷での官人秩序の基準となる氏族の地位を裏付ける本係帳とそれに密接に関係する『新撰姓氏目録』への掲載の根拠や解釈を示す記事が載る『日本紀』から『日本書紀』への改訂作業の実態を示すものです。この作業を検討することで平安時代に藤原氏を中心として行われた祖神改竄や由来の簒奪による先祖の変更、さらにそれに伴う神社縁起の再編成から行われた社田の簒奪などの歴史を探る端緒になるのではないでしょうか。ちょうどこれは斎部広成により平城天皇へ奉呈された『古語拾遺』において「至天平年中、勘造神帳。中臣専權、任意取捨。有由者、小祀皆列于縁者、大社猶廢。敷奏施行、当時、獨歩諸社、封税摠入一門」と述べるものと内実は同じとなります。
 また、『日本紀』から『日本書紀』への改訂の契機となった嵯峨天皇の下した「民の間にある歴史資料を公の正史に併せる」と云う、その詔の本質からすると、今後に行われる『新撰姓氏目録』の維持管理作業において祖先の由来を変更することが可能となりました。そのため、何時の時点での祖先の由来であるかを明確にするために「本紀合訛」の作業の期日を明らかにしておく必要が生じました。この要請から『弘仁私記』の末文に「但、自神倭天皇庚申年、至冷然聖主嵯峨弘仁十年」の一文が必要になったと考えられます。つまり、『弘仁私記』が認識する『日本書紀』は嵯峨天皇の弘仁十年時点での氏族たちの祖先の由来を確定するものです。そして、この一文があることによって、将来において、『日本書紀』に新たに「一書」や「或云」による一文や小字体注記を加えることを保証したと考えられます。つまり、嵯峨天皇の詔から、弘仁十年に新たに作成された『日本書紀』は、都度、改訂をしてよいことになります。そのためでしょうか、中国などの正史では有り得ない『日本書紀』特有の「一書と云う名の異伝」や「小字による書き入れ」が註釈ではなく本文として扱われるのでしょう。こうしてみますと、現在に伝わる『日本書紀』には改訂年月日が記載されていませんから、現在の『日本書紀』が何時の時点の『日本紀』からの改訂版かは定かではありません。
 嵯峨天皇は『日本紀』に手を入れられ、日本紀講筵で使う註釈書として『日本書紀』を新たに編纂されました。そして、その註釈書である『日本書紀』を民間に流布させました。一方、その父親である桓武天皇は、『続日本紀』を本人の意向に合わせて数次に渡り編纂・改訂をさせています。その事情を『日本後紀』は延暦十三年と延暦十六年とに二度に渡り記述しています。これもまた長いですが、その条の原文と訓読を巻末に資料として紹介します。
 資料に示す『日本後紀』の延暦十三年(16)と延暦十六年(17)との記事が記すように、桓武天皇が石川朝臣名足に『続日本紀』の編纂を命ずる前、およそ光仁天皇の宝亀年間には「続日本紀」の名称で文武天皇より天平宝字(聖武皇帝)元年までの正史を記録した第一次続日本紀(以下、称徳続日本紀)が存在していました。その「称徳続日本紀」に対して、桓武天皇は己が即位する以前の期間、天平宝字(淳仁天皇)二年より宝亀(光仁天皇)年間までを追加し、再編纂して二十卷本として石川名足が亡くなる延暦七年以前に第二次続日本紀二十卷本(以下、光仁続日本紀)の編纂を終えさせています。ところが、桓武天皇はこの石川名足が編んだ「光仁続日本紀」を不服として、その再編纂を藤原朝臣継縄に命じます。藤原継縄は菅野真道たちを指揮して、延暦十三年八月に文武天皇から光仁天皇までを第三次続日本紀十四巻本(以下、継縄続日本紀)として完成し捧呈しています。しかし、桓武天皇はこの「継縄続日本紀」にも不服があり「継縄続日本紀」はそのまま秘匿扱いとしました。そして、桓武天皇は「継縄続日本紀」の主筆であった菅野真道に、文武天皇から桓武天皇延暦十年までと編纂対象の期間を延ばした上で、再再度の編纂を行うことを命じています。この桓武天皇の勅命を受け、菅野真道は延暦十五年中に、天平宝字二年から延暦十年までの二十巻を先行してその編纂を終了しました。次いで延暦十六年二月になって文武天皇から天平宝字元年までを二十巻本として編纂を完了し、続日本紀の全編纂を終えています。最終的にこの四十巻本の第四次続日本紀(以下、桓武続日本紀)を桓武天皇が承認し、その完成を祝し編纂の労を褒賞しています。この菅野真道が編纂責任者として完成した「四十巻本桓武続日本紀」が、現在に伝わる『続日本紀』です。このような事情があるために『大日本史』の編纂した水戸藩の学者たちは『伝日本後紀』を偽書とせざるを得なかったのです。
 なお、朝日新聞社版『増補六国史 続日本紀』では巻一から巻廿までが菅野真道による奉勅撰との表記であり、巻廿一から巻四十までが藤原継縄による奉勅撰との表記が為されています。ただ、不思議なことに「桓武続日本紀」に先行して編纂された「継縄続日本紀」には記述が無かったはずの桓武天皇紀(巻三十七から巻四十まで)が藤原継縄による奉勅撰として載せられています。藤原継縄は延暦十五年七月に死亡していますから、当時としては現代史となる桓武天皇紀の編纂に対して、菅野真道はその編纂責任を取らされることから逃げ、既に亡くなっている前の正二位右大臣藤原継縄に負わさせた可能性があります。
 紹介しましたように、少なくても光仁天皇の時代には正しいとされた文武天皇から天平宝字(聖武皇帝)元年までの正史が、桓武天皇の時代にはその正史が問題となり、三次に渡って改訂作業が行われています。つまり、この状況から推測して、現在に伝わる「桓武続日本紀」が改変当事者である桓武天皇や藤原氏以外の人たちにとって、それが歴史事実を正しく記した正史であるかどうかは不明です。
 当然、正史である「桓武続日本紀」には記述がありませんが、『水鏡』の宝亀四年正月十四日の条(18)には光仁天皇の皇太子の選定において山部王(後の桓武天皇)と薭田親王との間に皇位継承に関する論議があり、山部王は首王(聖武天皇)と同様に母親の血筋について難を藤原浜成から指摘されたと記述しています。この状況を窺わせるものが、『日本後紀』 弘仁元年(八一〇)九月丁未十日の条の記事(19)です。これによると、平城天皇は桓武天皇の時の「桓武続日本紀」は正しい正史では無いとして、生存する当事者たちの証言等を下に正しい記録を使用して「桓武続日本紀」を改めさせました。ところが、嵯峨天皇が、その即位した日から薬子の変で平城太上天皇側に勝利する日までの間(弘仁元年四月十三日から九月十日以前の五か月間)に、その訂正された「平城天皇の続日本紀」を、再度、桓武天皇の時の「桓武続日本紀」に戻させています。なお、この記事では藤原百川と他戸皇太子・井上皇后との確執を記述するのみとなっていますが、他に史実として光仁天皇と薭田親王とは六日の内にほぼ同時に急病死し、直後、改元し延暦年間が始まっています。天平と云う元号への改元が長屋王の変の直後であるように、これも何かを示唆するものと想像します。
 以上、見て来ましたように桓武天皇と嵯峨天皇の時代に『日本紀』と『続日本紀』に対して大幅な改訂作業が行われたことが『日本後紀』から確認出来ます。従いまして、『万葉集』に載る記事と『日本書紀』や『続日本紀』に載る記事との間に齟齬が存在する場合、『万葉集』が間違っていると即座には判定が出来ないことになり、場合によっては『万葉集』の方が歴史事実としては正しいと云う可能性があります。
 ここで、歴史の偶然ですが、「夫人」の身分の女性を母親とする首王(聖武天皇)の皇位継承において、その競争相手で吉備内親王を母親とする膳親王とその父親である長屋親王は「長屋王の変」で誣告というクーデターによって首王たちの手で殺され、百済系の「嬪」以下の身分であった母親を持つ山部王(桓武天皇)の競争相手で長屋親王の御子であり「妃」の身分を持つ尾張女王(場合によっては内親王)を母親とする薭田親王とその父親の光仁天皇は、「病死」と云う死因で六日と云う短い間隔で急死しています。史実として、皇位継承での競争相手一家惨殺の直後に首王は聖武天皇として神亀から天平に、競争相手の病死を得た山部王は桓武天皇として天応から延暦へと改元を行っています。ここに歴史での不思議な偶然の一致がありますし、その天平は二十一年間、延暦は二十五年間も改元することなく続いています。


漢語から北宮を考える

 現在に伝わる『日本書紀』や『続日本紀』が桓武天皇や嵯峨天皇以外の人々にとって、それが正しく史実を記述する正史であるかどうかは不明であることを前提に、新しい平城京遺跡発掘の成果である北宮木簡群の、その「北宮」の言葉について漢語から考えてみます。
 昭和五十年(一九七五)に奈良市尼ヶ辻町の郵便局予定地から平城京時代の宮跡庭園(現在の名称、北宮宮跡庭園)が完全な姿で発掘されています。昭和五十一年に報告された『平城京左京三條二坊六坪発掘調査概報』(奈良国立文化財研究所編)などの報告書によると、この遺跡のA期からは宮跡庭園だけでなく平城宮出土軒瓦編年によるI期及びⅡ期と同じ軒瓦や北宮、中務省等と書かれた木簡などが出土しています。その後、昭和六十三年(一九八八)に長屋王宮跡から長屋王家木簡が発見され、その中に北宮と記す木簡群が含まれていたことから特別に平城京における北宮の重要性が注目されました。なお、この北宮宮跡庭園については、長屋王家遺跡が発見される四年前の昭和五十九年に、歴史では特別に有名な聖武天皇や孝謙天皇に因む天平後期となるB期の出土を根拠に新たな観光資源の創設を主眼として宮跡庭園が整備されたようです。このため、観光のために整備された庭園やそこで現在も行われている説明と、学術ではより重要である昭和五十一年の奈良国立文化財研究所の概報の内容とが完全に一致するものではありません。
 さて、長屋王家木簡の発見から、その存在が再注目された北宮は、歴史におけるその存在の重要性に反して、奈良時代後期の東院や平安以降の東宮とは違い、あまり馴染みがない言葉です。そのために、一部の研究者が平安時代以降に北の対屋から派生した言葉である北政所の言葉が持つイメージから北宮の意味合いを正妻の住む北の対屋と説明し、長屋王家木簡群の中に見つかる北宮とは長屋王の正妻である吉備内親王の居住空間を示すとの解釈を提起しました。そのため、歴史や遺跡の解釈に無用の混乱を生じさせた時代もあったようです。つまり、その研究者は、無意識と思いますが、「紅顔」の言葉と同じように「北宮」と云う漢語に対して中国大陸を含む漢字文化圏での用語調査を行うことなく、単純に日本での和語と解釈して自己流に和製漢語としてこの北宮の言葉を解釈したと推測されます。
 当然、北宮の表記を漢字文化圏での言葉として捉えると、意味は大きく違います。例えば、北宮は大陸や朝鮮半島では王城の構成には欠かせない宮域であって、私的な空間ではありません。高句麗の王宮は安鶴宮と称しますが、その安鶴宮は中宮、東宮、西宮、南宮、北宮の五つの宮域で構成されています。また、新羅の王都金城は、先行する月城が古くからの王宮でしたが、七世紀末の統一新羅国の成立期頃に月城の北側に条坊制を敷き整備され、さらに別宮として北宮を築いています。高句麗や新羅ではこの北宮の機能は不明ですが、大陸ではほぼその機能が特定されています。それは秦・漢時代から魏・晋時代までは、北宮は太子宮とも称され、皇太子の住居でした。この状況を示すものとして、『後漢書』 皇后紀では皇太子に妃が選定される状況を、明徳馬皇后では「由是選后入太子宮」、また、賈貴人では「建武末選入太子宮」と記しています。そして、この太子宮について、初唐の学者で皇太子承乾の命令により『漢書』の注釈書を著わした顔師古は、『漢書』 成帝紀に載る「初居桂宮」の一節を説明するに「三輔黄図桂宮在城中、近北宮非太子宮」として、前漢長安に関する社会地理情報書である『三輔黄図』を基に「桂宮は宮城内にあり北宮に近いが太子宮ではない」と解説しています。さらに、『魏書』の十一年二月の条に「是月、大治宮室、皇太子居于北宮」とあり、『北齊書』の本紀第五 廢帝殷の天保元年の条に「立爲皇太子、時年六歳。・・略・・、常宴北宮」とあります。顔師古の認識を含めて漢から唐初の時代では、皇太子は王城の北宮に居住し、その北宮を皇太子が居住する場所として太子宮と称していたと推定しています。さらに国立清華大学中国文学系兼任助理教授の郭永吉氏は中国の東宮を研究した論文『先秦両漢東宮稱謂考』(文與哲第八期二〇〇六・六)で「至於西漢時皇太子、所居曰太子宮、史書並未明確記載其所處的位置、学者推測可能在北宮、因此也就未見以東宮稱之」と説明しています。
 この郭永吉氏の論文の背景には、中国や日本の東宮研究者は、王城に東宮と云う宮域が出来るのは隋の大興城が最初ではないかと推定し、その大興城の都市計画と宮域の名称を唐がそのまま長安城として引き継いだとしています。つまり、隋・唐以前に東宮なる宮域は存在しなかったと推定していることに拠ります。このため、王城に東宮と云う宮域が出来る隋・唐以前の王朝では、どこに皇太子が居住し、それをどのように称していたかが問題になりました。その疑問について、近年の資料調査と遺跡研究から、郭永吉氏もその論文で引用するように、現在では王城の北側の宮域に北宮があり、その北宮域に太子宮が置かれ、皇太子が居住していたと考えられています。つまり、北宮は王宮を構成する重要な空間なのです。
 大宝元年(七〇一)の大宝律令での東宮家令官員令、また、天平宝字元年(七五七)の養老律令での東宮職員令から東宮家または東宮と呼ばれる皇太子について、日本では、つい最近まで、東宮なる言葉が大陸でも古代から太子宮を示すものと思い込んでいた節があります。本来、東宮とは隋・唐朝以降の官署を示すもので、太子の住む住居区を示すものではありません。東宮が名実共にその実態を示すのは、隋朝に大興城の太极宮の東に宮域が置かれ、それを唐朝が引き継いだために太子宮のあった北宮域が廃止され、東宮域が新設された結果です。従いまして、奈良時代では、太子の住む住居区としての意味合いでの東院や東宮と云う言葉は比較的新しい外来語となります。
 さて、日本もそうですが中国でも高貴な人物については、その氏名を直接には表現せず、解釈に誤解が生じない別のもの(建物、地位・役職、領有地等)で、その人物を表現したと推定します。つまり、皇太子が居住することから、その居住する建物を地位から太子宮と呼び、また、その建物が宮城の北に位置し、それを場所から北宮と呼ぶならば、隋・唐以前の人々の間に北宮の言葉に皇太子の意味を持たせた可能性は否定できないと考えます。
 万葉の時代は大宮人が藤原京や平城京を計画し、建設した時代です。その藤原京や平城京の王都たる「京」の建設は、従来の「宮」だけの建設とはその規模が桁違いに違い、大規模な国家プロジェクトです。そのため、朝廷の主だった人物は、その計画立案に直接関与するか、その計画案を見聞きしていた可能性があります。そして、その都市計画において、現在の王京研究者が藤原京や平城京を唐長安と比較研究するように、当時の大宮人も高句麗安鶴宮・新羅金城や『三輔黄図』等の資料を通じての秦咸陽故城、漢長安故城や唐長安城を研究・検討したと想像します。当然、朝廷機能の根幹である宮殿、署、庫、倉や道路・運河等の交通網の配置においても秦の咸陽京、漢の長安古京や隋・唐の長安京を参考にしたでしょう。それを藤原京や平城京での王宮計画に採用する、しないは別として、隋・唐以前の太子宮である北宮の存在とその目的も知っていたと考えます。この王都における北宮の認識を裏付けるものとして、近年の平城京遺跡調査で平城宮の南東に位置する長屋王屋敷跡で発見された長屋王家木簡群や北宮宮跡庭園の中から発見された「北宮」の記述を持つ木簡群です。また、和銅五年歳次壬子十一月十五日庚辰の日付を持つ『大般若波羅密多経巻(和銅五年経)』にも願文主である長屋王の署名の代わりとして「北宮」の署名が認められています。
 『平城京左京三條二坊六坪発掘調査概報』などを下にした平城京時代の庭園に対する研究では、長屋王家庭園は和銅三年(七一〇)頃に築造され、その長屋王家(平城京左京三条二坊一・二・七・八坪)に隣接する北宮宮跡庭園(平城京左京三条二坊六坪)は、和銅七年(七一四)頃に漢代に作られた竜文瓦の文様によく似せた池泉の輪郭を持って築造されたと推定されています。また、長屋王家木簡群の発掘調査に携わった森公章氏は、その著書『奈良貴族の時代史』(講談社選書メチエ)で「北の八坪の地から続く蛇行溝SD1525から検出された遺物で、木簡の時期・内容は長屋王家木簡とほぼ一体のものと見ることができる」(七六頁)と述べられています。現在、一般に公開される北宮宮跡庭園の評価とは違いますが、昭和五十一年の発掘調査概報や森公章氏の著書から、少なくとも和銅から神亀年間には北宮宮跡庭園と最初の建物遺構とは存在していたと理解します。すると、この和銅三年は平城京遷都の年ですし、和銅七年の翌年 霊亀元年(七一五)正月は『続日本紀』によると皇太子が初めて朝賀に参列した年です。長屋王が『日本霊異記』や木簡群が示すように親王の称号を正式に有していたのなら、非常に興味深い年代の一致です。また、平城宮大極殿の北方ではなく、南東に位置した長屋王家とその隣接した邸宅跡から北宮の記述を持つ木簡が大量に発見されたことは、前期平城京時代において北宮とは王宮の領域を示すものではなく、その邸宅に居住していた人物の地位を示すものと考えます。
 ここで、今日に伝わる『大般若波羅密多経巻(和銅五年経)』は、文武天皇の死去を悼んで長屋王が発願し大般若波羅密多経六百巻の写経を行ったとの内容の願文を有する『和銅五年経』と称されるものです。その経本に長屋王は和銅五年の時点では北宮の名で署名を行っています。他方、それが、『大般若波羅密多経巻(神亀五年経)』と称される神亀五年五月十五日の日付を持つものでは仏弟子長王と長屋王自身のことを表しています。奈良時代は少なくとも仏教の経や願文は漢文・漢語で記すのがルールです。平安時代以降は別として、少なくとも和銅五年から神亀六年ごろの奈良の都で漢語として北宮の言葉が存在し、その北宮とは自他共に長屋王を示すものと認識しているのなら、唐を中心とする漢字文化圏での国際社会の一員であり、新羅や渤海などの使節団が訪れる奈良の都では、漢語・漢字を基としますと『大般若波羅密多経巻(和銅五年経)』に「北宮」と署名する長屋王は皇太子であったとみなさざるを得なくなります。
 これを前提に願文の仏弟子長王の表記を考えてみますと、和銅五年の段階では長屋王は北宮の敬称を使用する皇太子でしたが、神亀五年では漢語での「王」の言葉を自称に使用しています。つまり、この表記の推移から推測して、和銅五年から神亀五年までの間に長屋王は日嗣皇子たる皇太子から大王へと就いていた可能性があります。なお、筆者は奈良時代までは大和の政治体系は祭祀を行う天皇と政治を行う大王とが並立する宗政分離であったと考えていますので、元正天皇と長屋大王(又は太政大臣長屋親王)とは共立していたと考えています。
 ここで、万葉集中に示される「大王」の敬称について相互の認識を確認します。『万葉集』には天皇(すめらき)と大王(おほきみ)との二つの区別された敬称表記が存在します。この二種類の表記や『日本書紀』に示される筑紫国菟狭国造の祖である菟狭津彦と菟狭津媛、筑紫国山門県の夏羽と田油津媛との組み合わせの事例から推定しますと、桓武天皇の延暦年間以前は大和では祀事(まつりこと)を行う天皇と政事(まつりこと)を行う大王に宗政分離していたと考えています。共に音では「まつりこと」ですが、天皇は大和民族の集合体の象徴として神と人との仲立ちをする現御神となる祭祀者、大王は大和の統治を行う代表者と解釈しています。つまり、原理において元正天皇と長屋大王の並立は可能となります。そして、思想原理では現御神たる天皇は地上に居る神ですから譲位が出来ません。一方、大王は人の代表ですから譲位や交代が可能です。ここで神と人との仲立ちに注目しますと、天皇家では間人皇后、中天皇や中皇命に、祭事家臣では中臣の名にその由来や思想が表れているのではないでしょうか。
 ただし、神と人との仲立ちとなる現御神には神と民衆とが共に認めた選ばれし特別な血を引く者が就き、俗世間の一般の臣民ではなれません。つまり、地上の神となる人物はあくまでも天皇家の血を引く者だけが就くことが出来ます。伊勢神宮の斎王が天皇の血を引く者でなければならないのは、ここに理由があります。そのためか、歴史では諸王出身の聖武天皇は正式には「聖武皇帝陛下」の称号であり、光明皇后は皇帝陛下の皇后であって「天皇の皇后」ではありません。正史では明確にその称号を区分しています。その天平時代、神道祭祀は元正太上天皇から孝謙天皇へと遷ります。


長屋王を再評価する

 これまでの鑑賞を踏まえて歴史を点検しますと、『続日本紀』に非常に興味深い記事があります。それが、次に紹介する神亀三年(七二六)七月戊子(十三)に新羅の貢調使を送別したと云う外交記事です。

神亀三年七月戊子の記事
秋七月戊子、金奏勲等帰国。賜璽書曰、勅伊飡金順貞。汝、卿安撫彼境、忠事我朝。貢調使薩食金奏勲等奏称、順貞以去年六月卅日卒。哀哉。賢臣守国、為朕股肱。今也則亡、殲我吉士。故贈賻物黄紡一百疋・綿百屯、不遺爾績、式獎遊魂。
訓読
秋七月戊子に、金奏勲等帰国す。璽書(じしょ)を賜(たま)はらして曰(いは)く「伊飡(いさん)金順貞に勅(みことのり)す。汝、卿は彼(か)の境を安撫し、我(わが)朝(みかど)に忠事なり。貢調使(こうちょうし)薩飡(ささん)金奏勲等の奏(そう)して称(いは)く『順貞は去年六月卅日に卒(みまか)れし』と云う。哀しいかな。賢臣の国を守り、朕の股肱と為(な)れり。今は則ち亡(むな)しくし、我(わが)吉(よ)き士(をのこ)を殲(う)せり。故に賻物(はぶりもの)の黄紡(あしきぬ)一百疋・綿百屯を贈りて、爾(ここ)に績(いさを)を遺(わす)れず、遊魂の式(のり)を獎(たす)けむ」と。

 この記事から新羅の伊飡金順貞は神亀二年六月三十日に亡くなったことが分かります。ここで「伊食」は新羅では「伊伐飡(いばつさん)」に継ぐ官位で、大和朝廷での正二位に相当します。およそ、金順貞は太政大臣格の新羅王家での実力者です。日本と新羅とは和銅・養老年間に頻繁に交流をしており、神亀三年の新羅使は神亀元年に譲位を受けた新天皇への祝賀使です。ここらから、記事での「賢臣守国、為朕股肱」の言葉が示す人物は、少なくとも養老年間における日本と新羅との外交交渉の相手側の人物であり、日本の「朕」たる人物と交渉があったと考えられます。そして、それは神亀元年に譲位を受けた新天皇への祝賀使に対する言葉ですから、「朕」たる人物は養老年間には皇太子、または、それに準ずる人物であり、実際の新羅外交に関与しています。
 こうしたとき、『懐風藻』に大學頭從五位下山田史三方が詠う「秋日於長王宅宴新羅客」の漢詩(20)があり、その前置漢文の序に「君王」の言葉があります。

君王以敬愛之沖衿 君王敬愛の沖衿(ちゅうきん)を以つて
廣闢琴樽之賞 廣く琴樽(きんそん)の賞を闢(ひら)く
使人承敦厚之榮命 使人(しにん)敦厚(とんこう)の榮命を承(う)け
欣戴鳳鸞之儀 鳳鸞(ほうらん)の儀を欣戴(きんたい)す

 この漢詩が詠われたのは養老七年八月説と神亀三年七月説との二説がありますが、新羅の使節団を招いての送別の宴が披かれた場所は長屋王の別邸です。送別の宴が開かれた場所から、この前置漢文の「君王以敬愛之沖衿、廣闢琴樽之賞」の句に示す君王とは、宴会を催した長屋王その人を示すことになります。
 さて、この送別の宴は「秋日於長王宅宴新羅客」と題にありますから、序に示す漢文に使った「君王以敬愛之沖衿」の「君王」の言葉には、国際儀礼上、招かれた新羅の客も理解する国際語としての君王の意味であるはずです。つまり、学問では最高権威である大学頭の山田史三方は国際語としての漢語における君王(=天子、国王)の意味合いで、序に示す君王の表記を行ったはずです。およそ、新羅使を招いた国際的な宴の情景を詠う『懐風藻』の漢詩の序から推測すると、神亀三年七月(または、養老七年八月)に長屋王は、新羅使が違和感を持たない君王の地位にあったことになります。
 次に神亀元年二月四日の元正天皇の譲位の詔を見てみます。すると、その詔の一節に、

続日本紀 神亀元年二月四日の詔
原文 此食国天下者、掛畏岐藤原宮爾天下所知美麻斯乃父止坐天皇乃、美麻斯爾賜志天下之業止、詔大命乎、聞食恐美受賜懼理坐事乎、衆聞食宣
訓読 此の食(お)す国の天の下は、掛けまくもかしこみ「藤原宮に天の下知らしめし美麻斯(みまし)の父と坐(ま)せし天皇(すめろぎ)」の、美麻斯に賜はらし天の下の業(ひつぎ)と詔(みことのり)の大命を聞しめし恐(かしこ)み受け賜はらし懼(かしこ)み坐(ま)せし事を衆(もろもろ)の聞(きこ)しめせと宣る。

とあります。
 当時、亡くなられた天皇に対して漢風諡号はまだ使われていませんので、和風諡号で亡くなれた天皇を呼称することになります。例えば、和風諡号においては、持統天皇は「高天原廣野姫天皇」又は「藤原宮御宇倭根子天皇」、文武天皇は「倭根子豊祖父天皇」又は「天之真宗豊祖父天皇」、元明天皇は「日本根子天津御代豊國成姫天皇」、元正天皇は「日本根子高瑞浄足姫天皇」です。ここで、従来の歴史説明においては、元正天皇の譲位の詔では文武天皇を示す尊称として「倭根子豊祖父天皇」ではなく「藤原宮爾天下所知美麻斯乃父止坐天皇」と云う不思議な尊称を使ったとしています。当然、文武天皇が御存命ですと和風諡号は与えられていませんので使えませんが、神亀元年には文武天皇は既に御陵に祀られている方です。つまり、神亀元年に譲位を受けた天皇は、その天皇の父親を示す言葉として「倭根子豊祖父天皇」の尊称を使えない人物と推定されますので、文武天皇の御子ではない皇子であったと云う可能性が浮かび上がります。天智天皇の定めにより皇位継承が臣下に推戴されるのではなく皇統を定める規定によるなら、皇子は天武天皇の定めた規定から内親王や二世王を母親に持つ人物でなくてはいけません。当然、夫人の称号の母親を持つ首王はその対象外です。
 こうしたとき、近江京の天智天皇から平城京の孝謙天皇までの御代の代数を記した淳仁天皇の詔が、『続日本紀』にあります。

天平宝字二年(七五八)八月二十五日の詔
原文 況自乃祖近江大津宮内大臣已来、世有明徳、翼輔皇室。君歴十帝、年殆一百、朝廷無事、海内清平者哉
訓読 況んや自(みずから)の祖の近江大津宮の内大臣(うちのおほおみ)よりここに来(いた)るまで、世に明徳が有りて、皇室を翼輔す。君歴は十帝、年は殆んど一百年、朝廷に事無く、海内は清く平らかなり。

 この詔が示すように、孝謙天皇から皇位を譲られ即位したばかりの淳仁天皇が藤原仲麻呂に対して、その藤原氏が為した天皇家十代の統治への補佐を誉めるのであれば、対象となる統治期間は実際に補佐が行われた期間でしょうから、その期間は天智天皇から先の孝謙天皇までです。これを淳仁天皇の詔が示すように十代の世とするのですと、天智・天武・草壁・(高市)・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙天皇でなければ代数が合いません。なお、この詔は『続日本紀』に載るものですから、明治期以降に天皇となった大友皇子(弘文天皇)は、奈良・平安時代の規定に従って天皇の代数には入れていません。また、草壁皇子は、この詔の直前の天平宝字二年(七五八)八月九日に岡宮御宇天皇の尊称を淳仁天皇から追贈されていますから、この詔では代数に取り入れられているはずです。こうしますと、問題として残るは「高市天皇」の解釈になります。
 さて、東大寺正倉院宝物の御厨子の由緒文に「右件厨子、是浄御原宮御宇天皇傳賜藤原宮御宇太上天皇、天皇傳賜藤原宮御宇太行天皇、天皇傳賜平城宮御宇中太上天皇、天皇七月七日傳賜平城宮御宇後太上天皇、天皇傳賜今上、今上謹献盧舎那佛」と書かれています。この由緒文では、藤原宮にちなんで持統天皇は藤原宮御宇太上天皇、文武天皇は藤原宮御宇太行天皇と称されます。では、浄御原宮御宇天皇を天武天皇のことを示すのなら、称号の論理として藤原宮御宇天皇とはどの天皇を示すのでしょうか。それとも、称号の論理において、そもそも藤原宮御宇天皇の表記となる天皇は存在しないのでしょうか。又は、藤原宮御宇天皇の代わりに「藤原宮爾天下所知美麻斯乃父止坐天皇」と云う不思議な尊称の天皇と置き換えられたのでしょうか。およそ、藤原宮御宇天皇は、聖武天皇と桓武天皇によって消された天皇と考えます。つまり、藤原宮御宇天皇となる「高市天皇」は存在したと推測します。
 そして、「高市天皇」が存在するならば、先に「漢語から北宮を考える」の章でも示したように必然に神亀元年二月四日の元正天皇の譲位の詔から長屋大王(又は天皇)の存在も現れて来ます。ただし、聖武・孝謙天皇から政治を引き継いだ淳仁天皇と藤原仲麻呂にとって聖武天皇と藤原氏による大王殺害を証明する「長屋大王」は避けるべき話題でしょうから、長屋大王は「君歴十帝」には含まれていないと考えます。追加して、この推論に疑義を唱える御方には『日本後紀』に載る大同元年七月十三日の平城天皇の詔(21)を一読して頂きたいと願います。その詔から高市皇子の藤原京、文武天皇の前期平城京、長屋王の後期難波宮、光仁天皇の長岡京等の王宮建設の意味合いが、十分に理解されると考えます。
 さて、その長屋大王の可能性を示すものとして、『万葉集』では歌番号四四一と歌番号四四二の歌に長屋天皇とその御子である膳部皇太子の死を悼む歌があります。なお、編纂過程から考えて挽歌を詠う倉橋部女王自身が『万葉集』に載る歌の題詞を付けたのではありませんから、題詞が示す内容と歌が一致する保証はありません。ただし、長屋大王を否定する立場を取る人々は題詞と歌の内容は一致するとして、歌番号四四一の歌の「命恐」を「詔畏み」と訓み、句切れを取らずに歌の「大皇」を聖武天皇と解釈します。ただそのとき文学用語において「大荒城乃 時尓波不有跡 雲隠座」をどのように解釈できるのかは難問です。本来、大和言葉では「大皇」、「命恐」、「大荒城」と「雲隠座」とは密接に関連し、天皇や大王への敬称の言葉であって臣下に使う言葉ではありません。歌の句で歌を解釈するか、後年に付けられた題詞で歌を解釈するかは、立場に拠ります。

神龜六年己巳、左大臣長屋王賜死之後倉橋部女王作謌一首
標訓 神亀六年己巳、左大臣長屋王に死を賜(たまはれたま)ひし後に倉橋部女王の作れる歌一首
歌番号四四一
原文 大皇之 命恐 大荒城乃 時尓波不有跡 雲隠座
訓読 大皇(すめろぎ)し尊(みこと)恐(かしこ)し 大殯(おほあらき)の時にはあらねど雲隠(くもかく)ります
私訳 天皇は畏れおおい方です。ところが、大殯の時でも無いのに天皇は天の雲に隠れ、亡くなられてしまわれた。
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日本紀の朱鳥の元号から神亀五年を考える

2018年09月17日 | 日本挽歌を鑑賞する
日本紀の朱鳥の元号から神亀五年を考える

 「弘仁私記」を鑑賞することから、『日本書紀』は弘仁十年頃に嵯峨天皇の詔により『日本紀』から新たに創られた書物との推定を得ました。そこから『日本書紀』と『万葉集』との間に歴史に対して矛盾が存在する場合、一義的に『日本書紀』に載る記事が正しいとは断定できない可能性が導かれます。
 こうしたとき、古くから『万葉集』の歌の左注に記す文において、初期万葉集編者が『日本紀』から考証して「朱鳥」と云う年号を注記したことが知られています。資料として、『万葉集』が引用する『日本紀』と『日本書紀』との年号対比表を以下に示します。

『万葉集』が引用する『日本紀』と『日本書紀』との年号対比表
事件/記事 万葉集/日本紀 西暦 日本書紀対比 西暦 掲載歌番号
大津皇子被死 朱鳥元年冬十月 六八六 持統称制前紀冬十月 六八六 歌番号四一六
天皇幸紀伊國 朱鳥四年秋九月 六八九 持統四年秋九月 六九〇 歌番号三四
川嶋皇子薨 朱鳥五年秋九月 六九〇 持統五年秋九月 六九一 歌番号一九五
天皇幸伊勢 朱鳥六年春三月 六九一 持統六年春三月 六九二 歌番号四四
幸藤原宮 朱鳥七年秋八月 六九二 持統七年秋八月 六九三 歌番号五〇
幸藤原宮 朱鳥八年春正月 六九三 持統八年春正月 六九四 歌番号五〇
遷居藤原宮 朱鳥八年冬十二月 六九三 持統八年冬十二月 六九四 歌番号五〇
高市皇子尊薨 朱鳥十年秋七月 六九五 持統十年秋七月 六九六 歌番号二〇二

注意: 日本書紀では高市皇子尊が薨れたその翌年の持統十一年秋八月に、ちょうど、高市皇子尊の公式の一年の喪が明けた月になりますが、文武天皇が即位されています。

 この元号対比表において、朱鳥元年を基準年としますと年号対比表では和暦と西暦との間に一年の齟齬が生じますが、これには理由があります。それは、『日本書紀』に載る持統天皇即位前紀朱鳥元年(六八六)九月と持統元年(六八七)正月との条に次の文言があるからです。

持統天皇即位前紀朱鳥元年(六八六)九月九日の条
原文 朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛真人天皇崩。皇后臨朝称制。
訓読 朱鳥元年九月戊戌朔丙午に、天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)崩(ほうず)る。皇后、称制して朝(まつりごと)に臨(のぞ)む。
持統元年(六八七)正月一日の条
原文 元年春正月丙寅朔、皇太子率公卿百寮人等、適殯宮而慟哭焉。
訓読 (持統)元年春正月丙寅朔に、皇太子は公卿百寮人等を率ひて、適(まさ)に殯宮(もがりのみや)に慟哭(どうこく)をなす。

 この『日本書紀』に載る二つの記事により、歴史家は「持統」と云う元号の前に「朱鳥」又は「持統称制前紀」と云う元号を入れざるを得なくなったのです。このために、『万葉集』に載る『日本紀』での朱鳥の年号による記事と『日本書紀』での持統の年号による記事とに、同じ記事ですが、そこに一年の齟齬が生じてしまいました。逆に、『日本書紀』が正しい正史なら「持統称制前紀」と云う元号の存在のために『万葉集』との間に一年の相違が生じなければいけないのです。
 ところが、『万葉集』の歌番号三八の「幸干吉野宮之時、柿本朝臣人麿作歌」の標題を持つ歌の左注に「右、日本紀曰、三年己丑正月、天皇幸吉野宮。八月幸吉野宮。四年庚寅二月、幸吉野宮。五月幸吉野宮。五年辛卯正月、幸吉野宮。四月幸吉野宮者、未詳知何月従駕作歌」とあり、この三年己丑、四年庚寅や五年辛卯が示す干支年号は『日本書紀』に載る持統元年の記事「是年也、大歳丁亥」から得られる持統年号比較では干支年号が一致します。つまり、『万葉集』の「朱鳥元年」と『日本書紀』での「持統元年」は西暦換算では一致することになります。逆に「持統称制前紀」の記事からすると『万葉集』の「朱鳥」の元号と『日本書紀』の「朱鳥」の元号は、その起算元年が違うため、同じ名称ですが別な元号と云うことになります。実にややこしい話です。
 当然、先の国書改訂問題の提起による「弘仁私記」の検討から、現在の「伝日本書紀」は弘仁四年から弘仁十年にかけて『日本紀』から『日本書紀』へと再編纂されたものであることは、ほぼ、確実と推定されます。平安時代初期になって『日本紀』から『日本書紀』へと再編纂が行われたとしますと、万葉人である大伴旅人や山上憶良たちは「持統」と云う元号を知らないことになります。彼らが使う元号は、あくまでも『万葉集』の左注に載る『日本紀』に記す「朱鳥」と云う元号であり、それは天武年間から連続するものですし、続く元号もまた朱鳥から連続するものです。人によっては『続日本紀』や『旧唐書』などの記事を参照して、元号は孝徳天皇の大化から始まり、白雉、白鳳、朱雀、朱鳥、大和、大長、大宝、慶雲、和同(「和銅」の誤記ではありません)、霊亀、神亀と、断裂なく続くとします。
 現在の歴史に於いて、奈良時代の人々が承知する『日本紀』や最初の「称徳続日本紀」に載る白雉からの連続する元号と、それに対して改訂された嵯峨天皇の『日本書紀』や桓武天皇の『続日本紀』で使う新たな元号が、西洋暦を下にしたとき、どの段階でその暦年が一致するのかは不明です。ただし、太政官の外記日記等に残されるべき朝廷に関わる行為、例えば、遣唐使、遣新羅使や遣渤海使等の渡航を含む外交関係などについては、新羅や大唐の文献から日付は確認されているでしょう。それらに関わる歌については『万葉集』の歌に題詞が付けられた段階、また、後に目録が新たに追記された段階などで『万葉集』の題詞や目録の持つ日付は調整がなされたと考えます。
 そうしたとき、歴史の改竄に大きく関わると思われる長屋王の変以前で、文筆した本人により私的な日記や書簡文などに日付が付けられたものは、その日付の調整は出来なかったと考えます。つまり、万葉集中で個人の行為に基づく日付を持つ歌は、現在に伝わる『日本書紀』や『続日本紀』の日付と比べたとき、その日付に一年のずれが生じる可能性を否定できないことになります。従いまして、『万葉集』 巻五の大伴旅人の「報凶問歌」や山上憶良の「日本挽歌」と嘉摩三部作などに代表される作歌者によって付けられた日付を持つ私的な日記や書簡文に、一年の相違が存在する可能性を否定することが出来なくなります。


養老八年格の問題

 先の章で『万葉集』と『日本書紀』との間での朱鳥の年号について考察をしました。そこでの考察の仮定で浮上しました疑惑や可能性について、その歴史の疑惑を裏付ける歌が『万葉集』にあります。それが、巻八に載る山上憶良の「七夕謌」十二首の内の次の二首です。

山上憶良の七夕の謌十二首より二首
歌番号一五一八
原文 天漢 相向立而 吾戀之 君来益奈利 紐解設奈
訓読 天の川相向き立ちて吾が恋ひし君来(き)ますなり紐解(と)き設(ま)けな
私訳 天の川に向い立って私が恋した君が来られるようだ。上着の紐を解いてお待ちしよう。
左注 右、養老八年七月七日應令
注訓 右は、養老八年七月七日に、令(りょう)に應(こた)ふ。

歌番号一五一九
原文 久方之 漢尓 船泛而 今夜可君之 我許来益武
訓読 久方(ひさかた)の天の川に船浮けて今夜か君の我許(わがり)来(き)まさむ
私訳 遥か彼方の天の川に船を浮かべて、今夜こそは本当に君が私の許においでになるのでしょうか。
左注 右、神亀元年七月七日夜左大臣宅
注訓 右は、神亀元年七月七日の夜に、左大臣の宅(いへ)。

 歌番号一五一八の歌の左注の「應令」の言葉は行政用語として「皇太子の命令に応える」と解釈します。そこで、養老八年七月七日の七夕の宴に憶良は皇太子に招待され、所望により歌を献上したと理解します。ところが、『続日本紀』に従えば養老八年は二月三日までで、二月四日以降は改元され神亀元年の元号に変わります。そこで、一般には七夕を詠う歌番号一五一八の歌の左注は、養老六年か七年の誤りと扱われます。
 ここで、左注の日付に何らかの事情があり、敢えて養老八年七月七日と表記し、それが正しいものとしますと、歌番号一五一八と歌番号一五一九の歌はそれぞれ別の年に詠われたものとなります。つまり、山上憶良は養老八年の七夕の宴では皇太子に招かれ、神亀元年の七夕の宴では左大臣長屋王に招かれたことになります。ところが、再度、『続日本紀』を確認しますと、『万葉集』の養老八年七月七日の日付が意味する神亀元年七月当時には皇太子の位は皇太子であった首王の聖武天皇への即位により不在で、神亀四年閏九月二十九日の聖武天皇の皇子(基王)の誕生と同年十一月二日の基王立太の詔まで、皇太子は存在しないと解釈します。そして、その皇太子は神亀五年九月十三日に満一歳を迎える前に亡くなっており、その後の天平十年(七三八)正月の阿倍内親王の立太子まで、皇太子は再び存在しないと歴史を解釈します。
 なお、『続日本紀』の神亀四年閏九月二十九日と十一月十四日との記事からすると、皇子は閏九月二十九日に太政大臣の屋敷で誕生しています。ところが、奇妙なことに正史によると、この時期、太政大臣の任命はなく、長屋王が左大臣にあって最高官として太政官を指揮したことになっています。ただし、説話集である『日本国現報善悪霊異記(俗に日本霊異記)』の神亀六年二月の日付を持つ説話では、長屋王は長屋王家木簡が証明するように長屋親王の称号を持ち、太政大臣であったとして、その説話を展開しています。つまり、長屋王は、遺跡調査報告書、『懐風藻』、『万葉集』や『日本霊異記』などの第二次資料に従えば親王の太政大臣です。従いまして、それらを参照して『続日本紀』の記事に素直に従うと神亀四年閏九月二十九日に太政大臣たる長屋王家の邸宅で天皇又は北宮の御子が誕生したことになります。ただ、歴史学者はそれらの資料の存在を承知の上で、また、旧来の学説の不自然をも重々承知の上で、その従来から信じられてきた歴史観に合わせるために、それは『続日本紀』のどこにも記載はありませんが、贈太政大臣藤原不比等の邸宅で光明皇后が基王を産んだと解釈します。
 ここで今一度、話題としていますこの養老八年について朝廷が残す資料を調べてみますと、この年にある行政命令が太政官から官符として出されています。
さて、大宝律令や養老律令での律令体制において、その施行実務や運用は基本的に前例を重んじる前例主義です。その為、施行・運用では、前例を集めて、律令での条項とその施行前例、また、相互の前例間の関係を明らかにした体系的な法理解説書が求められました。この要請を満たすために平安時代初期に『令義解』や『令集解』が編纂されています。当然、この『令義解』や『令集解』は法の解説書として太政官が発布した行政命令や処分の記録を集めたものですから、まず、歴史創作や作為と云う世界とは関係がない、実歴を背景にすると考えます。
 こうしたとき、平安時代貞観年間(八六八年頃)に明法者である惟宗直本が養老令の解説書として『令集解』を編纂しています。その解説書の目的となる律令体制は租庸調の税制を国家の基盤としており、その税制は農業生産に強く依存するために自然環境の影響を多大に受けることになります。従いまして、安定的に国家の運営を行うには凶作時や自然災害からの不耕に対する規定が重要になります。その為、養老令では自然災害による減収が発生したときに対する規定があり、それが賦役に載る水旱条です。『令集解』ではこの水旱条について九つの前例を引用して解説を行っており、その引用先の一つに「養老八年格云、租者全以七分已上為定。不得以六分大半」と云う前例を挙げています。紹介したこの養老八年格は、租庸調の田租において水害・旱魃・虫害・霜害や天候不順からの不熟に因って自然損害を受けた田畑の収租の税率と運用方法について太政官が発布した通達です。
一見何気なく、養老八年格を紹介しましたが、これが重大な歴史問題を提議します。それを、以下に説明して行きます。最初に、紹介したこの『令集解』の水旱条では九つの前例を引用しています。それを具体的に紹介しますと、記載順に次のようになっています。この内、Aの慶雲三年九月廿日格とHの慶雲三年九月廿日勅は同じものを意味しますから、それで九つの前例です。

A 慶雲三年九月廿日格云、 田有水旱虫霜不熟之処、応免調庸者
B 養老八年格云、 租者全以七分已上為定。不得以六分大半
C 霊亀三年五月十一日勅云。 田有水旱虫霜不熟之処、国司検実、具録申官
D 弘仁七年十一月四日官符云、 応令依法処分損田事
E 弘仁元年十一月二日下諸道符偁、 応令依法処分損田事
F 延暦廿一年七月十五日符偁、 更立新例。今須天下田租戸別立率
G 弘仁十年五月廿一日官符云、 凡田有水旱虫霜不熟之処、国司検実、具録申官
H 慶雲三年九月廿日勅偁、 凡田有水旱虫霜不熟之処、応免調庸者
I 慶雲元年六月十九日格云、 国有水旱虫霜不熟之処
J 養老三年。諸国按察使等請事  (続日本紀七月十三日の条、始置按察使を示す)

 この九つの前例引用の内、養老八年格だけが月日の日付を持ちません。前例主義に基づく律令解説書は、太政官が発布した官符を正確に紹介する必要がありますし、太政官符は行政運営からの要請に応じて発布される性質から同じ月に同じ令条に対する別の官符が発布される可能性があります。そのため、新旧の順序を明らかにすることや誤引用を防ぐためにも官符の名称、内容と発布された年月日が重要となります。法を施行するときの行政名である養老八年格を引用するとき、その引用根拠の証において重要な構成要素となる日付を示さないことに不審を抱きます。
 では、養老八年格が重要な官符ではないから、扱いが丁寧ではなかったのかと云うとそうではありません。この養老八年格は『令集解』の中で最初に定率法による自然損害を受けた田畑の収租の税率と運用方法を定めた官符であって、この官符の発布以降、奈良時代や平安時代を通じて水旱条の施行では重要前例として採用されると云う租庸調の税法では非常に重い官符なのです。つまり、「租者全以七分已上為」の一文から、国守の責任は帳簿上の課税水田面積に対し理論収穫量の七〇%以上に対して慶雲三年(706)九月十日格規定による租税(つまり、田一段につき国租一束二把+町租一五束x七〇%=穀米約一二斗三升半)を確保すればよいと云うことになり、その範囲で災害などの減免や収穫物の処分が中央政府の裁可を得ることなく独断で出来ると云うことになります。ここから、平安時代になってこの養老八年格を前例として災害の見なし認定を拡大解釈して畿外を治める国守の租庸調の請負制度への道を開くこととなりました。これが、所謂、「不三得七法」です。その結果が国守から規定の納税を請け負う下司や地頭の出現です。つまり、この養老八年格は古代政治史の研究でも非常に重要な官符なのです。
 すると、日付が不明なのは水旱条における養老八年格が太政官において官符や資料の保管状態が良くなかったのかと云うとそうでもないようです。同じ租税に関係する通達に田令在外諸司条に引用する養老八年正月二十二日格と云うものがあります。

新任国司等の外官に対する給粮規定 養老八年正月二十二日格(『令集解』田令在外諸司条所引令釈)∶
原文 凡新任外官、五月一日以後至任官、職田入前人。其新人給粮、限来年八月卅日。若四月卅日已前者、田入後人、功酬前入。即粮料限当年八月卅日。
私訳 およそ新任外官の五月一日以降に任官に至るは、職田の生産物は前任人の収入に入れよ。その新たに任官した人には粮を給し、それは来年八月三十日までに限る。もし、四月三十日より前に任官の場合は、職田の生産物は後任人の収入に入れ、功酬による田からの生産物は前任人の収入に入れよ。新たに任官した人の粮料支給は当年八月三十日までに限る。

 この新任国司等の外官に対する給粮規定である養老八年正月二十二日格は、丁寧に太政官で保管されています。従いまして、水旱条に載る養老八年格だけが保管状態が悪かったと推定するのも困難ではないでしょうか。
 もう一つ、大宝律令や養老律令では公式令と称される公文書作成方法の規定があり、官符もまたその規定に従う必要があります。公文書作成方法の規定では、その公文書が正式に裁可や決裁を受けたものであることを証すために公印を押印する規定になっていて、官符では外印として方二寸半の公印を押印することになっています。一方、押印された印の大きさで公文書の管理者や重要度が分かる仕組みになっていました。つまり、明法者である惟宗直本は資料に対して官符条文と押印とを確認しなければ、彼が編んだ『令集解』に官符引用として採用する可能性はありません。つまり、惟宗直本は水旱条に載る養老八年格を現認し、その発布の日付を知っていますが、それをなぜか『令集解』には記述しなかったと云うことになります。一方、『令集解』を行政命令の前例集として使用した平安時代の官僚たちもまた、この養老八年格については日付の不備をなぜか追求しませんでした。およそ、平安時代の実務官僚たちにとって、奈良時代の歴史は深入りしたくない事項であったようです。
 ここで、その水旱条に載る養老八年格がいつごろに発布された官符なのかを推定してみたいと思います。まず、前提条件として、国守はその年に発生した自然災害による損害に対して田租や調庸物の減額調整を行うことが出来ました。自然災害に対する減額調整を規定するその水旱条は「凡田有水旱蟲霜不熟之処。国司検実具録申官(自然損害が生じた場合、国司は実害を調査し収租について太政官の判断を求めよ)」とあります。一方、納税規定ですから、水旱条に関係する通達は納税帳の管理からはその年度の納税が完了する日までには官符の発布を行うことが要請されることになります。つまり、水旱条に下づく減税の通達は、「その年から、田租の納税の終わる十一月三十日まで」に行われることが要請されます。
 では、耕作物での「その年」の定義は、どのようになっているかと云うと、田令在外諸司条で引用する「新任国司等の外官に対する給粮」の規定を定めた養老八年正月二十二日格からすると、農耕・種蒔の開始時期は五月一日を基準に考えていたとの推定が可能です。神道の初夏の諸祭の時期からして、当時の太政官はそれ以前での自然災害の損失は回復が可能か、種蒔などの農作業が開始していないとの判断と思われます。つまり、耕作物での「その年」の定義は「五月一日から十一月三十日まで」と云うことになると思われます。こうしたとき、日付を持たない養老八年格以外の水旱条が引用する他の八つの官符は全てこの要請される官符の発布期間に収まります。従いまして、他の官符の発布時期からの類推に水旱条自体が持つ自然災害に対する減免措置と云う法理での性格を加味しますと、養老八年格は「五月一日以降、十一月三十日以前」に発布された官符と考えられます。
ここで、『続日本紀』が正しい歴史書としますと、養老八年は二月三日までです。そして、その一月二十七日には出雲国造出雲臣広嶋を代表として全国から招聘した祝部や神主たちが宮中で神賀辞を奏上したと記述しますから、養老八年正月には既に譲位と新天皇即位の儀礼は開始されていたことになります。こうしたとき、公文書である水旱条に関する養老八年格の存在と『続日本紀』に載る養老八年二月改元の記事は、全く、矛盾し、逆に『万葉集』に載る歌番号一五一八の歌と養老八年格の存在が示すものとは一致します。ただし、『令集解』を編纂した官吏であり、明法家である惟宗直本は『桓武続日本紀』の成立までの経緯も、重々、知っていますから、養老八年格の正しい日付を記すことは出来なかったと推理します。
 このように国書の編纂由来、長屋王家木簡等に現れる「北宮」の言葉や『続日本紀』の記事の矛盾など、色々と鑑賞を重ねて来ました。こうしたとき、従来は正史である『日本書紀』や『続日本紀』に載る記事が正しく、『万葉集』の歌、標題や左注との間に相違がある場合は、『万葉集』が間違いとされていました。しかしながら、先に見てきましたように、『日本書紀』や『続日本紀』は桓武天皇や嵯峨天皇の時代の人々の都合に合わせて改訂・編纂されていますから、記事に相互矛盾がある場合に『万葉集』に載る歌、標題や左注が正しい歴史を示している可能性を否定できません。つまり、北宮(=皇太子)や養老八年格の存在の矛盾などからして、歌番号一五一八と歌番号一五一九との歌の左注の日付が共に正しいものならば、旅人や憶良たちには養老八年が丸々一年間ほど存在し、改元が行われたのは養老九年二月四日であったかも知れないのです。つまり、その改元以前となる山上憶良の「養老八年七月七日應令」の左注は正しいものとなります。このように丹念に歴史資料を検討しますと養老九年の存在疑惑が浮上し、従来、歴史学者や文学者が信じてきたものは非常に不自然なことが明らかになります。
 養老八年格の検討などからこの養老八年と養老九年の存在疑惑の存在を認めますと、朱鳥元年を基とした朱鳥年号と持統年号との間での一年のずれは、長屋王の変を契機とする天平元年を基準年としますと、暦年において養老九年を入れることで調整されることになります。つまり、旅人や憶良たちの私的日付である「万葉集暦神亀五年」は、聖武天皇や桓武天皇の『続日本紀』での公的日付としては「神亀六年」となります。
 こうしたとき、この年号交換の可能性は、「報凶問歌」や「日本挽歌」を鑑賞するときに、非常に深刻な問題を生じさせます。これらの和歌付きの書簡文や献上歌には万葉集暦神亀五年の私的な日付が付されていますが、現在の歴史年表に換算すると公的な日付での神亀六年(天平元年)に創られたものと云う可能性が生じます。そうしたとき、事件発生年代を『万葉集』に換算しますと長屋王の変は万葉集暦換算で神亀五年に起きたこととなり、この重大事件との関係を確認しないと、その歌の鑑賞が出来なくなると類推されます。
なお、繰り返しになりますが、天平元年以降の日付を持つものは長屋王の変直後の天平への改元から定められた年号や日付に基づきますから、ほぼ、私的日付の年号と公的日付の年号は一致するものと期待されます。



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歴史と日食観測

2018年09月17日 | 日本挽歌を鑑賞する
歴史と日食観測

 先の章までに『日本書紀』や『続日本紀』に『万葉集』やその他の資料とに年号の齟齬が見られることを指摘しました。そして、養老八年格から考察される養老九年の存在疑惑からの神亀五年の暦年問題を提起いたしました。ここではその年号や暦年の齟齬について、もう少し、詳しく見ていきます。
 近年、日本の歴史を記した『日本書紀』などに載る記事に対する再検討が盛んに行われるようになって来ました。特にコンピューターの性能向上などにより、暦日と干支との関係や天体観測記事とその現実性との対比など、色々なアプローチで歴史書の検証が行われています。そして、その研究の成果として、天文学の分野から『日本書紀』の巻三十持統天皇紀は、まず、疑わしい歴史書の一つであることが示されています。
 持統天皇紀を検討する前段階として、西暦六九七年五月から九月までの和暦と中国大陸での暦に示す月初め、朔日(一日)の干支を紹介します。ここに、大月は三十日、小月は廿九日を意味します。

和暦 大小月 中国大陸暦 大小月
持統十一年 五月丙申朔  大月 萬歳通天二年(丁酉) 五月丙申朔  小月
持統十一年 六月丙寅朔  小月 萬歳通天二年(丁酉) 六月乙丑朔  大月
持統十一年 七月乙未朔  大月 萬歳通天二年(丁酉) 七月乙未朔  小月
文武元年 八月甲子朔  大月 萬歳通天二年(丁酉) 八月甲子朔  大月
文武元年 九月甲午朔  大月 萬歳通天二年(丁酉) 九月甲午朔  大月
文武元年 十月甲子朔 小月 神功元年 (丁酉) 十月甲子朔 小月

 日本の暦の干支と中国大陸での暦の干支は七月から十月では一致します。六月の「丙寅朔」と「乙丑朔」との一日違いは太陰太陽暦の基本である月の見え方で大月と小月の交換があったためと思われ、これも、暦法では一致します。そのため、一見、なにも問題がないと思われるでしょう。ところが、この一致することに問題があるのです。実は、古くから『日本書紀』の近代に相当する部分、天武天皇紀や持統天皇紀などの部分と『続日本紀』の文武天皇紀とは違う暦法を使っていて、暦日を表す干支に相違があることになっています。
 次に『日本書紀』と『続日本紀』とが接続する部分、持統天皇十一年八月一日の記事を紹介します。

日本書紀 八月乙丑朔、 天皇定策禁中、禅天皇位於皇太子
続日本紀 元年八月甲子朔、 受禅即位

 この記事において『日本書紀』では西暦六九七年、持統天皇十一年の八月一日の干支は「乙丑朔」ですから一日は乙丑です。一方、続日本紀では同じ日に相当する文武天皇元年八月一日の干支は甲子です。暦日の干支は甲子→乙丑→丙寅→丁卯→戊辰→・・、の順に六十日を一サイクルとして連続的に循環する決まりになっています。つまり、持統天皇十一年八月一日の干支である乙丑と文武天皇元年八月一日の干支である甲子とには一日の違いがあります。
 普段の我々ではこの一日の違いなど、先の六月の例のように大小月の交換と同じであろうとして深刻な問題とは認識しないでしょう。ところが、この日付は『続日本紀』が始まる日であり、文武天皇の即位の日です。一方、『日本書紀』では書紀が終わる最後の記事であり、持統天皇の譲位の日でもあります。そのため、歴史を編纂する者やその国書を受領する立場の者からすれば、その日付は正史と云う国家最高の書類の編纂において絶対に間違えてはいけないものなのです。この背景があるため、古く、この問題は『日本書紀』には元嘉暦が使われ、一方、『続日本紀』には儀鳳暦が使われていて、それぞれに暦が算定されていると説明されてきました。つまり、旧来の説明では『日本書紀』も『続日本紀』も共に暦日としては間違いはなく、相違の問題は使った暦の暦法が違うことに起因するとします。
 現在もそうですが、暦の管理権限は統治者の独占です。そのため、前王朝と現王朝とで暦が違うと云うことは王朝の断裂を疑うような重大な事件です。従いまして、本来でありますと祖母から孫への権力移譲と云う前提では持統天皇の暦と文武天皇の暦とが違うと云うことはあり得ないことなのです。王権と暦管理と云う本質的な問題下では、暦日の相違は暦法が違うと云う説明だけでは同一王朝で暦日に断裂があることの政治的、社会的な説明には全くなりません。暦日の断裂問題は外国では王朝の正統性まで発展する問題なのです。
 ここで、大和王朝に断裂が無く、また、日本の和暦と中国大陸の暦において暦日に相違がないとなると、従来の暦法の相違と云う説明に疑問が湧きます。そこで、歴史書には疑わしい点があるかもしれないと云う視線で『日本書紀』の記事を調べますと、次のような記事を見つけることが出来ます。

和暦 記事
持統十一年六月丁卯(二日) 六月丙寅朔丁卯。赦罪人。
持統十一年六月癸卯(是月なし) 癸卯。遣大夫・謁者、詣諸社請雨。
持統十一年七月辛丑(七日) 秋七月乙未朔辛丑。夜半赦常嬰盗賊一百九人。
持統十一年八月乙丑朔(一日) 八月乙丑朔。天皇定策禁中禅天皇位於皇太子。

 先に説明しましたが、暦日の干支は六十日を一サイクルとして循環しますから、持統十一年六月丙寅朔を基準に検討してみます。この丙寅は干支表では三番目にあり、癸卯は四十番目に当たります。つまり、丙寅を一日として日数を数えますと癸卯は三十八日目となり、この日は月日の規定から外れる日になります。次に、乙未は干支表では三十二番目にあり、丙寅からは三十日目となります。六月は小の月ですので月末は二十九日ですから、丙寅から三十日目の乙未は七月一日になります。つまり、秋七月乙未朔と表記されます。同じように七月乙未朔から三十日目が甲子で、三十一日目が乙丑になります。七月が三十日まである大の月ですと八月乙丑朔となり、二十九日までの小の月ですと八月甲子朔となります。『日本書紀』では七月は大の月ですから八月乙丑朔が正しいことになります。一方、中国大陸の暦では萬歳通天二年(丁酉)八月甲子朔と表記しますし、『続日本紀』では文武元年八月甲子朔と表記します。そのため、八月一日の干支に相違があるのは使う暦法が違うからと説明する訳です。
 ところが、持統天皇紀での閏月の記録を調べると、次のようなことになっています。この時代に使われた暦法は中国大陸では対象となる期間から則天武后から中宗の時代ですので麟徳暦です。暦法では文武天皇以降の儀鳳暦に相当するものです。つまり、大陸の暦は持統天皇紀からみると新しい暦法の暦です。

西暦 和暦 中国大陸暦
六九二年 持統六年潤五月乙未朔 如意元年閏五月乙未朔
六九五年 持統九年潤二月己卯朔 證聖元年閏二月己卯朔

 さて、この特別な日付となる閏月の初日の日付対比が示すように中国大陸の新しい麟徳暦で作られた暦とそれに対して古い暦となる日本の元嘉暦で作られたとする暦とが一致します。これは不思議です。
 この不思議には理由があります。実は持統四年十一月に「甲申、奉勅始行元嘉暦与儀鳳暦」と云う記事があり、一部での学説として、「大和では従来から和暦の暦法として元嘉暦が使われており、この十一月十一日から新来の儀鳳暦の併用、又は、儀鳳暦の試験運用が始まった」とします。このため、「八月乙丑朔」がなにかの間違いとすれば、歴史的なつじつまは合って来るのです。事実、この記事以前、元嘉暦が使われていた天武天皇時代は和暦と中国大陸の暦とで閏月の設定や朔日の干支は異なっていました。

西暦 和暦 中国大陸暦
六六七年 天智六年閏十一月丁亥朔 乾封二年閏十二月丙辰朔
六七三年 天武二年閏六月乙酉朔 咸亨四年閏五月乙卯朔
六八一年 天武十年閏七月戊戌朔 永隆二年閏七月丁酉朔
六八四年 天武十三年閏四月壬午朔 文明元年閏五月壬子朔
六八六年 朱鳥元年閏十二月丁酉朔 垂拱三年閏正月丙寅朔(六八七年)
六八九年 称制三年閏八月辛亥朔 永昌元年閏九月庚辰朔

 結局、持統天皇紀の暦を調べれば、専門家も元嘉暦と儀鳳暦とか混用されているのではないかと云う結論しか得られないようです。しかし、統治者が暦を独占すると云う原則からすると、奇妙な結論ですし、皇位継承日が持統天皇紀と文武天皇紀とで暦日が違うと云う問題の答えにはなりません。唯一、考えられることは天皇即位の日であり、『続日本紀』の最初の日ですので干支での暦日の最初の日となる「甲子」を得るために一日移動させた可能性です。その場合、編纂者の態度は史実より形式が優先です。
 もう少し、この問題を追及してみたいと思います。
 天体観測の予測計算から『日本書紀』の記事の信頼性について扱った論文があります。それが二〇〇二年に国立天文台報第五巻に載せられた『日本書紀天文記録の信頼性』(河鰭公昭、谷川清隆、相馬充)(22)です。この論文では森博達氏の『日本書紀の謎を解く』(中公文庫)を参考に、日本書紀全三十巻をα、β、γ群に区分し、『日本書紀』に載る天文記事とその現実性について検証を行っています。
 この論文の帰結には興味深いものがあるのでそれを紹介しますと、そこでは「γ群と分類した巻卅持統紀の日食記録は全て観測事実ではなく、当時の暦法による予測によるものである。日本で観測できた筈の日食が一例も記録されていないこと、『旧唐書』、『新唐書』に記載されている日食の過半数が記録されていないなど記録する日食の選択が不可解である」と述べています。また、巻三十持統紀での日食の予測計算に使ったと思われる暦法について、河鰭公昭氏はその論文で、「この結果は『日本書紀』で採用されている食予報が基本的には月の運行から予報する景初暦の食予報の系統を継いでいることを示している」と指摘しています。
 この論文への参考資料として『日本書紀』の持統天皇紀に載る日食記録を次に紹介します。ここで重要なことは、リストの日食出現記録は『日本書紀』には登場するが、天文学上、日本では絶対に見ることが出来ない日食です。これらの日食の出現場所はアメリカ大陸やヨーロッパ、時に南半球でのものです。そのため、天文学術論文では「日本書紀 持統天皇紀の日食記録は全て観測事実ではない」と指摘します。

日本書紀に載る日食記録
西暦 和暦 和暦干支表示
六九一年十月二七日 持統五年十月一日 持統五年十月戊戌朔
六九三年四月十一日 持統七年三月一日 持統七年三月庚寅朔
六九三年十月五日 持統七年九月一日 持統七年九月丁亥朔
六九四年三月三一日 持統八年三月一日 持統八年三月甲申朔
六九四年九月二五日 持統八年九月一日 持統八年九月壬午朔
六九六年八月四日 持統十年七月一日 持統十年七月辛丑朔

 一方、持統天皇紀の期間中に近畿地方で観測されるべき日食は、次のものです。

西暦 和暦 日食の欠け比率
六九一年五月四日 持統五年四月二日 食分47%
六九五年二月一九日 持統九年二月一日 食分37%

 この『日本書紀天文記録の信頼性』の論文はインターネット検索から容易に閲覧が可能ですので多くを引用することなく論文の帰結を急ぎますが、朝廷による組織だった天体観測の態勢作りが進んだと云う天武天皇の時代を記述する『日本書紀』巻廿九天武紀に載る日食の記述は信頼性があるが、次の時代の持統天皇紀を記述する巻三十持統紀の日食の記述はまったく信頼性がなく、それはなんらかの意図による日食記事の記載なのです。直線的に云えば意図した捏造記事です。
 追加参照として推古天皇の時代から元正天皇の時代までの日食において、日本と中国大陸とで同時観測された日食観測の記事を紹介します。なお、推古と舒明のところの(二)の意味は、日食の観測日が朔日(一日)ではなく二日であったと云う意味です。旧暦では本来、日食は朔日(一日)に生じるのが原則です。

西暦 書紀・続紀より 中国、新唐書より
六二八年四月十日 推古天皇三六年三月戊申(二) 貞觀二年三月戊申朔
六三七年四月一日 舒明天皇九年三月丙戌(二) 貞觀十一年三月丙戌朔
六八〇年十一月二七日 天武天皇九年十一月壬申朔 永隆元年十一月壬申朔
六八一年十一月十六日 天武天皇十年十月丙寅朔 永隆二年冬十月丙寅朔
七〇二年九月二六日 大宝二年九月乙丑朔 長安二年九月乙丑朔
七〇七年七月四日 慶雲四年六月丁卯朔 神龍三年六月丁卯朔
七〇七年十二月二九日 慶雲四年十二月乙丑朔 景龍元年十二月乙丑朔
七一五年八月四日 霊亀元年七月庚辰朔 開元三年七月庚辰朔
七二九年十月二七日 天平元年十月戊午朔 開元十七年十月戊午朔

 先ほどの持統十一年八月の「八月乙丑朔」問題に戻りますが、推古天皇三六年から天平元年まで、およそ百年の間、九回の日食が同時観測され、その暦日は和暦と中国大陸の暦とで同じです。中国大陸は唐の時代ですのでこの期間を通じて麟徳暦が暦法として使用され、日本では暦の研究成果から儀鳳暦、元嘉暦、儀鳳暦が順に暦法として使用されたと指摘されています。しかしながら、推古天皇の時代から聖武天皇時代まで「持統十一年八月乙丑朔」のような暦法からの暦日の断裂を生じさせることなく、日食の同時観測における暦日は同じなのです。暦法が変わっても、日付を干支で表すとき、六十日サイクルでの暦日不断の原則が貫かれているのです。ここからも、「持統十一年八月乙丑朔」とは、なんらかの間違いであったと推察されます。そして、特に注目されるのは天武天皇の時代、大和の近畿地方で観測可能な日食はわずかに三回で、その内、二回は観測され『日本書紀』に記載されています。そのため、逆に特異的として持統天皇の時代の作為的な偽りの観測記録の記載が目立つのです。
 少し、帰結を先取りしますが、『続日本紀』においても同様な日食記録の問題があり、従来、専門家の間では持統天皇紀から聖武天皇紀までの作為的な日食記録の記載は日本の歴史書の特徴と考え、自然現象の記録を正確に載せる天武天皇紀の方が特異・例外的なものであると判断します。当然、歴史の専門家がする、「正しいものを偽とし、偽を正とする」、この作為的な発想と帰結には疑問が残ります。本来なら、彼らの古代史研究に大いに支障は生じますが、持統天皇紀から聖武天皇紀までの正史は、少なくとも天文分野からは科学的な信頼性がなく、意図した作為があると帰結するのが学問の本筋です。
 この点につきまして、広島大学大学院の研究者である小島荘一氏が発表した興味深い論文があります。それが『「日本書紀」の編纂における暦日の設定 暦法に適合しない事例を中心として』(日本研究十九号、日本研究研究会)(23)です。この論文での帰結として、『日本書紀』の「ある部分」については、次のような過程で歴史書としての記事が作成されたのではないかと推定されています。

 最初に歴史記事が予定され、その記事に対して歴史の流れの中での配置順序を決め、その配置順序に相応しい年月日が設定された。これは数字での年月日と思われる。
 設定された年月日に対して、暦法計算の知識を有する専門的な人々が特定の年の暦日計算を行って、長暦を作成した。
 作成された長暦に従い、予定された歴史記事に付けられた各年月日が干支に変換され、相応しい歴史記事となった。

 小島荘一氏は、暦日計算は非常に煩雑であり、複雑なため、閏月の位置計算に簡略化を行ったために結果的にいくつかの閏月の位置がずれてしまうという現象が発生した可能性を指摘しています。同じように河鰭公昭氏は、持統紀に載る日食計算には景初暦の食予報の系統が使用されていると指摘しています。この景初暦による日食計算は儀鳳暦に比べれば、ある種の簡便計算法となりますので、小島荘一氏と河鰭公昭氏との指摘のベクトルは一致します。結果、この現れが観測不能な日食記録であり、暦日では有り得ない「持統十一年六月癸卯(是月なし)」の記事と考えます。
 この『日本書紀』 巻三十、持統天皇紀に対する歴史の創作疑惑の視線を持って、『続日本紀』へと広げてみたいと思います。
さて、日食の記事の検討について、朝廷として観測・記録体制が整って来たと云う『日本書紀』の天武天皇紀から『続日本紀』 全期へと広げてみますと、日食の記事を八十ヵ所ほど見つけることが出来ます。ところが、ここでも持統紀の日食記事と同じように、日本では絶対に観測できない日食や天体望遠鏡のない時代では観測が非常に困難なものの観測記録が含まれています。

 書紀・続紀に記事がある日食 総数 八十回
 書紀・続紀に記事があるが日本では観測不可能な日食 五六回
 書紀・続紀に記事があり、実際に観測されたと思われる日食 二一回
 書紀・続紀に記事があるが、実際の観測が疑わしい日食 三回

 ここで、上記の期間に対するコンピューターを使った近畿地方での日食出現予想の計算結果を北海道大学のHP『日食・月食・星食情報データベース』(24)から紹介します。

 理論上、地球上のどこかで観測可能な日食 総数 二六五回
 理論上、近畿地方で観測可能な日食 四二回
 理論上、近畿地方で観測可能で、記録された日食 十五回
 理論上、近畿地方では観測困難であり、その記事が無い日食 三回

 この日本書紀と続日本紀との対象期間において、近畿地方での皆既日食の出現はありません。畿内での最大の食分は文武天皇四年五月一日の86%で、最小のものは宝亀七年四月一日の2%です。不思議ですが、文武天皇四年の86%も欠ける日食の記事は『続日本紀』には有りませんが、宝亀七年の食分2%の日食の記事はあります。ただ、この宝亀七年の日食は日の出直後に出現し、なおかつ2%だけの食分の日食のため、本当に観測が出来たのかどうかは疑問です。専門の日食観測用の天体望遠鏡を用いる現代でもその観測は困難です。さらに、不思議ですが、天平十八年五月の食分68%の日食、天平勝宝六年六月の食分77%の日食、延暦四年三月の食分62%の日食の記事を『続日本紀』の中に見つけることは出来ません。これだけの日食ですと薄曇りでも日量変化で予定される日食出現の有無に限れば、その観測・判定は可能ではないでしょうか。それとも、すべてが雨天だったのでしょうか。
 一方、天文観測においては養老六年頃から惑星観察の記事が見られるようになり、神亀二年十月己卯の金星と木星との接近記事「太白与歳星芒角相合」や天平七年八月乙酉の金星と水星との接近記事「太白与辰星相犯」は史実と思われます。ここに日食観測記事は予測記事で、それより観測困難で注目度の低い惑星観測記事の方が史実と云う不思議があります。つまり、日食観測記事からすると、それが長暦の目安としたかのような歴史記事の作文疑惑が生じて来るのです。
 その作文疑惑と云う感覚から候補とした年代は次の期間です。ほぼ、全般に渡って疑惑の期間が散らばっています。

持統五年四月二日 ― 大宝元年四月一日
大宝三年三月一日 ― 慶雲三年十二月一日
和銅元年十一月一日 ― 和銅六年二月一日
霊亀元年十二月一日 ― 神亀五年四月一日
天平七年閏十一月一日 ― 天平十二年三月一日
天平十五年七月一日 ― 天平宝字四年七月一日

 この疑惑の視線で『続日本紀』を点検してみますと、養老・神亀年間に多くの記事の掲載順番の乱れや有り得ない暦日が見つかります。同じようなことが考古学の現場でも起きています。有名な『古事記』の編纂者である太朝臣安萬侶の墓誌問題です。発掘された太朝臣安萬侶の墓誌には「養老七年十二月十五日乙巳」の記述がありますが、十二月の朔は壬辰ですので乙巳は『続日本紀』では十四日に中り、墓誌と暦日干支において文武天皇即位と同じく一日の相違が生じています。
 飛鳥石神遺跡出土の持統三年の具注暦木簡を代表として全国の木簡や漆紙文書などの発掘調査から推定しますと、当時、その年の暦を記した具注暦の公布が行われていたのは確実です。従いまして、喪葬令の規定に従って墓誌作成と埋葬儀礼を行った太安萬侶の親族や墓誌製作者が独自の私暦を使っていたとは考えにくいことです。つまり、養老七年の当時の公の暦法と『続日本紀』が編纂された時代、推定で桓武天皇(又は藤原仲麻呂)の時代とでは暦法(又は続日本紀の起算日)が違っていたことになります。偶然の一致か、太安萬侶の墓誌問題と『日本書紀』と『続日本紀』との間の八月一日問題とは同じものであり、もし、太安萬侶の墓誌問題で『日本書紀』からその暦を延長すると暦日干支が一致する不思議があります。つまり、養老七年に生活する人たちは、具注暦の公布する朝廷を始めとして持統天皇時代と同じ暦法の暦を連続して使っていたことになります。それは現代に伝わる『続日本紀』のものではありません。
 こうしたとき、『続日本紀』が史実の実録ではなく、為政者によって「創られた史実」であり、その「創られた史実」は将来時点の暦法となる大衍暦で計算された日付を過去の実暦の日付とした可能性があります。つまり、現在に伝わる『続日本紀』は偽書か、創作の歴史書となります。昭和時代半ばまで歴史の専門家と称される人々の間では『古事記』や『日本後紀』は偽書で、『日本書紀』や『続日本紀』は正史でした。ところが、今、歴史を精査すると『古事記』や『日本後紀』が正史で、『日本書紀』や『続日本紀』に正史創作の疑いがかかっています。一体誰が誠実な歴史の専門家なのでしょうか。一度、学会での師弟関係を外して歴史を精査する必要があるのではないでしょうか。

 続日本紀における記事順番の乱れ 一例
霊亀元年五月乙巳(廿五日) 従六位下画師忍勝姓の条
養老元年四月丙戌(十七日) 祈雨于畿内の条
養老元年十一月丁巳(廿一日) 車駕幸和泉離宮の条
養老四年八月壬辰(十二日) 勅の条
養老五年四月乙酉(九日) 征夷将軍正四位上多治比真人県守の条
養老六年正月庚申(十八日) 西方雷の条
神亀元年三月庚申(一日) 定諸流配遠近之程の条
神亀元年十一月庚申(四日) 召諸司長官并秀才及勤公人等の条
神亀二年閏正月戊子(三日) 夜月犯填星の条
神亀三年十一月己亥(二十六日) 改備前国藤原郡名の条
神亀五年八月壬申(九日) 太政官議奏。改定諸国史生・博士・医師員并考選叙限の条
神亀五年八月丁卯(四日) 太白経天の条

 続日本紀における暦日異常の例 一例
神亀五年八月甲午(是月甲午なし) 詔曰朕有所思の条

 従来、歴史や国文を研究される方は、持統天皇紀以降の天体観測の実態と合わない日食記録を、事前に作成されていた日食予報がなんらかの手違いでそのまま記載されたとします。また、その論拠として持統天皇の時代までには大陸での最新の暦である儀鳳暦が輸入され、日食の予報技術が向上したことやその観測体制として朝廷内に中務省陰陽寮が整備されて来たことを上げています。
 実際、律令体制として、この陰陽寮には暦管理のための技術者である「方技」を擁していました。そして、この方技は律令体制当初の陰陽寮成立段階では純粋に占筮、地相、天体観測、占星、暦と具注暦の作成、吉日凶日の判断、漏刻の管理などを職掌としていたため、主務は天文観測と暦時の管理や自然現象の吉凶を暦法や陰陽五行に基づいて理論的な分析を行い、太政官に報告し記録するだけだったと推定されています。今日の陰陽寮の名称から想像される平安時代の陰陽師とは似ても似つかぬ技術的な専門職務です。およそ、陰陽寮の方技とは当時最先端の科学者であり技術者でした。
 確かに日食予測自体は古代においても暦法から行うことが可能です。藤原京や第一次平城京の時代、儀鳳暦は最先端の日食を計算し予測する暦法でしたし、それを当時の陰陽寮の方技である科学者たちは行っていました。ただし、当時の暦法による日食予報の最大の欠点は、日食の出現を計算し予測することは可能でしたが、その計算において地球上の緯度・経度の情報までを提供することは出来ませんでした。つまり、日本の歴史学者の方は気付かれているかどうかは不明ですが、古代の暦法で予測する日食は全地球上のどこかで発生するものを予測するものであって、特定の地点、例えば近畿地方での日食の出現を予告することは出来ませんでした。しかしながら、古くからの日食観測記録の蓄積で月の天空上を移動する軌道の位置から日食の北半球での出現か、南半球での出現かを判断することは可能だったようです。従いまして、この判断からある一定以上の確率は確保したと考えられますが、一方、日食予測とはその程度のものであったため、史書には実際の記録を載せる必要がありました。つまり、暦法からの日食予定表での数は先に示しましたように正史の載せたものとは桁が違います。持統天皇紀以降の天体観測の実態と合わない日食記録が予測記事であるとすると、それもまた、恣意的に予測日食表から選択したことを証明することになります。一方、不思議ですが、日食観測記事は実測されたものが要求されることを反映して、天武天皇の時代や桓武天皇の時代のものは観測された記録を載せています。
 先に紹介しましたが、古代史を自然現象の記録から真摯に研究される方々には、ここで紹介したことは既知のことです。日食記録を含む天文観測は天子の責務であるという古代社会の規範を踏まえますと、持統天皇紀から聖武天皇時代にかけて、特に観測不可能な日食の記事が目立つのは、当時、史実記録の保管が正しく行われておらず、一部に日食予報の資料が紛れ込んだためと歴史学者や国学者は説明します。おおよそ、彼らは『続日本紀』の原資料の質が悪かったために、本来、載せられるべき日食の観測記録だけが失せ、換わりに日食の予測記事が選択的に載せられたと考えているようです。彼らの立場は、あくまで日食の観測記録だけが選択的に不適当で、その他の記録は全て正しく記録され保管されていたとします。
 さて、中務省内記での原資料の管理が悪かったのか、意図的に悪くしたのか、どちらでしょうか。これは歴史での永遠の謎でしょうか。ただし、重要な問題は、この原資料の由来が疑わしい『続日本紀』以外、当時の歴史を知る一次資料はありません。つまり、疑わしいが、それに従って、歴史を語らねばならないのです。もう一つ、非常に困惑することなのですが、すでに複数の学術論文を引用しましたが、これらは学会セミナー等で発表されたものですから、歴史を研究する人にとっては周知され、検討・確認された事柄です。そして、今まで指摘してきました事項は歴史の専門家の間では「今更、何を云うのか」程度のことでしかありません。つまり、ここで紹介した『日本書紀』や『続日本紀』への一次資料としての信頼性の問題は既に異説や仮説の段階ではないのです。この信頼性の問題は既知の事実なのです。
 この章の最後に、日本史では百済の役での「白村江の戦い」は『日本書紀』天智天皇紀の記事から摂政二年八月二十八日の出来事とされ、これは換算すると西暦六六三年の出来事となります。一方、世界史からこの事件を検証しますと、『旧唐書百済伝』や『三国史記』では唐高宗の時代 龍朔二年の出来事とされ、これは西暦六六二年に相当します。同じ古代東アジアでの重大な事件ですが、ここにも一年の相違があります。これもまた困惑することなのですが、「白村江の戦い」の一年の相違問題は歴史研究の世界では周知の事実で、『日本書紀』天智天皇紀の記事に錯誤があります。


神亀六年の検討

 ここで、これまでの暦日や歴史への検討結果から「報凶問歌」や「日本挽歌」等の私的記録で万葉集暦での神亀五年の日付を持つものは、公暦の神亀六年の年号に修正するのが相当であるとの仮説を立ててみたいと思います。
 先に漢語の「北宮」の言葉の検討から長屋王の大王位(太政大臣に相当)への就任や膳部王の皇太子説の可能性の存在の推論と、以前に行った「日本挽歌」の前置漢文の序での「紅顏共三従長逝」の一節の鑑賞を合わせますと、大伴旅人の娘の皇太子夫人(妃ではありません)説を立てることが可能となります。このとき、万葉集暦神亀五年の日付を公暦では神亀六年の年号に修正するのが相当との仮説の下では、「日本挽歌」は私的献上歌での万葉集暦神亀五年の日付ですから、これは公暦神亀六年の日付と読み替えが可能となります。すると、歌は「長屋王の変」に関係するものとなり、大伴旅人の娘は「長屋王の変」で良人である膳部王とともに死亡したとの推定が仮定から帰納されます。
 こうしたとき、問題の「長屋王の変」では朝廷から神亀六年二月十八日に長屋王の一族全員(含む妻女)に対し「不問男女、咸皆赦除(男女を問わず、すべての罪を赦し、その罪の記録を除く)」との詔が出ています。一方、大伴旅人の娘が皇太子夫人であったとの仮定の下では、膳部王は従四位下の身分を持ちますから、皇太子夫人の身分は宮廷儀礼の規定から従四位下相当の外命婦に中ります。すると、免赦の詔とその身分推定から、大伴旅人の娘の死亡は朝廷による討賊行為の中での官人の戦死に相当するとして、喪葬令 職事官条により官による死亡除籍の手続きが行われた可能性があります。律令が的確に施行されている時代、人の生死に対する戸籍の処理は確実に行う必要がありますから、もし、その死が戦死相当の死亡ですと、義理の伯母にあたる元正太上天皇から内大臣藤原房前を通じて別勅の形で、朝廷の行為として、父親の大伴旅人の許にその娘の死を悼み、「正三位中納言兼大宰師大伴旅人の娘である従四位下膳部王夫人」に対して賻物が届けられたとの推定が可能となります。
 つまり、私的記録で万葉集暦神亀五年の日付を持つものは公暦神亀六年の年号に修正するのが相当との仮説を立てたとき、長屋王の変で大伴旅人の娘が膳部王皇太子夫人として亡くなり、朝廷から大伴旅人の許に賻物が届けられたのではないかとの推論を立てることが可能になります。可能性として、太上天皇下賜の賻物ですと貨幣価値を付けられるような物とはなりませんから、これが大伴旅人が「讃酒謌」十三首の中で詠う「價無 寳跡言十方(値無き宝と言うとも)」と云うことなのでしょう。当然、この仮説は、「報凶問歌」や「日本挽歌」等の鑑賞に影響を与えるだけでなく、示したように旅人の「讃酒歌」や憶良の「思子等謌」の歌が詠われた背景をも説明するものになります。
 確かに根拠の無い主張ですし、恣意的です。書面的な裏付けはありません。帰納的な推論を積み上げての恣意的な帰結です。しかし、普段に行われる山上憶良が詠う「七夕歌」での養老八年存在説と同様なここでの年号変換説の仮定が成り立つなら、『万葉集』巻五全体の解釈に一本の縦軸が通ります。確かに強引な主張です。が、その可能性はあると考えます。
 付け加えて、養老律令後宮職員令から正史や公卿補任に皇太子夫人としての記録が無いとの論議を提起する人の為に、参考に正史から読み取れる夫人初任官位表を提供します。

後宮職員令の夫人規定による夫人初任官位表
天皇名 夫人名 初叙位年 初叙位 補足事項
文武天皇 藤原宮子 文武元年 初叙位不明 初任位記録なし
聖武天皇 県犬養広刀自 不明     無位から正五位下(?) 初任位記録なし
光仁天皇 紀宮子     宝亀七年 無位から正五位下
光仁天皇 藤原産子 宝亀七年 無位から従五位上
桓武天皇 藤原吉子 延暦二年 無位から従三位 即位後に入る
平城天皇 伊勢継子 大同三年 無位から正五位下
嵯峨天皇 藤原緒夏 弘仁元年 無位から従五位上
淳和天皇 橘氏子     不明     無位から従五位上(?) 女御の称号扱い

 上表から、養老律令後宮職員令の規定による天皇の妃(品位)・夫人(三位以上)・嬪(五位以上)の官位と正史での初叙位は、専門家が声高に夫人官位規定から歴史を語るほどには一致しないことが分かります。紹介しました上表からは慣例上、将来が未確定である皇太子の妃や夫人の官位は無位と推定されます。従いまして、皇太子夫人の叙位については正史や公卿補任に載る可能性はありません。皇太子夫人は朝参行立次第条により、皇太子の外命婦として宮廷儀礼での序列やその身分が保障されていたと推定されます。逆に皇太子に蔭位令での規定である従四位下またはそれ以上の官位が与えられていない場合、入内以前に個人として五位以上の官位を持たない妃、夫人や嬪は宮中参内や行事への参加が出来ないことになります。つまり、律令体制では宮廷の儀礼運営上、叙位を伴わない皇太子への就任は、行政手続き上、あり得ないことになりますし、そのような場合は首王や基王を代表として、その就任記事自体を疑う必要があります。
 先に見てきましたように、『日本書紀』や『続日本紀』は、桓武天皇や嵯峨天皇時代の人々の都合に合わせて改訂・編纂された可能性がありますから、記事に相違や齟齬があった場合は『万葉集』に載る歌や題詞が正しい歴史を示している可能性は否定できないと考えます。およそ、仮説として長屋王の大王位就任と膳部王の皇太子就任はあったと唱え、それを下に『万葉集』を解釈することは可能と考えます。当然、『万葉集』は聖武天皇以降に編纂された歌集ですから、長屋王の大王位就任や膳部王の皇太子就任を明示できるはずはありません。丹念に探れば分かるような形でのみ、それが成り立つと期待されます。
 ここで、山上憶良の「日本挽歌」に少し戻ります。「日本挽歌」の前置漢文の一節に「偕老違於要期 獨飛生於半路」とあり、この一節の状況を説明すると思われる記事が、『続日本紀』の養老五年(七二一)正月庚午の条ではないでしょうか。

 続日本紀の養老五年正月庚午の詔
原文 詔従五位上佐為王、従五位下伊部王、正五位上紀朝臣男人・日下部宿禰老、従五位上山田史三方、従五位下山上臣憶良・朝来直賀須夜・紀朝臣清人、正六位上越智直広江・船連大魚・山口忌寸田主、正六位下楽浪河内、従六位下大宅朝臣兼麻呂、正七位上土師宿禰百村、従七位下塩家連吉麻呂・刀利宣令等、退朝之後、令侍東宮焉。
訓読  詔(みことのり)して従五位上佐為王、・・・・中略・・・、刀利宣令等(たち)に、退朝の後に東宮に侍(はべ)らしむる

 従来、この記事は二十一歳となった首王(後の聖武天皇)に対する東宮従講の選定とその任命の記事と推認されていました。ところが、当時の学制では大学・国学への入学は十三~十六歳で行い、大学寮への進学の寮試受験は十七歳前後から行うのが一般とされています。東宮従講の行う学問伝授は大学寮相当の教育でしょうから、養老五年に二十一歳となった首王に対する東宮従講の選定は、奈良時代では少し時期外れの感があります。一般に『日本後紀』 大同元年六月の平城天皇の詔から大学寮への入学を十歳として学制を説明するものがありますが、詔は大学への入学の年齢を示すだけで、大学寮への進学ではありません。さらに弘仁三年五月には嵯峨天皇の詔でこの十歳での大学への入学年齢も撤回されています。大学寮の進学の時期は、菅原道真の例を引いても、やはり、十七歳前後と推定されます。

 日本後紀 大同元年(八〇六)六月壬寅十日の詔
原文 又勅、諸王及五位已上子孫、十歳以上、皆入大學、分業教習。依蔭出身、猶合上寮。
訓読 また勅(みことのり)して、諸王及び五位より上の子孫の、十歳以上は、皆大學に入れ、業を分かちて教(おしえ)を習(なら)わしむ。蔭(かげ)に依る出身の、猶(さら)に合(かな)うは寮に上げるべし。

 日本後紀 弘仁三年(八一二)五月戊寅廿一日の詔
原文 而朽木難琢、愚心不移、徒積多年、未成一業。自今以後、宜改前勅、任其所好、稍合物情。
訓読 而(しか)るに朽木は琢(みが)き難たく、愚(おろ)かな心は移(かわ)らず、徒(いたずら)に年を多く積むも、未だ一(そ)の業は成らず。今より後は、宜しく前(さき)の勅(みことのり)を改ため、其の好む所に任せ、稍(まさ)に物の情に合せよ。

 一方、この養老五年は、十七歳となった膳部王が二世王として自宅で大学寮と同等な教育を受ける時期と一致します。遺跡発掘から長屋王家での北宮の存在を考えると、神亀元年(七二四)二月に二十一歳となり官人として親王相当の従四位下を授けられた膳部王に対する皇太子就任の準備であった可能性が考えられます。物語ですが、源氏物語の夕霧が二十一歳で寮試(大学寮の卒業試験相当)と文人擬生の試験を受けるために文章博士や左中辨達から講義や試験を受けたのと似たところがあります。
 ここで、先に見たように『日本書紀』や『続日本紀』が桓武天皇や嵯峨天皇時代の人々の都合に合わせて改訂・編纂された可能性あることから、この東宮従講任命が膳部王の皇太子就任の準備であったと解釈ができるとしますと、山上憶良と皇太子膳部王とは親しい関係が予定されます。そして、その膳部王は長屋王と共に神亀六年二月に首王(後の聖武天皇)と藤原一族が起こしたクーデターにより一家惨殺に遭っています。そのとき、山上憶良が詠う「日本挽歌」の前置漢文の序では若い夫婦が亡くなったと記します。つまりそこに山上憶良が「東宮従講として膳部王夫婦に仕えたが、憶良本人ただ一人のみ生き残ってしまった」と感じたとの解釈が生まれ、さらに「獨飛生於半路」の表現に展開したとの推定が可能となります。

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