竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

明日香新益京物語 エピローグ 人麻呂の死

2014年08月10日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
エピローグ 人麻呂の死

 大宝二年(702)正月、従四位上大神(大三輪)朝臣高市麻呂が長門国司守に任じられた。ところが、その高市麻呂は長門国司守に任じられた後、すぐに病気になり、長門国へ赴任が出来なくなった。当時、長門国司守は朝鮮半島に対する防衛や大宰師に対する牽制などの理由により、陸奥国国司守と同様の特別職として国司守の中でも四位相当の者が任官される国であった。このため、長門国の事情を知り、また、銅鉱山経営に詳しく、官位も適う正五位上中務省大輔の柿本朝臣人麻呂が大神朝臣高市麻呂の後任に任命された。
 長門国司守に任命された柿本人麻呂は、大宝三年春、長門国大津郡の国衙に赴任した。
 朝廷は、朱雀年間の時と同様に、人麻呂の手によって新たな銅鉱山の開発が進み、その長門国での銅の製錬を開始することを期待した。不思議に奇跡は再び起きた。人麻呂はこの期待に応え、昔、人麻呂が開いた大津郡の鉱山で働く人々に周防国、長門国、石見国に渡る広範囲での探査を行わせ、その後の東大寺大仏の銅を一手に受ける日本最大の銅鉱山となる長登鉱山の発見とそれを取り仕切る周防鋳銭司設置へと繋いだ。

 慶雲二年(705)の初夏、柿本朝臣人麻呂は三年ぶりに長門国大津から藤原宮に戻って来た。その人麻呂の帰京を待ちわびるようにして、去年の秋に大唐から帰国したばかりの山上臣憶良が尋ねた。
 今、長門国司守である人麻呂は朝廷に中上がりの報告を終えると、穴師の里にある柿本の鍛冶屋敷に入った。その鍛冶屋敷に憶良が尋ねて来た。人麻呂と憶良とは朱鳥五年(690)の紀国御幸以来の顔見知りである。憶良は人麻呂に大和歌について相談事があると云う。遣唐使の書記として大唐に赴いた憶良は、その地で文化を文字化する必要性を痛感させられた。大唐では宮廷の詩歌から庶民の雑謡や笑談までが収集・採録され、出版されている。対する大和では国風の大和歌が興隆期を迎えているが、その大和歌を収集・編纂すると云う機運は未だない。
 憶良はそれを憶良自身がすると云う。そこで、大和歌の第一人者で、高市大王の下、大和の国造りに関わった人麻呂に大和歌の収集・編纂の相談に来た。憶良は「国史に関わる古き大和歌や歌謡は古事記や日本紀の編纂の過程で収集され、その資料は朝廷の内記にある。だが、飛鳥浄御原宮や藤原宮の宮中で詠われた“娉(よば)ひ歌”とも称された求婚歌や恋愛歌をテーマとした歌会の歌の資料が乏しい。特に、その宮中で有名であった人麻呂と巨勢媛との相聞歌の資料は、是非、必要だ」と云う。ついては、宮中の歌会の歌の収集、特に人麻呂と巨勢媛との相聞歌の収集に人麻呂の手を患わせたいとの申し出であった。
 人麻呂は了承した。大和歌の類聚編纂を文官系の山上臣憶良が担えば、場合により、朝廷の事業になる。技官系の柿本人麻呂ではそこまでは発展しない。人麻呂は憶良に巨勢媛が残し人麻呂が引き継いだ歌集と人麻呂自身が残して来た歌集の閲覧や書写を許し、人麻呂が国司守として長門国に行き留守をしていても穴師の鍛冶屋敷での書写を認めた。そして、人麻呂は任地の長門国へと帰って行った。

 和銅元年(708)三月、長門国大津郡油谷で人麻呂は六年の長門国司守の任期を終えた。任を終えた人麻呂は、その帰京に際し便の良いルートである長門大津から海上、筑紫娜の大津、多田羅浜へ向かい、そこから陸路、香春岳を越え、豊前国京都郡の草野津から難波御津への船旅となる順路を選んだ。
 三月十八日、人麻呂は大津から多田羅浜へと帰京の船出をした。
 その航海の途中、船は嵐に遭遇し石見国美濃郡小野郷の神山(山口県萩市須佐高山)の荒磯へと流された。そして、そこで難破し人麻呂は水死した。その遭難死の知らせは、四月二十日に藤原京の太政官の下にその遺髪と共に届いた。
 官務での死亡の為、人麻呂に対し従四位下の贈位と賻物が降し渡された。そして、人麻呂の死は太政官において彼の本名により「和銅元年四月二十日、従四位下柿本朝臣佐留(猿)卒」と記録された。享年六十二歳。
 山上憶良は、人麻呂の死後、和銅五年(713)頃になって人麻呂に陳べた志に従い大和歌を集めた類聚歌林七巻の編纂を畢えた。その後、その憶良の集めた資料は彼の死を看取った丹比真人国人に引き継がれた。そして、その資料の集大成が、万葉集の編纂へと継って行く。

 天平勝宝年間になって、丹比国人は左大臣橘諸兄に命じられ万葉集巻一と二の原万葉集の編纂責任を執った。この時、本来あるべき人に誄となる挽歌が奉げられていないことを悼み、故ある歌の中から相応しい歌を択び挽歌として、編纂し奉げた。そして、石見国で海難死し、誰もその死を看取っていない柿本人麻呂に対しても、挽歌に相応しい歌を人麻呂歌集の中から択び奉げた。

鴨山之磐根之巻有吾乎鴨不知等妹之待乍将有
訓読 鴨山し岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹し待ちつつあらむ
意訳 鴨山の岩を枕として死のうとしている私のことを知らないで妻はまっているであろう。


長いエピローグであったが、ここで物語を終える。
コメント

明日香新益京物語 エピローグ 引き手山の妻と依羅の里の女

2014年08月03日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
エピローグ 引き手山の妻と依羅の里の女


 人麻呂には心の通う恋妻の巨勢媛がいた。
 しかし、人麻呂とその巨勢媛との間に児は生まれなかった。人麻呂は柿本朝臣と云う朝廷から択ばれた朝臣の姓を頂く氏族の氏上である。その氏上には氏を継ぐ児をなす義務がある。その義務の中、人麻呂は家に児を産む女を入れた。
 話を進める上で、その正妻となるこの女は引手の山で葬られたため、綽名として引き手山の妻と呼ぶことにする。

 朱鳥三年(688)、巨勢媛は三十五歳となった。当時としては母子の体の安全を考え、児を産むべきではない年齢である。その時、巨勢媛は人麻呂が正妻として児を産む女を家に入れることを認めた。
 翌朱鳥四年(689)、人麻呂は同じ春日和邇一族の櫟本朝臣の娘子を正妻として家に迎えた。この時、人麻呂四十三歳、引き手山の妻は十五歳。引き手山の妻は裳着の祝いをして、すぐの婚姻であった。櫟本の娘子は春日和邇一族の中でも最大の出世をした人麻呂の児を産むために択ばれた女である。その引き手山の妻は、一族の期待に応え、朱鳥八年(693)に柿本建石を、そして、大長三年(700)に柿本浜名を産んだ。後、柿本建石は市守を成し、その市守は従五位上主計頭まで進み、柿本の家を世に伝えた。

 大宝二年(702)秋八月、その引き手山の妻は、まだ二歳にも満たない浜名と九歳の建石を残し、産褥で死んだ。この時、人麻呂五十六歳。
 人麻呂はその妻の遺体を布留の里、国見山の西麓(天理市滝本町大親寺付近)で火葬にした。そして、まだ、夏の余韻が残る暑い西日の中、引き手山の妻の遺灰は国見山の南西斜面、仏教浄土の西方を望む丘で散骨された。
 万葉集には人麻呂が若くして死んだ引き手山の妻に贈った挽歌が載る。

去年見而之秋乃月夜者雖照相見之妹者弥年放
訓読 去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせれど相見し妹はいや年(とし)放(さか)る
私訳 去年に見たような、今年の秋の月は夜を同じように照らすけれど、去年の月を二人で見た貴女は、時間とともに想いから離れていくようです。

衾道乎引手乃山尓妹乎置而山侄往者生跡毛無
試訓 衾(ふすま)道(ぢ)を引手の山に妹を置きて山(やま)姪(めひ)行けば生けりともなし
試訳 白妙の布で遺体を隠した葬送の列が行く道の引手の山に貴女を一人置いて、山道を姪たちが帰って行くと自分は生きている実感がありません。


 人麻呂は、大和(696-697)から大長(678-700)年間ごろ、左大臣丹比真人嶋の要請で、技官としては最上位官職である小錦上(正五位上)中務省大輔の身分のまま、河内国丹比郡依羅の里(松原市河内天美付近)に河内国鋳銭司を建設していた。この縁で、丹比氏が治める依羅の里の娘を肌温めの女として傍に置いた。柿本浜名の生まれ年とほぼ同じ頃、依羅の娘子に女の児が生まれた。人麻呂歌集には、そのよちよち歩きとなった娘の姿をみて詠った歌がある。

吾妹兒之赤裳泥塗而殖之田乎苅将蔵倉無之濱
訓読 吾妹児(わぎもこ)し赤(あか)裳(も)ひづちて殖ゑし田を刈りて蔵(おさ)めむ倉無し浜
私訳 私の愛しい娘児が赤い裳裾を引きずり泥で汚して種を播いた田で穂を刈って蔵に納めましょう。難波大蔵のその倉無の浜で。

 人麻呂が長門国司守として赴任している間も、この依羅の娘子と女の児は、河内国鋳銭司の技術を指導する柿本鍛冶たちにより、氏長、人麻呂の児とその母親して大切にされた。
 人麻呂の石見国での海難死の後、この親子は大和新庄の柿本の里に遷り、人麻呂を偲ぶ為に柿本神社を建てた。そして、石見国益田小野郷から朝廷に送られて来た人麻呂の遺髪を櫟本の柿本一族の本家とこの新庄とで分け、祀った。この由来で、柿本人麻呂の遺髪は布留の里にある櫟本の柿本家本宗が祀る柿本寺(廃寺)、大和新庄の柿本一族の柿本寺。さらに石見国益田小野郷戸田で綾部訳語が祀る柿本神社の三か所にある。

コメント

明日香新益京物語 エピローグ 野辺送り

2014年07月27日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
エピローグ

 大和の王宮は高市大王の死後、十四年で明日香の新益京から奈良の平城京へと遷都した。新益宮はその遷都によって主な建物は解体され、平城宮へと持ち去られた。そして、わずかな間に新益京は農地に変わり、人々の間からその存在の記憶もまた歴史の闇に消えた。
 すでに明日香新益京物語は終えたが、今少し、この時代を生きた柿本人麻呂の残りの人生を紹介する。


野辺送り

 人麻呂の恋妻、巨勢媛は伊勢御幸の翌年、朱鳥八年(692)、四十歳を機会に出家した。
 当時、女の四十歳は老女と呼ばれる年齢である。宮中で御婆と呼ばれるのを嫌がった巨勢媛は出家し、尼寺である豊浦の豊浦寺に入った。この豊浦寺は皇太后天皇額田部皇女(諱、推古天皇)の豊浦宮に由来する。また、阿部・山田道の傍で、当時としては賑やかな場所にある。

 大長二年(699)晩秋、巨勢媛は尼僧として四十五歳の生涯を豊浦寺で閉じた。五十二歳になった人麻呂は、最愛の人生の伴侶と和歌の同志を失った。その人麻呂の心に二人の人麻呂が宿る。巨勢媛を失った悲しみや辛さに人生の虚しさを感じ投げやりになる自分と、その姿を冷静に眺めている自分がいる。息が詰まるような、身を潰されるような、そのような悲しみと侘しさに苛まれる心の奥底を、他人事のように冷静に観察し、それを長文の大和歌として記録する。悲しむのも人麻呂であるが、記録するものまた人麻呂である。
 媛の葬送を取り仕切るその人麻呂の姿は、いかにも大和を代表する男の中の男である“大夫”の姿である。悲しみの感情を表すことなく、淡々に、だが、厳かに式次第をこなして行く。人はその姿に感心する。だが、素顔の人麻呂は違う。尼として尼寺の豊浦寺で死んだ巨勢媛の臨終には、忍坂の里人でもない人麻呂は立ち会うことは出来ない。ただ、病の知らせを以前から受け覚悟はしていたが、現実に危篤と臨終の知らせを受けると、気は動転し、息も詰まるような嫌な、重い気分の下、悲しみが込み上がる。そして、薄汚れた捨て犬のように、倭の想い出の地を巨勢媛の姿を求めて彷徨い歩くだけであった。
 人はそのような素顔の人麻呂を知らない。人麻呂は歯を食いしばり、後、あの世で再び会えるだろう媛と、このときの人麻呂の想いを物語するために、全力で媛の挽歌を詠った。

秋山之黄葉乎茂迷流妹乎将求山道不知母
訓読 秋山し黄葉(もみち)を茂み迷(まと)ひぬる妹を求めむ山道知らずも
私訳 秋山の黄葉の落ち葉が沢山落ちているので私の大切な貴女は道に迷ってしまった。居なくなった貴女を探そう、その山の道を知らなくても。

黄葉之落去奈倍尓玉梓之使乎見者相日所念
訓読 黄葉(もみちは)し落(ち)り去(ゆ)くなへに玉梓し使(つかひ)を見れば逢ふ日そ念(も)ふ
私訳 黄葉が散り逝くとともに愛しい私の貴女がこの世から去っていったと告げに来た玉梓の使いを見ると、昔、最初に貴女に会ったときの、文の遣り取りを使いに託した、その日々が思い出されます。

 巨勢媛の遺体は、当時の最新の風習に従い、泊瀬で荼毘に付された。そして、その遺骨は大三輪寺の坊が立ち並ぶ三輪山の東の森で散骨された。
 人麻呂は豊浦寺からの尼僧巨勢媛の野辺の送りに、あたかも媛の背の君として正妻を葬送するかのように振る舞う。人々もまた、その人麻呂の姿を奇異とはせず、それが当然のことのように従った。
 人麻呂は、その野辺送りの間も、不思議な感覚に陥った。人麻呂と巨勢媛の間には、媛の死と云う別れではなく、今度は、人麻呂ではなく巨勢媛が長い旅に出たのではないか、あの伊勢国への旅のように。そして、その旅が終われば、人麻呂が石見国から戻って来たように、戻ってきてくれるのではないかと思った。その一方で、遺体は荼毘に付され、焼ける匂いと煙は現実であり、散骨で撒く灰の温もりは人麻呂の手の実感であった。確かに最愛の妻である巨勢媛は死んだ。
 人麻呂は、その二つの心の狭間で歌を詠った。

秋山黄葉可怜浦觸而入西妹者待不来
訓読 秋山し黄葉(もみち)あはれびうらぶれて入りにし妹は待てど来まさず
私訳 秋山の黄葉は可怜で美しいが、なぜか、うら寂しい。秋山の美しい黄葉に引かれて行った私の愛しい貴女は、何時まで待っていても帰ってきません。

福何有人香黒髪之白成左右妹之音乎聞
訓読 福(さきはい)しいかなる人か黒髪し白くなるまで妹し声を聞く
私訳 幸福な人とは、どのような人でしょうか。黒髪が白髪に変わるまで愛しい妻の声を聞くことでしょうか。

玉梓能妹者珠氈足氷木乃清山邊蒔散染
訓読 玉梓の妹は珠かもあしひきの清(きよ)き山辺(やまへ)し蒔(ま)けば散り染(そ)む
私訳 玉梓の使いが知らせをもたらした私の愛しい貴女は、まるで大切な珠や渡来の毛氈のように高貴で大切な人なのでしょう。冬のようなさびしいの木々の茂る清らかな山に貴女の灰を撒くと、その山は珠や毛氈のように美しく黄葉に染まりました。


 巨勢媛の野辺の送りも終わり、人々は何事も無かったかのように日常へと戻って行く。日常の喧噪の中、人麻呂は一人残された。その人麻呂は折に付け媛が散骨された三輪山にやって来た。
 ここは、媛の生まれた故郷の忍坂の里や母と暮らし人麻呂が妻問った媛の屋敷を見渡す場所である。人麻呂は、折々に、ここにやって来ては、その景色を眺め、媛の霊と物語をした。
「今日は、もう、七七の日か」
「のう、若茅。何度、ここに来ても、主人は帰って来ないのか」
「若茅が仏となりあの世に旅立ったのなら、もう、ここへ来るのはよそうか。なあ、若茅」

念西餘西鹿齒為便乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾
訓読 想ふにし余りにしかばすべを無み吾は言ひてき忌むべきものを
私訳 心の内に貴女の面影を追い、貴女を慕うあまりにどうしようもなく、私は何度も何日も貴女の名前を口に出してしまった。霊を呼び戻すことは慎むべきなのに。

古尓有險人母如吾等架弥和乃檜原尓挿頭折兼
訓読 古(いにしへ)にありけむ人も吾とかや三輪の檜原(ひはら)に挿頭(かざし)折(を)りけむ
私訳 昔にいらした伊邪那岐命も、その想いは私と同じようだったのでしょうか。私は三輪の檜原で鬘(かづら)を断ち切り、亡き妻への偲ぶ思いを断ち切りました。

徃川之過去人之手不折者裏觸立三和之檜原者
訓読 往(ゆ)く川し過ぎにし人し手折(たを)らねばうらぶれ立てり三輪し檜原は
私訳 流れ逝く川のように過ぎ逝ってしまった人よ、その霊に手を合わせて祈らなければ、寂しそうに立っているでしょう。貴女の霊を包む、この三輪の檜原の木々は。

 当時の知識階級は根本仏教で仏教を理解していた。このため、人が仏を信じ、その仏の慈悲で成仏するのなら、その人の霊はこの世一切から切り離されて仏の世界へと往き、その霊は再びにはこの世には帰って来ない。現在の営利を目的とする近代日本仏教が人は成仏することなく霊はこの世に留まり、その霊は永遠に供養と名の寄付を求めると云う姿とは違う。近代日本仏教が布教される以前は、七七の日(四十九日目)に人は成仏し、この世から縁が切れるとされていた。人麻呂の歌はこの七七の日を詠った。

 大宝元年(701年)十月、巨勢媛の死からおよそ二年が経った。
 五十五歳になった人麻呂は、また、紀国に来ている。人麻呂は、軽皇子(諱、文武天皇)が、大王即位の礼として高市大王が定めた熊野速玉の御社で祀る皇祖、伊邪那岐への奉幣のための御幸に随行して来た。御幸の行列はあの朱鳥五年の時と変わらない。眺める紀国の景色も変わらない。ただ、肝心の巨勢媛の姿だけがない。その紀国に人麻呂は、再び、やって来た。
 熊野速玉神社での大王就任の祝詞奏上での作詞の大役を終えた人麻呂は、新益京への帰途の途中、名高の浦の黒牛潟の磯浜に来ている。朱鳥五年の、あの時の月は九月の十八夜、今日の月は十月の十三夜。昔、巨勢媛と二人して見た月の光の道や月光に輝く波頭は、今日も、その姿を見せている。
 その浜で、人麻呂は巨勢媛が傍にいると感じた。そして、その幻の巨勢媛と海を見、物語をした。今、人麻呂の目には白衣に緋の裳裾を着けた官女姿の媛が浪打ちで戯れ、また、真珠を枕元に置き人麻呂の愛に応えたあの媛の姿があった。

為妹我玉求於伎邊有白玉依来於伎都白浪
訓読 妹しため我が玉求む沖辺(おきへ)なる白玉寄せ来(こ)沖つ白波
私訳 貴女のために私は真珠の玉が欲しい。沖の方から白い真珠の玉を波とともに寄せて来い。沖に立つ美しい玉のような波立つ白浪よ。

黒牛方塩干乃浦乎紅玉裾須蘇延徃者誰妻
訓読 黒牛潟(くろうしがた)潮干(しほひ)の浦を紅(くれなゐ)し玉裳(たまも)裾(すそ)引(ひ)き行くは誰(た)が妻
私訳 黒牛の潟の潮が干いた浜辺を紅の美しい裳の裾を引いて歩いているのは誰の恋人でしょうか。

 朝が来た。朝の兆しと共に幻の巨勢媛はその姿を消した。そして、潮騒の黒牛潟の磯浜に人麻呂一人が残された。残された人麻呂は浜に両手を突き、涙を流し、そして、虚しいと詠った。

風莫乃濱之白浪徒於斯依久流見人無
訓読 風莫(かぜなし)の浜し白波いたづらしここし寄せ来(く)る見る人なみに
私訳 風があっても風莫の浜と呼ばれる浜の白波は、ただ無性に寄せてくる。見る人もいないのに。

黄葉之過去子等携遊礒麻見者悲裳
訓読 黄葉(もみちは)し過ぎにし子らと携(たづさ)はり遊びし礒間見れば悲しも
私訳 黄葉の時に逝ってしまった貴女と手を携えて遊んだ幾つもの磯を今独りで見ると悲しいことです。

玉津嶋礒之裏未之真名子仁文尓保比去名妹觸險
訓読 玉津島(たまつしま)礒し浦廻(うらみ)し真砂(まなご)にも色付(にほひ)て行かな妹し触れけむ
私訳 玉津嶋の磯の砂浜での愛しい貴女、その真砂にも偲んでいきましょう。その貴女がこのように触れた砂です。
コメント

明日香新益京物語 人麻呂の日本挽歌

2014年07月20日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
人麻呂の日本挽歌

 朱鳥八年(693)、神祇伯の中臣大嶋が死んだ。そして、伊勢皇太神宮神主の伊勢王もまた、もうこの世に居ない。朝廷の神祀りの事業は伊勢王や中臣大嶋から一世代若い中臣意美麻呂に引き継がれた。
 この時代、平均寿命は短い。十五歳の裳着や袴着の成人式を迎えたものでも、その余命は二十年を行かない。つまり、多くは四十歳になる前に死ぬ。壬申の乱を戦い、大和の国創りをした者どもが、時と共に次第にこの世からこぼれていく。そして、臣下の代変わりが起きる度、その者が育つまでの間、大和の国創りの基本設計を書き、それを実行する高市大王の激務の度は増して行く。

 朱鳥九年(694)、宮中で氷高皇女の裳着の儀が話題になって来た。皇女はもうすぐ十五歳になる。高貴な皇女や王女の場合、妻問いと云う行為での夫選びが許されない。そのため、裳着の祝い頃には夫となる相手の男を決める必要がある。
 この時、皇女の祖母である天皇鵜野皇女と母親である阿閉皇女が高市大王に氷高皇女を大王の室に入れることを要求した。高市大王は草壁皇子が亡くなった時に、阿閉皇女に皇太后の地位を与え、氷高王を氷高皇女と為した。このため、氷高皇女の婚姻の相手は限られる。そこで、その代償として四十歳の高市大王に氷高皇女をその室に入れることを求めた。
 朱鳥十年(695)、草壁皇子の御子である氷高皇女は裳着の祝いを行い、高市大王の室に入られた。この裳着による成人と婚姻とにより皇女に正広肆(三品相当)の女叙位が為された。後、氷高皇女は、母親、元明天皇の後を襲い、高市大王の一品の妃として元正天皇となられる。

 朱鳥十一年(696)五月、高市大王は病により床に就かれた。
 朝廷は全国の祝部どもに疾病治癒の神祀りを命じ、六月になって公卿百寮の者どもが薬師寺に大王の疾病治癒を願い仏像喜捨の願掛けをした。また、恩赦放免も行った。しかし、功無く、その七月七日の夜、大王は危篤となった。朝廷は俄かに真夜中ではあるが盗賊などの重犯罪者へにも恩赦などを行い、最後の病魔からの回復祈願を立てた。だが、人々の願いも甲斐なく、七月十日、大王は崩御された。
 この時、大王は四十二歳であった。現在から見れば四十二歳は若いが、当時としては若死にという感覚は無い。ただ、総てを成し遂げた高市大王は若い氷高皇女を室に入れ、皇女へ注ぐ豊かな愛情の中、十代から全速力で走り続けた大王の気が緩んだのかも知れない。
 後、その氷高皇女が平城京遷都の折、新益京を偲んで長屋原(奈良市市役所付近)で詠った歌がある。そこからは皇女が大王に、ずいぶん、慈しまれていたことが窺える。

飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆君之當者不所見香聞安良武
訓読 飛ぶ鳥し明日香し里を置きて去(い)なば君しあたりは見えずかもあらむ
私訳 あの倭猛命の故事ではないが御霊の印である白千鳥が飛ぶ、その明日香の里を後にして奈良の京へと去って行ったなら、貴方の新益京の辺りはもう見えなくなってしまうのでしょうか。

 高市大王の崩御後、朝廷は直ちに大海人大王や草壁皇子の例に習い、高市大王の喪に入った。大海人大王の例では、最初、正妻鵜野皇女を施主として僧侶による法要が行われた後、崩御から数えて十八日目から草壁皇子を祭主として倭の古風での誄が行われた。
 高市大王の崩御から十九日目となる八月一日、神祇伯中臣意美麻呂が皇族及び大官や主だった氏長を招集し、高市大王の喪を執る日嗣について談合を持った。
 この時、高市大王の神葬祭を行うために全国の祝部どもが新益宮に集結しつつあった。

 生前の高市大王の意志は「次の日嗣には草壁皇子の御子、軽皇子」と定められている。
 人々は、ただそれは四十二歳のまだ若い大王の将来の意思だったと考える。それに、その軽皇子は、未だ、袴着を畢えた成人とはなってない。また、日嗣となる肝心の要件である皇女との婚姻もしていない。つまり、倭の古風では日嗣の要件を満たしていない。神祀りを執る天皇位は、現天皇鵜野皇女以外に阿閉皇女、御名部皇女、氷高皇女の御三方が続く。従って、倭の古風からすれば急いで大王を定める必要はない。
 しかし、今の大和は古風の倭では無い。肝心なその神祀りも変質して来ており、朝廷が大王の名で招聘する大和の神祀りでは大王が重要な役割を果たすようになってきている。神祇伯中臣意美麻呂は大和の神祀りを執る祭主を決めるよう、皇族たちに求めた。
 その神祇伯中臣意美麻呂の求めに、高市大王亡き後、長老となった忍壁皇子が裁定を出した。その裁定は「大王となる日嗣はあくまでも軽皇子である。しかし、軽皇子の成人と皇女との婚姻まで、長皇子を仮の日嗣である摂政とする。その間、長皇子が大和の神祀りを執る」であった。この長皇子は葛城大王の御子、大江皇女を母とする。忍壁皇子より年下だが、母親の身分は遥かに高い。大海人大王の遺訓で皇位継承などの序列は母親の身分によって決まる。
 さらに忍壁皇子は「軽皇子の妃に大海人大王の御子、託基皇女を充てる」と裁定を下した。この託基皇女は穀媛娘を母親とし忍壁皇子の妹であるが、母親の身分は低い。皇女ではあるが、軽皇子の妃として、また、将来の皇后としてはその血筋は軽い。そのため、託基皇女は再び伊勢にいる大来皇女の許に養女とし、その身分を改め、後、大来皇女の御子として軽皇子の室に入る。また、阿閉皇女の御子である吉備皇女は高市大王の御子の長屋皇子の室に入り、長屋皇子は義弟の立場で軽皇子を支えると付け加えた。

 議論はあった。人々は軽皇子の体力と性格を思う。特に老人達には草壁皇子と大津皇子との比較が蘇る。軽皇子は草壁皇子に似て、大王たる体力に疑問がある。その思いが議論を呼んだ。
「長皇子を仮の日嗣ではなく、本格的な日嗣では駄目なのか」と云うもの、「もし、長皇子を仮の日嗣とするなら、日嗣は高市大王の御子、長屋皇子では駄目なのか」と云うもの、「忍壁皇子は明日香皇女を室に入れられており、今、長老の位置にある。忍壁皇子ではだめなのか」と云うものなど、人々は口々に説を述べた。
 それを忍壁皇子が押さえた、
「皆の者、思え。大和の大王の御威光とこの新益京を誰が築いた。誰が、壬申の乱を戦い勝ち、今の平和な世を創り成し遂げた」
「確かに大海人大王は偉大であった。しかし、高市大王は大海人大王を支え、そして、それを受け継ぎ、今の大和を成し遂げた」
「その高市大王の御意志じゃ。軽皇子の日嗣は変わらん。そこが出発点じゃ。そこから、物を云え」

 人々は黙り込み、古老から時折昔話として聞く五十年前の飛鳥を想像した。
 田村大王(諱、舒明天皇)の時代は板葺の宮殿すら作れず茅葺であったと云う。やっと、皇太后天皇宝皇女(諱、皇極天皇)から軽大王(諱、孝徳天皇)の時代になって、板葺檜皮の宮が出来、人々はそれを祝って飛鳥板蓋宮と誉め称したと云う。また、豪族どもは政治の場面で勝手気ままに振る舞い軽大王を責め悩まし、その豪族たちの振る舞いが軽大王の命を縮めたとも云う。
 それが、今、飛鳥には瓦葺の新益京の建物や大官大寺、薬師寺などの大寺院が建つ。そして、神祀りには大王の招聘に従い、全国から三千を超える祝部どもがそれぞれの国の国司守に連れられ飛鳥新益京に集う。大王の威光は天下に届いている。また、金銀銅やガラスの宝飾は国産で適うし、錦や羅も呉物にひけを取らない。里の倉には稲穂が貯まり、国の蔵には銀、銅、鉄が貯まっている。
 わずか五十年、壬申の乱からすれば二十五年。それだけの期間で、大和は世界第一級の国家となった。それを高市大王が為した。また、集う者、皆が知るように忍壁皇子はややもすると技術者に走る大王を法務者の目で修正し、支えた。そして、今、高市大王亡き後、皇族の長老の位置にあった。その忍壁皇子の裁定である。
 宮内の鵜野皇女と阿閉皇女はこの裁定に納得した。年齢から考えて祭祀を行う天皇位は阿閉皇女の後は氷高皇女へと行く。もし、病弱な軽皇子になにかがあっても、大王位は長屋皇子が継ぎ、天皇位は吉備皇女の娘が継ぐ。どのようになっても天皇位は鵜野皇女の直系の女の血で繋がる。倭に流れる社会基盤の根底は母系社会である。忍壁皇子は、その倭の習わしと女の血筋を尊んだ。
 天皇鵜野皇女は忍壁皇子を「さすが、大海人大王の時代から大和の律令を練り上げて来た人」と感心する。それに託基皇女は軽皇子より一歳年下で、この皇女より高貴な娘で年が叶う女子はいない。軽皇子を引き立てるため、そこも、しっかり押さえてある。
 高市大王の正妻である皇后御名部皇女と妃であった氷高皇女は大王の意志を尊び、異議を唱えない。その御名部皇女は、彼女自身としても実妹である阿閉皇女の御子である吉備皇女を自分の子である長屋皇子の正妻に迎える裁定に満足した。息子の長屋皇子は夫であった高市大王の若かりし時の姿と同じ形で朝廷を支える。

 日嗣の衆議は忍壁皇子の示した裁定で決した。
 高市大王の葬礼は忍壁皇子の示した裁定に従い、この日嗣と序列で行われる。高市大王の葬礼は大和の神祀り、あの草壁皇子の葬礼と同じで行われる。その葬礼の仕儀次第を執る神祇伯中臣朝臣意美麻呂は木工寮頭柿本朝臣人麻呂を呼び出し、大王の誄となる挽歌の奏上を命じた。
 翌朱鳥十二年正月、高市大王の葬送の大礼が行われた。大礼の後、高市大王の遺体は百済の原の三立岡(広陵町三吉付近)の御稜に葬られ、その御霊は大海人大王に習い伊勢国度会の月讀神宮に祀られることになった。
 この時代から偉大な大王に対しては御稜を築くより、神祀りの儀礼である御社を建てることの方が重要となった。このため、偉大なる人物には、死後、人が神となり御社に祀られるようになった。
 伊勢月讀神宮の祭神は月読神である。この月読神は古事記によると天照大御神と対等の神である。そして、天照大御神が高天の原を統治するに対して、月読神は夜の世界を統治せよと定められている。本来、伊勢皇太神宮の祭神、皇太神とは大海人大王を示す。それが、今、皇太神は天照大御神と成り変っている。つまり、根源的には月読神は皇太神と同等の神である。皇太神が大海人大王を意味するなら、月読神は高市大王を意味せざるを得ない。同じように平安京を建てた桓武天皇は平野神宮(現在は平野神社)を建て、後の天皇は祭神である皇大御神を祀った。
 大海人大王を祀る皇太神宮は平安期には伊勢月讀神宮をも管理した。その皇太神宮が作る皇太神宮儀式帳では月読神の御姿を次のように記している。
「月讀命。御形は馬に乗る男の形なり。紫の御衣を着、金作の太刀を佩きたまう」
 高市大王は大海人大王から馬上、軍を統べる人として御鞍を授けられた大将軍でもあった。その姿は、人々の中に月読神の御姿と同様に鞍持ちの皇子として竹取物語にも登場し、記憶に残った。
 三月、大海人大王の葬礼に習い、大官大寺で摂政長皇子が施主となり高市大王を悼む供養布施の無遮大会を行った。いわゆる、百箇日法要である。その一周忌となる七月、薬師寺で金銅仏を奉納し、高市大王の一周忌の法要が執り行われた。

 柿本人麻呂は朱鳥十二年正月の高市大王の葬送の大礼で次のような挽歌を詠い、誄とした。

挽歌、長歌抜粋
桂文 忌之伎鴨 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 真神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼母 定賜而 神佐扶跡 磐隠座 八隅知之 吾大王乃

訓読 かけまくも ゆゆしきかも 言(こと)はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真(ま)神(かみ)し原に ひさかたの 天つ御門(みかど)を 懼(かしこ)くも 定め賜ひて 神さぶと 磐(いは)隠(かく)り座(いま)す やすみしし 吾(わ)が大王(おほきみ)の

私訳 口にするのも憚れる、言葉でいうのも畏れ多い。明日香の真神の原に長久の天の王宮を尊くもお定めになって、今は神として岩戸に御隠れなされた天下をあまねく承知なされる我が大王の高市皇子尊が、

挽歌、短歌二首
久堅之天所知流君故尓日月毛不知戀渡鴨
訓読 ひさかたし天知らしぬる君ゆゑに日月も知らに恋ひ渡るかも
私訳 遥か彼方の天上の世界を統治なされる貴方のために、日月の時も思わずに貴方をお慕いいたします。

垣安乃池之堤之隠沼乃去方乎不知舎人者迷惑
訓読 垣安(かきやす)の池し堤し隠(こもり)沼(ぬ)の去方(ゆくへ)を知らに舎人(とねり)は惑ふ
私訳 垣安の池の堤で囲まれた隠沼の水の行方を知らないように、どうしていいのか判らない舎人たちは戸惑っている。

 また、穢れと国つ神に斎く立場として、高市大王の葬送の儀礼に出席出来なかった檜隅女王は遠く紀国一宮の日前神社で、紀伊国御幸での在田郡泣沢にある藤並神社での大王との思い出を下に偲ぶ歌を詠われた。

哭澤之神社尓三輪須恵雖祷祈我王者高日所知奴
訓読 哭沢(なきさは)し神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祷祈(いの)れども我が王(おほきみ)は高日知らしぬ
私訳 哭沢の神の社に御神酒を据えて神に祈るのですが、我が王は天上の世界をお治めになった。

 十月、高市大王を支えた右大臣丹比真人嶋が、大王の崩御に併せ引退し、朝廷は摂政長皇子の下、阿倍朝臣御主人、大伴宿禰御行、石上朝臣麻呂たちが率いることになった。
 これに伴い朱鳥の年号は十二年正月を以って、大長元年(698)へと変わった。


 高市大王は二カ月ほどの闘病の末、崩御された。急死でもないが、長患いでもない。人々の心の準備を確かめるかのような崩御であった。
 高市大王が幼い時から傍に仕えてきた人麻呂は、不思議と己が詠った草壁皇子の挽歌の前節を想い出した。
「葦原の 瑞穂し国を 天地し 寄り合ひし極 知らします 神し命と 天雲し 八重かき別けて 神下し 座せまつりし 高照らす 日し皇子は 飛鳥し 浄し宮に 神ながら 太敷きまして 天皇(すめろぎ)し 敷きます国と 天つ原 石門を開き 神あがり あがり座しぬ」

私訳 葦原の豊かに稲穂を実らせる国を天と地が接する地上の果てまで統治なされる神の皇子として、天雲の豊かに重なる雲を掻き分けて、この地上に神として下りなされた天まで高くその輝きで照らされる日の皇子は、飛ぶ鳥の浄御原の宮に、神でありながら宮殿を御建てになられ、そして、天の皇子が統治なされる国と天の原への磐門を開き、天の原に神登られなされた。

 天が示した高市大王が成すべきことをその大王が成し遂げた時、高市大王は天つ国へ戻られた。そう思うと、その姿はいかにも高市大王らしいと感じた。
 大海人大王は大和の歌舞音曲を好み、自ら大和歌を詠い、五節舞など舞踏をも企画された。大和を形作る大仕事をされたが、同時に人生を楽しまれた。一方、高市大王は、『日本書紀』、『万葉集』や『懐風藻』など歴史に残る物からは、何が楽しみで生きていかれたのかは分からない。確かに大和統一の仕上げを行い、税制や行政法の法体系を作り上げ全国に施行させている。そして、世界有数の工業国家を作り上げた。大王は技術者のように淡々と目標を定め、そこへ向かっていかれた。その姿から高市大王の崩御もまた、人麻呂には予定行動のようにも感じた。
 人麻呂は虚しいと云う感情より、大王らしいと云う感情が先にくる。悲しいのだが、なにか不思議な感覚を感じていた。

 高市大王の葬送の大礼の後、世の中に不思議な感情が流れた。確かに偉大な大王であった高市皇子の死は悲しい。だが、なにか、人々の心の底にはほっとした感覚が流れた。
 この時、人々は疲れていた。高市大王の死が、人々の間に休みたいと云う感情と終わったと云う感情を引き起こした。大海人大王と高市大王とが大和の国を創るまで、人々には国が定めた刻に合わせて働き、生活する風習は無かった。今、朝、決まった時間に起き、朝廷で働き、決まった日にだけ休む。その働きには日々優劣を点けられ、それにより褒賞や身分が変わる。さらにそれが子孫の生活にも大きく影響を与える。農民や漁民もまた決まった量の生産物を造り、さらに庸役では決まった日に、決まった時間で働くことが求められた。大海人大王や高市大王の時代になって人々の生活に強度な規律がはめ込まれた。
 また、日頃、見慣れた倭の湿地帯が、気がついた時、巨大な建物が立ち並ぶ都となった。国々へと繋がる道はどこまでも真っ直ぐ、大きな官路が通じ、大船は難波大津を中心として東は伊豆国田方郡御嶋(みしま)(静岡県三島市)から西は豊前国京都郡草野津(かやののつ)(福岡県行橋市草野)へと結ぶ。そして、各地の品物が飛鳥の都に集まる。さらに、その路を使って、一度、大王の招聘が掛かると全国から数千の人々が飛鳥へとやってきて、大王にひれ伏す。
 確かに里に多くの子が生まれ、餓死することもなく育つようになった。田畑も増えた。里毎に稲穂を蓄える倉も建ち並び、飢饉の備えもある。疫病が流行れば、大王の命での薬草の降し渡しや医師の派遣もある。また、戦乱が無くなって既に久しい。確かに暮しは良くなった。しかし、里でも読み書きにより人を選抜し、官人へと取り立てる。飛鳥から遠く離れた雛の里でも官途に就く者と就かない者とで貧富の差が顕著になった。また、里の神祀りも変わった。白木の清々しい神の御社が建ち、大和の大王が定めた仕儀で神祀りが行われる。そこには古来の猥雑さは無く、また、里毎の特徴ある祭は廃れていった。
 これが、たった二十五年である。この急激な変化に人々は疲れ、高市大王の葬送の大礼を機に休息を求めた。

 そして、高市大王と云う重しを失くし、休息を求める大和の人々のタガが外れた。
 宮中では女達は陀羅尼を唱える雑密仏教に溺れ、そして、房中術の薬と称して若い男を求めた。その施薬の結果、大海人大王の夫人であった藤原鎌足の娘、五百重娘は次々と房中術の子を産んだ。その都度、その子は宮内の内臣である藤原史が己の子とした。のち、その五百重娘の子等が身分の劣等感と積み上がる朝廷の財(銀貨)への欲望から高市大王の御子、長屋親王と膳部皇太子を殺し、大和大王家を滅ぼした。
 倭の神祀りを下にした天皇・大王制での天皇は、大宝元年(701)に軽皇子と婚姻した託基皇女が天皇氷高皇女の後を襲い、天平勝宝元年(749)に最後の天皇となられた。しかし、天平勝宝三年、その崩御と共に倭の天皇・大王制の残り火は消えた。なお、託基皇女を『万葉集』の標注から志貴皇子の正妻、春日王の母親とする説があるが、その春日王は公式の貴族の戸籍に相当する『新撰姓氏録』では川島皇子の御子となっている。つまり、託基皇女が志貴皇子の正妻であったとする根拠は公式には存在しない。一方、その氷高皇女と託基皇女の御二方だけが、奈良時代、一品の官位を賜った皇女である。つまり、朝廷序列での立場は同じである。

 大王殺しの五百重娘の子たちは、己の身分の卑しさからくる大海人大王の定めた制約の下、天皇・大王制から大唐に習い皇帝・皇后と云う制度に変えた。その初代の皇帝に軽皇子(諱、文武天皇)の添い臥の児、首王を就け、世の人々に聖武皇帝と呼ばせた。さらに皇帝・皇后の制度の下、大和の神祀りから仏教による統治へと統制を変えた。この時、聖武皇帝の皇后、夫人藤原安宿媛は伊勢皇太神宮にも寺を建て、神祀りから仏を拝むように変えた。
 ただ、慣習・風習や信仰にも寄らない国分寺・国分尼寺制は、その努力と資金投入にも関わらず、民衆に根付くことはなかった。安宿媛皇后の死後、直ちに大中臣清麻呂たちの手によって伊勢皇太神宮の域内にあった寺は、すべて神聖な度会の地から遠く蛮地へと遷され、皇太神宮に寺を受け入れた神主もまたその職から放逐された。

 大海人大王と高市大王とが創った大和の国は、神亀・天平年間を頂点として平安時代末期まで、ぎりぎり、その寿命を保ったが、その大和の国体は一族の為への簒奪しか知らない藤原氏と云う化け物に食い散らかされ、朽ち果てた。
 農業とは違い工業国家を運営するには複雑な社会システムを安定的に維持・運営する必要がある。藤原貴族は、工業が求めるその社会システムの維持・運営のための再投資や人材の確保と云う概念を持たなかったし、また、理解も出来なかった。経済実務を知らない、その藤原貴族は新益京建設から始まった大規模開発を伴う高度成長の社会をコントロールすることが出来なかった。
 都での大規模開発を目当てに全国から人々は倭に集まった。確かにその人々は元の出身は農民であったかもしれないが、次第、賃働きの職人として生活をするようになる。王宮・大寺や官人たちの屋敷の建設、それに全国規模の官路の建設など大規模な開発工事は続いていた。それと同時に社会システムの整備と複雑化に伴い大宮で勤める人々をさらに支える職人群も増えてくる。それが、また、常に公共投資の継続と増加を要求する圧力となる。そうした中、東大寺の大仏建立を含む全国規模の国分寺・国分尼寺の建設の詔に端を発した極端な大規模開発が、全国に大インフレーションを引き起こした。
 インフレーションと紙幣と云う通貨システムをもたない状況下、通貨不足に苦しんだ朝廷は、天平宝字四年(760)、和同開珎に替わって萬年通寳を発行し、十分の一のデノミを断行した。これが、さらなる通貨の混乱を引き起こした。その通貨の混乱中、鉱山資源の枯渇が原因ではなく、乱れた行政が引き起こした物流網の混乱などから銅鉱山の維持・管理能力自体が次第に失われて行った。これが、紙幣と云う通貨を持たない古代では人々は競って経済価値が高い古銅銭を銅地金や金銅仏像に鋳直して退蔵すると云う現象を引き起こし、さらなる通貨不足という経済混乱を引き起こしてしまった。
 奈良時代、藤原仲麻呂時代には既に社会システムは崩壊を始め、平安時代に入って国家としての海上交通網を含めた工業力を維持する能力を失った。そして、平安時代、村上天皇の天徳二年(958)を最後に、貨幣を鋳造し、発行すること自体も出来なくなった。
 貨幣経済の停滞は社会全体の停滞へと遡及して行く。そして、平安時代、奈良時代には世界有数の工業国家であった大和は経済的に死んだ。次に大和が工業国家として再興し、それに伴い農業生産力が向上して人口の爆発が起きるのは安土桃山時代まで待つ必要がある。
 奈良時代、既に王族は藤原氏と云う化け物をつぎのように嘆いていた。

蓙莢尓延於保登礼流屎葛絶事無宦将為
訓読 さう莢(けふ)に延(は)ひおほとれる屎葛(まりかづら)絶ゆることなく宦仕(みやつかへ)せむ
私訳 人を寄せ付けないサイカチの巨木に蔓を延ばし絡み付いたくだらない葛(=藤氏)よ。それでもこれからもくだらないその葛(=藤氏)の奴隷のような下僕として仕えよう。
コメント

明日香新益京物語 丹波の鉱石

2014年07月13日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
丹波の鉱石

 昔、柿本人麻呂と丹比嶋とは長門の銅鉱山開発で縁が出来た。今、右大臣となった丹比真人嶋が木工寮頭、柿本朝臣人麻呂に丹波地方の鉱物探査を命じた。新益宮が完成し、一息ついた人麻呂を、朝廷はさらに追い使う。高市大王は世の人々に常に駆け足することを求めた。

 朱鳥十年(695)春、右大臣の丹比嶋が、今は小錦上(正五位下相当)、木工寮頭となった柿本人麻呂を太政官府に呼んだ。
「木工寮頭、柿本朝臣。新益宮の匠は苦労であった。良き宮が出来た」
「さて、人麻呂。主も知るように、新益宮に勤める者どもは古き浄御原宮より、遥かに多い。それに連れ、新益の京に住む、その者どもが生活するには銭が入る。人数が人数だけに、昔のように布などを使うての物々交換と云う訳にはいかん」
「右大臣、それはそうじゃ。今、官人や宮人の中にも鄙からの人も増えた。その者どもは己が里から食い物を、日々、運ばすわけにはいかん。この飛鳥で購う必要がある。当然、銭による交換が便利じゃ」
「人麻呂。そこまで判っておれば、話が早い。その大本となる銭が足らん。新益宮の匠の次は、銭じゃ。人麻呂、それをどうにかせい」
「右大臣、では、肝心の銅と白鑞はどうする。また、木炭も問題じゃ。飛鳥では人が増えすぎた。山は薪や木炭の求めで、禿げてきておる」
「人麻呂、そこは主の縄張りじゃ。何か良き案があろうが、それを云え」
「右大臣、では云うぞ。鋳銭司を飛鳥から難波か、河内に移そうと思う。銭を鋳る地金は長門や伊予から大船で来る。それを無理に飛鳥まで運ぶこともなかろう。ただ、宝飾は女どもが住む宮の傍でなくてはならんだろうて」
「しかし、難波や河内は右大臣の里じゃ。そこに鋳銭司を移して苦情は来ぬか」
 丹比嶋がその話を引き取った。
「人麻呂、鋳銭司の移転の件は大王と談合して決めよう。吾は良い案と思う」
 鋳銭司の移転の必要性は誰もが知っている。ただ、鋳銭司の設置は、ある種、利権となるので、それは政治家の領分である。技術官僚である人麻呂にとって、それは首を突っ込みたくない領分であった。
 鋳銭司移転の件のあと、人麻呂はさらに話をする。
「次に、丹波の山を覗いて来ようと思う。古くから丹波には新羅からの韓鍛冶人が住む。きっと、良き山があるはずじゃ」
 人麻呂は言葉を継いだ。
「本来、銭を作るには銅と錫がいる。じゃが、大和にはその錫が少ない。それで銅と白鑞とで銭を鋳ている。噂では丹波で錫が採れると云う。それも確かめたい」

 平城京には最盛期に四~五万の人々が生活していたと云う。そこから推定して、新益京では、少なくても、飛鳥の里に住む元々の人々を合わせて、二万以上の人々が生活していたと考えて良いと思う。
 その新益宮に勤める人々とその家族を合わせて数万の人々が定められた朝廷の時間に合わせて生活するには貨幣経済は絶対の条件となる。物々交換では数万の人々の日々の副食材や薪炭を調達することすら出来ないであろう。そのためにも交換に便利な銭は必要である。また、陸上交通が弱い古代においては日常生活の薪炭調達の為にも、生活と工業は地域を分ける必要がある。飛鳥の里に大規模な官営の貨幣鋳造工場があることは、生活者の薪炭事情を圧迫する。実際、薪炭や家屋の材木の調達などで飛鳥の山々は荒れ、それに連れ、河川への土砂流失と河道上昇の問題が生じている。
このように数万規模の大都市を運営する時、社会システムからの要請や制約がある。
 丹比嶋と人麻呂は、それらの社会システムからの要請を検討した。そこで、まず、出来ることとして飛鳥の鋳銭司を河内に移すことに決めた。次に、鋳銭の問題点である銅と錫の調達について、再度、全国に鉱山探査の命を下した。

 朱鳥十年盛夏六月、人麻呂は播磨国宍粟郡の山中に来ている。
 新益宮を夏五月に出発し、播磨の加古川を伝い山中に入った。その山中、宍粟郡伊和郷富士野で有望な銅と錫の鉱石を見つけた。さらに人麻呂は探査範囲を広げ、丹波高原の川筋に薄いが錫鉱が堆積する層が点在することを認めた。
 大和随一の鉱山開発の専門家である人麻呂は、鉱石や堆積の状況からその開発の検討を行った。そして、銅鉱石は播磨の国で製錬する。錫は各所に点在するため専門家の技術者の指導の下、郡司が里人を使い採掘し、飛鳥の京へ送ることとした。それを右大臣丹比真人嶋に進言・報告した。
 朱鳥十一年(696)の高市大王の崩御により事業の進行は遅れたが、大長三年(700)、朝廷は丹波国司守と郡司に命じ、錫鉱石の採掘と納入を行わせるようになった。ここに。大和は良質な銅鋳造に必要な錫を安定的に自給することが可能になった。また、播磨国に鋳銭司を置き、銅鉱石の掘削から製錬までを負わせた。播磨鋳銭司は伊和郷富士野周辺の銅鉱山の開発を進め、和銅三年(710)正月には朝廷に銅銭を献納するほどになった。同時に当初の目論見通りに飛鳥から移した河内の鋳銭司もまた、和銅二年前後には銅銭の鋳造を開始した。これらの対策により、銭の流通量は新益京で生活する人々の社会需要をまず満たした。
 さらに、倭からの鋳銭司の移転により藤原京周辺での薪炭事情の改善にも一定の役割を果たした。ただ、この頃には新益宮から平城宮へと遷都をしており、民の暮しに役に立つより、鋳銭司自体の運営面での制約改善の度合いが高くなっている。ついで、朝廷は庸調の調達・運搬からの要請で全国規模の銭の流通を目指した。銭が全国規模で流通すると荷役人やその従者どもの旅の道中での食料の調達に便があり、それらの者どもが里から京への往復の食料を得るために物々交換の為の布等を持参する必要がなくなる。

 少し、金属の自給体制の話をする。
 従来、大和の銅銭は、原料供給の制限から銅・アンチモン合金による鋳造であったが、この丹波高原の褐錫鉱や錫鉱の発見により、次第に銅・錫合金の鋳造へと変わって行く。ちなみに東大寺大仏の原料供給の主力を担ったのは銅が長門国長登、錫がこの播磨国宍粟郡である。ここに、大和では鉄、銅、鉛、錫、銀、金、水銀など主要な金属の自給体制が整った。そして、同時に朝廷の財政基盤が強化された。特に銀と錫の生産は国際貿易での重要な資金源であり収支の改善となる。
 また、安土桃山時代以前、大和の工業の最盛期は神亀・天平年間である。その時代、鉄鉱石は近江高島郡・備前国赤坂郡から、銅・銀・鉛鉱石は長門国大津郡から阿武郡・豊前国香春岳・播磨国宍粟郡にかけて、錫鉱石は播磨国宍粟郡、水銀は倭国葛城山や宇陀山中が主力の生産地であった。これら多くの鉱山は和銅年間以前までには、発見・開発を開始している。
 こうした時、鉄鉱石の備前国赤坂郡を除いて柿本朝臣人麻呂歌集には、その地名を詠った歌がある。現在、人麻呂歌集の大半は人麻呂自身の詠う歌と考えられている。つまり、人麻呂がこれらの鉱山開発に深く関与していたことの推定が可能である。
 一方、丹比嶋と柿本人麻呂の関係に目を向けると、元々、丹比真人嶋は播磨国宍粟郡の家原氏(現兵庫県宍栗市一宮町付近の豪族)の娘女を室に入れており、この頃、その家原の娘女は丹比一族の刀自のような立場にあり家政を取っている。その丹比一族の影響下にある播磨国の丹波高原から銅や錫の鉱石が発見されたことは、経済的に丹比一族に重要なサポートを与えることになる。この関係からか、家原氏の本拠宍粟郡伊和郷には播磨一宮の神社である伊和神社があり、その摂社には柿本一族などの鍛冶を生業とする氏族が祀る市杵島姫が祀られている。およそ、鉱山開発には柿本鍛冶どもが携わったと思われる。すこし時代は下るが、人麻呂の孫となる柿本朝臣市守が丹波国の分割により生じた丹後の国司守となっている。これらの人々の背景を思う時、偶然では無い、朝廷の意図を想像させられる。
 万葉集を眺めると、人麻呂は加古川からこの丹波の鄙の里を探査した時の歌を次のように残している。

珠藻刈敏馬乎過夏草之野嶋之埼尓舟近著奴
訓読 珠藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に舟近づきぬ
私訳 美しい藻を刈る敏馬を行き過ぎて夏草の茂る野島の崎に船は近づいた。

稲日野毛去過勝尓思有者心戀敷可古能嶋所見
訓読 稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき可古の島見ゆ
私訳 稲美野も行き過ぎてしまって、ふと思うと目的としていた加古の島が見える。

天離夷之長道従戀来者自明門倭嶋所見
訓読 天離る夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
私訳 大和の空から遠く離れた田舎からの長い道を大和の国を恋しく思って帰ってくると明石の海峡から大和の山並みが見えたことよ。
コメント