竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

改訂 社会人のための万葉集入門 おわりに

2017年05月14日 | 初めて万葉集に親しむ
おわりに

 本編は「社会人のための万葉集入門」と称して、万葉集をその原歌から楽しむことを色々と例題を挙げて紹介しました。ここまで進まれて来た方はご理解いただいたと思いますが、和歌に関する国文学の世界では鎌倉時代からの和歌道と学問としての近代文学とのせめぎ合いがあるようです。和歌道を大切に思う場合、万葉集は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌であることは重要ではなくなり、先達が解釈したもの、つまり、伝統の漢字交じり平仮名表記への翻訳歌が示す歌心を鑑賞することが重要になります。一方、近代文学と云う学問からしますと、歌は表語文字である漢字で表記されていること、隋唐時代の中国中古音からの音韻と大和言葉の発声との関係、さらに飛鳥・奈良時代の社会や生活というものを考慮して鑑賞する必要があります。益して和歌道では採用されない歌群や物語性と云う概念も取り入れる必要があります。およそ、扱うものへの配慮は非常に広範囲なものになります。
 和歌道から万葉集を眺めるとき和歌語、忌語、季語、縁語などから言葉と言葉の接続や発声での響きなどが重要となりますが、対して万葉集の時代、そのような藤原定家以降の人々が思う作歌技法は確立していたのでしょうか。また、逆に万葉集の歌は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌であり、漢字と云う文字が表語文字として個々に意味を持つものであることを認識していたでしょうか。一方、馴染みの古今和歌集はこの漢字と云う文字が表語文字としての力を示すことを拒否した歌で万葉集とは対極に位置するものです。人々はこの対極にある古今和歌集を和歌のバイブルとして和歌道を学び、万葉集を眺めます。
 藤原定家は源平合戦などの戦乱や鎌倉幕府の成立と云う社会の激変などにより文学力が落ちた平安京に住む貴族のために読み易さを優先して多くの古典文学を鎌倉時代の言語で翻訳しました。ただもし、その時、万葉集の歌は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌と云う概念を持たずに翻訳をしていたとしたら、その翻訳が万葉集の歌心を十分に満たすものかは不明になります。古今和歌集を例として紹介しましたが、紀貫之と藤原定家との歌心はその古典原典と翻訳されたものとが表記で使う変体仮名文字の選択を含め歌の句も相違するように同じではありません。類推で万葉集でも歌心は違う可能性があります。
 ただ、鎌倉時代からの伝統の和歌道からしますと、本編は何も知らない無教養の素人による、ある種、便所の落書きです。そのようなものではありますが、万葉集の歌は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌であり、漢字と云う文字が表語文字として個々に意味を持つ文字であることを認めますと、和歌道で示すものとは違う歌心の世界が広がっている可能性があります。本編はその可能性を尊重し、鑑賞を試みています。
 最後に変な話となりますが、最初に紹介しましたように本編ではこのような態度・考え方から万葉集を原歌から鑑賞するという非常に特殊なことを行っています。これは伝統の漢字交じり平仮名歌に翻訳されたものを拝受すると云う正統な和歌道における鑑賞方法ではありません。つまり、受験や学業で扱うものではないのです。そのため、本編はそのような学業と云うしがらみから切り放たれた社会人だけに紹介するものです。繰り返しますが、本編は学業からしますと害悪であり、悪書です。高校や大学で万葉集や古今和歌集を学ぶ人には全くに向きません。
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万葉集の歴史と訓点

2017年05月13日 | 初めて万葉集に親しむ
万葉集の歴史と訓点

 本編を終えるに際して、万葉集編集の歴史について雑談を致します。
 最初に、『万葉集 釋注』を書かれた伊藤博氏は、奈良時代の元明天皇の時に巻一と巻二を中心とする詩歌集が編まれ、これを万葉集の出発点とし、その後、複数の編集過程を経て出来上がったものが現在に伝わる『二十巻本万葉集』と解説されています。この伊藤博氏の説かれる万葉集編集の歴史認識は、ほぼ、正しいものと思います。そこから、その複数回に渡る編集の歴史において、節目毎にその節目を代表する人物から元明天皇時代の柿本人麻呂選定説、孝謙天皇時代の橘諸兄選定説、桓武天皇時代の大伴家持選定説などが現れたのではないでしょうか。
 一方、漢字だけで表記された万葉集は平安時代の早い時期から、その時代の言葉に翻訳する作業が行われてきたと伝承します。それが訓点付けと云うものです。その万葉集の訓点付けの歴史は、十一世紀半ばとなる村上天皇時代から始まるとし、これが有名な「梨壷の五人」による古点付けと云う伝承です。この古点付けに関係して、鎌倉時代初期の作品に『石山寺縁起絵巻』と云うものがあり、そこには「梨壷の五人」の一人である源順が万葉集に載る「左右」の表記を「まて」と読むのに苦心した、その苦心譚が説話として載せてあります。
 紹介する雑談は、この「梨壷の五人」や源順の「左右」の訓点付けの苦心譚から始めます。ただ、そこに至るまでに、すこし、寄り道をさせて下さい。

 さて、『古今和歌集』に真名序と呼ばれる序文があり、その中に次のような一節があります。

原文 昔、平城天子、詔侍臣令撰万葉集。自爾来、時歴十代、数過百年。其後、和歌弃不被採。雖風流如野宰相、軽情如在納言、而皆以他才聞、不以漸道顕。
訓読 昔、平城の天子、詔して侍臣に令じて万葉集を撰ばしむ。それより来(このかた)、時は十代を歴(ふ)り、数は百年を過ぎたり。その後、和歌は棄てられ採られず。風流は野宰相の如く、軽情は在納言の如しといへども、皆、他の才をもちて聞え、この道をもちて顕はれず。

 一度、弊ブログ「竹取翁と万葉集のお勉強」に載せた自説では、この「平城天子」を聖武天皇(実際は孝謙天皇)としました。しかし、その後、色々と検討をしてみますと、これはやはり平城天皇のことでした。
 ブログで紹介したものが間違いであった背景には万葉集なるものを現代の二十巻本万葉集からの思い込みで想像していたことがあります。現代の二十巻本万葉集は何度もの編集を経て成立したものですから、二十巻本万葉集が成立するまでには複数の「万葉集」の名称を与えられた詩歌集があったはずですが、これを失念していました。さらに、二十巻本万葉集の核となる詩歌集に最初から万葉集の名称が与えられていたかと云うと、その保障もまたないことに配慮が足りませんでした。実にうかつです。
 こうした時、古今和歌集に先行し、万葉集について述べた文章があります。それが『新撰万葉集』の序文です。その当該する部分を抜粋して紹介します。

新撰萬葉集序  (菅家万葉集)
原文 夫萬葉集者、古歌之流也。非未嘗稱警策之名焉、況復不屑鄭衛之音乎。
聞説、古者、飛文染翰之士、興詠吟嘯之客、青春之時、玄冬之節、隨見而興既作、觸聆而感自生。凡、厥所草稿、不知幾千。漸尋筆墨之跡、文句錯亂、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。所謂仰彌高、鑽彌堅者乎。然而、有意者進、無智者退而已。於是奉綸、綍鎍綜緝之外、更在人口、盡以撰集、成數十卷。裝其要妙、韞匱待價。唯、媿非凡眼之所可及。

訓読 夫れ萬葉集は、古歌の流(たぐひ)なり。未だ嘗って警策(けいさく)の名を稱えざるにあらざり、況(いはん)や復、鄭衛(ていえい)の音を屑(いさぎよ)しとせず。
説を聞くに、「古には、飛文染翰の士、興詠吟嘯の客、青春の時、玄冬の節(とき)、見るに隨(したが)ひて既に作を興し、聆(き)くを觸れるに感は自(おのづ)から生まれる。凡そ、厥(そ)の草稿は、幾千を知らず。漸(やくや)く筆墨の跡を尋ねるに、文句錯亂、詩に非ず賦に非ず、字對は雜揉し、雖、入るに悟り難き。所謂、彌高(いやたか)を仰ぎ、鑽(きわめ)るに彌(いやいや)堅き者か。然而(しかるに)、意有る者は進み、智無き者は退き已(や)む。是に於いて綸を奉じ、綍鎍(ふつさく)綜緝(そうしゅう)の外、更に人の口に在るを、盡(ことごと)く以つて撰集し、數十卷を成す。其の要妙(ようみょう)を裝ひ、匱(ひつ)に韞(おさ)め價(あたひ)を待たん。唯、凡眼の及ぶべき所に非ずを媿(とがめ)む」と。

 この新撰万葉集は菅原道真とその門弟たちによって編まれた、和歌にその和歌が詠う世界を漢詩で表したものを添えた詩歌集で伝本書題から「菅家万葉集」とも称されています。その歌集に採られた和歌は主に寛平御時后宮歌合で詠われたもので、それを唐人や漢字文化圏の人々でもある程度は理解ができるようにと万葉調表記方法で表記し直しています。この新撰万葉集は一つのテーマの下、和歌と漢詩とが対となるように編集を行った日本文学史でも非常に特殊な歌集で、寬平五年(八九三)に成立しています。
 参考としてその新撰万葉集から一組を抜粋して紹介します。なお、「原歌」は参考資料として載せたもので新撰万葉集には載りません。載るのは「和歌」と「漢詩」の部分です。

歌番一 伊勢
和歌 水之上 丹文織紊 春之雨哉 山之綠緒 那倍手染濫
漢詩 春来天氣有何力 細雨濛濛水面穀 忽忘遲遲暖日中 山河物色染深綠
原歌 みつのうへに あやおりみたる はるのあめや やまのみとりを なへてそむらむ (寛平御時后宮歌合)

 最初に紹介した新撰万葉集の序文は全文を紹介していませんが、序文の後半部に「先生、非啻賞倭歌之佳麗、兼亦綴一絶之詩、插數首之左」と云う一節を持ちます。ここから、序文は菅原道真の門弟の誰かによって創られたものと考えられ、新撰万葉集もまた菅原道真一門による作品と推定されています。旧来の「菅家万葉集」と云う書題を根拠に菅原道真によるとする説は「菅家」と云う言葉に対する解釈に無理があります。
 さて、新撰萬葉集の序に「於是奉綸、綍鎍綜緝之外、更在人口、盡以撰集、成數十卷」とあります。ここで使われる言葉を詩歌集と云うものを前提に説明しますと、「綍鎍」は詠われた歌の原本や資料が編集などを行うことなく、ただ、丈夫な紐で束ねられただけの状態を示し、「綜緝」は詩歌集としての編集が行われ巻本や冊本として整えられたものを示します。また、「人口」は朝廷などの公的機関ではなく在野にあったものと云う意味となります。さらに「撰集」と云う言葉の原義は詩歌集を編むと云う意味であって、歌に対し秀凡区別し選択すると云う直接の意味合いはありません。つまり、万葉集選集の綸旨が出された時に、宮中に保管されていた古歌集や資料として保管されていた古歌、それに在野の古歌を、その歌の表記のままに巻子本の形に転写・再録したと云うことになります。この背景から新撰萬葉集の序では「万葉集」のことを「古歌之流也」と表現したのではないでしょうか。そして、後の時代の人、ここで後の時代と云っても少なくとも古今和歌集に載る歌などを参考にしますと貞観元年以前になりますが、この時代以降の人たちはこの古歌を撰集した巻子本を「万葉集」と認識していたと考えられます。これが、平安時代の書物に、度々、顔を出す「古万葉集」なのでしょう。

『平安時代における万葉集』 西田禎元より「古万葉集」に関わる部分を抜粋
・ 集は古萬葉集、古今、後撰。『枕草子』六十八段 清少納言
・ 嵯峨の帝の古万葉集を選び書かせたまへる四巻、延喜の帝の古今和歌集を、唐の浅縹の紙を継ぎて、同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、緞の唐組の紐など、なまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじう書き尽くさせたまへる。 『源氏物語』梅枝巻 紫式部
・ 凡素盞鳴尊、聖德太子御世代、定三十一字以降、古萬葉集、新萬葉集、古今、後撰、拾遺抄、諸家集等、盡以了見。 『新猿楽記』 藤原明衡
・ 柿本人麿八首 ・・(中略)・・ 但古万葉集第二云大寶元年・・・。・・(中略)・・奈良之帝然而蔵古万葉集尋人丸在世之時・・(中略)・・。萬葉集第二云柿本朝・・・(後略)。 『古今和歌集目録』藤原仲実
・ 万葉集和歌四千三百十三首。此中長歌二百五十九首。但本々不同。・・(中略)・・ 予按之。此集聖武撰歎。・・(中略)・・ 此集末代之人称古万葉集。『袋草子』巻一 藤原清輔

 ただし、平安時代の後期には「古万葉集」なる言葉は、どうも、二つの意味合いで理解されていたようです。清少納言や紫式部たち宮中の女性たちは平城天皇の時代に巻子本として残された「万葉集=平城万葉集」の中から嵯峨天皇の時代に短歌の秀歌集として選び編まれた四巻本を「古万葉集=嵯峨万葉集」と称し、一方、歌学者たちは平城天皇の時代に数十巻の巻子本として残された平城万葉集を「古万葉集」と呼んだようです。ややこしいのですが、ここでは平城天皇の時代の数十巻の巻子本である平城万葉集の方を「古万葉集」と呼ぶことにします。
 では、その撰集した時代は何時かと云うと、古今和歌集の真名序から、この「古万葉集」が撰集されたのは平城天皇・上皇の時代(八〇六~八一〇)のことと思われます。およそ、万葉集の核となる原初万葉集は元明天皇の時代に巻一と巻二とを中心に編集され、次いで、孝謙天皇の時代に再度編集が行われ巻一から巻十六までの原万葉集となったのではないでしょうか。これが「綜緝」が意味する先行して編まれた詩歌集と考えます。なお、弊ブログでは孝謙天皇の時代に編まれた原万葉集を「奈弖之故」と「宇梅之波奈」との名称を持つ詩歌集と推定しています。
 次の時代、古今和歌集の仮名序は「万葉集に入らぬ古き歌 みづからのをもたてまつらしめたまひてなむ」と述べ、万葉集と古今和歌集とで採録された歌の重複を避けることが求められたとします。この綸旨を裏読みしますと、紀貫之たちが古今和歌集を編集するとき、宮中の人々に万葉集に載る歌の定義が確立しているか、もし、そうでないのなら紀貫之たちは万葉集の歌の定義付けを行う必要がありました。そうでなければ「万葉集に入らぬ古き歌」と云う判定が出来ません。
 その状況を確かめるために重複歌を調べて見てみますと、現在の二十巻本万葉集が四千五百首余、古今和歌集が千百首余としたとき、西本願寺本基準と伝紀貫之筆の奏覧本基準とでは四首、さらに後年の翻訳写本である定家本とでは墨滅歌を含めて七首しか重複はありません。ただ、本歌取りの技法による類型歌を重複歌として含めますと、最大十二首まで増えると云う説もあります。
 この本歌取りの技法について藤原定家は『詠歌大概』などで次のように規定しています。

• 本歌と句の置き所を変えないで用いる場合には二句未満とする。
• 本歌と句の置き所を変えて用いる場合には二句+三又は四字までとする。
• 著名歌人の秀句と評される歌を除いて、枕詞・序詞を含む初二句を本歌をそのまま用いるのは許容される。
• 本歌とは主題を合致させない。

 一方、藤原定家より一世代前の藤原清輔は本歌取りの技法を「盗古歌」と評論していましたから、定家や清輔の評論・提案を総合しますと、時には、そっくりそのままに近いような本歌取りの歌が詠まれていたと思われます。紀貫之自身も額田王の歌(集歌一八)から頭二句を使う本歌取りの歌を詠い、古今和歌集(歌番九四)に載せていますから、全句が一致せず、歌の景色が違えば、紀貫之たちからすれば本歌取りの技法からの別の歌と考えていたと思います。従いまして、万葉集と古今和歌集との間での重複歌は最大でも四首とするのが良いようです。

万葉集 集歌一八 額田王
原歌 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
訓読 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや
私訳 三輪山をこのように隠すのでしょうか。雲としても、もし、情け心があれば隠すでしょうか。

古今和歌集 歌番九四 紀貫之
和歌 三輪山をしかも隠すか春霞人に知られぬ花や咲くらん

 さて、奏覧本古今和歌集を基準とした時、重複数が約千百首中に四首もあると見るか、四首しかないと見るかは立場ですが、ほぼ、綸旨が求めた重複を避けることは達成されています。なお、この論争の前提条件として、村上天皇の時代の古点以前に、重複を避けると云う行為そのものからしますと、当時の人々は万葉集を自在に読みこなしそれぞれの歌を認識していたと云うことが暗黙の了解事項となります。従いまして、紀貫之たちは現代の二十巻本万葉集と同等な万葉集に対して古今和歌集を編集したと考えて良いのではないでしょうか。つまり、古今和歌集の編集を開始した時に現在の二十巻本万葉集と同等な万葉集は、その当時の人々には定義が為されていたことになります。ここで村上天皇の「梨壷の五人」の伝承から生まれた常識には反しますが、古今和歌集の編集時点で現在の二十巻本万葉集と同等な万葉集は成立し、同時に平安貴族たちは二十巻本万葉集の歌を原歌から読み解き理解していたことになります。そうでなければ、古今和歌集に載せられている読み人知れずの古歌のほとんどが万葉集と重複しないこと自体が「偶然」ということになります。
 ちなみに、万葉集の古点の作業が行われていた時に編まれた『後撰和歌集』について、古い論説では後撰和歌集と万葉集との間には二十四首の重複歌があると唱えられていました。ところが、現在では本歌取りの技法を下に慎重に検討し、それぞれの歌意を精査すると、重複歌ではなく本歌取りの技法による類型歌が大半と論じられています。「梨壷の五人」による後撰和歌集の奏覧(天徳二年、九五八年頃)と万葉集の古点の完了(康保年間頃、九六四~九六八)には約十年の年代差がありますから、後撰和歌集の編集態度からしますと、どうも、万葉集の古点付け作業と万葉集の読み解きとは、直接には関係がないようです。

 最初に説明した新撰万葉集の序は寬平五年九月廿五日の日付を持ち、古今和歌集の真名序は延喜五年四月十五日の日付を持ちます。その間、わずかに十二年です。可能性として綸旨が延喜五年に出、その後に編集作業を経て完成し、その奏覧が延喜十三年としても、古今和歌集で載せる歌の採録・編集は延喜五年中には開始されている訳です。また、綸旨での任命からして、紀友則・紀貫之・河内躬恒・壬生忠峯たち、四人以上の人々で作業を開始するわけですから、その編集の最初には編集方針を決めたと考えられます。およそ、延喜五年中には「万葉集に入らぬ古き歌」の定義は決まっていたはずです。つまり、現在の二十巻本万葉集と同等の「万葉集」は人々の共通認識であったか、対比照合資料として整えられていたことになります。そして、この時点で原歌の万葉集の歌を全て訓じて理解していなければならないことになります。一方、古今和歌集の編集を求める綸旨からして、その綸旨を出した人物やその相談役もまた論理的に考えれば、編まれた歌集を受領し点検を行う責任がありますから、ある程度以上に原歌の万葉集の歌を理解していたことになります。
 ここで、二つの序を検討しますと、新撰万葉集を編んだ菅家一門の人々が見た「万葉集=古万葉集」は数十巻の編集未了の、ただ、資料集のような詩歌集の巻物であったのに対し、古今和歌集の編集時代には二十巻本万葉集と同等な「万葉集」が成立し、それに載る歌は定義されたものになっています。さて、この差はどこから来るのでしょうか。可能性として新撰万葉集の編まれた時、「古万葉集」は整理のされていない詩歌資料のようなものであったと考えられ、宇多天皇がその整備を菅家一門の人々、特に文章博士や大学頭を歴任した紀長谷雄に命じたのではないでしょうか。宇多天皇は醍醐天皇への譲位の後も上皇や法皇として政治や文化をリードしていますし、寛平初年(八八九)頃の寛平御時后宮歌合や延喜十三年(九一三)には亭子院歌合を開くなど和歌への深い造詣・態度があります。およそ、この頃に二十巻本万葉集と同等な「万葉集」が編集されたのではないでしょうか。そうした時、万葉集に入らぬ歌で編集する古今和歌集に紀友則と紀貫之が参画し、真名序を紀長谷雄の子である紀淑望が書くのは、極、自然な姿と考えます。

 もう少し与太話を続けますと、源順の私家集である『順集』に載る一一七番歌の詞書に「天暦五年、宣旨ありて、やまとうたはえらぶところ、なしつぼにおかせ給ふ、古万葉集よみときえらばし給ふなり、めしおかれたるは河内掾清原元輔、近江掾紀時文、讃岐掾大中臣能宣、学生源順、御書所預坂上茂樹らなり、蔵人左近衛少将藤原朝臣伊尹を其ところの別当にさだめさせたまふ」とあります。これが有名な村上天皇の「梨壷の五人」の伝承です。この文章から鎌倉時代以降の人々は、村上天皇の時代、天暦五年(九五一)には万葉集は読めない詩歌集になっていたと想像します。
 ところで、この類の話を紹介する別の資料もあります。それが次のものです。

・ 梨壺の五人に仰せて万葉集をやはらげられける 『十訓抄』
・ 康保のころ、広幡の御息所の申させたまひけるによりて、源順勅を承りて、万葉集を和らげて点じはべりけるに、訓み解かれぬ所々多くて、当寺に祈り申さむとて参りにけり。左右といふ文字の訓みをさとらずして、下向の道すがら、案じもて行くほどに、大津の浦にて物負せたる馬に行きあひたりけるが、口付の翁、左右の手にて負せたるものを押し直すとて、己がどち、までより。といふことを言ひけるに、始めてこの心をさとりはべりけるとぞ 『石山寺縁起絵巻』

 文中の「やはらげ」と云う言葉は古語辞典によると文章や言葉に使う場合は「わかりやすくする、平易にする」の意味としていますから、「梨壷の五人」が行った「よみときえらばし」の作業は原歌の万葉集の歌に片仮名で適切な訓みを与え、歌の読み下しを容易にする作業と考えられます。つまり、村上天皇の時代以前には、どうも、原歌の万葉集の歌には読み仮名は振られていなかったようです。一方、古今和歌集の時代に、人々は万葉集の歌を読み解き、大勢において重複が無いことを認識・確認しています。さらに、本歌取りの技法を認める、認めないはさて置き、本歌取りの技法を使用した重複歌又は類型歌が存在することから、それらの万葉集の歌は確実に読めたことになります。
 ここで先ほど紹介しました『石山寺縁起絵巻』に載る説話では万葉集の歌の言葉「左右」を源順が苦心して「まで」と訓じる例が取り上げられています。ところが、不思議なことに源順の時代より少し前に成った新撰万葉集には次のような歌が載せられていて、源順の時代でも「左右」は難訓ではないはずです。新撰万葉集で和語「まて」に「左右」の漢字文字を当てたのは源順から一世代前の菅原道真一門の人々であって、万葉集だけの表記ではないのです。それに奈良時代では「左右」は「さふ」と云う訓じの可能性があり、この「左右」を「まて」とする訓じは奈良時代の万葉集からではなく、平安時代初期 新撰万葉集からかもしれないのです。

歌番和二三 佚名
和歌 夏之夜之 霜哉降禮留砥 見左右丹 荒垂屋門緒 照栖月影
漢詩 夜月凝来夏見霜 姮娥觸處翫清光 荒涼院裏終宵讌 白兔千群人幾堂
寛平御時后宮歌合 夏五番右
原歌 なつのよの しもやふれると みるまてに あれたるやとを てらすつきかけ

歌番和一〇三 佚名
和歌 都例裳那杵 人緒待砥手 山彦之 音為左右 歎鶴鉋
漢詩 千般怨殺厭吾人 何日相逢萬緒甲 歎息高低閨裏亂 含情泣血袖紅新
寛平御時后宮歌合 戀五番左
原歌 つれもなき ひとをまつとて やまひこの おとのするまて なけきつるかな

 この新撰万葉集に載る和歌は平安時代の『寛平御時后宮歌合』を中心に詠われた和歌を万葉集と同じような漢字表現に戻して表したものです。従いまして、石山寺縁起絵巻の内容が鎌倉時代の人々に信じられていたとしますと、後撰和歌集選定の頃には万葉集を原歌から読むことは困難になっていたと考えたのでしょう。または、平安時代最末期以降にはそのように信じたと思われます。ただし、源順は後撰和歌集時代を代表する歌人であり、「規子内親王前栽歌合」などの歌会では判者を執るほどの人物ですから一つ前の時代の有名な寛平御時后宮歌合で詠われた歌を知らないとも思えませんし、新撰万葉集を知らないとも思えません。従いまして、逆説的ですが、平安時代最末期以降の人々は次のように考えたと想像されます。

・ 自分たちでは、直接、万葉集本文は読めない。
・ その前提でいつから万葉集に訓点が付けられたかを調べた。
・ 綸旨や日記記録から村上天皇の時代の訓点付けの綸旨が最古にあたると判明した。
・ それ以前の古今和歌集時代は仮名序などから紀貫之たちは万葉集本文を読めたと推定出来る。

 推定で、鎌倉時代に成立した石山寺縁起絵巻に載る源順の説話とは、当時の人々の認識や現実を下にした、その時代の人々にとって万葉集を原歌から訓じることが難しいことを判り易く説明した作り話なのでしょう。つまり、与太話です。およそ、当時の仙覚のような知恵者が学力・教養の落ちた歌人たちに対し「有意者進、無智者退而已」と云うことで、からかったのでしょう。
 最後に、「康保のころ、広幡の御息所の申させたまひけるによりて、源順勅を承りて、万葉集を和らげて点じはべりける」との伝承が残るように、後撰和歌集が編集された時代に、女御や更衣が宴に参加するため、また、和歌などの教養から天皇の寵愛を受けると云う必要性から宮中の女性たちに和歌を学習することが求められ、その一貫で万葉集の平仮名翻訳本が求められたと云う説があります。なお、この広幡の御息所とは村上天皇の更衣であった源計子で、彼女は内裏歌合では歌人が集う自陣の中から歌を選定し歌合に合わせるものを提出する役目である女房方人(にょうぼうかたうど)を務めるほどの大物歌人であったと伝わっています。場合により、そのような状況での平仮名翻訳を「万葉集をやはらげられける」と云う文章が説明しているのかもしれません。その時、後撰和歌集に万葉集との重複歌が限定的であることからして源順は万葉集を原歌から読む能力は十分にあったと云うことになりますから、村上天皇の時代に万葉集を原歌から訓じることが困難になっていたとの現在にする説明は、結構、怪しい話となります。なお、両歌集合わせて約六千首ほどの歌の中で重複歌がわずかでもあれば、それを根拠に万葉集の読解能力が無かったとする、資料整理での誤差・錯誤を一斉認めない態度には組みしません。
 さらに源氏物語を参照しますと、その源氏物語には万葉集や古今和歌集の歌が引歌されており、源氏物語を楽しむとき、その引歌された本歌が示す世界観も同時に楽しむようにと仕掛けが為されています。今日の源氏物語引歌研究と云う方面からしますと、紫式部は源氏物語に万葉集の巻二から巻二十に渡り、総数三十三首の歌を引歌しています。つまり、紫式部やその有名な読者である藤原道長たちは二十巻本万葉集を教養としていたのです。なお、紫式部や清少納言たちにとって万葉集は難しい作品だから平安中期までの和歌を集め、平仮名表記により編まれた『古今和歌六帖』からの引歌とする説が江戸末期から昭和時代まで唱えられていました。しかし、最新の源氏物語引歌研究ではそれは完全に否定され、二十巻本万葉集からの引歌と証明されています。もし、人が源氏物語に古今和歌集の姿を見るのですと、公平に万葉集の姿をも見る必要があります。
 結局は時代に置ける歌人での「有意者進、無智者退而已」の比率と云うことになるのでしょうか。紀貫之時代 歌人の多くが万葉集に対して「有意者」であり、平安時代末期以降では過半が「無智者」になったと云うことでしょうか。
コメント

平安貴族の万葉集の訓みを考える

2017年05月12日 | 初めて万葉集に親しむ
平安貴族の万葉集の訓みを考える

 最初に、ここからは、内容がさらに退屈になります。ただ、先に紹介した万葉集の歌の鑑賞方法を理解した上で、紹介する平安貴族の万葉集の訓みを見れば平安時代後期以降の貴族たちの万葉集の解釈の拠り所を推測することが可能ですし、それを受け継ぐ正統な万葉集の訓じの背景を理解出来ると思います。
 なお、同じ平安貴族の括りになりますが、紀貫之以前の平安貴族の万葉集の解釈は、平安時代最末期以降の貴族たちとは違い、先に紹介しました「万葉集の歌は漢語と万葉仮名と云う漢字で書かれた歌」と云う原則を理解して歌を解釈していたとの確証があります。この確証については弊著「原万葉集 奈弖之故と宇梅之難奈」で説明していますので、興味がありましたら参照を願います。

 ここまでの説明を通して「社会人のための万葉集」の鑑賞方法を提案しました。すると、賢明な社会人である貴女や貴方は「どうして、本来の万葉集の歌の特徴に注目して、今までは万葉集の歌を鑑賞しなかったのか」と、少し、疑問に持たれたと思います。
 実は、先に紹介した万葉集の鑑賞方法は、近年の日本語進化の研究の成果を下にしたもので、従来の万葉集研究の主体である国文学の古典研究者ではなく、これらは主に日本語の言語研究者側から提案されたものがベースとなっています。そのため、従来とは違った新しい(実際には紀貫之まで戻る)鑑賞方法なのです。
 従来の万葉集の鑑賞方法は、平安時代最末期の藤原俊成・定家親子や鎌倉時代の仙覚の訓読みの研究、所謂、万葉集の次点や新点をベースとして、今日に和歌道として伝わった正統な万葉集の訓みがベースとなっています。特に伝わる伝本で二十巻が揃った完本が仙覚系のものが中心であると云うことから、現在の万葉集の読み解きは仙覚系の「西本願寺本万葉集」を底本に昭和時代以降に整備されたものを下に、原歌とその読み解きを添え「校本万葉集」として成立しています。他方、ここで使う万葉集原歌と称しているものは、この「校本万葉集」の一つである『萬葉集』(おうふう)からその脚注を使って原歌を「西本願寺本万葉集底本」に戻した原歌表記だけを使用しています。つまり、「西本願寺本万葉集」の原歌を万葉集としています。
 校本万葉集のものを採用しない理由の一つとして、和歌道を正統とする校本万葉集の読み解きは、やはり、そこに始祖と時代の影響があると考えます。そして、その時代の第一人者である藤原俊成・定家親子は、強烈な和歌に対する美意識で和歌道を作り上げた人でもあり、その和歌に対する美意識が今日まで伝わる万葉集の訓読みに多大な影響を与えています。このような感想があるため本篇では現在に伝わる読み解きを参考にしても、採用はしません。また、原歌比較において、「西本願寺本万葉集」と「校本万葉集」では、その原歌が一致しないものが多く、本編では原歌から鑑賞すると云う特異な方法を採用しているために「校本万葉集」の読み解きの成果を直ちに「西本願寺本万葉集」へと展開することが出来ないことにもよります。
 このような説明をされると、社会人として万葉集を鑑賞する折りに、標準的な万葉集の読解史から村上天皇の「梨壺の五人」の古点を受け継ぐとされる平安時代後期から鎌倉初期の王朝和歌人たちが読み解いた万葉集の訓読みとはどのようなものなのかと、色々と興味が湧くと思います。
 こうした時、現在の万葉集の訓読みに多大な影響を与えた仙覚の新点以前となる鎌倉時代初期の建久四年(一一九三)に行われた歌会でその判者である藤原俊成が点けた勝負の判定とその判定を記録した覚え書きの書、所謂、『六百番歌合』に対して異議を申し立て、反論を陳べた歌論書があります。それが顕昭の記した『六百番陳状』です。この『六百番陳状』で、顕昭は万葉集の歌を多く引用し、藤原俊成の為した歌の判定に対して批判を加えています。そのため、平安時代最末期から鎌倉時代初期の万葉集の訓みを知るのには都合の良いものとなっています。そこで、この六百番陳状に載る万葉集の歌を紹介いたします。万葉集の訓みの分類では顕昭のものは時代区分では次点にグループ分けされますが、その内実では古点に近い位置と想像します。参考として、時代は仙覚の校本作業より前ですから、俊成や顕昭が使った万葉集テキストは『元暦校本万葉集』、または藤原定家系と思われる『広瀬本万葉集』と称されるものを使っていたと考えられます。
 さて、この顕昭は、歌学書を多数残す、平安時代最末期から鎌倉時代初期の歌学者を代表する人物で、藤原定家の御子左家に対抗する六条藤家歌学の大成者とされています。そこから、この六百番陳状に引用する万葉集歌の訓みはその時代を代表するものと考えられます。万葉集歌の紹介では、俊成の六百番歌合と顕昭の六百番陳状とを一続きのものとして、彼らが万葉集歌を引用したものの中で歌一首全体を引用したものを取り上げます。紹介する順は六百番歌合に載る三首から二首を取り出し先に置き、ついで六百番陳状に載る五十一首から二首を後とします。
 六百番歌合や六百番陳状に引用する万葉集の漢字交じり平仮名表記の歌に西本願寺本に従う原歌とそれに対応する試訓を添えます。六百番陳状は建久四年(一一九三)の作であり、「西本願寺本万葉集」は文永三年(一二六六)頃に仙覚が再校合を行ったものの写しとされていますから、資料としては約七〇年の差があります。六百番陳状と西本願寺本万葉集とには七〇年の時代の差はありますが、それでも訓みの比較を見て頂くと判ると思いますが、俊成や顕昭たちの万葉集の理解にはある特徴があります。その特徴の背景を藤原俊成が『六百番歌合』 春上の部 五番歌合の評論の中で次のように述べています。

「万葉集は優なる事を取るべきなりとぞ故人申し侍りし。是彼の集 聞きにくき歌も多かるが故なり。・・・中略・・・又彼集の時までは歌の病をさらず」
 また、戀七の部 七番歌合では、次のように論評しています。
「鯨とるらんこそ万葉集にぞあるやらんと覚え侍れど、・・・中略・・・、凡は歌は優艶ならん事をこそ」

 つまり、歌の評価や作歌では、その歌を詠うときの歌の詞自体や調べの優美さを重要視しています。ここから、現在の万葉集の歌の理解である「万葉集歌とは、漢語と万葉仮名と云う漢字だけで記されたもので、漢字が持つ表語文字の特性を生かした特徴を持つものである」と云う、その万葉集が持つ特殊性を尊重や理解をしていなかったことが推測されます。
 およそ、平安時代最末期から鎌倉時代初期の和歌人は、万葉集歌もまた常の「調べの歌」の範疇として扱っています。そのためか、顕昭の万葉集歌の訓みも、原歌を忠実に訓むより、歌の調べや当時の和歌での雅な語調を優先しているかのように感じられますし、歌番号四二九二の歌の比較にも見られるようにその訓じからは彼らが理解した歌意が万葉集本来のものと同じかは疑問を持たざるを得ません。ただし、顕昭が引用する「戀せじと御手洗河にせしみぞぎ神はうけずもなりにけるかな」の歌(伊勢物語第六五段の歌)を校本万葉集に見つけることができませんでしたから、万葉集の原本が伝わらない状況では訓みを比較するにおいて、その扱う平安末期の万葉集と現在の二十巻本万葉集とが同一かと云う問題はあります。
 なお、六百番歌合では俊成は顕昭の歌を「万葉調」として「歌の優艶」について評論しています。この「万葉調」の意味合いとして、顕昭が作る歌は平安貴族には「やや硬い、恐ろしい」と思われていたことからそのような「やや硬い、恐ろしい」ものと思って下さい。少し、理解しにくい感覚ですが、藤原俊成は「鯨(いさな)捕る」と云う万葉集に良く使われる句が「恐ろしい」言葉の代表の一つとして、その句を使った顕昭の歌を論難しています。
 彼らの時代、藤原定家が紀貫之の『古今和歌集』や『土佐日記』の原歌を添削・改訂したように、どのような立派な古典であってもその作品が文学的に優艶でなければ書写において原歌を添削して改訂することを当然と考えていたと思われます。つまり、万葉集本来の表記を知っていても、彼らが思う優艶と云う基準から、それを原歌の表記通りに訓じたかどうかは判らないのです。なお、学問として万葉集歌の奈良時代当時の正確な訓みは『宋本廣韻』などとの比較以外、確定できないのだから、ここでの比較は意味を為さないとの批判は、当然、有り得ると思います。ただ、比較と傾向と云う概念を下に推定や推論を行うことは可能と考えます。
 紹介する歌の訓みの比較を通じて、万葉集の鑑賞で「万葉集とは、漢語と万葉仮名と云う漢字だけで記されたもので、漢字が持つ表語文字の特性を生かした特徴を持つものである」と云う万葉集が持つ本源的な特徴に向き合うのなら、万葉集もまた調べの歌の範疇として扱う二条流などの流れを汲む現代の万葉学は、歌学史の参照になっても本格的な万葉集本来の漢字表記からの歌の鑑賞には使えないことが推認されます。つまり、万葉集の鑑賞で先達の解説を参照するとき、それが万葉集の歌を新古今調に読み解かれた万葉風の和歌の解説なのか、万葉集本来の和歌の解説なのかの区別を行うことが大切です。多くの万葉集は漢字が持つ表語文字の特性を利用する歌ですから、本格的な鑑賞では漢字だけで記した原歌表記を離れてその訓読みされた漢字交じり平仮名表記の歌だけをもって「調べの歌」として単独で存在することはできません。原歌表記が歌の読解では主体であって、訓読みされた翻訳歌は一般の人の古典作品への理解を補助する参考に過ぎません。

 紹介する藤原俊成と顕昭との万葉集歌の訓みは『六百番歌合』・『六百番陳状』(峯岸義秋校訂、岩波文庫)から転記し、鎌倉時代初期での訓みの比較を行う趣旨から万葉集の原歌は『萬葉集』(おうふう)から脚注を使って復元した西本願寺本万葉集歌を用い、その西本願寺本万葉集歌に対する試みの私訓を使用しています。『六百番歌合』と『六百番陳状』とで万葉集歌の和歌全句を引用するものは藤原俊成が三首、顕昭は五一首、都合五十四首ですが、ここでの目的と紙面の都合上、俊成の読みを二首、顕昭の読みを二首だけを紹介します。残りのものは弊ブログ「竹取翁と万葉集のお勉強」に「万葉雑記 資料編 六百番歌合と万葉集読解」のタイトルで載せていますので、参照をお願いいたします。

六百番歌合より 俊成の読み
歌番号二二六五
原歌 朝霞 鹿火屋之下尓 鳴蝦 聲谷聞者 吾将戀八方
俊成 朝霞かひやが下に鳴く蛙聲だに聞かば家戀ひんやは
私訓 朝霞(あさかすみ)鹿火屋(かひや)し下に鳴くかはづ声だに聞かば吾(われ)戀ひめやも

歌番号三八一八
原歌 朝霞 香火屋之下乃 鳴川津 之努比管有常 将告兒毛欲得
俊成 朝霞かひやが下に鳴く蛙忍びつゝありやと告げん子もがも
私訓 朝霞(あさかすみ)鹿火屋(かひや)し下の鳴くかはづ偲(しの)ひつつありと告げむ子もがも

六百番陳状より 顕昭の読み
歌番号八一五
原歌 武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎利都々 多努之岐乎倍米
顕昭 む月たち春のきたらばかくもこそ梅をかざして楽しきをつめ
私訓 正月(むつき)立ち春の来(き)たらば如(かく)しこそ梅を招(を)りつつ楽しきを経(へ)め


歌番号四一三七
原歌 牟都奇多都 波流能波自米尓 可久之都追 安比之恵美天婆 等枳自家米也母
顕昭 む月たつ春の初にかくしつつあひしゑみてはときじけめやも
私訓 正月(むつき)立つ春の初めにかくしつつ相(あひ)し笑(ゑ)みてば時じけめやも
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万葉集の中の古事記物語

2017年05月11日 | 初めて万葉集に親しむ
万葉集の中の古事記物語

 最初にお断りします。ここで紹介する歌の解釈は一般的な万葉集の理解では非常に特異な解釈と扱われます。そして、紹介する説明はその特異な解釈と評価されるものを明らかにするものですので、一般の社会人の方には退屈なものになっていますし、学生・学業には害悪となります。それをお含み下さい。

 奈良の都への遷都以前の作品を集めた巻一や巻二を中心とする原初万葉集の歌が詠われた時代は、『古事記』が編集された時代と重なります。一方、古事記は天武天皇から持統天皇の時代に国家としてその編集が計画された歴史書です。現代もそうですが、国家として歴史書を編集すると云う事業は、その時代の一大関心事であったと思います。すると、今日でも万博博覧会やオリンピック毎に歌が創られ詠われるように、万葉集の歌の中に古事記に因むような歌がなかったのかと云うと、ちゃんとそれはあります。それも万葉集の巻頭を飾る歌として取り入れられています。それが泊瀬朝倉宮御宇天皇と称される雄略天皇御製歌です。

天皇御製謌
標訓 天皇(すめらみこと)の御(かた)りて製(つく)らしし謌
集歌一
原歌 籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑 名告沙根
虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師告名倍手 吾己曽座 我許者背齒 告目 家呼毛名雄母

試訓 籠(こ)もと 御籠(みこ)持ち 布(ふ)奇(くし)もと 美夫君(みふきみ)し持ち この岳(をか)に 菜(な)採(つ)ます児 家聞かむ 名 告(の)らさね
空見つ 大和の国は 押し靡びて 吾こそ居(を)れ 師告(しつ)為(な)べて 吾こそ座(ま)せ 吾が乞(こ)はせし 告(の)らめ 家をも名をも

試訳 貴女と夜を共にする塗籠(ぬりごめ)と 夜御殿(よんのおとど)を持ち 妻問いの贈物の布を掛けた奇(めずら)しい犬とを 貴女の夫となる私の主(あるじ)は持っています。この丘で 春菜を採むお嬢さん 貴女はどこの家のお嬢さんですか。名前を告げてください。そして、私の主人の求婚を受け入れてください。
仏教が広まるこの大和の国は 豪族を押し靡かせ私がこの国を支配し、軍を指揮して私がこの国を統率している。その大王である私が求めている。さあ、私の結婚の申し込みを受け入れて、告げなさい。貴女の家柄と貴女の本当の立派な名前も。

 最初の段で万葉集の歌は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌と紹介しました。この雄略天皇御製歌は、その基本に従って歌を解釈しなければならない歌です。
 万葉集の歌の表記の特徴と云う基本に立ち、この歌を調べますと、この歌は十七句で構成され、その各句の最初の漢字は「籠」、「美」、「布」、「美」、「此」、「菜」、「家」、「名」、「虚」、「山」、「押」、「吾」、「師」、「吾」、「我」、「告」、「家」です。これらの漢字は漢語か訓仮名に区分される文字で、大和言葉の発声を指示するだけの音仮名に分類される文字はありません。
 ところが、一般に雄略天皇御製歌の三句目の「布久思毛與」は「ふくしもと」と訓じ「掘串もと」と漢字で書く言葉として理解され、それを下にこの歌全体を解釈して、春菜摘みの予祝歌と解説します。しかし、この場合、「布」の文字は音仮名として訓む必要が出てきます。すると、他の句頭の文字に音仮名が使われていないのに、なぜ、この文字だけが音仮名として訓むことが正しいのかと云う問題が出てきます。一方、もしそれが例外なら、なぜこの文字だけが例外なのかと云う問題と、「掘串もと」と訓みたいのならそれに見合う漢語か訓仮名がなかったのかと云うことを考察する必要があります。そうでないのなら「布」の文字を漢語か訓仮名として解釈する必要があります。ここで音仮名とは「あ」を「阿」の文字を使って表すように大和言葉の音を表す漢字に漢語としての意味を持たない仮名文字で、訓仮名とは大和言葉の音を表す漢字に漢字本来の言葉の意味を持たせた仮名文字です。例として織物の布の文字の意味を持たせて「布」を「ふ」と訓む、美しいと云う意味を持たせて「美」を「み・び」と訓むようなものが訓仮名となります。
 この音仮名・訓仮名の言葉の理解を深めるために音仮名の歌を例題として東歌に載る歌から取り上げて説明します。紹介する例題が示すように、多くの東歌の歌は集歌三四四一の歌や集歌三四四三の歌のように使われる文字は音だけを表し、その一字一字は漢字としての意味を持ちません。これが音仮名の歌です。ところが、同じ東歌に載る歌ですが集歌三四四〇の歌に使われる「菜」や「兒」の文字は、正訓字と呼ばれる言葉の音を示す字音と漢字の意味を同時に持つ訓仮名です。これは主に音仮名で歌を表記する東歌の歌では特殊な用法とされています。そして、類推で「菜」や「兒」の文字の位置に注目すると「毛」と云う文字も音を表す音仮名の用法だけでなく、陰毛を暗示させる働きがあると推測されます。このように作歌者は音仮名と訓仮名を使い分け、文字が持つ力を引き出すような表記方法を駆使することで歌に奥行きを持たせていると推定されます。同じように万葉集で一番の猥歌とも称される集歌三五三〇の歌の「鹿」、「草」、「兒」、「門」の文字が正訓字で、文字に漢字本来の意味を持つ正訓字を特別に選択して使ったと云うことを踏まえて、この歌を解釈することになっています。その結果が、万葉集で一二を争う猥歌と云う評判です。

集歌三四四一
原歌 麻等保久能 久毛為尓見由流 伊毛我敝尓 伊都可伊多良武 安由賣安我古麻
訓読 ま遠くの雲居に見ゆる妹が家(へ)にいつか至らむ歩め吾(あ)が駒
私訳 はるか遠くの雲が懸かって見える愛しい貴女の家に、そのうちに着くだろう。歩め、わが駒よ。

集歌三四四三
原歌 宇良毛奈久 和我由久美知尓 安乎夜宜乃 波里弖多弖礼波 物能毛比弖都母
訓読 うらもなく吾(わ)が行く道に青柳(あをやぎ)の張りて立てれば物思ひ出つも
私訳 無心に私が歩いて行く、その道に青柳が枝を張り立っていると、ふと、物思いをする。

集歌三四四〇
原歌 許乃河泊尓 安佐菜安良布兒 奈礼毛安礼毛 余知乎曽母弖流 伊弖兒多婆里尓
訓読 この川に朝菜(あさな)洗ふ子(こ)汝(なれ)も吾(あれ)も同輩児(よち)をぞ持てるいで子(こ)給(たは)りに
私訳 この川にしゃがみ朝菜を洗う娘さん。お前もおれも、それぞれの分身を持っているよね。さあ、お前の(股からのぞかせている)その分身を私に使わせてくれ。

集歌三五三〇
原歌 左乎思鹿能 布須也久草無良 見要受等母 兒呂我可奈門欲 由可久之要思母
訓読 さを鹿の伏すや草群(くさむら)見えずとも子ろが金門(かなと)よ行かくし良(え)しも
私訳 立派な角を持つ牡鹿が伏すだろう、その草むらが見えないように、姿は見えなくても、あの娘のりっぱな門を通るのは、それだけでも気持ちが良い。
注意 歌意において「さお鹿」は男性器、「金門」は女性器、「草群」は女性の陰毛を意味する隠語として扱います。その時、歌は若い娘の草群が見えない位置、つまり、立たせたままで後ろから抱いた時の話となります。

 雄略天皇御製歌に戻ります。以上の説明に従い、他の句頭の文字と同じように「布」の文字を訓仮名として解釈してみます。そして、雄略天皇に関係して「布」と「くし」との言葉で歴史を探ると、参考資料として示す古事記の雄略天皇と若日下部王との妻問い物語に辿り着きます。古事記に載る物語では、天皇は白い犬に布を掛け、鈴を付けたものを「奇しきもの」と述べています。万葉集の歌は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌と云う原則を下に、万葉仮名には音仮名と訓仮名の区分があることを認識すると、この雄略天皇御製歌とは古事記の物語を題材に創られた歌物語と云うことが導き出されます。このように万葉集の歌の特徴をきちんと踏まえると、社会人らしい万葉集の歌の中にある種の言葉のゲームを楽しむことが出来ます。
 なお、原歌の「布久思毛與」を「掘串もと」と訓じる校本万葉集では歌を春の菜摘みの予祝歌として歌意を取るため、それに合わせるように西本願寺本万葉集の原歌に対して歌句を校訂して鑑賞します。この校訂が必要と云う昭和初期に成った新しい研究成果により本歌は原歌のままでは訓じることが出来ない歌と区分されます。一方、示しましたように西本願寺本万葉集の原歌はそのままで古事記を題材にした歌として訓じを持ちます。ここに本編が特異・独特な鑑賞を行っていると云う問題点が現われます。
 本段では万葉集の歌は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌と云う視線で万葉集歌を鑑賞する時に、その万葉仮名と云う漢字には音仮名と訓仮名との二つ区分があることを紹介しました。そして、万葉集歌を鑑賞する時に、万葉仮名が使われるその文字を音仮名と訓仮名とを区分することが歌の解釈において時には重要な問題を提起する可能性を紹介しました。
 参考に、この「初めて万葉集に親しむ」では詳しくは紹介をしませんが、万葉仮名には「ゐ」、「ゑ」、「を」の祖となる上代仮名遣いと云う発音での区分があります。これも歌の解釈では重要な問題を提起しますが、甲・乙音の上代仮名遣い表に従って使われる万葉仮名の漢字を当て嵌めればよいので、音仮名と訓仮名との区分よりは取り付きやすいと思います。なお、音仮名と訓仮名との使い分けには作歌者の明確な選字の意図がありますが、上代仮名遣いでの万葉仮名の選字は倭地域に住む人の発音がベースです。そのため作歌者の意図した選字関与は薄いと考えます。ただ、日本各地との人の交流が進んだ奈良時代後期には倭方言と思われるこの上代仮名遣いは次第に姿を消します。
 
 ここで古事記の話題に戻りますと、雄略天皇御製歌と同じように万葉集の中に人麻呂歌集から採歌したものなどに古事記を題材にした歌を見つけることできます。もし、興味がお有りでしたら、万葉集と古事記、特に雄略天皇紀や仁徳天皇紀を中心に比べてみて下さい。また、万葉集の挽歌では古事記に載る倭建命の故事を引用する場合があります。なぜ、柿本人麻呂が詠う近江海で千鳥が鳴くと昔を偲ぶのかを、倭建命の故事と天智天皇の倭皇后が詠う歌から考えてみるのも、万葉集の歌の中での言葉のゲームとして良い題材ではないでしょうか。
 こうした時、『古事記』に「和加久佐能 都麻能美許登(わかくさの つまのみこと)」と云う歌の句があり、「みこと」と云う言葉において「尊」または「命」の尊称を持つから男であり、女ではないとします。ここから、伝統ではこの句を「若草の夫(つま)の命(みこと)」と訳しますが、一方では万葉集の慣用句である「吾妹」と同じ意味合いで「若草の妻の命」と読み「若草のような若々しい貴方の妻である私の、その貴方」と解釈し、沼河日賣が妻問ひの場面で、夫に歌を詠いかけるときに自分が貴方の妻であると云うことを強調していると解釈することも可能です。また、万葉集に載る集歌四四三の歌の句「帶乳根乃 母命者」、集歌一七七四の歌の句「垂乳根乃 母之命乃」などと云う言葉の存在は、伝統の解説では存在しないかのように扱います。従いまして昭和以降の伝統ではありますが、古語で「つま」と云う言葉が「夫」も示すと決めつけるのはどうでしょうか。このように語源解説をたどると古語では「夫」も「つま」と読むと云う説の根拠が怪しくなります。時に、歌を解釈していて伝統的な言葉の定義がしっくりこない時、その語源まで探ることが出来るのは社会人の特権です。その調査・考察の結果が従来の学説と違っていても市井の人では問題ありません。そこが学会・権威の意向に従わないと身分が保障されない大学研究者との違いです。
 参考として、次に紹介するものは本編独自の解釈によるものです。集歌一五三の歌は古事記に載る倭建命の故事 美濃で亡くなった皇子の魂が白千鳥となって倭へと飛び去ったと云うものを踏まえ、さらに、亡くなられた天智天皇を悼む倭皇后が詠うその集歌一五三の歌を踏まえた上で柿本人麻呂の集歌二六六の歌が詠われたと解釈しています。ここには二段階の背景があります。そのため、みなさんが普段に目にする現代語訳や解説とは違っています。挽歌で飛び立つ鳥が倭建命の故事から八尋白智鳥としますと、倭皇后の詠う「嬬之念鳥立」と云うものと柿本人麻呂の「夕浪千鳥」の情景とが符号して来ます。古事記を踏まえますと、この二首の関係は非常に判り易いものと考えます。

集歌一五三 倭皇后
原歌 鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来舡 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立
訓読 鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海(うみ)を 沖(おき)放(さ)けて 漕ぎ来る船 辺(へ)附きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂(かひ) いたくな撥ねそ 辺(へ)つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 嬬(つま)の 念(おも)ふ鳥立つ
私訳 大きな魚を取る淡海の海を、沖遠くを漕ぎ来る船、岸近くを漕ぎ来る船、沖の船の櫂よそんなに水を撥ねるな、岸の船の櫂よそんなに水を撥ねるな、若草のような妻が思い出を寄せる八尋白智鳥が飛び立つ

集歌二六六 柿本人麻呂
原歌 淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思奴尓 古所念
訓読 淡海(あふみ)の海夕浪(ゆふなみ)千鳥(ちどり)汝(な)が鳴けば情(こころ)もしのに古(いにしへ)念(おも)ほゆ
私訳 淡海の海の夕波に翔ける千鳥よ。お前が鳴くと気持ちは深く、この地で亡くなられた天智天皇がお治めになった昔の日々を思い出す。

参考資料 古事記 雄略天皇紀より 抜粋読み下し
初め大后(おほきさき)の日下(くさか)に坐(いま)します時に、日下の直(ただ)越(こ)への道より河内に幸行(いでま)しき。爾(ここ)に山の上(うへ)に登りて國の内を望めば、堅魚(かつを)を上げて舎屋(や)を作れる家有り。天皇(すめらみこと)の其の家を問わさしめて云はく「其の堅魚(かつを)を上げて作れる舎(や)は誰が家(いへ)ぞ」といへり。答えて白(もう)さく「志幾(しき)の大縣主(おほあがたぬし)の家そ」といへり。爾に天皇の詔(の)らさくに「奴(やつこ)や、己(おの)が家の天皇の御舎(みあから)に似せて造れり」といへり。即ち人を遣りて、其の家を燒かしめむ時に、其の大縣主の懼(お)じ畏(かしこ)みて稽首(ぬかつ)きて白さく「奴(やつこ)に有れば、奴(やつこ)隨(なが)ら覺(さと)らずて過ち作れるは甚(いと)畏(かし)こし。故(かれ)、能美(のみ)の御幣物(みまいもの)を獻(たてまつ)らん(能美の二字は音を以ちてす)」といへり。布を白き犬に懸け、鈴を著(つ)けて、己が族(うがら)、名は腰佩(こしはき)と謂う人に犬の繩を取らしめて以ちて獻上(たてまつ)りき。故、其の火を著くるを止めしむ。
即ち其の若(わか)日下部(くさかべ)の王(おほきみ)の許に幸行(いでま)して、其の犬を賜い入れ詔(の)らさくに「是の物は、今日、道に得たる奇(くし)しき物ぞ。故、都麻杼比(つまとひ)(此の四字音を以ちてす)の物ぞ」と云いて賜い入れき。ここに若日下部の王、天皇に奏(もう)さしめしく「日に背きて幸行(いでま)す事、甚(いと)恐(かしこ)し。故、己(おのれ)、直(ただ)に參い上りて仕え奉(まつ)らん」といへり。是を以ちて宮に坐(ま)す時に、其の山の坂の上(ほとり)に行き立ちて歌いて曰く、
日下部の 此方(こち)の山と 畳薦(たたみこも)平群(へぐり)の山の 此方(こち)此方(ごち)の 山の峡(かひ)に立ち栄ゆる 葉広(はひろ)熊(くま)白檮(かし) 本(もと)には い茂(く)み竹(たけ)生(お)ひ 末辺(すえへ)には た繁(し)み竹生ひ い茂(く)み竹 い隠(く)みは寝ず た繁(し)竹 確(たし)には率(い)寝(ね)ず 後も隠(く)み寝む 其の思ひ妻 あはれ
即ち、此の歌を持たしめて使を返しき。
コメント

万葉集の歌物語を楽しむ

2017年05月10日 | 初めて万葉集に親しむ
万葉集の歌物語を楽しむ

 万葉集中で歌物語性を持つものの多くは、前置漢文の序と称される、漢文の序文を持ちます。漢字だけで記述された万葉集の歌自体を鑑賞するのも大変ですが、漢文の文章を理解するのはもっと大変だと思います。そこで、漢文の現代語訳については中西進氏の『万葉集 全訳注原歌付』(講談社文庫)などの現代語訳を参照してください。ただし、漢文の序文を解釈するのは大変だからとして、昭和期以前のようにそれは無かったものと見なして和歌だけを鑑賞することだけはしないで下さい。当然ですが、前置漢文の序を持つ和歌は、それらの漢文や和歌が一体となって初めて作品としての意味を持つからです。特に歌物語性を持つものは、漢文の序文に歌物語の舞台設定などの解説が述べられている場合がありますので、注意して漢文の現代語訳を楽しんで下さい。

 先に紹介しましたように、『万葉集釋注』(集英社文庫)を書かれた伊藤博氏は、その発刊に際して「釋注一」で「万葉集の従来の注釈書は、語釈を中心に一首ごとに注解を加えるのを習いとしている。しかし、万葉歌には、前後の歌とともに味わうことによって、はじめて真価を発揮する場合が少なくない。」と述べられています。この指摘から、先段ではある種の相聞歌を数首の歌群として楽しむことを提案しました。ここでは先段で少し紹介しましたが、社会人が万葉集の歌を親しむ時にさらなる知的な楽しみとして万葉集の歌を歌物語のように楽しむことへの可能性を紹介いたします。
 旧来、万葉集の鑑賞では伊藤博氏が指摘するように万葉集の歌もまた一首ごと単独に鑑賞することを基本としているため、歌群と云う概念で万葉集の歌を鑑賞することは例外です。ところが、先に紹介しましたよう相聞歌などでは歌垣歌のような感覚で歌群として万葉集の歌々を鑑賞できる可能性を示しました。この歌垣歌のような歌群は男女の相聞歌や相聞二首の問答として万葉集に載せられていますが、この姿を少し進めますと、一人の作歌者による相聞歌に似せた歌々を一つの歌群として次々に展開していくと、それはある種の歌物語になるのではないでしょうか。
 そうした時、万葉集の中で一番判りやすい歌物語的な歌群は大伴旅人が詠う「遊松浦河」の歌です。この歌群は最初に前置漢文の序文で物語の全景を紹介し、その全景に沿う形で物語を数首の和歌で詠います。この遊松浦河の歌は漢文で示す世界と和歌歌群が示す世界が相対していますので、最初に漢文和訳を参照していただければ、この歌物語の進行が掴み易いと思います。ただ、この遊松浦河の歌は山上憶良が大唐から持ち帰った『遊仙窟』から刺激を受け、それを参考に大和文化を下にして歌物語を試作した雰囲気があります。ある種、試行錯誤の段階です。
 遊仙窟は中国での遊郭文化を背景に下官と称する男と十娘と云う若き未亡人との一夜の出来事を題材に物語を展開します。一方、遊松浦河の歌では下官と称する男と松浦河の辺に住む乙女との一時の出会いを題材に和歌を展開します。物語の大きな違いとして、当時の日本には本格的な遊郭と云う施設や遊郭遊びの文化が無かったため、男と女の出会いの場を歌舞音曲の下に食事を取り、そして夜を共にする寝室を持つ堂舍(遊郭)ではなく、野での出会いとしています。そのため、物語の展開が屋内か、屋外かの違いに表れて来ます。
 なお、従来からの訓読み万葉集の歌を一首ごとに鑑賞することを基本とする立場では、この遊松浦河の歌は山上憶良や大伴旅人など複数の人々が寄せた歌の集まりとし、それぞれの歌を個々に鑑賞します。さらに訓読み万葉集を研究するにおいて、おのおのの研究者の立場により、歌の発起者(=歌の取り纏めをした人)を山上憶良とする説や大伴旅人とする説など複数の説が唱えられています。それらの説の中でも主流は集歌八六一の歌の標題の「後人追和之謌三首 帥老」の文章を「後に唱和した歌を大伴旅人が寄せた」と解釈して、この歌群の発起を山上憶良とする説が有力です。このような訓読み万葉集を研究する立場では前置漢文の序文と和歌歌群とを別々なものとして扱うのが伝統的な鑑賞方法ですし、序文と和歌とを切り離すことで歌の発起者を山上憶良等とする説の拠り所が成り立ちます。当然、漢文や和歌を一体として鑑賞すると、この作品は遊仙窟から刺激を受けて成った大伴旅人の作品であることは動かしようのないものとなります。

遊松浦河序
序訓 松浦(まつら)河(かは)に遊(あそ)ぶの序
漢文 余以暫徃松浦之縣逍遥 聊臨玉嶋之潭遊覧 忽値釣魚女子等也 花容無雙 光儀無匹 開柳葉於眉中發桃花於頬上 意氣凌雲 風流絶世 僕問曰 誰郷誰家兒等 若疑神仙者乎 娘等皆咲答曰 兒等者漁夫之舎兒 草菴之微者 無郷無家 何足稱云 唯性便水 復心樂山 或臨洛浦而徒羨王魚 乍臥巫峡以空望烟霞 今以邂逅相遇貴客 不勝感應輙陳歎曲 而今而後豈可非偕老哉 下官對曰 唯々 敬奉芳命 于時日落山西 驪馬将去 遂申懐抱 因贈朗詠曰

訓読 余(われ)暫(たまたま)松浦の縣(あがた)に徃きて逍遥し、聊(いささ)かに玉嶋の潭(ふち)に臨みて遊覧せしに、忽ちに魚を釣る女子(をとめ)らに値(あ)ひき。花のごとき容(かほ)雙(ならぶ)は無く、光(て)れる儀(すがた)匹(たぐひ)は無し。柳の葉を眉の中に開き、桃の花を頬の上に發(ひら)く。意氣雲を凌ぎ、風流世に絶(すぐ)れたり。僕問ひて曰はく「誰が郷、誰が家の兒らそ。若疑(けだし)神仙ならむか」といふ。娘ら皆咲みて答へて曰はく「兒らは漁夫の舎の兒、草菴の微(いや)しき者にして、郷(さと)も無く家も無し。何そ稱(な)を云ふに足らむ。唯(ただ)性(さが)水を便(つて)とし、復、心に山を樂しぶのみなり。或るは洛浦に臨みて、徒らに王魚(さかな)を羨み、 乍(ある)は巫峡(ふかふ)に臥して空しく烟霞(えんか)を望む。今(いま)邂逅(たまさか)に貴客(うまひと)に相遇(あ)ひ、感應に勝(あ)へずして、輙(すなわ)ち歎曲(くわんきょく)を陳(の)ぶ。而(また)今(いま)而後(よりのち)、豈偕老(かいろう)にあらざすべけむ」といふ。下官對へて曰はく「唯々(をを)、敬みて芳命を奉(うけたまは)る」と。時に日山の西に落ち、驪馬(りば)去(い)なむとす。遂に懐抱(くわいほう)を申(の)べ、因りて朗詠を贈りて曰はく、

私訳 私は、たまたま、松浦の地方に行きそぞろ歩きをし、少しばかり玉島の淵に立って遊覧した時に、ちょうど魚を釣る少女たちに出会った。少女の花のような容貌は他と比べるものがなく、輝くような容姿も匹敵する者はいない。柳の葉を眉の中に見せ、桃の花を頬の上に披く。気分は雲を遥かに超え、風流は世に比べるものがない。僕は少女に問うて云うには「どこの里の、どこの家の少女ですか。もしかしたら神仙ですか」といった。少女たちは皆微笑んで答えて云うには「私たちは漁師の家の子供で、草生す家の身分低き者で、名の有る里もありませんし、屋敷もありません。どうして、自分の名を告げることが出来ましょう。ただ、生まれながらにして水に親しみ、また、気持ちは山を楽しむだけです。時には、洛浦のほとりに立って、ただ、美しい魚を羨み、またある時には、巫峡に伏して空しく烟霞を眺める。今、たまたま、立派な人に出会って感動にたえず、そこで、ねんごろに気持ちを伝えました。今後は、どうして、偕老の契(=夫婦になること)を結ばずにいられるでしょうか」と云った。私は「ああ、つつしんで貴女の想いを承りましょう」といった。時に、日は西の山に落ち、私と私を乗せる馬は帰らなければならない。そこで、心の内の想いを述べ、その想いに従って歌を詠い贈って云うには、

集歌八五三
原歌 阿佐里流須 阿末能古等母等 比得波伊倍騰 美流尓之良延奴 有麻必等能古等
訓読 漁(あさり)るす海人(あま)の子どもと人は云へど見るに知らえぬ貴人(うまひと)の子と
私訳 「漁をする漁師の子供」と貴女は私に告げるけれど、貴女に逢うと判ります。身分ある人の子であると。

答詩曰
標訓 答へたる詩に曰はく
集歌八五四
原歌 多麻之末能 許能可波加美尓 伊返波阿礼騰 吉美乎夜佐之美 阿良波佐受阿利吉
訓読 玉島(たましま)のこの川上(かはかみ)に家(いへ)はあれど君を恥(やさ)しみ顕(あらは)さずありき
私訳 玉島のこの川の上流に私の家はありますが、高貴な貴方に対して私の身分を恥じて、それを申し上げませんでした。

蓬客等更贈謌三首
標訓 蓬客(ほうかく)等(たち)の更(また)贈れる謌三首
集歌八五五
原歌 麻都良河波 可波能世比可利 阿由都流等 多々勢流伊毛河 毛能須蘇奴例奴
訓読 松浦川(まつらかは)川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ
私訳 松浦川、その川の瀬で光る鮎を釣ろうとして、瀬にお立ちの愛しい貴女の裳の裾が濡れるでしょう。

集歌八五六
原歌 麻都良奈流 多麻之麻河波尓 阿由都流等 多々世流古良何 伊弊遅斯良受毛
訓読 松浦(まつら)なる玉島川(たましまかは)に鮎釣ると立たせる子らが家道(いへぢ)知らずも
私訳 松浦にある玉島川で鮎を釣ると川瀬にお立ちになっている貴女の、その家への道を私は知りません。
注意 女性が男性に家や名前を教えることは、その男性との共寝を受け入れたことを意味します。

集歌八五七
原歌 等富都比等 末都良能加波尓 和可由都流 伊毛我多毛等乎 和礼許曽末加米
訓読 遠人(とほつひと)松浦(まつら)の川に若鮎釣る妹が手本(たもと)を吾(わ)れこそ巻(ま)かめ
私訳 遠くからの人を待つ、その言葉のひびきのような松浦の川に若鮎を釣る愛しい貴女の腕を、私は絡み巻いて貴女をどうしても抱き締めたい。

娘等更報謌三首
標訓 娘等の更(また)報(こた)へたる謌三首
集歌八五八
原歌 和可由都流 麻都良能可波能 可波奈美能 奈美邇之母波婆 和礼故飛米夜母
訓読 若鮎(わかゆ)釣る松浦(まつら)の川の川浪(かはなみ)の並(なみ)にし思(も)はば吾(わ)れ恋ひめやも
私訳 若鮎を釣る松浦川の川浪の、その言葉のひびきのように、並の出来事と思うのでしたら、私はこれほど貴方を恋い慕うでしょうか。

集歌八五九
原歌 波流佐礼婆 和伎覇能佐刀能 加波度尓波 阿由故佐婆斯留 吉美麻知我弖尓
訓読 春されば吾家(わがへ)の里の川門(かはと)には鮎子(あゆこ)さ走る君待ちがてに
私訳 春がやって来れば私の家のある里の川の狭まった場所には子鮎が走り回る。まるで貴方を待ちわびる私の心のように。

集歌八六〇
原歌 麻都良我波 奈々勢能與騰波 与等武等毛 和礼波与騰麻受 吉美遠志麻多武
訓読 松浦川(まつらかは)七瀬の淀は淀むとも吾(わ)れは淀(よど)まず君をし待たむ
私訳 松浦川の多くの瀬の淀の、その水が淀むとしても、私は心を淀ます(=逡巡する)ことなく貴方の訪れだけ(=貴方に抱かれること)を待っています。

後人追和之謌三首  帥老
標訓 後の人の追ひて和(こた)へたる謌三首  帥(そち)の老(をひ)
集歌八六一
原歌 麻都良河波 河波能世波夜美 久礼奈為能 母能須蘇奴例弖 阿由可都流良哉
訓読 松浦川(まつらかは)川の瀬早み紅(くれなゐ)の裳の裾濡れて鮎か釣るらむや
私訳 松浦川の川の瀬の流れが早く、その瀬に立つ乙女の紅の裳の裾は、あの時と同じように濡れて鮎を釣るのでしょうか。

集歌八六二
原歌 比等未奈能 美良武麻都良能 多麻志末乎 美受弖夜和礼波 故飛都々遠良武
訓読 人(ひと)皆(みな)の見らむ松浦(まつら)の玉島(たましま)を見ずてや吾(わ)れは恋ひつつ居(を)らむ
私訳 人が皆眺めているはずの、その松浦にある玉島を眺めることなく、私は大宰府でただ、貴女を思い焦がれています。

集歌八六三
原歌 麻都良河波 多麻斯麻能有良尓 和可由都流 伊毛良遠美良牟 比等能等母斯佐
訓読 松浦川(まつらかは)玉島(たましま)の浦に若鮎(わかゆ)釣る妹らを見らむ人の羨(とも)しさ
私訳 松浦川の玉島の浦で、今も若鮎を釣る愛しい貴女を見つめている(=抱いている)でしょう、その人がうらやましい。

 この歌群の展開は『遊仙窟』から刺激を受けて成ったために複雑です。集歌八五三の歌から集歌八六〇の歌までは創作された伝説の戀物語を和歌として展開しています。そして、集歌八六一の歌から集歌八六三の歌は、その伝説の物語を聞いた「帥老」が物語への感想を述べる形としています。つまり、歌には架空の遠い昔と作歌者の今がある訳です。このように複雑な構造をしていますから、歌を群として鑑賞する世代でなければ理解できない歌群となります。まず、紫式部や藤原道長の時代までは理解出来ても、鎌倉時代以降の人々には難しい世界ではないでしょうか。その影響が和歌道を通じて昭和時代まで続いたと考えます。
 この作品は日本の物語の創成期に位置するものですから、それほどには複雑な物語での展開はありません。従いまして、ここまでの紹介を受け、前置漢文からもう一度読み直していただければ、本編で云わんとするところが容易に理解していただけると思います。
 
 もう少し。
 先段で紹介した「久米禅師、娉石川郎女時謌五首」もある種の歌物語の世界ですが、万葉集にはさらに男女の相聞歌群の形態を取りながら実態は諧謔の歌物語と考えられる歌群があります。それが、次の石川女郎と大伴田主との相聞歌です。一見、男女の相聞問答歌のように思えますが、集歌一二六の歌から集歌一二九の歌までを連続した相聞歌群として鑑賞すると、大伴宿奈麻呂が宮中のサロンで披露した男女の恋愛をテーマにした歌物語であることが判ります。それを集歌一二七の歌に付けられた前置漢文の序文が、これらの相聞歌群が男性歌人の手によるものであることを雄弁に語っています。およそ、万葉集に載る歌物語的な作品では、大伴旅人が詠う遊松浦河の歌と同じく相聞歌群に対して前置漢文の序文を示すことで、設定する歌物語の世界をその歌を鑑賞する人達に示しています。
 ただし、この相聞歌の序文は、遊松浦河の序文とは違い、物語の場を設定するだけで、物語の進行は和歌から楽しむことになります。その物語の進行から最後には男女がどのような関係になったのかを、想像して下さい。そこが社会人として万葉集歌の中に歌物語を鑑賞する時の楽しみでもあります。

石川女郎贈大伴宿祢田主謌一首 即佐保大納言大伴卿第二子 母曰巨勢朝臣也
標訓 石川女郎の大伴宿祢田主に贈れる歌一首
補筆 即ち佐保大納言大伴卿の第二子、母を巨勢朝臣といふ
集歌一二六
原歌 遊士跡 吾者聞流乎 屋戸不借 吾乎還利 於曽能風流士
訓読 遊士(みやびを)と吾は聞けるを屋戸(やと)貸さず吾を還せりおその風流士(みやびを)
私訳 風流なお方と私は聞いていましたが、夜遅く忍んで訪ねていった私に、一夜、貴方と泊まる寝屋をも貸すこともしないで、そのまま何もしないで私をお返しになるとは。女の気持ちも知らない鈍感な風流人ですね。

漢文 大伴田主字曰仲郎、容姿佳艶風流秀絶。見人聞者靡不歎息也。時有石川女郎、自成雙栖之感、恒悲獨守之難、意欲寄書未逢良信。爰作方便而似賎嫗己提堝子而到寝側、哽音蹄足叩戸諮曰、東隣貧女、将取火来矣。於是仲郎暗裏非識冒隠之形。慮外不堪拘接之計。任念取火、就跡歸去也。明後、女郎既恥自媒之可愧、復恨心契之弗果。因作斯謌以贈諺戯焉。

注訓 大伴田主は字(あざな)を仲郎(なかちこ)といへり。容姿佳艶にして風流秀(こと)に絶(すぐ)れたり。見る人聞く者の歎息せざるはなし。時に石川女郎といへるもの有り。自(おのづか)ら雙栖(そうせい)の感を成して、恒(つね)に獨守の難きを悲しび、意に書を寄せむと欲(おも)ひて未だ良信(よきたより)に逢はざりき。ここに方便を作(な)して賎しき嫗に似せて己(おの)れ堝子(なへ)を提げて寝(ねや)の側(かたへ)に到りて、哽音(こうおん)蹄足(ていそく)して戸を叩き諮(たはか)りて曰はく「東の隣の貧しく女(をみな)、将に火を取らむと来れり」といへり。ここに仲郎暗き裏(うち)に冒隠(ものかくせる)の形(かたち)を識らず。慮(おもひ)の外に拘接(まじはり)の計りごとに堪(あ)へず。念(おも)ひのまにまに火を取り、路に就きて歸り去(い)なしめき。明けて後、女郎(をみな)すでに自媒(じばい)の愧(は)づべきを恥ぢ、また心の契(ちぎり)の果さざるを恨みき。因りてこの謌を作りて諺戯(たはふれ)を贈りぬ。

私訳 大伴田主は呼び名を仲郎といった。容姿は美しく艶やかで風流は特別秀でていた。彼を見る人、噂を聞く人で、感嘆しない人はいない。ある時に石川女郎と云う女性がいた。自分から田主と同棲したい気持ちを起こし、常に一人身で居ることの辛さを悲しみ、気持ちを文に託そうとしても未だに良い機会がなかった。ここで、方便として賤しい嫗に風体を似せて自ら鍋を提げ、田主の寝屋の側に出かけて行って、皺柄声とたどたどしい足音をさせ戸を叩いて偽って云うには「東の隣の貧しい女です、火を貰いに来ました」といった。ここに仲郎は暗闇の中に隠した女の姿に気が付かない。思いも寄らない、その女が田主との男女の交わりを願うことに気付かなかった。云われるままに火を取り、同じ道を帰らせた。夜が明けた後で、女郎は、すでに自分から男に抱かれようとした想いを恥じ、また、願った男女の契の想いを果たせなかったことを恨んだ。そこで、この歌を作って、戯れて田主に贈った。

大伴宿祢田主報贈一首
標訓 大伴宿祢田主の報(こた)へ贈れる一首
集歌一二七
原歌 遊士尓 吾者有家里 屋戸不借 令還吾曽 風流士者有
訓読 遊士(みやびを)に吾はありけり屋戸(やと)貸さず還しし吾(われ)ぞ風流士(みやびを)にはある
私訳 風流人ですよ、私は。神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との話にあるように、女から男の許を尋ねるのは悪(あし)ことですよ。だから、女の身で訪ねてきた貴女に一夜の寝屋をも貸さず、貴女に何もしないでそのまま還した私は風流人なのですよ。だから、今、貴女とこうしているではないですか。
注意 原歌の「遊士」の「遊」には、あちらこちらを訪ね歩くと云う意味合いもありますし、楽しむと云う意味もあります。そうした時、大伴田主がどこでこの歌を詠ったのかという問題が起きます。さて、田主の自宅でしょうか、それとも石川女郎の耳元でしょうか。

同石川女郎更贈大伴田主中郎謌一首
標訓 同じ石川女郎の更に大伴田主中郎に贈れる歌一首
集歌一二八
原歌 吾聞之 耳尓好似 葦若未乃 足痛吾勢 勤多扶倍思
訓読 吾(わ)が聞きし耳に好(よ)く似る葦(あし)若未(うれ)の足(あし)痛(う)む吾が背(せ)勤(つと)め給(た)ふべし
私訳 私が聞くと発音がよく似た葦(あし)の末(うれ)と足(あし)を痛(う)れう、その足を痛める私の愛しい人よ。神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との話にあるように、女から男の許を娉うのは悪(あし)ことであるならば、今こうしているように、風流人の貴方は私の許へもっと頻繁に訪ねて来て、貴方のあの逞しい葦の芽によく似たもので私を何度も何度も愛してください。
右、依中郎足疾、贈此謌問訊也
注訓 右は、中郎の足の疾(やまひ)に依りて、此の歌を贈りて問訊(とぶら)へり。
注意 原歌の「勤多扶倍思」の漢字の選字が、妻問ひをテーマとするような男女の関係では意味深長であることを感じて下さい。ここでは、集歌一二七の歌が石川女郎の耳元で詠われたとの想定でこの歌を訳しています。ちなみに「扶」と云う用字において『説文解字』では「扶、佐也」と解説します。つまり、寝台の中で女への補助です。

大伴皇子宮侍石川女郎贈大伴宿祢宿奈麻呂謌一首
女郎字曰山田郎女也。
宿奈麻呂宿祢者、大納言兼大将軍卿之第三子也
標訓 大伴皇子の宮の侍(まかたち)石川(いしかわ)女郎(いらつめ)の大伴宿祢宿奈麻呂に贈れる歌一首
追訓 女郎は字(あざな)を山田の郎女(いらつめ)といへり。
補筆 宿奈麻呂宿祢は大納言兼大将軍卿の第三子なり。
集歌一二九
原歌 古之 嫗尓為而也 如此許 戀尓将沈 如手童兒
訓読 古(ふ)りにし嫗(おふな)にしてや如(か)くばかり恋に沈まむ手(た)童(わらは)の如(ごと)
私訳 私はもう年老いた婆ですが、この石川女郎と大伴田主との恋の物語のように昔の恋の思い出に心を沈みこませています。まるで、一途な子供みたいに。
一云、戀乎太尓 忍金手武 多和良波乃如
一(ある)は云はく、
訓読 恋をだに忍びかねてむ手(た)童(わらは)の如
私訳 恋の思い出に耐えるのが辛い。まるで、感情をコントロール出来ない子供のように。

 この集歌一二六の歌から集歌一二八の歌までの石川女郎と大伴田主との相聞歌群は、集歌一二九の歌の標題に示すように大伴宿奈麻呂が宮中のサロンで披露した当時の人々が思う男女の間での「風流」と云うものをテーマにした戯れの歌物語です。ただ、物語を披露したちょうどその時に、近江朝の時代 大友皇子の宮殿では「石川女郎」と呼ばれ、今は身分が卿格となり「山田石川郎女」と呼ばれる女性がその藤原宮の宮中のサロンに居て、まるで自分の身の過去の出来事のように物語が詠われたため、座の雰囲気を保つために歌物語の感想を述べたのが集歌一二九の歌と思って下さい。そのため、歌物語との関連を持たすために今は存在しない二十年ほど前の「大伴皇子宮侍石川女郎」と云う身分と肩書をわざわざ使って、感想の歌を大伴宿奈麻呂に贈ったと云う体を取ります。なお、後年に加えられた「追訓」と「補筆」の漢文を保留して鑑賞する必要があります。
 さて、この歌の序文で設定している場面は貴族の生活ではありません。鄙の庶民の生活を想定しています。本来は貴族階級に属し多くの召使いを使うはずの石川女郎や大伴田主が、召使いも置かず共に独居で隣り合う一軒家にそれぞれが生活していると云う設定です。ただし、鄙の庶民の生活の設定ですが、木戸を持ち複数の部屋を持つ立派な家にそれぞれが独りで暮らしていると云う矛盾した情景があります。つまり、虚構なのです。虚構であるが故に独居しているような女も男も漢語と漢字で和歌を詠えますし、その和歌を女の手から男の許へと届ける召使の存在も現れて来るのです。漢文章が示すこの特別な舞台の設定を理解しないと、これらの相聞歌群が創作の歌物語の世界であると云うことに疎くなります。
 また、集歌一二八の歌に作為と諧謔があるとすると、歌の主人公の「田主」が人名でなければ古語では「案山子」を意味しますし、四句目の「足痛吾勢」とは「片足立ちの貴方(=案山子)」を比喩する可能性があります。大伴一族宗家の二男坊である大伴宿奈麻呂が歌の序文で「大伴田主字曰仲郎」と示せば、宮中のサロンの人々は「仲郎=二男って、貴方じゃないの。で、どうして、二男の名が田主なの」と興味津々で歌物語の世界に引き込まれたと思います。この歌物語の鑑賞では、当時の男女の関係で何が風流で何が風流ではないのかが問題ですし、女性が「吾勢=私の愛しい人」と相手を呼ぶ集歌一二八の言葉遊びの歌が内実において女の恨み歌になっているか、甘い戀歌かどうかを鑑賞することが重要です。
 宮中サロンの鑑賞者はそれらを咀嚼し、この歌物語を堪能したと想像します。それで、そのサロンのメンバーの一人である、もう老女の年齢となった山田郎女(可能性で蘇我媼子)が集歌一二九の歌でもって「昔は私も愛する殿御に抱かれたのでした」と思い出を語ったと云うわけです。

 少し、説明の背景を紹介します。
 言葉では漢字表記の「葦」の文字を「あし」と「よし」と、二つに読みます。これは葦の「あし」の発音が「悪し」に通じるからであって、それを避けるために読み替えて「よし」と読みます。この前提で、言葉遊びで「葦」と「足」が示されるのなら「悪し」の言葉も思い浮かぶと思います。そのとき、男女の恋愛で風流と云う言葉を持ちだしてきた時に「悪き事」は何かと云うと、神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との目合(まぐあひ)で、最初の目合での伊邪那美命から伊邪那岐命に声を掛けたことが挙げられます。この神話で示すように、日本では女性から男性の許に「目合」を目的で訪ねることは「悪き事」となっています。つまり、この伝統・慣習からしますと、田主の云う風流士問答で「夜、尋ねてきた女に何もせずに帰し、改めて女の気持ちを汲み、男からその女の許を訪ねること、つまり、このように妻問って抱く」と云うのが風流士の心得となります。この背景において、集歌一二七の歌は共寝する石川女郎の耳元で詠ったものと云うことになります。これが当時の人たちが思う男女の間での「風流」への答えです。
 当然、歌を一首毎に鑑賞する立場では歌の解釈は変わります。歌物語ではなく実際の相聞歌として解釈し、そこから明治から昭和の歌人はこの石川女郎を実在の人物として戀多き女性と解釈します。そして、斎藤茂吉氏や宮武外骨氏などの第一級の和歌を嗜む教養人は、さらに進めて、石川女郎を罵倒すべき売春婦と評価します。また、万葉集における歌物語の存在の可能性を理解できないと、平安時代後期以降に「即佐保大納言大伴卿第二子 母曰巨勢朝臣也」なる補筆を加えることになり、蔭位の資格を持つ旅人や宿奈麻呂に公卿補任などに載らない「田主」と云う新しい兄弟を創ります。
 この歌物語を鑑賞するにおいて、さらに補足として女性の敬称について説明します。歌に現れる「女郎」や「朗女」と云う言葉は宮中参内が可能な女性への敬称です。万葉集ではその「女郎」は四位・五位格の貴族の娘、またはそれに準ずる官位・役職を持つ女官への敬称となります。また、「朗女」は三位以上の臣民階級の公卿の娘、または三位以上の格を有する官位・役職を持つ女官への敬称となります。従いまして、集歌一二九の歌の「女郎字曰山田郎女也」と云う解説から、蘇我山田媼子(おほなこ)=石川山田媼子=正二位右大臣藤原不比等の正妻媼子と云う可能性が想定できるものとなります。万葉集は厳密に律令政治が行われていた時代の作品ですので、敬称を見ることでこのような酔論を行うことが出来ます。
 さて、紹介しましたように相聞歌が歌群として展開していきますと、それはある種の歌物語になると云う視線から、社会人が楽しむ、もう一つの万葉集の歌の鑑賞法を提案しました。ここで紹介した二つの歌物語は、内容から一話完結の短編歌物語とも分類できます。そうした時、現在の小説に短編と長編があるように万葉集に長編の歌物語がないのかと云うと、実は長編の歌物語ではないかと思われる歌群があります。それが、弊ブログ「竹取翁と万葉集のお勉強」の中で取り上げている「山上憶良 日本挽歌を鑑賞する」や「竹取翁の歌を鑑賞する」で紹介する歌群です。これらの歌群を弊ブログでは長編の歌物語と推定していますが、長編小説のようにその内容は非常に膨大で本一冊に相当するほどに長いものです。ここでは紙面の関係からも紹介ができませんが、別著から参照していただければ幸いです。

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