合気道史を研究されているスタンレー・プラニンさんが、大本と合気道について書かれていますので紹介します。
武田惣角と出口王仁三郎は、植芝合気道の形成に重要な役割を果たしており、これを明確に認識することは、現代合気道の創始に至った翁の精神的・技術的展開を把握する上でたいへん重要です。武田惣角は今世紀の日本において大東流合気柔術を普及させた人物であり、出口王仁三郎は大本教の指導的人物です。盛平は王仁三郎の教えを学んで悟りを得、それを身体的に表現する方法として惣角の技を用いたのです。
大本教は有名な新興宗教のうちの一つに挙げられます。昭和10年12月の日本軍事政府による苛酷な弾圧が行なわれた当時は、信者数は200万人にも達していました。貧しい文盲の女性・出口直によって19世紀後半に開教されましたが、教義の組織化・体系化を進めてその発展に大きく寄与したのは、何といってもカリスマ的存在であった出口王仁三郎でしょう。
盛平と大本教との出会いはまったくの偶然です。大正8年12月、盛平が重病の父親を見舞うため、北海道から和歌山県田辺町の実家へ向かう途中のことでした。盛平は綾部まで足をのばし数日間滞在し、父親の病気回復の祈願をしました。そして、王仁三郎に出会い、その人柄に魅せられたのです。父親の死後、盛平は家族の猛反対を押し切って、大正9年に家族もろとも綾部に移転します。盛平のたぐいまれな武術の才能を見抜いた王仁三郎は、盛平を食客として迎え、武術に興味のある大本信者に教えるよう勧めたのです。これが契機となって、私塾・植芝塾が開設され、盛平は小人数の稽古生に武術指導をするかたわら、自己の修行を続けたのでした。
一方、惣角は大正11年、綾部で5ケ月を過ごし、盛平の自宅で大本教信者を教授しました。盛平と王仁三郎は盛平の武道の形成過程に欠くことのできない人物ですが、残念ながら ―― とは言え意外なことでもありませんが ―― 両者は反感を持ち合ってしまったのです。これは盛平にとって少なからぬ悩みの種でした。
大正13年、盛平は王仁三郎の身辺警護員として満州に渡り、王仁三郎と共に大冒険をすることになります。満州の政争に巻き込まれた王仁三郎一行は、危ういところを命びろいするのですが、これによって王仁三郎と盛平の関係はますます堅くなり、満州で死線をくぐった体験は、後の合気道開祖に深い影響を与えました。
大正14年の盛平の東京移転から昭和10年まで、盛平と大本の関係は緊密で、昭和7年、王仁三郎は盛平に武道宣揚会(植芝合気柔術の普及のために、特に設立された全国的な大本組織)を設立するよう勧めるほどでした。昭和10年、第二次大本事件の後、盛平はこの非合法教会の活動から離れることを余儀なくされますが、王仁三郎に傾倒する気持ちは失われませんでした。第二次大戦後、盛平は大本との友好関係を復活させ、亀岡や綾部の大本本部を頻繁に訪れました。
合気道の理念・人道主義の精神的基盤となったものは、盛平が王仁三郎から個人的に授けられた教義と、王仁三郎著作の『霊界物語』であったと言えましょう。合気道が今日の日本武道において、その独自性を誇り得るのは、まさにその倫理観にあるのであり、そのためにも大本教の貢献はみのがすことはできません。
勢力を誇っていた大本教会は、第二次大本事件のため破壊されましたが、戦後、愛善苑として復活します。昭和23年、王仁三郎が死去すると、妻・澄に、その後、娘・直日に大本教の教主は引き継がれ、名称も"大本"に復帰しました。昭和40年には、信者教も20万人にも達しました。 (季刊『合気ニュース』95号論説・1993年より転載)
武田惣角と出口王仁三郎は、植芝合気道の形成に重要な役割を果たしており、これを明確に認識することは、現代合気道の創始に至った翁の精神的・技術的展開を把握する上でたいへん重要です。武田惣角は今世紀の日本において大東流合気柔術を普及させた人物であり、出口王仁三郎は大本教の指導的人物です。盛平は王仁三郎の教えを学んで悟りを得、それを身体的に表現する方法として惣角の技を用いたのです。
大本教は有名な新興宗教のうちの一つに挙げられます。昭和10年12月の日本軍事政府による苛酷な弾圧が行なわれた当時は、信者数は200万人にも達していました。貧しい文盲の女性・出口直によって19世紀後半に開教されましたが、教義の組織化・体系化を進めてその発展に大きく寄与したのは、何といってもカリスマ的存在であった出口王仁三郎でしょう。
盛平と大本教との出会いはまったくの偶然です。大正8年12月、盛平が重病の父親を見舞うため、北海道から和歌山県田辺町の実家へ向かう途中のことでした。盛平は綾部まで足をのばし数日間滞在し、父親の病気回復の祈願をしました。そして、王仁三郎に出会い、その人柄に魅せられたのです。父親の死後、盛平は家族の猛反対を押し切って、大正9年に家族もろとも綾部に移転します。盛平のたぐいまれな武術の才能を見抜いた王仁三郎は、盛平を食客として迎え、武術に興味のある大本信者に教えるよう勧めたのです。これが契機となって、私塾・植芝塾が開設され、盛平は小人数の稽古生に武術指導をするかたわら、自己の修行を続けたのでした。
一方、惣角は大正11年、綾部で5ケ月を過ごし、盛平の自宅で大本教信者を教授しました。盛平と王仁三郎は盛平の武道の形成過程に欠くことのできない人物ですが、残念ながら ―― とは言え意外なことでもありませんが ―― 両者は反感を持ち合ってしまったのです。これは盛平にとって少なからぬ悩みの種でした。
大正13年、盛平は王仁三郎の身辺警護員として満州に渡り、王仁三郎と共に大冒険をすることになります。満州の政争に巻き込まれた王仁三郎一行は、危ういところを命びろいするのですが、これによって王仁三郎と盛平の関係はますます堅くなり、満州で死線をくぐった体験は、後の合気道開祖に深い影響を与えました。
大正14年の盛平の東京移転から昭和10年まで、盛平と大本の関係は緊密で、昭和7年、王仁三郎は盛平に武道宣揚会(植芝合気柔術の普及のために、特に設立された全国的な大本組織)を設立するよう勧めるほどでした。昭和10年、第二次大本事件の後、盛平はこの非合法教会の活動から離れることを余儀なくされますが、王仁三郎に傾倒する気持ちは失われませんでした。第二次大戦後、盛平は大本との友好関係を復活させ、亀岡や綾部の大本本部を頻繁に訪れました。
合気道の理念・人道主義の精神的基盤となったものは、盛平が王仁三郎から個人的に授けられた教義と、王仁三郎著作の『霊界物語』であったと言えましょう。合気道が今日の日本武道において、その独自性を誇り得るのは、まさにその倫理観にあるのであり、そのためにも大本教の貢献はみのがすことはできません。
勢力を誇っていた大本教会は、第二次大本事件のため破壊されましたが、戦後、愛善苑として復活します。昭和23年、王仁三郎が死去すると、妻・澄に、その後、娘・直日に大本教の教主は引き継がれ、名称も"大本"に復帰しました。昭和40年には、信者教も20万人にも達しました。 (季刊『合気ニュース』95号論説・1993年より転載)