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「宮本武蔵」の源流を探る

2014-03-24 00:53:03 | 日記
「宮本武蔵」の源流を探る 

 
(1) 吉川英治「宮本武蔵」執筆の経緯(いきさつ)。

ことの発端は、昭和7年10月、菊池寛が「先日 直木三十五が、ラジオで宮本武蔵をケナした。自分は宮本武蔵の崇拝者として一言、弁じておく」と文芸春秋の「話の屑篭」に書いたことから起った。
これに対してさらに直木から反論があり、両者の論争は文壇の大事件にまで発展した。吉川は、途中ひょんなことからこの論争に参加し直木に反対して武蔵擁護に回ったところ「吉川武蔵」の執筆をせざるをえない立場に追い込まれてしまったというのだから話は面白い。

(2)「宮本武蔵」の歴史資料について。

劇画「バカボンド」もそうであるが、世間では現在、宮本武蔵イコール吉川英治の「宮本武蔵」というほど吉川武蔵のイメージが抜きがたいほど定着していまっている。
 ところが、実際には武蔵の生涯について信頼に足る歴史資料は極めて少ないのだ。
 厳密には、本人が書いた「五輪書」の序文で自らを語った数行くらいが信じるに足ると言ってもいいかもしれない。
 武蔵を語るとき、よく参考にされる有名な「二天記」、「丹治峰均筆記」は両書とも、武蔵の死後1世紀以上たって編纂されたもので、どこまで信憑性があるのか極めて疑わしいのだ。

 
(3) 吉川英治はどのような材料を使ってどう「武蔵」を書いたのか。

実際に、吉川が書き始めるのは、論争から約3年後で、朝日新聞の夕刊に、昭和10年8月23日から12年5月20日までと、13年1月1日から14年7月11日までの期間であった。

「――どうなるものか、この天地の大きな動きが。
もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。
なるようになってしまえ!」 武蔵は、そう思った。
で始まる吉川武蔵は、連載がはじまると新聞の配達を待ちかねるほど国民の歓呼の声で迎えられた。

厳しい資料の制約の中で吉川英治はどうやって「宮本武蔵」を大成功させ得たのか。
これは、大衆小説の天才、吉川英治の構想力・想像力の所産というほかはないであろう。

 では、新聞の連載がはじまる3年間に、吉川は、武蔵に関する材料をどのよう選択し、どのように構想を練りあげていったのかを推測してみよう。

 吉川武蔵の内容を、帰納的に分析すると、まず「二天記」の語る武蔵の生涯のうち、最も兵法者として充実した10代後半から20歳後半までの約10数年を対象期間として選択している。従って、「二天記」のこの部分を、「五輪書」・「兵法35箇条」・「独行道」と絡(から)ませながら徹底的に読み込み、吉川武蔵のキャラクター設定とストリー展開の骨組み作りを行ったに違いない。

 吉川武蔵のキャラクターは、あくまで兵法の真髄を極めようとする求道者のそれである。
そして、この武蔵の行く道を阻(はば)む幾つかの障碍(しょうがい)を擬人化して武蔵の周囲に配置する。つまり、恋慕の象徴としての「お通」、武蔵の対極の快楽の道を歩む「又八」、怨みから執拗に命を狙う「お杉ばば」、宗教から人の道を説く「沢庵和尚」などである。これらの人物は嫌が上にも、求道者として剣に命を賭ける武蔵の存在を際立たせる役目を負っている。
※ 独行道で、武蔵が述べていることに注目しよう。

○ 恋慕(れんぼ)の道思ひよる心なし。
○ 身に楽みをたくまず。
○ 自他共にうらみかこつ心なし。
○ 仏神は尊し仏神をたのまず。
  
※ 武蔵と沢庵は、同時代人である。しかし、2人が面識があったという歴史的痕跡はどこにもない。

さらに、道を進むにつれて出現してくる挑戦者の群れを順々に置いてゆく。彼らは多様な兵法で武蔵 に次々と立ちはだかってゆく。そして、道の行き着くところに最大のライバル「巌流・佐々木小次郎」を立たせた。
だが、こうした文献に基づいた仕掛けを置くだけでは、活きた吉川武蔵は描ききれない。
武蔵にさらなる生命を吹き込む必要があったと思われるのだ。


(4) 吉川武蔵にはモデルがいた。

 大仏次郎の鞍馬天狗のモデルはかの「中村天風」師であったことを師の講演テープで師自身が語るのを聞いたことがある。作家というのは、資料が乏しい場合、現代の生ける人物を材料にその欠乏を補う手法をとるらしい。

 吉川武蔵に、もしそういうモデルがいたとしたらそれは誰か。
 推理小説のようであるが、武蔵執筆当時、吉岡英治の周囲にそれらしい人物がいたかどうかを探し出せばよい。

 「童心残筆」という書物のあとがきに新井正明氏のこのような記述がある。
この本の出版祝いに際して、吉川英治はある書簡にこう書いている。
「赤坂の桔梗と申す家の炉部屋を借り申し候て客をいたし候、当夜の客は金雉学院の安岡正篤氏、元東京府知事…、酌人は牡丹の花と申しても劣りなき赤坂の美妓に候、丹炎誠に美しく、微薫ある煙も、牡丹なる故にや苦になり申さず候、安岡氏の言葉にて暫く灯火を滅し、炉明かりのみにて暫時を雑談に忘れ申し候。…」

 どこかで見た光景ではなかろうか。
 そう、宮本武蔵第3巻「牡丹を焚く」で、吉岡伝七郎を三十三間堂で倒した後、遊郭、扇屋で本阿弥光悦や吉野太夫と牡丹の木をくべて談笑するあの場面そっくりなのだ。
 さらに、書簡は、昭和11年1月付けとあるので、吉川が武蔵を書いていた時期とぴったり一致する。

 当時、吉川英治は44才、招かれた安岡正篤はまだ39才の新進気鋭の教育家であり、
陽明学・東洋思想の著作で既に高名を成していた。
 先の「童心残筆」は安岡の若い頃の随筆を集めたもので、驚くことにこの本の装丁を吉川英治自身が行っているのだ。

 安岡は四條畷中学で剣道部の主将を務めたほどの剣の達人で、国事を愁えて奔走する5才年下の安岡に吉川は武蔵を重ねようとしたのでは、という推理が頭をかすめる。
 武蔵は一時農業に従事する件(くだり)があるが、当時、安岡は農村の指導者の養成機関「日本農士学校」の教育に当たっており、「二天記」にもないこの話の出所も妙に安岡の活動と符号する。

 さらには、安岡は自身が、まだ宮本武蔵がそれほど評価されていない大正13年に、
海軍大学校で「兵法論―二天宮本武蔵の生涯と其の剣道」という講義を行い、武蔵を高く評価していたのだ。(大正13年といえば、安岡まだ27才の青年である)              講義内容は、稀こう本「安岡正篤講演:士學論講」(海軍大学校)1924年(大正13)で見ることができる。
そして、ほぼ同じ内容が同年発行の「日本精神の研究」に転載され、遂には1931年(昭和6)に安岡正篤著「日本武道と宮本武蔵」(人物研究叢刊第13、金雉学院発行)として刊行されているのだ。

 内容は、大筋「二天記」により、「独行道19条」「五輪書」を解説している。
 特に、「独行道」を重視している点が注意をひく。
評者は、吉川の安岡との親密さからいって、「日本武道と宮本武蔵」を吉川武蔵執筆の有力な拠り所としたのではないかと推定している。
 そして、さらに決定的なのは、この書の中で、安岡は
「通常彼を宮本武蔵正名(玄信)と呼んでいるが、父から推して考えれば、彼は宮本武蔵(タケゾウ)であろうと思う。」
と、武蔵文献のどこにもない吉岡武蔵の幼名「たけぞう」を独創しているのだ。
 これでは、吉川武蔵に「安岡正篤」を重ね合すなというほうが無理ではなかろうか。

 いずれにせよ、日本の戦前・戦中・戦後をつうじて代表的な精神的指導者であった
「中村天風」師が「鞍馬天狗」、「安岡正篤」師が「宮本武蔵」というヒーローのモデルだったとは、二大哲人が急に身近に感ぜられて実に愉快なことではないだろうか。

                                 

( 参考)

 1. 安岡正篤「日本精神の研究」
 2. 安岡正篤「童心残筆」
       
  
 

 













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