竹取翁と万葉集のお勉強

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原万葉集 宇梅乃波奈  宇梅乃波奈の誕生日

2013年11月24日 | 原万葉集「奈弖之故」と「宇梅乃波奈」
宇梅乃波奈の誕生日

 原万葉集前編「奈弖之故(なでしこ)」とは舒明天皇が国見を行った飛鳥岡本宮の時代から元明天皇の奈良への遷都を行った平城宮の時代までの八都の御世の歌々を集めた歌集であり、その中心を為す歌人は柿本人麻呂です。その原万葉集前編となる「奈弖之故」は、孝謙天皇から左大臣橘諸兄への御下問により事業が始まり丹比国人を中心に編纂が行われれ、天平勝宝七年(七五五)五月十一日に完成のお披露目が橘諸兄の屋敷で行われています。
 この元明天皇の平城京の遷都までの歌々を集めた原万葉集前編「奈弖之故」の奉呈後も、丹比国人の手による和歌の編纂作業は続いていたと思われます。しかし、天平勝宝九年(七五七)七月に橘奈良麻呂の変が起きます。これに連座する形で、当時、遠江国守だった丹比国人は任地から召還され、裁判の結果、伊豆国へ流刑となりました。この橘奈良麻呂の変により原万葉集後編となる「宇梅乃波奈」の編纂作業は編纂責任者を失う形で中断したと想像されます。
 しかし、ここで見たように「宇梅乃波奈」は天平宝字二年(七五八)二月にお披露目が中臣清麿の屋敷でなされていますから、誰かが丹比国人が編纂責任者として行っていた原万葉集後編となる「宇梅乃波奈」の編纂作業を引き継ぎ、その形を整えたと考えられます。その誰かを推理する時、筆頭に挙げられる人物は、私の直感では清麿の甥子となる中臣宅守が筆頭になります。ただし、本質において原万葉集の基本的な編纂作業は丹比国人の手によるものでしょうから、丹比国人の伊豆国への流刑以降は新規の編纂作業は行われなくなったと想像します。およそ、橘奈良麻呂の変では離れた立場にいた中臣宅守が叔父である清麿の依頼を受け、既にある原稿を取り纏めると云う形で編纂を行ったと考えます。必然、中断・中止となった詩歌集を臨時にある程度の形にすると云うものですから、その原万葉集後編「宇梅乃波奈」は中途半端な形を取らざるを得なかったと考えられます。そのためでしょうか、現在の『万葉集』において巻十六までを歌集、巻十七以降を資料と区分したとしても、元明天皇の奈良遷都までを納める原万葉集前編「奈弖之故」の対比として、元正天皇・長屋親王の難波新都造営とその挫折、そして天平十五年の難波遷都までの「奈良と難波」を中心とする原万葉集後編「宇梅乃波奈」の編纂内容が、『万葉集』の構成を研究する人たちからすると物足りない感じられる所以なのでしょう。
 さて、原万葉集を編纂した丹比国人は柿本人麻呂と大伴旅人との二人を二種類の和歌のそれぞれの高峰と称しましたが、現在に至るまで『万葉集』を凌駕する和歌集が無いとすると、原万葉集の編集長である丹比国人もまた和歌の高峰ではないでしょうか。丹比国人の後、百五十年を待って紀貫之が『古今和歌集』を編纂するまでは見るべき和歌集はありません。そして、紀貫之が『古今和歌集』仮名序の序文や歌番号一〇〇二の「ふるうたたてまつりし時のもくろくの、そのながうた」で示すように、彼は常に丹比国人の巨大な姿を意識して『古今和歌集』を編纂しています。

 終わりに、この章の題に示すように、少し、原万葉集の誕生の日付にこだわりますと、原万葉集前編「奈弖之故」が上梓されたのが天平勝宝七年五月十一日です。この和暦表示の日付は正式には天平勝宝七歳五月己未朔己已と記します。この日を干支での暦から調べてみますと、養蚕掃立の吉日で十二直の建(たつ)、二十八宿の弖(てい)に中ります。暦では五月己未朔己已の日は養蚕掃立の吉日、十二直の建、二十八宿の弖と、暦日占いでは「根本」に関わる日となり物事の開始に相応しい吉日です。つまり、古代において行事を計画する時に重要視された暦の吉凶占いから導き出された、十分に計画されたお披露目の日程であることが想像されます。
 すると、原万葉集後編「宇梅乃波奈」が同じ視線で暦の吉凶占いを綿密に行い孝謙天皇への奉呈の日が計画されたと想像しますと、天平宝字二年(七五八)二月の中で孝謙天皇への奉呈が行われたと思われる一番の可能性のある日は天平宝字二年二月癸卯朔丁已がもっとも相応しい日に中ります。この日は養蚕掃立の吉日で、十二直は満(みつ)、二十八宿は角(かく)に中り、その暦の吉凶占いでは完成を意味する「満」の日となります。つまり、原万葉集後編「宇梅乃波奈」の奉呈の日が「満」の日であるとしますと、原万葉集の編纂作業のすべての終了を意味します。ここから、原万葉集後編「宇梅乃波奈」の誕生日を天平宝字二年二月癸卯朔丁已(十五日)とします。そして、原万葉集のすべての編纂作業は、ここに完了します。
 歴史において天平勝宝九年(七五七)に起きた橘奈良麻呂の変の余波からか、天平宝字二年(七五八)八月には孝謙天皇から淳仁天皇・藤原仲麻呂へと政治の実権は遷って行きます。原万葉集の編纂のきっかけが『栄花物語』に載るように孝謙天皇から左大臣橘諸兄への御下問であるならば、天平勝宝九年以降の孝謙天皇への政治的圧迫の中、ぎりぎりのタイミングでの天平宝字二年二月の編纂完了と奉呈と云うことになります。この淳仁天皇・藤原仲麻呂の時代以降、世の中は平安時代初頭の桓武天皇・嵯峨天皇の漢風文化へと急速に展開し、和歌は表舞台から姿を消して行きます。



万葉集への雑談

 この文を終えるに際して、『万葉集』への雑談を紹介しようと思います。
 『万葉集』の訓点付けの歴史は、村上天皇時代から始まります。これが、有名な「梨壷の五人」の古点と云う伝承です。この伝承に関係して、鎌倉時代初期に出来た『石山寺縁起絵巻』に載る源順の「左右」を「まて」と読む説話があり、雑談にはこの「梨壷の五人」や源順の「左右」の訓点についていたします。その源順の「左右」の訓点での話題を紹介するにあたって、長い寄り道から話を始めようと思います。
 さて、『古今和歌集』に真名序と呼ばれる序文があり、その中に次のような一節があります。

原文
昔、平城天子、詔侍臣令撰万葉集。自爾来、時歴十代、数過百年。其後、和歌弃不被採。雖風流如野宰相、軽情如在納言、而皆以他才聞、不以漸道顕。

訓読
昔、平城の天子、詔して侍臣に令して万葉集を撰ばしむ。それより来(らひ)、時は十代を歴(ふ)り、数は百年を過ぎたり。その後、和歌は棄てて採られず。風流は野宰相の如く、軽情は在納言の如しといへども、皆、他の才をもちて聞え、この道をもちて顕はれず。

 一度、ブログ「竹取翁と万葉集のお勉強」に載せた自説の与太話では、この「平城天子」を聖武天皇(実際は孝謙天皇)としましたが、そこは教養の無さの為せる業なのでしょう。その後、色々と検討をしてみますと、これはやはり平城天皇のことでした。実に恥ずかしいことです。ここではその背景を紹介しますが、平城天皇は、ほぼ、確定的な仮説だと思います。
 ブログで紹介したものが間違いであった背景には、「万葉集」なるものを現代の『二十巻本万葉集』からの思い込みで想像していたことがあります。現代の『二十巻本万葉集』は何度もの編纂を経て成立したものですから、『二十巻本万葉集』が成立するまでには複数の「万葉集」の名称を与えられた詩歌集があったはずですが、これを失念していました。さらに、『二十巻本万葉集』の核となる詩歌集に最初から「万葉集」の名称が与えられていたかと云うと、その保障もまたないことに配慮が足りませんでした。実にうかつです。つまり、素人の悲しさと弱点ですが、論を進める時にその言葉の定義が確立していなかったことにあります。
 こうした時、『古今和歌集』に先行し、「万葉集」について述べた文章があります。それが『新撰万葉集』の序文です。その当該する部分を抜粋して紹介します。

原文
新撰萬葉集序  (菅家万葉集)
夫萬葉集者、古歌之流也。非未嘗稱警策之名焉、況復不屑鄭衛之音乎。
聞説、古者、飛文染翰之士、興詠吟嘯之客、青春之時、玄冬之節、隨見而興既作、觸聆而感自生。凡、厥所草稿、不知幾千。漸尋筆墨之跡、文句錯亂、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。所謂仰彌高、鑽彌堅者乎。然而、有意者進、無智者退而已。於是奉綸、綍鎍綜緝之外、更在人口、盡以撰集、成數十卷。裝其要妙、韞匱待價。唯、媿非凡眼之所可及。

訓読
夫れ萬葉集は、古歌の流なり。未だ嘗って警策(けいさく)の名を稱えざるにあらざり、況(いはん)や復、鄭衛(ていえい)の音を屑(いさぎよ)しとせず。
説を聞くに、「古には、飛文染翰の士、興詠吟嘯の客、青春の時、玄冬の節、見るに隨(したが)ひて既に作を興し、聆(き)くを觸れるに感は自(おのづ)から生まれる。凡そ、厥(そ)の草稿は、幾千を知らず。漸(やくや)く筆墨の跡を尋ねるに、文句錯亂、詩に非ず賦に非ず、字對は雜揉し、雖、入るに悟り難き。所謂、彌高(いやたか)を仰ぎ、鑽(きわめ)るに彌(いやいや)堅き者か。然而(しかるに)、意有る者は進み、智無き者は退き已(や)む。是に於いて綸を奉じ、綍鎍(ふつさく)綜緝(そうしゅう)の外、更に人の口に在るを、盡(ことごと)く以つて撰集し、數十卷を成す。其の要妙(ようみょう)を裝ひ、匱(ひつ)に韞(おさ)め價を待たん。唯、凡眼の及ぶべき所に非ずを媿(とがめ)む」と。

 この『新撰万葉集』は菅原道真とその門弟たちによって編まれた、主に「寛平御時后宮歌合」で詠われた和歌を、唐人や漢字文化圏の人々でもある程度は理解ができるようにと万葉調表記方法で表記し直した和歌とその和歌が詠う世界を題材として創られた漢詩との対になった作品を集めた日本文学史でも非常に特殊な歌集で、平五年(八九三)に成立しています。参考としてその抜粋を紹介します。

歌番和一 伊勢
和歌 水之上 丹文織紊 春之雨哉 山之緒 那倍手染濫
漢詩 春来天氣有何力 細雨濛濛水面穀 忽忘遲遲暖日中 山河物色染深
原歌 みつのうへに あやおりみたる はるのあめや やまのみとりを なへてそむらむ (寛平御時后宮歌合)

 この序文紹介では全文を紹介をしていませんが、後半部に「先生、非啻賞倭歌之佳麗、兼亦綴一絶之詩、插數首之左」と云う一節を持つことから、菅原道真の門弟の誰かによって創られた序文と考えられています。
 さて、国文学の研究者は、当然、古文・漢文を自在に読みこなすことが最低限の基礎学力として訓練を受けていますから、論説においてその現代語訳や口訳を示すことは、基本的にありえません。そのため、万葉集読解史では有名なこの序文の現代語訳を見つけることは容易ではありません。そうした時、漢文解釈において「聞説」がどこまでの範囲を示しているかを明確に確定しているのかと云うと、疑問です。例えば、ここで示した現代語訳は「唯、媿非凡眼之所可及」までと考えていますが、人によっては「觸聆而感自生」までとし、それ以降の「凡、厥所草稿」から「媿非凡眼之所可及」までは序文筆者の解説と考えます。そうしますと、当然、「於是奉綸」の文節において「綸旨」の命令者が変わります。「古者」から古い時代の天皇か、「當今平聖主」なのかということになります。ところが、序文後半では「萬機餘暇、舉宮而方、有事合歌。後進之詞人、近習之才子、各獻四時之歌、初成九重之宴。又有餘興、同加戀思之二詠」とありますから、まず、「當今平聖主」は「於是奉綸」の当事者ではないと推測されます。つまり、「盡以撰集、成數十卷」となったのは「古者」から古い時代の天皇の時と云うことになります。こうしますと、やはり、「聞説」が示す範囲は「唯、媿非凡眼之所可及」までと云うことになりそうです。必然、万葉集読解史では有名な句、「漸尋筆墨之跡、文句錯亂、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟」を述べたのは古い時代の天皇の時と云うことになります。漢文を検討すると、平聖主の時代ではないことになります。それに「万葉集」なる言葉は貞観元年(八五九)に現れますから、平五年の『新撰万葉集』に由来を置くことは出来ませんから、「於是奉綸」を序文筆者の時代に置くことは出来ません。
 一方、この『新撰万葉集』が編まれた時代背景において、菅原道真は遣唐使大使に任命され、道真はその帯同する遣唐使副使に彼の一番弟子となる紀長谷雄を推薦し、それが許されています。このような背景から菅原道真は遣唐使として大唐に日本の文化を紹介するために「和歌の歌集」を携えて行こうとして、菅家一門を挙げてこの『新撰万葉集』を編んだのではないかと云う説があります。その仮説からしますと、この序文の起草者は道真の一番弟子であり、また、当時に図書頭、後に大学頭などを歴任した紀長谷雄となるでしょうか。結局は、菅原道真の遣唐使は中止・廃止され、この『新撰万葉集』は、一度は中途半端なままで放置され、延喜十三年(九一三)になって下巻の序文が付けられるなど、現在に伝わる体裁が整ったようです。
 さて、『新撰萬葉集』の序に「於是奉綸、綍鎍綜緝之外、更在人口、盡以撰集、成數十卷」とあります。ここで使われる言葉を詩歌集と云うものを前提に説明しますと、「綍鎍」は詠われた歌の原本や資料が編纂などを行うことなく、ただ、丈夫な紐で束ねられただけの状態を示し、「綜緝」は詩歌集としての編纂が行われ巻本や冊本として整えられたものを示します。また、「人口」は朝廷などの公的機関ではなく在野にあったものと云う意味となります。さらに「撰集」と云う言葉の原義は詩歌集を編むと云う意味であって、歌に対し秀凡区別し選択すると云う意味合いはありません。つまり、綸旨が出された時に、宮中に保管されていた古歌集や資料として保管されていた古歌、それに在野の古歌を、その歌の表記のままに巻子本の形に転写・再録したと云うことになります。この背景から『新撰萬葉集』の序では「万葉集」のことを「古歌之流也」と表現したものと思われます。そして、後の時代の人、ここで後の時代と云っても少なくとも古今和歌集に載る歌などを参考にすると貞観元年以前になりますが、この時代以降の人たちはこの古歌を撰集した巻子本を「万葉集」と認識していたと考えられます。これが、平安時代の書物に顔を出す「古万葉集」なのでしょう。

『平安時代における万葉集』 西田禎元より「古万葉集」に関わる部分を抜粋
 集は古萬葉集、古今、後撰。『枕草子』六十八段 清少納言
 嵯峨の帝の古万葉集を選び書かせたまへる四巻、延喜の帝の古今和歌集を、唐の浅縹の紙を継ぎて、同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、緞の唐組の紐など、なまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじう書き尽くさせたまへる。 『源氏物語』梅枝巻 紫式部
 凡素盞鳴尊、聖太子御世代、定三十一字以降、古萬葉集、新萬葉集、古今、後撰、拾遺抄、諸家集等、盡以了見。 『新猿楽記』 藤原明衡
 柿本人麿八首 ・・(中略)・・ 但古万葉集第二云大寶元年・・・。・・(中略)・・奈良之帝然而蔵古万葉集尋人丸在世之時・・(中略)・・。萬葉集第二云柿本朝・・・(後略)。 『古今和歌集目録』藤原仲実
 万葉集和歌四千三百十三首。此中長歌二百五十九首。但本々不同。・・(中略)・・ 予按之。此集聖武撰歎。・・(中略)・・ 此集末代之人称古万葉集。『袋草子』巻一 藤原清輔

 ただし、平安時代の後期には「古万葉集」なる言葉は、どうも、二つの意味合いで理解されていたようです。清少納言や紫式部たちは平城天皇の時代に巻子本として残された「万葉集=平城万葉集」の中から嵯峨天皇の時代に短歌の秀歌集として選び編まれた四巻本を「古万葉集=嵯峨万葉集」と称し、一方、歌学者たちは平城天皇の時代に数十巻の巻子本として残された平城万葉集を「古万葉集」と呼んだようです。ややこしいのですが、ここでは平城天皇の時代の数十巻の巻子本である平城万葉集を「古万葉集」と呼ぶことにします。
 では、その撰集した時代は何時かと云うと、『古今和歌集』の真名序から、この「古万葉集」が撰集されたのは平城天皇・上皇の時代(八〇六~八一〇)のことであったと考えます。およそ、『万葉集』の核となる原初万葉集は元明天皇の時代に巻一と巻二とを中心に編纂され、次いで、孝謙天皇の時代に再度編纂が行われ巻一から巻十六までの原万葉集となったのではないでしょうか。これが「綜緝」が意味する詩歌集と考えます。なお、ここでは、今まで紹介しましたように「原万葉集」を「奈弖之故」と「宇梅之波奈」との名称を持つ詩歌集と推定しています。
 『古今和歌集』の仮名序は「万葉集に入らぬ古き歌 みづからのをもたてまつらしめたまひてなむ」と述べ、『万葉集』と『古今和歌集』とで採録された歌の重複を避けることが求められたとします。この綸旨を裏読みしますと、紀貫之たちが『古今和歌集』を編纂するとき、宮中の人々に『万葉集』に載る歌の定義が確立しているか、もし、そうでないのなら紀貫之たちは『万葉集』の歌の定義付けを行う必要がありました。
 その状況を確かめるために重複歌を調べて見てみますと、現在の『二十巻本万葉集』が四千五百首余、『古今和歌集』が千百首余としたとき、西本願寺本基準と伝紀貫之筆の奏覧本基準とでは四首、さらに後年の翻訳写本である定家本とでは墨滅歌を含めて七首しか重複はありません。ただし、この重複数は古今和歌集の歌に本歌取りの技法が使われていることを認めるか、認めないかで、その数は変わります。また、使用する『古今和歌集』によっても、変わります。現在、筑波大学の高野切から『古今和歌集』を復元する研究からは、伝紀貫之筆とされる平安時代成立の『奏覧本古今和歌集』が、一番、古い形の『古今和歌集』の姿を残していると報告されています。一方、鎌倉時代成立の『定家本古今和歌集』を使用すると重複数は七首まで増えていきます。さらに『古今和歌集』の歌に本歌取りの技法を認めず、『万葉集』との類似歌を重複歌として数えますと、人によっては『定家本古今和歌集』基準で十二首まで増えていきます。
 この本歌取りの技法について藤原定家は『詠歌大概』などで次のように規定しています。一方、藤原定家より一世代前の藤原清輔は本歌取りの技法を「盗古歌」と評論していましたから、定家や清輔の評論・提案を総合しますと、時には、そっくりそのままに近いような本歌取りの歌が詠まれていたと思われます。紀貫之自身も額田王の歌(集歌一一八)から本歌取りの歌を詠い、古今和歌集(歌番二九四)に載せていますから、全句が一致せず、歌の景色が違えば、紀貫之たちからすれば本歌取りの技法からの別の歌と考えていたと思います。従いまして、『万葉集』と『古今和歌集』との間での重複歌は最大でも四首とするのが良いようです。

• 本歌と句の置き所を変えないで用いる場合には二句未満とする。
• 本歌と句の置き所を変えて用いる場合には二句+三又は四字までとする。
• 著名歌人の秀句と評される歌を除いて、枕詞・序詞を含む初二句を本歌をそのまま用いるのは許容される。
• 本歌とは主題を合致させない。

 さて、『奏覧本古今和歌集』を基準とした時、重複数が約千百首中に四首もあるとみるか、四首しかないと見るかは立場ですが、ほぼ、綸旨が求めた重複を避けることは達成されています。なお、この論争の前提条件として、村上天皇の時代の古点以前に、「重複を避けると云う行為」の前提として当時の人々は万葉集歌を自在に読みこなしていたと云うことが暗黙の了解事項となっています。
 従いまして、紀貫之たちは現代の『二十巻本万葉集』と同等な「万葉集」に対して『古今和歌集』を編纂したと考えて良いのではないでしょうか。つまり、『古今和歌集』の編纂を開始した時に現在の『二十巻本万葉集』と同等な「万葉集」は、その当時の人々には定義が為されていたことになります。ここで村上天皇の「梨壷の五人」の伝承から生まれた常識には反しますが、『古今和歌集』の編纂時点では平安貴族たちは原文の「万葉集」の歌を全て訓じて理解していたことになります。そうでなければ、『古今和歌集』に載せられている読み人知れずの古歌のほとんどが「万葉集」と重複しないこと自体が「偶然」ということになります。
 ちなみに、『万葉集』の古点の作業が行われていた時に編まれた『後撰和歌集』について、古い論説では『後撰和歌集』と『万葉集』との間には二十四首の重複歌があると唱えられていました。ところが、現在では本歌取りの技法を下に慎重に検討し、それぞれの歌意を精査すると、重複歌ではなく本歌取りの技法による類型歌が大半と論じられています。「梨壷の五人」による『後撰和歌集』の奏覧(天徳二年、九五八年頃)と『万葉集』の古点の完了(康保年間頃、九六四~九六八)には約十年の年代差がありますから、『後撰和歌集』の編纂態度からしますと、どうも、『万葉集』の古点付け作業と『万葉集』の読解とは、直接には関係がないようです。
 最初に説明した『新撰万葉集』の序は平五年九月廿五日の日付を持ち、『古今和歌集』の真名序は延喜五年四月十五日の日付を持ちます。その間、わずかに十二年です。可能性として綸旨が延喜五年に出、その後に編纂作業を経て完成・奏覧が延喜十三年としても、『古今和歌集』で載せる歌の採録・編纂は延喜五年中には開始されている訳です。また、綸旨での任命からして、紀友則・紀貫之・河内躬恒・壬生忠峯たち、四人以上の人々で作業を開始するわけですから、その編纂の最初には編纂方針を決めたと考えられます。およそ、延喜五年中には「万葉集に入らぬ古き歌」の定義は決まっていたはずです。つまり、現在の『二十巻本万葉集』と同等の「万葉集」は人々の共通認識であったか、対比照合資料として整えられていたことになります。そして、この時点で原文の『万葉集』の歌を全て訓じて理解していなければならないことになります。一方、『古今和歌集』の編纂を求める綸旨からして、その綸旨を出した人物やその相談役もまた論理的に考えれば、編まれた歌集を受領し点検を行う責任がありますから、ある程度以上に原文の『万葉集』の歌を理解していたことになります。
 ここで、二つの序を検討しますと、『新撰万葉集』を編んだ菅家一門の人々が見た「万葉集=古万葉集」は数十巻の編纂未了の、ただ、資料集のような詩歌集の巻物であったのに対し、『古今和歌集』の編纂時代には『二十巻本万葉集』と同等な「新万葉集」では歌が定義されたものになっています。さて、この差はどこから来るのでしょうか。可能性として『新撰万葉集』の編まれた時、「古万葉集」は整理のされていない詩歌資料のようなものであったと考えられ、宇多天皇がその整備を菅家一門の人々、特に文章博士や大学頭を歴任した紀長谷雄に命じたのではないでしょうか。宇多天皇は醍醐天皇への譲位の後も上皇や法皇として政治や文化をリードしていますし、寛平初年(八八九)頃の寛平御時后宮歌合や延喜十三年(九一三)には亭子院歌合を開くなど和歌への深い造詣・態度があります。およそ、この頃に『二十巻本万葉集』と同等な「新万葉集」が編纂されたのではないでしょうか。そうした時、『古今和歌集』の編纂に紀友則と紀貫之が参画し、真名序を紀長谷雄の子である紀淑望が書くのは、極、自然な姿と考えます。

 もう少し与太話を続けますと、源順の私家集である『順集』に載る一一七番歌の詞書に「天暦五年、宣旨ありて、やまとうたはえらぶところ、なしつぼにおかせ給ふ、古万葉集よみときえらばし給ふなり、めしおかれたるは河内掾清原元輔、近江掾紀時文、讃岐掾大中臣能宣、学生源順、御書所預坂上茂樹らなり、蔵人左近衛少将藤原朝臣伊尹を其ところの別当にさだめさせたまふ」とあります。これが有名な村上天皇の「梨壷の五人」の伝承の云われです。この文章から村上天皇の時代、天暦五年(九五一)には万葉集は読めない詩歌集になっていたと考えられています。
 ところで、この類の話を紹介する別の資料もあります。それが次のものです。

「梨壺の五人に仰せて万葉集をやはらげられける」 『十訓抄』
「康保のころ、広幡の御息所の申させたまひけるによりて、源順勅を承りて、万葉集を和らげて点じはべりけるに、訓み解かれぬ所々多くて、当寺に祈り申さむとて参りにけり。左右といふ文字の訓みをさとらずして、下向の道すがら、案じもて行くほどに、大津の浦にて物負せたる馬に行きあひたりけるが、口付の翁、左右の手にて負せたるものを押し直すとて、己がどち、までより。といふことを言ひけるに、始めてこの心をさとりはべりけるとぞ」『石山寺縁起絵巻』

 文中の「やはらげ」と云う言葉は古語辞典によると文章や言葉に使う場合は「わかりやすくする、平易にする」の意味としていますから、「梨壷の五人」が行った「よみときえらばし」の作業は原文の『万葉集』の歌に片仮名で訓を与え、読み下しを容易にする作業と考えられます。つまり、村上天皇の時代以前には、どうも、原文の『万葉集』の歌には読み仮名は振られていなかったようです。一方、『古今和歌集』の時代に、人々は『万葉集』の歌が訓め、大勢において重複が無いことを認識・確認しています。さらに、本歌取りの技法を認める、認めないはさて置き、本歌取りの技法を使用した重複歌又は類型歌が存在することから、それらの『万葉集』の歌は確実に訓めたことになります。つまり、『奏覧本古今和歌集』完成の延喜十三年から『後撰和歌集』選定と『万葉集』読解の宣旨が出た天暦五年までの間に読めなくなったと推定せざるを得ません。
 ただ、先ほど紹介しました『石山寺縁起絵巻』に載る説話には『万葉集』の歌の言葉「左右」を源順が苦心して「まで」と訓む例が取り上げられています。ところが、不思議なことに『新撰万葉集』には次のような歌が載せられており、「左右」が難訓と云うものではありません。(歌番号は一から順に二、三、四の順の通し番号です)

歌番和二三 佚名
和歌 夏之夜之 霜哉降禮留砥 見左右丹 荒垂屋門緒 照栖月影
漢詩 夜月凝来夏見霜 姮娥觸處翫清光 荒涼院裏終宵讌 白兔千群人幾堂
原歌 なつのよの しもやふれると みるまてに あれたるやとを てらすつきかけ

歌番和一〇三 佚名
和歌 都例裳那杵 人緒待砥手 山彥之 音為左右 歎鶴鉋
漢詩 千般怨殺厭吾人 何日相逢萬緒甲 歎息高低閨裏亂 含情泣血袖紅新
原歌 つれもなき ひとをまつとて やまひこの おとのするまて なけきつるかな

 この『新撰万葉集』に載る和歌は平安時代の『寛平御時后宮歌合』を中心に詠われた和歌を『万葉集』と同じような漢字表現に戻して表したものです。従いまして、『石山寺縁起絵巻』の内容が当時の人々に信じられていたとしますと、『後撰和歌集』選定の時代頃には『万葉集』を原文から訓むことは困難になっていたと推認されます。または、平安後期にはそのように信じられていたと思われます。ただし、源順はその時代を代表する歌人であり、歌会では評者するような人物ですから『寛平御時后宮歌合』での歌を知らないとも思えません。従いまして、逆説的ですが、平安時代末期以降の人々は次のように考えたと想像されます。
 自分たちでは直接、万葉集本文は読めないことを認識していた。
 その前提でいつから万葉集に訓点が付けられたかを調べた。
 綸旨や日記記録から村上天皇の時代の訓点付けの綸旨が最古にあたると判明した。
 それ以前の古今和歌集時代は仮名序などから紀貫之たちは万葉集本文を読めたと確認できる。
 およそ、鎌倉時代末期に成立した『石山寺縁起絵巻』に載る源順の説話とは、当時の人々の認識や現実を下にした、その時代の人々にとって『万葉集』を原文から訓むことが難しいことを判り易く説明した作り話なのでしょう。つまり、与太話です。およそ、歌人に対し「有意者進、無智者退而已」と云うことで、からかったのでしょう。

 最後に、『後撰和歌集』が編纂された時代、女流歌人の登場や歌会参加などの諸問題によって宮中女房からの和歌集への強い要望・需要があり、その宮中女房の為に『万葉集』の平仮名翻訳本が求められたと云う説があります(『石山寺縁起絵巻』での広幡の御息所とは、村上天皇の更衣であった源計子)。場合により、そのような状況での平仮名翻訳を「万葉集をやはらげられける」と云う文章が説明しているのかもしれません。その時、源順は『万葉集』を原文から読む能力は十分にあったと云うことになりますから、村上天皇の時代に『万葉集』を原文から訓むことは困難になっていたとの、現在に一般にする説明は、結構、怪しい話となります。
 結局は歌人で「有意者進、無智者退而已」の比率と云うことになるのでしょうか。紀貫之時代では歌人と認められる人の多くが「有意者」であり、源順時代以降では多くが「無智者」になったと云うことでしょうか。



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原万葉集 宇梅乃波奈 万葉集後編 宇梅乃波奈

2013年11月17日 | 原万葉集「奈弖之故」と「宇梅乃波奈」
万葉集後編 宇梅乃波奈

 さきに歌の標に「興に依りて各高円の離宮処を思ひて作れる歌五首」と紹介される歌を見て来ました。ここでは、その「興に依りて」に関係する別の宴会の歌々を紹介します。
 『万葉集』によると天平宝字二年(七五八)二月上旬に中臣清麿の屋敷で先に紹介したものとは別の宴会が持たれています。そのとき、詠われた歌が次の十首です。歌の掲載順からするとこれらの歌は「興に依りて各高円の離宮処を思ひて作れる歌五首」より先に置かれていますから、同じ二月上旬の歌ですが、数日早く宴が持たれ、詠われたものと思われます。先に仮定しましたように『万葉集』巻二十に載る順番に狂いがないとすると、二月四日に行われた祈年祭の宮中儀式の後、二月五日以降で二月九日以前のある日にこの宴会が開かれています。日付は旧暦です。新暦に直しますと七五八年三月二二日から三月二六日の間の或る日と云うことになります。この季節と梅の花やその実を示す言葉に注目して、次の歌を見て下さい。歌の世界は、推定で二月六日戊申、現在の奈良市郊外での新暦三月二十三日の景色です。
 参考に標準的な現代語訳を意訳として『萬葉集 全訳注原文付(中西進、講談社文庫)』からままに載せています。続けて、ある解釈を下にした私訳を載せます。この意訳と私訳を連続で紹介することで、ここで紹介しているある意図を了解して頂けるものと思います。

天平宝字二年
二月、於式部大輔中臣清麿朝臣之宅宴謌十首
標訓 二月に、式部大輔の中臣清麿朝臣の宅(いへ)にして宴(うたげ)せる歌十首
集歌四四九六
原文 宇良賣之久 伎美波母安流加 夜度乃烏梅能 知利須具流麻弖 美之米受安利家流
訓読 恨めしく君はもあるか宿の梅の散り過ぐるまで見しめずありける
意訳 あなたは何とうらめしいことよ。お宅の梅が散ってしまうまで見せてくださらなかったのですね。
私訳 あなたは、何と、うらめしい人でしょう。梅の花が咲き散って実を結ぶように、お宅で保管してあった大伴旅人の「烏梅の花の宴」の歌集が、このように「宇梅乃波奈(うめのはな)」として実を結ぶまで見せてくださらなかったのですね。
右一首、治部少輔大原今城真人

集歌四四九七
原文 美牟等伊波婆 伊奈等伊波米也 宇梅乃波奈 知利須具流麻弖 伎美我伎麻左奴
訓読 見むと言はば否と言はめや梅の花散り過ぐるまで君が来まさぬ
意訳 見たいとおっしゃれば、どうしていやだといいましょう。あなたはおいでにならなかったことよ。
私訳 そうではありません。貴方が宇梅乃波奈を見たいとおっしゃれば、どうしていやだといいましょう。梅の花が咲き散り実になるように「宇梅乃波奈」の完成まで、あなたがおいでにならなかっただけですよ。
右一首、主人中臣清麿朝臣

集歌四四九八
原文 波之伎余之 家布能安路自波 伊蘇麻都能 都祢尓伊麻佐祢 伊麻母美流其等
訓読 はしきよし今日の主人は礒松の常にいまさね今も見るごと
意訳 慕わしいこの日の主人は、磯辺の松が常緑であるように、変わりなくおいでください。今お見受けするように。
私訳 麗しいこの日の主人である「宇梅乃波奈」よ、この屋敷の主人である中臣清麿様の磯の松が常緑であるように、これからも、末長く、変わらなく在ってください。今、見ている姿のように。
説明 磯は、屋敷の主である中臣清麿が先の太政大臣丹比真人嶋の孫であることから、「嶋」から「磯」を引き出し、清麿の屋敷の意味を持たしている。
右一首、右中辨大伴宿祢家持

集歌四四九九
原文 和我勢故之 可久志伎許散婆 安米都知乃 可未乎許比能美 奈我久等曽於毛布
訓読 我が背子しかくし聞こさば天地の神を乞(こ)ひ祈(の)み長くとぞ思ふ
意訳 あなたがそのようにおっしゃるのなら、私は神々に乞い願い、長く生きようと思います。
私訳 私の大切な「宇梅乃波奈」のあなたが、このようにいらっしゃるのならば、私は天地の神に乞い願い、末世までもあなたが長くあって欲しいと願います。
右一首、主人中臣清麿朝臣

集歌四五〇〇
原文 宇梅能波奈 香乎加具波之美 等保家杼母 己許呂母之努尓 伎美乎之曽於毛布
訓読 梅の花香をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしぞ思ふ
意訳 梅の花はかおり高いので、遠いにもかかわらず心もしなえるように、あなたをお慕いします。
私訳 「宇梅乃波奈」が格調高く麗しいので、和歌の世界からは縁遠い私ですが、心から「宇梅乃波奈」を大切に思います。
右一首、治部大輔市原王

集歌四五〇一
原文 夜知久佐能 波奈波宇都呂布 等伎波奈流 麻都能左要太乎 和礼波牟須婆奈
訓読 八千種(やちくさ)の花は移ろふ常盤(ときは)なる松のさ枝を我れは結ばな
意訳 さまざまに美しい花は衰えてゆきます。常緑の松の枝に永遠の願いをこめて、私はそれを結びましょう。
私訳 世の移り変わりにつれて、さまざまに美しい歌の花は移り変わっていきます。この屋敷の中臣清麿様の磯の常緑の松の枝に「宇梅乃波奈」が永遠でありますようにと願いを込めて、私はそのを誓いを結びましょう。
右一首、右中辨大伴宿祢家持

集歌四五〇二
原文 烏梅能波奈 左伎知流波流能 奈我伎比乎 美礼杼母安加奴 伊蘇尓母安流香母
訓読 梅の花咲き散る春の長き日を見れども飽かぬ礒にもあるかも
意訳 梅の花が咲いては散る春の永日に、一日中見ていても見飽きないほどすばらしい。磯であることよ。
私訳 大伴旅人の大宰での「烏梅の宴」を想い起こす、この屋敷の庭の梅の花が咲いて散る春の長い一日に、「宇梅乃波奈」は、一日中、見ていても見飽きことがないほどにすばらしい。その「宇梅乃波奈」が中臣清麿様の屋敷にありますね。
説明 「烏梅能波奈」の「烏梅」から大伴旅人の大宰での「烏梅の宴」をも想い起こす。また、「磯」は屋敷の主である中臣清麿が先の太政大臣丹比真人「嶋」の孫であることから、清麿の屋敷を意味する。
右一首、大蔵大輔甘南備伊香真人

集歌四五〇三
原文 伎美我伊敝能 伊氣乃之良奈美 伊蘇尓与世 之婆之婆美等母 安加無伎弥加毛
訓読 君が家の池の白波礒に寄せしばしば見とも飽かむ君かも
意訳 あなたのお宅の池の白波が磯に寄せ返すように、しばしば見たいとしても見飽きるようなあなただろうか。
私訳 中臣清麿様のお宅の池の白波が池の島の岩に寄せ返すように、何度も何度も繰り返し見たとしても見飽きることのない「宇梅乃波奈」の貴方(歌集の本)ですね。
右一首、右中辨大伴宿祢家持

集歌四五〇四
原文 宇流波之等 阿我毛布伎美波 伊也比家尓 伎末勢和我世古 多由流日奈之尓
訓読 うるはしと我が思ふ君はいや日(ひ)異(け)に来ませ我が背子絶ゆる日なしに
意訳 慕わしく思うわが君は、日々ますますおいでいただきたい。――あなたよ、一日とて絶えずに。
私訳 立派な方と私が思う貴方は、毎日でもおいでいただきたい。私の大切な「宇梅乃波奈」の世界が、一日でも絶える日がないように。
右一首、主人中臣清麿朝臣

集歌四五〇五
原文 伊蘇能宇良尓 都祢欲比伎須牟 乎之杼里能 乎之伎安我未波 伎美我末仁麻尓
訓読 礒の浦に常夜日も来住む鴛鴦の惜しき我が身は君がまにまに
意訳 磯の浦にいつも喚びかわしつつ来て棲む鴛鴦のように、惜しいわが身とてもあなたの御心のままに。
私訳 中臣清麿様のお宅の池の岸に毎日のように来て住む鴛鴦を口惜しく思う私の心は、貴方の御心のままにしてください。お許しあれば、毎日のように通って来て、私が見たい「宇梅乃波奈」です。
右一首、治部少輔大原今城真人

 この宴席での中心テーマの一つである梅の花について、その開花と散る時期が歌の解釈では重要なポイントとなります。最初に、梅の花の開花時期や季節感について、『万葉集』の歌の中からそれを確認したいと思います。
 『万葉集』の歌の中で、梅の花の咲く時期に詠われた歌で、その月日が明確または推定できるものは、この宴会の歌を除くと、およそ十一歌群があります。ここで、天平二年に大宰府にて梅花の宴の中で詠われた歌は三十二首、それに添える形で旅人の歌が四首あり、都合三十六首があります。また、大伴書持が詠う「追和大宰之時梅花新歌六首」や他にも同様なものがあり、それぞれ同じ宴の中で詠われた歌を個々に一首ずつを数えるのではなく一つの宴会でのまとまりのある歌として「歌群」と称しています。それで十一歌群です。
 これらの歌で、集歌四二三八の歌の左注が紹介するように越中国の特殊な気候での歌を除くと、梅の開花は旧暦十二月上旬ごろであり、花の風情を詠うのは正月下旬ごろまでが、和歌での季節感覚だったようです。この季節感からすると、万葉時代の梅は現在の品種区分では野梅性(やばいしょう)の早咲きの梅だったと思われます。現在ですと野梅性の梅の品種において白梅では初雁が、紅梅では八重寒紅が相当するようです。これらの品種の梅は和歌山県南部では新暦十二月下旬から一月中旬に香り高く咲くとされていますから、『万葉集』の梅の季節感と現在の野梅性の開花時期は見合ってきます。なお、大伴家持が赴任した越中の国で旧暦二月二日に詠われた集歌四二三八の歌は季節外れの歌になりますが、その左注に示すように越中の国の地域性で梅の開花は遅いと説明しています。
 参考に、現在の梅は杏との交配による改良種が多く、古来の野梅性とは違い、開花時期は杏の性格に近づいて新暦三月以降の開花で、花の大きさもより大きく、杏の花に近づいてきます。このような事情から現在の梅の花のイメージがそのままに万葉時代の梅の花のものとはなりません。

二月二日、會集于守舘、宴作謌一首
標訓 (天平勝宝三年)二月三日、守(かみ)の舘(やかた)に会集(つど)ひ、宴(うたげ)して作れる歌一首
集歌四二三八
原文 君之徃 若久尓有婆 梅柳 誰与共可 吾縵可牟
訓読 君し行きもし久にあらば梅柳誰れとともにか我がかづらかむ
右、判官久米朝臣廣縄、以正税帳應入京師。仍守大伴宿祢家持作此謌也。但越中風土、梅花柳絮三月初咲耳
注訓 右は、判官久米朝臣広繩、正税帳を以ちて京師(みやこ)に入らむとす。よりて守大伴宿祢家持この歌を作れり。ただ越中の風土に、梅花・柳絮は三月に初めて咲くのみ。

 さて、この梅の花の開花時期の感覚を踏まえて、先の集歌四四九六から集歌四五〇五までの歌を見てみたいと思います。
 集歌四四九六の歌の標に「二月」とあります。『万葉集』での記載の順番などからこの二月とは天平宝字二年と推定が可能ですし、この年代推定はほぼ動かないものと考えます。宮中行事において旧暦二月四日の祈年祭は心体潔斎をして望むような宮中行事では重要な神道での行事です。また、二月の初午も暦では「事初め」であり、宮中行事としては重要な日です。ちょうど、この年は二月四日が丙牛にあたり、初午ですし、祈年祭の当日でもあります。従いまして、私的な宴をこの月の四日以前に開いたとは思われません。また、万葉集巻二十ではこの歌群の後に「二月十日、於内相宅餞渤海大使小野田守朝臣等宴謌一首」の標を持つ集歌四五一四の歌が載せられています。ここから「中臣清麿朝臣之宅宴謌十首」の標を持つ歌群は二月五日から九日までの間に詠われたものと考えられます。そうした時、天平宝字二年十日以前の日付について暦の吉凶占いをしますと戊申と辛亥とが吉日に中り、六日と九日とがその当日となります。およそ、「依興各思高圓離宮處作謌五首」の宴が開かれたのが九日の辛亥としますと、この「中臣清麿朝臣之宅宴謌十首」は六日の戊申と云うことになります。
ここでの歌の鑑賞は、この推定の日付に注目して行って行きます。
 さて、集歌四四九六や集歌四四九七の歌は「宿の梅の散り過ぐるまで」や「梅の花散り過ぐるまで」と詠い、宴会が開かれたであろう旧暦二月上旬にふさわしく、梅の花はすでに散って実がふくらみ始めている景色です。ところが、集歌四五〇〇の歌の「梅の花香をかぐはしみ」や集歌四五〇二の歌の「梅の花咲き散る春の長き日を」の句は宴の主が「宿の梅の散り過ぐるまで」と詠う季節感に対して相応しくありません。屋敷の主の中臣清麿は集歌四四九七の歌の句「梅の花散り過ぐるまで」と、「すでに梅の花は散り、もう結実する時期」と詠っています。それを引き取っての「梅の花香をかぐはしみ」や「梅の花咲き散る春の長き日を」の表現です。例え身分が低い来客の立場としても、散ってしまったはずの梅の花を今なお咲いているとして「梅の花」の状況を詠ったとしますと、その作歌態度は風流ではありませんし、『万葉集』に載せるものとしては相応しくありません。屋敷の庭には鴛鴦が泳ぎさざなみの立つ大きさのある池があり、常緑の松も視野にあります。また、梅とは違うようですが、集歌四五〇一の歌の「八千種の花は移ろふ」の感覚から庭には梅以外のなんらかの花は咲いているようです。それらの景色は視界にあるのですが、梅が花を散らし実を膨らませる時期に「梅の花香をかぐはしみ」です。ところが、それを宴に集う人々は受け入れていますから、それを異常とは思わない何かがあるはずです。
 次に集歌四四九八の歌の句に注目をしてみたいと思います。大伴家持は歌で「今日の主人」に対して「常にいまさね」とその常盤の幸を願っています。それに対して宴の主人である中臣清麿は集歌四四九九の歌では「我が背子し かくし聞こさば」と詠っています。ここで、中臣清麿は「家持が『今日の主人』に対してその常盤の幸を願うのでしたら、私も『天地の神を乞ひ祈み』と『今日の主人』の常盤を神々に願い、その常盤が『長くとぞ思ふ』」と答えています。まず、大伴家持が云う「今日の主人」とはこの屋敷の主人である中臣清麿ではありません。この「今日の主人」とは集歌四四九六と集歌四四九七との歌で大原今城と中臣清麿とが詠うように「人が見るもの」ですし、「磯松と比べて、その常盤の幸を願うもの」です。つまり、人物ではない、何か、他のものです。
 さらに歌を見て行きますと、屋敷の主人である中臣清麿が集歌四四九九の歌で「今日の主人」に対してその常盤の幸を願った後は、集歌四五〇〇以下、集歌四五〇五までの五首は「今日の主人」に対する誉め言葉の歌となっています。普段の解釈は集歌四四九八の歌で示す「今日の主人」を屋敷の主人である中臣清麿と解釈するものもありますが、私は「今日の主人」を人が見るもので磯松と比べてその常盤の幸を願うものと解釈しています。つまり、集歌四四九七の歌で屋敷の主人である中臣清麿が詠う「宇梅乃波奈(うめのはな)」です。訓読み万葉集のように「宇梅乃波奈」を「梅の花」と翻訳したのでは何がなんだか分からないでしょうが、固有名詞としての「宇梅乃波奈」です。
 天平勝宝七年(七五五)五月十一日に原万葉集前編「奈弖之故」のお披露目の宴で橘諸兄と丹比国人が、その常盤を願ったのと同じ風景です。その原万葉集前編「奈弖之故」のお披露目の宴には大伴家持は参加していませんが、後日にそのときの様子を聞いて歌を詠っています。ちょうど、この度のお披露目の宴会で集歌四四九八の歌で示す原万葉集後編「宇梅乃波奈」の常盤を祈願するのと同じ宴会の景色です。
 それやこれやで、私はこの「宇梅乃波奈」を元明天皇の平城京遷都から始まり元正天皇・長屋親王の難波宮建設と神亀六年の変によるその挫折、さらに元正太政天皇による難波遷都までを中心とした歌々を編纂した原万葉集の後編と思っています。

 原万葉集後編となる「宇梅乃波奈」は、「人麻呂のくびき」を脱した新しい和歌の世界です。必然に天平二年正月十三日の大宰府での「烏梅の宴」での梅花歌二十三首に触れざるを得ないでしょう。私は、原万葉集後編となる「宇梅乃波奈」の完成を祝う宴では、最初に巻五の旅人の「調べ和歌」の世界に話題が集まったと思います。次に、その「調べ和歌」の世界ではありませんが、和歌での佳麗な美の世界ですと志貴皇子の歌の世界です。歌人たちの宴で興が乗ってくると『万葉集』巻八の巻頭を飾る集歌一四一八の「早蕨」の歌は当然の話題ではないでしょうか。

志貴皇子懽御謌一首
標訓 志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首
集歌一四一八
原文 石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
訓読 石(いは)激(たぎ)つ垂水(たるみ)し上のさわらびの萌え出づる春になりしけるかも
私訳 滝の岩の上をはじけ降る垂水の上に緑鮮やかな若いワラビが萌え出る春になったようです。

 このような宴会での原万葉集後編の歌集の鑑賞であり評論ですと、集歌四五〇六の歌の標の「興に依りて各高円の離宮処を思ひて作れる歌五首」で、高円の野に葬られている志貴皇子を偲ぶのは非常に判りやすい風景です。それ故に、高円の離宮は志貴皇子の別荘であって聖武天皇のものではないはずです。
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原万葉集 宇梅乃波奈 高円の「おほきみ」は誰を示すのか

2013年11月10日 | 原万葉集「奈弖之故」と「宇梅乃波奈」
高円の「おほきみ」は誰を示すのか

 普段の私達が『万葉集』の歌を鑑賞するときに注意しなければいけないことがあります。その一つに皇族の敬称です。大王、大皇、皇、王などと本来の『万葉集』の原文では対象者の身分により、その漢字での表記を変えています。一方、これらの漢字表記は後年の翻訳の成果である訓読み万葉集ではおおむね「おほきみ」と読み、漢字表記も「大君」へと集約します。そのため、本来の『万葉集』と訓読み万葉集とで示す身分は違います。
 例えば、『万葉集』の歌の世界では草壁皇子の表記は「王」であって、大嘗祭を執り行っていないことから「大王」の表記は使われていません。およそ、『万葉集』の歌での大王、大皇、皇、王などの原文表記を訓読万葉集に翻訳する時、一律に「大君」の表記への集約を行うことや、「おほきみ=天皇」の解釈は間違いです。つまり、万葉仮名で「於保吉美」と記されているから「おほきみ=天皇」と決めて掛かることは出来ません。親王もまた「王」の表記を持つ「おほきみ」です。ちょうど、「みこ」にも皇子と御子との違いがあるのと同じ風景です。この風景は、『万葉集』の歌が「表記する和歌」であることを理解しないと判らない世界ですし、その『万葉集』自体が律令体制が十分に機能していた時代の詩歌集であることを忘れることは出来ません。
 この皇族の敬称では同じ発音の「おほきみ」でも立場により大王、大皇、皇、王などと区分されると云う事実を下に、天平宝字二年二月十日以前に詠われた次の歌を鑑賞します。

依興各思高圓離宮處作謌五首
標訓 興に依りて各(おのがじし)高円の離宮(とつみや)処(ところ)を思(しの)ひて作れる歌五首
集歌四五〇六
原文 多加麻刀能努乃宇倍能美也波安礼尓家里多々志々伎美能美与等保曽氣婆
訓読 高円(たかまと)の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御代(みよ)遠そけば
私訳 高円の野の高台にある宮の屋敷は荒れてしまったようだ。屋敷を建てられた皇子の生前の時代は遠くなったので。
右一首、右中辨大伴宿祢家持

集歌四五〇七
原文 多加麻刀能乎能宇倍乃美也波安礼奴等母多々志々伎美能美奈和須礼米也
訓読 高円(たかまと)の峰の上の宮は荒れぬとも立たしし君の御名忘れめや
私訳 高円の高台にある宮の屋敷は荒れ果てたとしても皇子のお名前は忘れるでしょうか。
右一首、治部少輔大原今城真人

集歌四五〇八
原文 多可麻刀能努敝波布久受乃須恵都比尓知与尓和須礼牟和我於保伎美加母
訓読 高円(たかまと)の野辺延ふ葛(くず)の末つひに千代に忘れむ我が王(おほきみ)かも
私訳 高円の野辺に生える葛の蔓が長く延びるように千代の後に忘れられるような我が王の御名でしょうか。
右一首、主人中臣清麿朝臣

集歌四五〇九
原文 波布久受能多要受之努波牟於保吉美乃賣之思野邊尓波之米由布倍之母
訓読 延ふ葛(くず)の絶えず偲はむ王(おほきみ)の見しし野辺には標(しめ)結ふべしも
私訳 野辺に延びる葛の蔓が絶えないように御偲びする王が眺められた高円の野辺に農民に荒らされないように禁制の標を結ぶべきでしょう。
右一首、右中辨大伴宿祢家持

集歌四五一〇
原文 於保吉美乃都藝弖賣須良之多加麻刀能努敝美流其等尓祢能未之奈加由
訓読 王(おほきみ)の継ぎて見すらし高円(たかまと)の野辺見るごとに哭(ね)のみし泣かゆ
私訳 葬られた場所から王が今も見ていられるでしょう。高円の野辺を見るたびに亡くなられたことを怨みながら泣けてしまう。
右一首、大蔵大輔甘南備伊香真人

 歌の世界は或る亡くなられた皇族を偲ぶ歌です。これが前提です。
 最初に『万葉集』の巻十七から巻二十までの巻々は、ある種の日記のような構成を持つ巻です。その日記風なスタイルを持つ巻に載る歌々の掲載順が年代、月日に従っていて、その掲載順に前後の乱れがないと仮定しますと、紹介した歌群の前に二年正月三日と云う日付を持つ集歌四四九三の歌、二月と云う日付を持つ集歌四四九六の歌が配置されています。一方、二月十日と云う日付を持つ集歌四五一四の歌が後に置かれていますから、紹介した五首の歌が詠われた宴は二月十日以前の二月中の歌と云うことになります。これが二つ目の前提と約束事です。
 ここで、紹介した歌々での「於保吉美」の「おほきみ」や「伎美」の「きみ」が示す人物を聖武天皇のことと解釈するものもあるようです。確かに歌が詠われたであろう天平宝字二年には聖武天皇は亡くなられています。それはそれで良いのですが、肝心の聖武天皇の陵墓は奈良市法蓮町の佐保山南陵です。高円山ではありません。方向が奈良都から見て東方と北方の違いがあります。一方、高円山方面に陵墓を持つ有名人では、高円山の南東の田原西陵に埋葬された志貴皇子です。特に、集歌四五一〇の歌の内容からは、明らかに「於保吉美」は高円山近辺に埋葬された方ですので聖武天皇ではありません。歌での「おほきみ」や「きみ」の尊称から判断して、歌の対象者は聖武天皇以外の人物で親王級の人物と思われますから、およそ、白毫寺の由来からして志貴皇子を示唆します。
 歌に付けられた標に「興に依りて各高円の離宮処を思ひて」と記すことと天平宝字二年と云う時代性に注目して、研究者は苦し紛れに歌に示す「於保吉美」とは聖武天皇であると解釈したのでしょうか。確かにムササビの歌が詠われた集歌二六七の歌などから聖武天皇のゆかりを探すことは可能でしょうが、やはり、これらの歌群は集歌二三〇の志貴皇子への挽歌を踏まえての歌群ではないでしょうか。
 もし、これらの歌々が志貴皇子を偲ぶ歌としますと、不思議なことを感じます。天平宝字二年(七五八)二月上旬に中臣清麿の屋敷でこの歌群が詠われた宴が開かれたとき、歌の標に「興に依りて各高円の離宮処を思ひて作れる歌五首」と記述されるように、その宴会が盛り上がった時、なぜ、志貴皇子のことが取り上げられたのでしょうか。およそ四十年前、萩の花が咲く秋に亡くなられた皇子を、梅の花が散る春の宴会で、それも宴が盛り上がった時に、急に皇子のことを取り上げて偲ぶ必要があったのでしょうか。それが不思議です。
 梅の花が散る春の宴会でその宴が盛り上がった時に、急に皇子のことを取り上げて偲んだのは、春と云う季節感から『万葉集』巻八の巻頭を飾る集歌一四一八の歌の「石激る垂水し上のさわらびの萌え出づる春になりしけるかも」のためでしょうか。もし、そうですと、梅の花が散り、春が深まる季節に集う人々の心の内に皇子が詠う集歌一四一八の歌の「早蕨」の歌があると云うことになります。さらに、「興に依りて各高円の離宮処を思ひて作れる歌五首」の歌々が示すように人々の共通認識には笠朝臣金村が詠う志貴皇子への挽歌もまた存在することになります。
 つまり、宴に参加した中臣清麿、大原今城、市原王、甘南備伊香や大伴家持たちは、志貴皇子が詠う「早蕨」の歌と笠朝臣金村が詠う集歌230の皇子の挽歌は共通の認識でなければいけません。特に集歌四五一〇の歌での句「哭のみし泣かゆ」は集歌230の歌の「本名唁 聞者 泣耳師所哭」の一節を引用し、集歌四五〇六と集歌四五〇七の歌は集歌232の歌の内容を反映していますから、宴会には「万葉集のような歌集」が持ち込まれていたような感覚があります。そうでなければ、『万葉集』と云う歌集が編まれる以前に四十年前に詠われた葬送の挽歌を宴の参加者全員が諳んじていると云うことになり、それは異常なことではないでしょうか。そして、約半世紀前の挽歌などを知っていると云う状況から推測すると、宴会の参加者はそれらの歌が載る『万葉集』巻八を鑑賞し、評論している雰囲気があります。これは穿ち過ぎな鑑賞態度でしょうか、はたまた、独尊でしょうか。しかし、このように考えざるを得ないのではないでしょうか。
 参考としてこの宴に参加した人物を紹介しますと、宴主の中臣清麿の正妻は丹比真人嶋の娘で、招かれた大伴家持は万葉集の歌から推測すると丹比家の女性と婚姻関係を持っていたようで。ここに、清麿と家持とは妻の実家を通じて姻戚関係があります。さらに、この関係から原万葉集の編纂責任を務める丹比国人と清麿は近い姻戚関係となります。また、橘諸兄が政界から引退後は宴主の清麿が神道の取り纏めと云う責任者の立場から国風文化の中心人物でした。およそ、清麿は諸兄から和歌編纂事業を引き継ぐには最適な人物となります。当然、家持と大原今城とは原万葉集第一期となる「奈弖之故」の編纂委員でしたから、引き続き、第二期となる「宇梅乃波奈」の編纂に参画するのは自然な姿です。さらに春日王やその御子である市原王は大伴一族の風流の宴によく招かれるような風流人です。甘南備伊香は臣籍降下するまでは伊香王と称し、雅楽頭を務めた風流人です。
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原万葉集 宇梅乃波奈 志貴皇子と万葉集

2013年11月03日 | 原万葉集「奈弖之故」と「宇梅乃波奈」
志貴皇子と万葉集

 ここで、唐突ですが志貴皇子に寄り道をします。意図不明のままに志貴皇子の歌を並び立てていますが、後で夫々の歌があるテーマで結びついて来ますので、紹介する歌の感覚を覚えていてください。
 最初に紹介する集歌一四一八の歌は『万葉集』第二部とも称される巻八の巻頭を飾る歌です。

志貴皇子懽御謌一首
標訓 志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首
集歌一四一八
原文 石激垂見之上乃左和良妣乃毛要出春尓成来鴨
訓読 石(いは)激(たぎ)つ垂水(たるみ)し上のさわらびの萌え出づる春になりしけるかも
私訳 滝の岩の上をはじけ降る垂水の上に緑鮮やかな若いワラビが萌え出る春になったようです。

 志貴皇子の歌は色彩が豊かで華やかさがあります。集歌一四一八の歌には春の日を浴びて白く弾ける下る水の流れの視線の先にはまだ若い緑のワラビの景色があります。当然、そこには春の柔らかな苔やまだ若く淡い木々の萌え葉姿もあるはずです。その自然の美が歌にあります。それに対して、集歌五一の歌の美しさは人工の美です。全国から選りすぐった美人中の美人の絹の衣がそよ風に翻っています。それも、新造の成った朱塗り鮮やかな藤原京が舞台です。神事を行なう美人の采女の貌にもすべての男たちの視線を釘付けにしていることを意識しての得意があります。それ故、そのすべてが新しく美しい藤原京に、古き京がある明日香の方角から吹く風によって起きた過去への招魂の袖振りは似合わないのです。ところが一転、集歌六四の歌は地味な灰色と茶色の斑な鴨の背羽を背中に霜が降りたと見立てています。地味なはずの鴨の背羽模様が、なぜか、厳しい寒さの具体的な象徴になっています。志貴皇子は、自然画でも、美人画でも、そして観察画でもなんでも第一級の歌人です。このような観点からも、『万葉集』第二部の始めとなる巻八の巻頭を飾るに相応しい人物と思います。

集歌五一
原文 采女乃袖吹反明日香風京都乎遠見無用尓布久
訓読 采女の袖吹きかへす明日香(あすか)風(かぜ)京都(みやこ)を遠み無用(いたづら)に吹く
私訳 采女の袖を吹き靡き返す明日香からの風。飛鳥の浄御原宮の時代は既に遠い。袖を揺らして過去を呼び戻すと云う、その袖を揺らす風が何もかもが新しく美しいこの藤原の宮に無用に吹いている。

集歌六四
原文 葦邊行鴨之羽我比尓霜零而寒暮夕倭之所念
訓読 葦辺(あしへ)行く鴨し羽交(はが)ひに霜降りに寒き夕へし大和し念(おも)ほゆ
私訳 葦の生える岸そばを泳ぎ行く鴨の斑模様の羽を閉じた背の模様が霜が降りたような、その霜の降る寒い夕べにあって、寒さの厳しさから住み慣れた大和を思い出します。

 巻八の巻頭を飾る歌を詠った志貴皇子は飛鳥藤原京から奈良平城京への遷都後は、春日山の南方、能登川を挟んだ反対側の高円山にゆかりが深い皇子です。その志貴皇子と高円山に関わる話題を紹介しますと、現在の高円山の裾にある白毫寺(びゃくごうじ)は、霊亀元年(七一五)の天智天皇の皇子である志貴皇子の没後に、元正天皇の勅願によって皇子の山荘跡を寺としたのに始まると伝えられていて、奈良市白毫寺町にある真言律宗の寺院です。そして、この白毫寺は奈良市街地の東南部の春日山の南に連なる高円山の山麓にあり、境内から奈良盆地が一望できる景勝地にあります。
 その白毫寺の前身となる志貴皇子の山荘で詠われたのではないかと云うのが、次の歌です。

志貴皇子御謌一首
集歌二六七
原文 牟佐々婢波木末求跡足日木乃山能佐都雄尓相尓来鴨
訓読 鼫鼠(むささび)は木末(こぬれ)求むとあしひきの山の猟男(さつを)にあひにけるかも
私訳 むささびは梢へ逃れようとして草木が生茂る山で猟をする猟師に見つかってしまったのでしょう。

 このムササビの後日談は天平十一年の大伴坂上郎女の歌にありますが、ここでは高円山に関わるとして皇子の挽歌を続いて見てみます。

霊龜元年歳次乙卯秋九月、志貴親王薨時作謌一首并短謌
標訓 霊亀元年歳次乙卯の秋九月に、志貴親王の薨(かむあが)りましし時の歌一首并せて短歌
集歌二三〇
原文 梓弓 手取持而 大夫之 得物矢手挾 立向 高圓山尓 春野焼 野火登見左右 燎火乎 何如問者 玉桙之 道来人乃 泣涙 霪霪尓落者 白妙之 衣泥漬而 立留 吾尓語久 何鴨 本名唁 聞者 泣耳師所哭 語者 心曽痛 天皇之 神之御子之 御駕之 手火之光曽 幾許照而有

訓読 梓弓 手し取り持ちに 大夫(ますらを)し 得物矢(さつや)手挟み 立ち向ふ 高円山(たかまとやま)に 春野焼く 野火と見るさへ 燃ゆる火を 何(い)かと問へば 玉鉾し 道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白栲し 衣(ころも)ひづちに 立ち留まり 吾に語らく なにしかも もとな唁(と)ひ聞けば 泣(ね)のみしそ哭(な)く 語(かたら)へば 心ぞ痛き 天皇(すめらぎ)し 神し御子し 御駕(いでまし)し 手火(たひ)し光りぞ ここだ照りにあり

私訳 梓弓を手に取り持って勇ましい大夫が得物を取る矢をたばさみ狩に立ち向かう高円山に、春に野を焼く野火と思われるほどの燃える火を何かと問うと、王の印である鉾を立てる道を歩き来る人の泣く涙が小雨のように降れば、白栲の衣は濡れそぼっていて、立ち留まって、私に語っていうには、「どうして理由もなく尋ねる。理由を聞かれれば泣きながら怨んでしまう。理由を語ると心が痛い。天皇の神のような御子のあの世へのおでましの警護をする手火の光だ。おびただしく照らしているのだ。」

短謌二首
集歌二三一
原文 高圓之野邊乃秋芽子徒開香将散見人無尓
訓読 高円(たかまと)し野辺(のへ)の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無みに
私訳 高円山の野辺の秋萩は空しく咲き散るのであろうか、見る人が亡くなった後も

集歌二三二
原文 御笠山野邊徃道者己伎太雲繁荒有可久尓有勿國
訓読 三笠山(みかさやま)野辺(のへ)往(い)く道はこきだくも繁く荒れたるか久(ひさ)にあらなくに
私訳 三笠山の野辺を往く道は、大層にも雑草が茂って荒れ果てているのだろうか、まだそれほど経っていないのだけど
右歌笠朝臣金村謌集出

 志貴皇子は天智天皇の第七番目の皇子で、後に光仁天皇となる白壁王の父親です。持統三年(六八九)に先の天皇の事績を調べる役職である撰善言司に任ぜられていますから、皇子は古事記や日本紀の編纂作業に関わっていたと思われます。しかしながら、それ以外、生前の皇子の職務全般については闇の中の人物ですし、皇子は霊亀二年(七一五)八月に二品の位で亡くなられています。およその人物としては、このような経歴ですが、『万葉集』に載る皇子本人が詠ったと思われる和歌は美しい歌ばかりです。大津皇子のような伝説の歌人ではなく、皇子は現実の皇族歌人ではないでしょうか。
 歌や志貴皇子の説明はここで置かせていただきますが、以下の説明のため、これらの歌々を記憶に残しておいて下さい。
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原万葉集 宇梅乃波奈(うめのはな) 大宰府 烏梅の宴

2013年10月27日 | 原万葉集「奈弖之故」と「宇梅乃波奈」
大宰府 烏梅の宴

 紹介しましたように天平二年正月十三日、大宰府で大伴旅人を宴主とする烏梅の宴が開かれました。その宴に参加した人物は山上憶良や笠沙弥を始めとして、身分の上下はありますが、全員が中級から上級公務員で日常的に公文書を作成する立場にある人たちです。つまり、日々、漢文での公文書を作成・読解する立場の人々です。また、大宰府を中心とする役人たちですから、その地理的関知から中国語を使う外国人との交渉窓口となる人々です。この人々の身分とその身分が要求する日常業務を前提にしますと、正月十三日の烏梅の宴に参加した人々にとっては、新規に提案された万葉仮名だけを使って一字一音の和歌を詠うより、漢詩・漢文の方がより身近で親しみやすかった可能性があります。また、同じ和歌でも漢字の持つ表語力を活用する人麻呂調の「表記する和歌」の方が好ましかったと思われます。烏梅の宴で詠われた「梅花歌三十二首」にはこのような背景があることを理解して下さい。当時、日本語をままに表現する表記法は模索の時代ですし、口語文の記録方法自体があったかどうかも不明の時代です。国際的にも中華文化圏では漢字漢文が唯一の文章での表現方法の時代です。
 このような作歌での背景があるためか、烏梅の宴で詠われた「梅花歌三十二首」は凡作が過半です。白川静氏は『後期万葉集(中公文庫)』の「第五章 旅人讃酒」で、この梅花歌三十二首の作品について「旅人・憶良の作を除いて、とりたてていうべきものがない」と感想を述べられています。さらに、氏は土屋文明氏の『万葉集私注』の一節を引用して「言はば御座なりの作が多い」とも紹介されています。
 この烏梅の宴で詠われた歌の鑑賞において大切なことは、これらの歌が御座なりで、肝心の梅の花を実際に見て歌を詠んだのかどうかも怪しいことが重要なのです。この梅花歌三十二首が、『万葉集』の多くの歌では当たり前である作歌されたその歌を鑑賞するために作られた歌ではないことに気付き、注目することが大切です。鑑賞して頂ければ明らかですが、これらの歌は心の感情をそのままに歌にするという実験の歌ですし、その手段が日本語口語を発声に従って表記することが可能な万葉仮名だけを使った一字一音の和歌作歌法なのです。およそ、これらの歌は実験の過程を示すものなのです。
大伴旅人はその烏梅の宴を開く時、宴の目的を漢文で表し残しています。その新たな作歌運動の宣言書とでも云うべき彼の漢文を紹介します。

梅花謌卅二首并序
標訓 梅花の歌三十二首、并せて序
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。

訓読 天平二年正月十三日に、帥の老の宅に萃まりて、宴會を申く。時、初春の令月にして、氣淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。加以、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて盖を傾け、夕の岫に霧結び、鳥は穀に封められて林に迷ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故鴈歸る。於是、天を盖とし地を坐とし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然と自ら放にし、快然と自ら足る。若し翰苑に非ずは、何を以ちて情を濾べむ。詩に落梅の篇を紀す。古と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦して聊かに短詠を成すべし。

私訳 天平二年正月十三日に、大宰の帥の旅人の宅に集まって、宴会を開いた。時期は、初春のよき月夜で、空気は澄んで風は和ぎ、梅は美女が鏡の前で白粉で装うように花を開き、梅の香りは身を飾った衣に香を薫ませたような匂いを漂わせている。それだけでなく、曙に染まる嶺に雲が移り行き、松はその枝に羅を掛け、またその枝葉を笠のように傾け、夕べの谷あいには霧が立ち込め、鳥は薄霧に遮られて林の中で迷い鳴く。庭には新蝶が舞ひ、空には故鴈が北に帰る。ここに、天を立派な覆いとし大地を座敷とし、お互いの膝を近づけ酒を酌み交わす。心を通わせて、他人行儀の声を掛け合う言葉を部屋の片隅に忘れ、正しく整えた衿を大自然に向かってくつろげて広げる。淡々と心の趣くままに振る舞い、快くおのおのが満ち足りている。これを書に表すことが出来ないのなら、どのようにこの感情を表すことが出来るだろう。漢詩に落梅の詩篇がある。感情を表すのに漢詩が作られた昔と和歌の今とで何が違うだろう。よろしく庭の梅を詠んで、いささかの大和歌を作ろうではないか。

 旅人はこの漢文で「淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情」と新たな作歌運動での方法論を述べています。およそ、この烏梅の宴とは旅人が主張する新たな作歌運動の実践の場であり、梅花歌三十二首とはその成果物です。
 梅花歌三十二首の歌を鑑賞する時、最初に宴が持たれたときの季節感を考えて下さい。この宴の当日(新暦二月八日)、冬本番の寒風吹き付ける冬日ではなく、穏やかな日和だったようですが、柳の芽吹きはどうだったでしょうか。また、当時の梅は花が先で葉は後と思われますが、山桜のような花の散り方のイメージや葉と花が同時に枝にあると云う景色があります。また、九州の博多といっても新暦二月上旬に霞が棚引くとは思えませんし、山野では霞が棚引くと云う同日に庭では梅の花びらが散るかのように沫雪が降っていることになっています。さて、彼らは実際に外の景色や梅の花を見て歌を詠ったのでしょうか。古来、和歌の専門家はこれらの歌の世界は実際に見た景色の写生と解釈しているようですが、その可能性はあるのでしょうか。
 なお、歌で詠われる梅は現在の品種区分では野梅性の白梅と思われ、新暦十二月下旬から一月中旬に咲く早咲きの梅です。つまり、季節的には宴が持たれた正月十三日(新暦二月八日)は盛りを過ぎた梅の花なのです。現在の梅の多くは杏との交配種ですので、やや桃に近い季節感を持つ必要があります。
 『万葉集』ではこの烏梅の宴の歌群は「梅花謌卅二首并序」から「後追和梅謌四首」までの漢文の序文と和歌三十八首とで構成されています。大伴旅人が新たな和歌の作歌法を提議した、その序文は、現在の文学研究者によると当時としては最新の唐の書物である『晋書』に載る王羲之の最高傑作である「欄亭序」の文体を模したものであると推定しています。研究者は使われる一部分の言葉の類似性に注目して模倣と考えているようですが、文章構成と表現能力では「欄亭序」より「梅花謌卅二首并序」の方が上かも知れません。このような背景があるために、古くから序文となる漢文を創作した人物の素養と国際的な文化流行への感度は優れていたと評価されています。そのため、この漢文の創作者は山上憶良ではないかと云う説も唱えられたほどです。
 「梅花謌卅二首」はその国際レベルにある漢文の序と大和歌である短歌の組み合わせで構成されています。時代として、このスタイルが重要だったと思われます。正調の漢文と和文・和歌とを組み合わせるスタイルは、ちょうど『古事記』の編纂者である太朝臣安麻呂が正調な漢文で最初に序文を記し、その後に本文を和化漢文とされる日本語の文章で記したのと同じ世界です。それは、「このように、漢文・漢語での表現能力はあります。また、人麻呂調の和歌である表記する和歌も詠う能力もあります。しかしそこを敢えて万葉仮名表記の一字一音表記なのです」と云っている様な姿です。つまり、この烏梅の宴の歌群、和歌三十八首とは実験の和歌であり、その実験とは「万葉仮名による一字一音表示で三十一音字の縛りのある大和歌」を詠うことなのです。
 その実験の状況を少し見てみましょう。紹介する集歌八五一の歌は旅人の歌です。対して、集歌四五一の歌もまた旅人の歌です。その歌比べです。それぞれの歌の制作年度は共に天平年間初頭で相互には一年程度しか違いません。また、常体歌表記の集歌四五一の歌の方が時代的に新しい歌と推定されていますから、歌の表現方法の違いは歌が詠われた年代や年齢による変化ではありません。この作歌表現方法の違いは意識しての書き分けにあります。

集歌四五一
原文 人毛奈吉空家者草枕旅尓益而辛苦有家里
訓読 人もなき空しき家は草枕旅にまさりに苦しかりけり
私訳 あのお方も黒髪豊かであった最愛の妻も亡くなり心も屋敷も空しい、その空しい家には草を枕するような野宿の旅以上に心が満たされないので、辛いことや苦しいことは家にも里にもある。

集歌八五一
原文 和我夜度尓左加里尓散家留宇梅能波奈知流倍久奈里奴美牟必登聞我母
訓読 吾(わ)が屋戸(やと)に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも
私訳 私の家に盛りと咲いている梅の花に、その花が散る時期が来たようだようだ。今、その名残の花を眺める友がいればいいのに。

 ここで、集歌四五一の歌で「人毛奈吉」を「ひともなき」と読み「人も亡き」と訓読みして、旅人の妻が大宰府で亡くなったことを想うのが普段のルールです。ところが、「人毛奈吉」の用字ですから、「人も奈良の都も吉である」のイメージがあります。ここに、繁栄する奈良の都で妻に先立たれ独り後に残されたとの感情があります。このように表記から連想が広がるのが、人麻呂調の和歌である「表記する和歌」です。一方、集歌八五一の歌は字は音の意味しか持たない、声に出して詠う「調べの和歌」です。これが、実験です。
 烏梅の宴に参加した人々にとって、万葉仮名表記での一字一音表記の三十一字の縛りのある大和歌を詠うことは気持ちの悪い歌と思います。集歌八五一の歌が表記において比喩歌と解釈出来るとしますと、「和我夜度尓」を「吾が夜毎に」と採って家に囲う愛人が浮気することなく私一人を愛して年取ったとも解釈することは可能ですが、声に出して詠う「調べの和歌」ではそのような解釈は成り立ちません。一義的に「私の屋戸の」です。日頃、漢字と漢語の意味を調べ、その適用を研究するような通訳や書記の人々にとってこのような表現方法は衝撃だったでしょう。
 文章を職業とする通訳や書記の人々は万葉仮名表記での一字一音表記法は知っていたでしょうし、宣命や祝詞文などで「てにをは」での助字や音仮名としての使用もしています。しかし、名詞や動詞を表す漢語をすべて棄てる発想はなかったと思いますし、そこまで革命的でもないと思います。つまり、この烏梅の宴で旅人から示された万葉仮名だけの一字一音表記の三十一字の和歌は革命だったと思います。そして、この瞬間が人麻呂調の和歌である「表記する和歌」から脱して、普段の人が日常で使う用字と言葉で歌を表記する「調べの和歌」の歴史が始まった場面なのでしょう。

 大伴旅人はこの烏梅の宴での実験の後、宴で詠われた歌を取り纏め、それを平城京にいる和歌と漢詩の教養人である吉田連宜の許に送り、評価を求めています。ここからも、烏梅の宴とは、都にいる人々に「万葉仮名だけでの一字一音表記による三十一字の和歌」の表現について評価を求めるために開かれた宴会と思われます。この一字一音表記法による和歌は、天平元年前後に大宰府で大伴旅人や山上憶良らにより考案され広まったようですが、普段の人への普及はこの大宰府の「烏梅の宴」からとして良いと思っています。そこから調べの和歌の誕生日は天平二年正月十三日です。
 『万葉集』にはこのように「表記する和歌」と「調べの和歌」と云う二つの大きな区分があり、また、その代表者に柿本人麻呂と大伴旅人とがいます。その視線に時代区分を入れて編まれたのが「奈弖之故」であり「宇梅乃波奈」です。これが私の考えです。それを理解していただきたくて、このように長い寄り道をいたしました。
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