竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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エプローグ

2012年12月06日 | 実験2 柿本人麻呂物語
エプローグ

慶雲二年(705)の盛夏、穴師の柿本の鍛冶屋敷。
長門国守である人麻呂の中上がりの休みも終わりになるころ、
「憶良、これで巨勢媛の物語は終わりじゃ。もう、ない」
と、山上憶良に告げた。

そして、最後に、寂しく、人麻呂は小さく、聞こえぬほど小さく呟いた、
「のう、若茅。いつも主人が云っておったが、吾の歌は堅いかのう」
「若茅、では、これではどうかのう」

未通女等之袖振山乃水垣之久時従憶寸吾者
訓読 未通女等(をとめら)し袖布留山の瑞垣(みずかき)し久しき時ゆ思ひき吾は
私訳 まだ未通女(おぼこ)であった稚さない貴女が神寄せの袖を振る、その言葉のひびきのような布留山の瑞垣よ、その巌の瑞垣が太古からあるように、そのはるか久しい日々よ。そのはるか遠い昔を想ったよ、今のこの私は。

「主人なら、返しがあるだろうにのう」
「そのうち、若茅、また、主人と歌を詠おうか、のう、若茅」
人麻呂の長く、短い物語は終わった。


この物語の後、人麻呂は憶良に巨勢媛が残し人麻呂が引き継いだ歌集と人麻呂自身が残して来た歌集の閲覧や書写を許した。人麻呂が国守として長門国に行き留守をしていても、穴師の鍛冶屋敷での書写を認めた。そして、人麻呂は任地の長門国へと帰って行った。

和銅元年(708)三月、長門国大津郡油谷で人麻呂は六年の長門国守の任期を終えた。任を終えた人麻呂は、その帰京に便の良い長門大津から筑紫娜津の多田羅浜へ向かい、そこから陸路、香春岳を越え、豊前国企救の草野津(かやのつ)から難波御津への順路を選んだ。
三月十八日、人麻呂は大津から多田羅浜への帰京の船出をした。その航海の途中、船は嵐に遭遇し石見国小野郷の神山の荒磯へと流された。そして、そこで難破し水死した。その遭難死の知らせは、四月二十日に藤原京の太政官の下に届いた。
人麻呂の死は、太政官において彼の本名により「四月二十日、従四位下柿本朝臣佐留(猿)卒」と記録された。享年六十二歳。
愛する巨勢媛から十年遅れての、媛が待つ場所への旅立ちであった。

山上憶良は人麻呂に陳べた志に従い大和歌を集めた類聚歌林七巻を編纂した。その後、憶良の集めた資料は彼の死を看取った丹比真人国人に引き継がれた。そして、その資料の集大成が、万葉集の編纂へと継って行く。
なお、憶良が編んだ類聚歌林に人麻呂と巨勢媛との歌集がどのように反映されたかは、その類聚歌林が現存しないため、分からない。ただ、万葉集では第二世代に属する笠女郎や大伴家持たちは柿本朝臣人麻呂歌集に載る歌を引用して歌を詠っているため、人麻呂と巨勢媛との歌々は憶良が編んだ類聚歌林に多く採歌されたと思われる。
また、この人麻呂と巨勢媛との愛の物語は、万葉集に載る柿本朝臣人麻呂歌集と云う形でそれを辿ることが出来る。
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紀伊御幸

2012年12月06日 | 実験2 柿本人麻呂物語
紀伊御幸

大宝元年(701)十月、巨勢媛の死からおよそ二年が経った。
五十五歳になった人麻呂は、また、紀伊国に来ている。人麻呂は、軽皇子命(諱、文武天皇)が大王への就任を、伊邪那岐を祀る熊野速玉の御社と伊邪那美を祀る花窟の御社へ報告するための御幸に随行している。
御幸の行列はあの朱鳥五年の時と変わらない。眺める紀伊国の景色も変わらない。ただ、肝心の巨勢媛の姿だけがない。その紀伊国に人麻呂は、再び、来た。
熊野速玉神社での大王就任の祝詞奏上での作詞の大役を終えた人麻呂は、藤原京への帰途の途中、名高の浦の黒牛潟の磯浜に来ている。朱鳥五年の、あの時の月は九月の十八夜、今日の月は十月の十三夜。昔、巨勢媛と二人して見た月の光の道や月光に輝く波頭は、今日も、その姿を見せている。

その浜で、人麻呂は巨勢媛が傍にいると感じた。そして、その幻の巨勢媛と海を見、物語をする。
「若茅、主人は変わらず美しいのう」
「それほど波に寄ると、裾が濡れるぞ」
「さあ、ここにおいで、この月明かりの海を二人して見よう」
「若茅、覚えているか、二人して見た淡海の浜松のこと」
今、人麻呂の目には、白衣に緋の裳裾を着けた官女姿の媛が浪打ちで戯れ、真珠を枕元に置き人麻呂の愛に応えたあの媛の姿がある。

為妹我玉求於伎邊有白玉依来於伎都白浪
訓読 妹しため我が玉求む沖辺(おきへ)なる白玉寄せ来(こ)沖つ白波
私訳 貴女のために私は真珠の玉が欲しい。沖の方から白い真珠の玉を波とともに寄せて来い。沖に立つ美しい玉のような波立つ白浪よ。

黒牛方塩干乃浦乎紅玉裾須蘇延徃者誰妻
訓読 黒牛潟(くろうしがた)潮干(しほひ)の浦を紅(くれなゐ)し玉裳(たまも)裾(すそ)引(ひ)き行くは誰(た)が妻
私訳 黒牛の潟の潮が干いた浜辺を紅の美しい裳の裾を引いて歩いているのは誰の恋人でしょうか。

朝が来た。人麻呂にとって残酷な朝が来た。朝の兆しと共に幻の巨勢媛は姿を消した。そして、潮騒の黒牛潟の磯浜に、人麻呂は一人残された。
残された人麻呂は浜に両手を突き、涙を流した。そして、虚しい、と詠う

風莫乃濱之白浪徒於斯依久流見人無
訓読 風莫(かぜなし)の浜し白波いたづらしここし寄せ来(く)る見る人なみに
私訳 風があっても風莫の浜と呼ばれる浜の白波は、ただ無性に寄せてくる。見る人もいないのに。

朝日の中、一人の男が狂ったように砂浜を転げ、声を張り上げ、砂を投げる。
「ここにも、巨勢媛は居ないぞ」
「なのに、なぜ、あの時と同じ月と砂があるのか。なぜ、波は寄せる」
「媛は居ないぞ、どうして、おれはここに来た。ここに、媛はいるのではなかったのか」
あの野辺送りから始めて、大声で、涙して泣いた。もう、大和の男の中の男と云う“大夫”という名なんぞ、いらん。ただ、媛が愛しい。
「媛よ。黄葉が散ったら、帰る道は判るだろうに、なぜ、帰って来ない。もう、帰ってこい」
「おれはここにいるぞ、媛、帰ってこい」

人麻呂は、侘びしく、悲しく、幻の媛に歌を捧げる、

塩氣立荒礒丹者雖在徃水之過去妹之方見等曽来
訓読 潮気(しほけ)立つ荒礒(ありそ)にはあれど往(い)く水し過ぎにし妹し形見とそ来し
私訳 潮気が立つ何も無い荒磯ですが、磯を洗い流れ往く水のように過ぎ去った貴女との思い出と思ってここにやって来ました。

黄葉之過去子等携遊礒麻見者悲裳
訓読 黄葉(もみちは)し過ぎにし子らと携(たづさ)はり遊びし礒間見れば悲しも
私訳 黄葉の時に逝ってしまった貴女と手を携えて遊んだ幾つもの磯を今独りで見ると悲しいことです。

古家丹妹等吾見黒玉之久漏牛方乎見佐府下
訓読 古(いにしへ)に妹(いも)と吾(わ)が見しぬばたまし黒牛潟(くろうしがた)を見れば寂(さぶ)しも
私訳 昔に貴女と私が人目を忍んで寄り添って見た漆黒の黒牛潟を、独りでこうして見ていると寂しいことです。

玉津嶋礒之裏未之真名子仁文尓保比去名妹觸險
訓読 玉津島(たまつしま)礒し浦廻(うらみ)し真砂(まなご)にも色付(にほひ)て行かな妹し触れけむ
私訳 玉津嶋の磯の砂浜での愛しい貴女、その真砂にも偲んでいきましょう。その貴女がこのように触れた砂です。

やがて、砂まみれの年老いた男が肩を落とし、寂しそうに、海岸の松林へと消えていった。
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野辺送り

2012年12月06日 | 実験2 柿本人麻呂物語
野辺送り

大長二年(699)晩秋、巨勢媛は尼僧如信として四十五歳の生涯を軽の里の庵で閉じた。五十二歳になった人麻呂は、最愛の人生の伴侶と和歌の同志を失った。

人麻呂の心に二人の人麻呂が宿る。巨勢媛を失った悲しみや辛さに人生の虚しさを感じ、投げやりになる自分と、その姿を冷静に眺めている自分がいる。息が詰まるような、身を潰されるような悲しみと侘しさに苛まれる心の奥底を、他人事のように冷静に観察し、それを長文の大和歌として記録する。悲しむのも人麻呂であるが、記録するものまた人麻呂である。
男友達との歌を詠わなかった、堅い、不器用な、そのような男が創る、最愛の妻への送別歌である。もし、巨勢媛がこの歌を聞いたら「まあ、何と堅い」と云って、軽快な比喩で歌を返してくれただろうが、その和歌の同志は、もう、いない。
その媛の葬送を取り仕切るその人麻呂の姿は、いかにも大和を代表する男の中の男である“大夫”の姿である。悲しみの感情を表すことなく、淡々に、だが、厳かに式次第をこなして行く。人はその姿に感心する。
だが、素顔の人麻呂は違う。尼として旧草壁皇子の軽の里にある庵で死んだ巨勢媛の臨終には、忍坂の氏人でも仏門でもない人麻呂は立ち会うことは出来ない。ただ、病の知らせを以前から受け覚悟はしていたが、現実に危篤と臨終の知らせを受けると、気は動転し、息も詰まるような嫌な、重い気分の下、悲しみが込み上がる。そして、薄汚れた捨て犬のように、倭の想い出の地を巨勢媛の姿を求めて彷徨い歩くだけであった。
人はそのような素顔の人麻呂を知らない。人麻呂は歯を食いしばり、全力で媛の挽歌を詠う。後に、会えるだろう媛とこのときの人麻呂の心を物語りするために。

媛を送る挽歌の長が歌、
天飛也 軽路者 吾妹兒之 里尓思有者 懃 欲見騰 不己行者 人目乎多見 真根久往者 人應知見 狭根葛 後毛将相等 大船之 思憑而 玉蜻 磐垣渕之 隠耳 戀管在尓 度日乃 晩去之如 照月乃 雲隠如 奥津藻之 名延之妹者 黄葉乃 過伊去等 玉梓之 使乃言者 梓弓 聲尓聞而(一云、聲耳聞而) 将言為便 世武為便不知尓 聲耳乎 聞而有不得者 吾戀 千重之一隔毛 遣悶流 情毛有八等 吾妹子之 不止出見之 軽市尓 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞 玉桙 道行人毛 獨谷 似之不去者 為便乎無見 妹之名喚而 袖曽振鶴(或本、有謂之名耳聞而有不得者句)

訓読 天(あま)飛(と)ぶや 軽し道は 吾妹児し 里にしあれば ねもころに 見まく欲(ほ)しけど 止(や)まず行かば 人目を多(おほ)み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛(かづら) 後も逢はむと 大船し 思ひ憑(たの)みて 玉かぎる 磐(いは)垣(かき)淵(ふち)し 隠(こ)りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れ去(い)ぬしがごと 照る月の 雲隠(くもかく)るごと 沖つ藻し 靡きし妹は 黄葉(もみちは)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまずさ)し 使(つかひ)の言へば 梓(あずさ)弓(ゆみ) 音に聞きて (一は云はく、 音のみ聞きて) 言はむ術(すべ) 為(せ)むすべ知らに 音のみを 聞きてあり得(え)ねば 吾が恋ふる 千重(ちへ)し一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)もる 情(こころ)もありやと 吾妹子し 止(や)まず出で見し 軽し市に 吾が立ち聞けば 玉(たま)襷(たすき) 畝傍の山に 喧(な)く鳥し 音(こへ)も聞こえず 玉桙し 道行く人も ひとりだに 似てし去(ゆ)かねば 術(すべ)を無み 妹し名呼びて 袖ぞ振りつる (或る本に、「名のみを聞きてありえねば」といへる句あり)

私訳 空を飛ぶのか、雁よ、その言葉のひびきのような軽の路は私の愛しい貴女の子供が住んでいる里だと思うと、ねんごろに逢いに行きたいのですが、ひっきりなしに行くと人の目を引くし、たびたび行くと人が気づいてしまうだろう。さね葛の根が絡みあっているように後にも逢えると、大船が確かであるように、いつでも逢えるでしょうと思い込んでいて、美しい玉となって輝く玉石の磐垣の淵に隠れるように想いを隠して貴女に恋しているのに、空を渡る日が暮れていくように、夜照る月が雲に隠れるように、沖の藻が浪に靡き寄せるように私に靡いた貴女は、黄葉のように過ぎて去って行った玉梓の使いが言うので、巫女が神寄せする梓弓の音のように聞いて、答えるべき言葉も為すべきことも思いもつかず、使いが言う言葉の音だけ聞いて、その内容が理解できずにいると、「貴方の恋するあの人へ千回の想いを一回にするような悼む気持ちはありますか」と。私の愛しい貴女が、儀式がある毎にたびたび出かけていって見ていた軽の市の辻に私が立ち、辻占として人の言葉を聞くと、美しい玉の襷をかけるような畝傍の山に普段は鳴き騒ぐ鳥の声も聞こえず、美しい玉の鉾を立てる道を行く人も、誰一人、鳥の行いに似て立ち去らない。貴女の行方を占う辻占も出来ずにどうしようもなく、貴女の名前を口に出して呼んで、魂を呼び戻す袖を振りました。

挽歌の短か歌、
秋山之黄葉乎茂迷流妹乎将求山道不知母
訓読 秋山し黄葉(もみち)を茂み迷(まと)ひぬる妹を求めむ山道知らずも
私訳 秋山の黄葉の落ち葉が沢山落ちているので私の大切な貴女は道に迷ってしまった。居なくなった貴女を探そう、その山の道を知らなくても。

黄葉之落去奈倍尓玉梓之使乎見者相日所念
訓読 黄葉(もみちは)し落(ち)り去(ゆ)くなへに玉梓し使(つかひ)を見れば逢ふ日そ念(も)ふ
私訳 黄葉が散り逝くとともに愛しい私の貴女がこの世から去っていったと告げに来た玉梓の使いを見ると、昔、最初に貴女に会ったときの、文の遣り取りを使いに託した、その日々が思い出されます。

巨勢媛の遺体は、当時の最新の風習に従い、泊瀬で荼毘に付された。そして、その遺骨は大三輪寺の坊が立ち並ぶ三輪山の東の森で散骨された。
人麻呂は豊浦寺からの尼僧巨勢媛の野辺の送りに、あたかも媛の背の君として正妻を葬送するかのように振る舞う。人々もまた、その人麻呂の姿を奇異とはせず、それが当然のことのように従った。
人麻呂は、その野辺送りの間も、不思議な感覚に陥った。人麻呂と巨勢媛の間には、媛の死と云う別れではなく、今度は、人麻呂ではなく巨勢媛が長い旅に出たのではないか、あの伊勢国への旅のように。そして、その旅が終われば、人麻呂が石見国から戻って来たように、戻って来てくれるのではないかと思った。
その一方で、遺体は荼毘に付され、焼ける匂いと煙は現実であり、散骨で撒く灰の温もりは人麻呂の手の実感であった。確かに最愛の妻である巨勢媛は死んだ。
人麻呂は、その二つの心の狭間で歌を詠う。

隠口乃泊瀬山尓霞立棚引雲者妹尓鴨在武
訓読 隠口(こもくり)の泊瀬(はつせ)し山に霞立ち棚引く雲は妹にかもあらむ
私訳 人が隠れるという隠口の泊瀬の山に霞が立っている。その棚引く雲は、私の愛しい貴女なのでしょうか。

秋山黄葉可怜浦觸而入西妹者待不来
訓読 秋山し黄葉(もみち)あはれびうらぶれて入りにし妹は待てど来まさず
私訳 秋山の黄葉は可怜で美しいが、なぜか、うら寂しい。秋山の美しい黄葉に引かれて行った私の愛しい貴女は、何時まで待っていても帰ってきません。

福何有人香黒髪之白成左右妹之音乎聞
訓読 福(さきはい)しいかなる人か黒髪し白くなるまで妹し声を聞く
私訳 幸福な人とは、どのような人でしょうか。黒髪が白髪に変わるまで愛しい妻の声を聞くことでしょうか。

玉梓能妹者珠氈足氷木乃清山邊蒔散染
訓読 玉梓の妹は珠かもあしひきの清(きよ)き山辺(やまへ)し蒔(ま)けば散り染(そ)む
私訳 玉梓の使いが知らせをもたらした私の愛しい貴女は、まるで大切な珠や渡来の毛氈のように高貴で大切な人なのでしょう。冬のようなさびしいの木々の茂る清らかな山に貴女の灰を撒くと、その山は珠や毛氈のように美しく黄葉に染まりました。


巨勢媛の野辺の送りも終わり、人々は何事も無かったかのように日常へと戻って行く。日常の喧噪の中、人麻呂は一人残された。その人麻呂は折に付け媛が散骨された三輪山にやって来る。
ここは、媛の生まれた故郷の忍坂の里や媛が母と暮らし人麻呂が妻問った、その媛の屋敷を見渡す場所である。人麻呂はここにやって来ては、その景色を眺め、媛の霊と物語りをする。
「今日は、もう、七七の日か」
「のう、若茅。何度、ここに来ても、主人は帰って来ないのか」
「若茅が仏となりあの世に旅立ったのなら、もう、ここへ来るのはよそうか。なあ、若茅」
そして、涙し、詠う、

念西餘西鹿齒為便乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾
訓読 想ふにし余りにしかばすべを無み吾は言ひてき忌むべきものを
私訳 心の内に貴女の面影を追い、貴女を慕うあまりにどうしようもなく、私は何度も何日も貴女の名前を口に出してしまった。霊を呼び戻すことは慎むべきなのに。

古尓有險人母如吾等架弥和乃檜原尓挿頭折兼
訓読 古(いにしへ)にありけむ人も吾とかや三輪の檜原(ひはら)に挿頭(かざし)折(を)りけむ
私訳 昔にいらした伊邪那岐命も、その想いは私と同じようだったのでしょうか。私は三輪の檜原で鬘(かづら)を断ち切り、亡き妻への偲ぶ思いを断ち切りました。

徃川之過去人之手不折者裏觸立三和之檜原者
訓読 往(ゆ)く川し過ぎにし人し手折(たを)らねばうらぶれ立てり三輪し檜原は
私訳 流れ逝く川のように過ぎ逝ってしまった人よ、その霊に手を合わせて祈らなければ、寂しそうに立っているでしょう。貴女の霊を包む、この三輪の檜原の木々は。

当時の知識階級は根本仏教で仏教を理解していた。このため、人が仏を信じ、その仏の慈悲で成仏するのなら、その人の霊はこの世一切から切り離されて仏の世界へと往き、その霊は再びにはこの世には帰って来ない。現在の近代日本仏教が人は成仏することなく霊はこの世に留まり、その霊は永遠に供養を求めると云う姿とは違う。近代日本仏教が布教される以前は、七七の日(四十九日目)に人は成仏し、この世から縁が切れるとされていた。人麻呂の歌はこの七七の日を詠う。
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斎会

2012年12月06日 | 実験2 柿本人麻呂物語
斎会

朱鳥八年(693)九月九日、大海人大王の法要が皇太后天皇菟野皇女の宮で行われた。天皇の立場では倭の古風での天上の神々と人とを仲立ちする現御神であるが、大海人大王の正妻として、菟野皇女は私的に七回目の年忌の神祀りと法要を行った。
その場に昨年に出家し、今は尼僧如信と呼ばれる巨勢媛が法要の為に泊まり掛けで呼ばれている。
法要の翌朝、菟野皇女が尼僧如信に語りかけた、
「如信、昨夜、我が背の君であられた大海人皇子がな、吾の夢枕に立たれた。久しいことよ。これも御仏の慈悲であろうか」
「皇女、それはそれは。皇女の日ごろの功徳のためではありませんか」
「それでな、吾も懐かしき背の君に夢ではあるが逢うことが出来た。この喜びを如信にも分けてやろうと思うた。さて、如信。吾からの喜捨を受け取られよ」
「さて、皇女。何を喜捨して頂けるので」
すると、菟野皇女が御付の官女に待たしている官人を呼び入れよと命じた。その指示で、控えの間に待たしていた人麻呂を呼び入れた。
その瞬間、尼僧如信となった巨勢媛は人麻呂の姿、顔を見た。
「ああ、懐かしい」
菟野皇女は期待していたように、尼僧如信が巨勢媛へと、一瞬、戻ったと思った。
一方、人麻呂はいかにも宮中に呼ばれた官人の顔を崩さない。
少し、二人の様子を眺めていた菟野皇女が、人麻呂に声を掛けた。
「鋳銭長官柿本朝臣比等、待たしたな。柿本臣に願っておった歌は出来たか」
「先の我が子、草壁皇子の挽歌は、今でも、吾は忘れん。あの吾の悲しみを、そして、我が子、草壁皇子の無念を、柿本臣は立派に詠いあげてくれた」
「その柿本臣に、また、無心をした。我が背の君、大海人皇子に夢で逢うた。この想いを歌として残してくれとな」
「で、歌は出来たか」
「菟野皇女、まず、お誉めを頂き、恐れ多く身も細る思いです」
「皇女、拙きものですが、出来ております」
「そうか、柿本臣。では、披露してくれ」
人麻呂は、懐から巻紙を取り出し、詠い出した。

明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之皇子

訓読 明日し香の 浄御原(きよみ)の宮に 天つ下 知らしめしし やすみしし わご大王(おほきみ) 高照らす 日し皇子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡びたる波に 潮(しお)気(け)のみ 香(かほ)れる国に 御(み)籠(こも)りし あやにともしき 高照らす 日し御子

私訳 明日までも香らせるような、その香しい明日香の浄御原の宮で天下を御統治された、天下をあまねく統治なされる私の大王の天の神の世界まで照らしあげる日の皇子は、どのようにお思いになられたのか、神の風が吹く伊勢の国の沖から藻を靡き寄せる波の潮気だけが香る清い国に、清い香りを閉じ込めるように御籠りになられて、私は無性に心細い。天の神の世界まで照らす日の御子よ。

「柿本臣、良く吾の心を詠うてくれた。これを貰うと、我が背の君、大海人皇子との思い出を忘れんであろう、礼を云うぞ」
「なあ、如信。そなたもそのように思うであろう、もう少し、こちらにこられよ。そちは尼僧じゃ。身分の遠慮はいらん」
「いえ、皇女。如信はここで」
巨勢媛と人麻呂は、およそ、一年ぶりの再会をした。ただ、身分と立場から、この場では目と目で懐かしさの会話をする。菟野皇女は巻紙を眺めながら人麻呂の献上歌を、数度、口ずさむ。そして、巨勢媛と人麻呂とが目と目で会話している様子を見、二人の頃合いを量り、人麻呂に声を掛けた。
「鋳銭長官柿本朝臣比等、御苦労であった」
その菟野皇女の声に従い、人麻呂は淡々と御付の官女に送られて退出して行った。
「さて、如信。喜捨になったか、それとも、修行の妨げとなったかのう」
「皇女、身に余る喜捨を頂きました。もし、修行の妨げになるなら、それは我が罪。その罪を胸に抱き、修行の励みとしましょう」
「そうか、如信。喜んで喜捨を受けてくれたか」
「皇女、この十分の喜捨を胸に庵に戻ります」
巨勢媛の答える口調に、菟野皇女は未練ありげな、それでいて、誘うような口調で聞く、
「戻るか、如信。やはり、軽の里の庵に戻るのか、ここに居ることもできるぞ」
巨勢媛は迷いのない言葉で返す、
「はい、皇女。如信は庵に戻ります」
巨勢媛の才能を惜しむ皇女は媛を還俗させ手元に置こうとした。恋人であり歌の同志でもあった人麻呂に巨勢媛の前で歌を詠わすと云う手管もつかった。しかし、それも無理だったことを知った。

巨勢媛は人麻呂と目と目で会話する間、既に男女の感覚もなく、折々、会う、心の通う同志のような気持ちを互いに確かめた。媛は「何か、また、折があれば会えば良い。直接、言葉を交わさなくても、今と同じように心は通う」と思う。人麻呂もまた「巨勢媛と折があれば、その時、また会えばいい。きっと、媛も同じ気持ちだろう」と思った。
ただ、巨勢媛は「やはり、人麻呂の歌は堅いのう、もっと、くだければ良いのに。やはり、変わらぬお方じゃ」とだけ思った。

万葉集からは、この日を最後に人麻呂と巨勢媛との関係は辿れない。人麻呂は思い出を詠うだけとなる。この後、二人の歌が無いと云う理由として、尼僧如信となった巨勢媛は人麻呂との歌を交換することは八つの波羅夷法の内の八事成犯の罪を犯すことになると考え、それを行ったのかもしれない。
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伊勢御幸

2012年12月06日 | 実験2 柿本人麻呂物語
伊勢御幸

朱鳥七年(692)三月、皇太后天皇鵜野皇女の御子である草壁皇子命の三年の喪が過ぎ、その御霊を祀る廟(現在の豊受大神宮)が完成した。天皇は草壁皇子の霊を祀る為に、皇子の御霊が眠る伊勢国度会に来た。
三十九歳になった巨勢媛は、その天皇に随行して伊勢国に来ている。草壁皇子の嬪であった巨勢媛の娘は仏門に入っているため、新しき神道の形である豊受大神宮を尼僧としては拝むことが出来ない。そのため、この伊勢御幸には巨勢媛の娘は同行していない。巨勢媛はあくまで皇太后天皇鵜野皇女のお付きの立場での随行であった。
一方、人麻呂は、明日香での藤原京建設が最盛期を迎え、その藤原京で使われる金銅製の建物の装飾品や工芸品を供給する飛鳥池の官営工房を指揮するために、この伊勢御幸には同行していない。

この旅の前、人麻呂は飛鳥池の官営工房で製作している宮中の妃や女官が身に付ける飾りや宝飾品のデザインの打ち合わせをするために、皇太后の宮を尋ねた。その折、昔、壬申の乱の時、伊勢国泊津に駐屯し、皇大神宮(伊勢内宮) や豊受大神宮(伊勢外宮)が建立された度会や伊良湖水道の亀島、答志島の土地の様子を良く知る人麻呂に、伊勢御幸に同行する女官たちが伊勢の物語をねだった。
巨勢媛もまた、その御幸に同行する。人麻呂は、皇太后との打ち合わせの帰り、宮中の媛の局に寄った。そこで、人麻呂は、求められるまま、巨勢媛と女官たちに伊勢国の物語をした。
媛は、軽く人麻呂に「御幸が終われば、その土産の物語をしよう。また、会いたい」と告げた。
その翌日、巨勢媛に伊勢国御幸への餞別の物語り歌を贈った。人麻呂としては、媛が旅の途中で楽しめるようにと、精一杯、軽やかに遊び心を入れた歌を詠う、

鳴呼見乃浦尓船乗為良武感嬬等之珠裳乃須十二四寳三都良武香
(感は女+感の代字)
訓読 嗚呼見(あみ)の浦に船乗りすらむ感嬬(をとめ)らし玉裳の裾に潮満つらむか
私訳 あみの浦で遊覧の船乗りをしているでしょう、その官女の人たちの美しい裳の裾に潮の飛沫がかかり、すっかり濡れているでしょうか。

釵著手節乃埼二今日毛可母大宮人之玉藻苅良武
訓読 くしろ着く手節(たふせ)の崎に今日もかも大宮人し玉藻刈るらむ
私訳 美しいくしろを手首に着ける、その言葉のような手節の岬で今日もあの大宮人の麻続王は玉藻を刈っているのでしょうか。

潮左為二五十等兒乃嶋邊榜船荷妹乗良六鹿荒嶋廻乎
訓読 潮騒(しほさゐ)に伊良虞(いらご)の島辺(しまへ)漕ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻(しまみ)を
私訳 潮騒の中で伊良湖水道の島の海岸を漕ぐ船に私の恋人は乗っているのでしょうか。あの波の荒い島のまわりを。


巨勢媛が伊勢国御幸を終えて、藤原京に帰って来た。御幸前の約束を果たすため、人麻呂は忍坂の媛の屋敷へと出向いた。
この時、人麻呂は四十六歳、巨勢媛はもうすぐ四十歳になる。この時代、女子の四十は、もう、男女の交わりをする年齢ではない。媛にとっても、三年前の紀伊国での人麻呂とのあの出来事は、旅先での事故のような特別な出来事であった。今、人麻呂を呼ぶ媛に、特別な男女の感情はない。
媛は人麻呂に告げた、
「吾は、もう、四十になる。これを機会に、尼になりたいと思う。そして、娘と共に仏を拝みたいと願っている」
「それを、麻呂だけには告げたくて、今度、麻呂を呼んだ」
人麻呂は、うすうす、媛が宮中から離れたいとの気持ちを知っていた。
当時の女の四十は御定からも御婆と呼ばれ、色々な特例を許され敬老される年齢である。藤原京の時代に、壬申の乱の当事者で浄御原宮の時代から皇太后天皇鵜野皇女に仕えていると聞くと、どんなに若い官女でも、媛の年齢に想像はつく。そのため、人麻呂は、以前から、媛の性格からして御婆様と呼ばれる立場で宮中に残ることは耐えられないだろうと思っていた。人麻呂はその想いで「媛はきっと忍坂の屋敷に戻り、この人麻呂一人を待つ、隠れ妻になる」と思っていた。
男と女の間は遠い。これほど愛し合った二人だが、思いは違う。
媛は云う、
「麻呂には、正妻と子が御有りじゃ。その池に石は投げられん」
「吾は仏門に入り、娘と共に草壁皇子や我が母の菩提を慰めたい」
そこには、暗に、媛のプライドからの「日陰の人待ちの妻にはならん。まして、若き官女達に御婆様とも云われたくない」との思いが感じられた。
人麻呂は思った。
「これは、言葉での説得は無理じゃ」
とたん、人麻呂は強硬手段に出た。
「若茅、吾に従え」
人麻呂は強引に媛の手を引き、籠り間に引き込んだ。
その行いにあわてる媛の付き人の小者たちを籠り間から追い出し、媛の衣をむしった。
そして、人麻呂は、彼の限りの技で、知る媛の好みを責めた。
「媛の体をこの吾の力で融かす。いや、融かさねばならん。どうしても」
巨勢媛の言葉は人麻呂のその行いを、きつく、なじる。一方、媛の体は人麻呂の責めの嵐に寄り添い、その責めに応える。
媛はその狭間に迷った。
そして、押し臥せられた媛の衣の腰のあたりを染める愛の雫から、人麻呂は「媛を出家から引き戻した」と思った。
それでも、媛を失いたくない思いで、媛をさらに責める。媛の体は、初夜の二日夜の、石見からの帰国の、黒牛潟の、媛と人麻呂とのあの特別な夜と同じように人麻呂の責めに忠実に応える。
人麻呂は媛の体が示す次々と溢れ出す徴から「きっと、これで大丈夫だ。若茅は、まだ、女を捨てていない。必ずこの里で吾を待つ」と思った。
人麻呂は確信を持った声で、
「若茅、これらかも逢おうな」
「主人(ぬし)のこの忍坂の屋敷で、度々、このように、逢おう。な、若茅」
「若茅は我が妻ぞ、きっと、我が愛しき妻ぞ」
だが、その甘美の嵐の後、人麻呂の下の媛は堅く云う、
「人麻呂様。吾は、女子の喜びをこのように麻呂様から十分に頂いた」
「もう、女子として未練はない。人麻呂様のこの餞別を思い出として、出家します」
その言葉を聞いた人麻呂は、思わず、再び、媛の一番の好みの場所を責めようとした。
媛は口付をしようとする人麻呂の頭を撫ぜ、諭した、
「人麻呂様。女子として、この身が御所望なら、この身を主人に馳走しましょう。でも、若茅としての、この身を御所望なら、それは叶いませぬ」
「いやじゃ、吾は女子の体ではなく、若茅がいるのじゃ、吾の若茅がいるのじゃ」
人麻呂は半泣きの顔で顔を上げ、巨勢媛の顔を見た。そして、感じた。
「もう、無理じゃ。媛は菩薩の顔じゃ」

気まずい空気の中、巨勢媛は下女を呼び、人麻呂の着替えを命じた。媛は部屋に戻り身を清め、酒肴を調え、人麻呂を縁のある間に誘った。
そして、人麻呂に物語を願った。
いつもは、人麻呂の胸の中で愛撫と共に物語を聞く媛が、少し離れて並らび、二人して月を眺めながら、人麻呂がする物語を聞く。人麻呂は、敢えて、媛と過ごした刻の流れを語らず、黒鐡のこと、銅のこと、そのため、大和の各地を歩いたことを物語った。
人麻呂は判っていた。媛の物語の所望は「余韻だ」と。明日から、媛は人の世から縁を切り、尼になる。だが、互いに死ぬ時は来る。その時、媛は人麻呂をどう思うか、今、良き思いで別れねば悔いが残る。
人麻呂は静かに涙しながら物語をする。そして、巨勢媛もまた、涙してそれを聞く。

そして、別れたあと、人麻呂は寂しく詠う、

天地尓小不至大夫跡思之吾耶雄心毛無寸
訓読 天地に少し至らぬ大夫(ますらを)と思ひし吾や雄心(をこころ)もなき
私訳 天地の偉大さには少しばかりだけ足りないだけで、人を統率する立派な男子と思っていた私ですが、貴女のことを思うと私には雄々しい気持ちもありません。

得管二毛今毛見社鹿夢耳手本纒宿登見者辛苦毛
訓読 現(うつつ)にも今も見そしか夢(いめ)のみし手本(たもと)纏(ま)き寝(ぬ)と見るは苦しも
私訳 現に今もはっきり見た、その夢の中だけでしか「私の手の内に貴女を巻き取って共寝をした」と思うことは辛いことです。

媛は四十歳を越えるのを期に出家することを朝廷から許され、尼となった。尼となった媛は尼寺である豊浦寺に入った。豊浦寺は藤原京の南西外れに建ち、軽の辻に近い場所にある。推古天皇由来の古寺であるため、今の飛鳥の里では、比較的、賑やかな場所とも云える。
だが、媛が尼となり娘の住む軽の里の旧草壁皇子の宮にある娘の庵に入ったため、藤原京から近い軽の里の庵ではあるが、人麻呂は徒然の挨拶にも通うことも出来ない。このため、二人の出会いの機会も無くなった。そして、これを境に、文の遣り取りも、また、疎遠となった。
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