武本比登志ポルトガルスケッチ&油彩

ポルトガル在住絵描きのポルトガル淡彩スケッチ日記と油彩

2057. ペニシェの町角

2020-04-19 22:38:52 | ポルトガル淡彩スケッチ

2020年4月19日(日曜日)晴れ時々曇り。20℃~11℃。降水確率40%。湿度93%(7:54)63%(14:22)。紫外線量7。北西の微風。明日から降水確率が高くなるので今日も洗濯。

『背高泡立草』古川真人:著 読了。

『きょうのニュース』パンデミックから100日。COVID-19によるポルトガルの死者は27人増え714人、感染は521人増え2万0206人、重症は1245人、危険な状態は224人、回復は昨日と変わらず610人。65台の人工呼吸器など医療用品が中国から到着。リスボン市内で亡命者など200人を収容、検疫。世界での死者は16万1330人、感染は234万3293人、回復は60万2793人。アメリカでの死者は3万8669人、感染は73万5287人、回復は6万6819人。イタリアでの死者は2万3227人、感染は17万5925人、回復は4万5000人。スペインでの死者は2万0453人、感染は19万5944人、回復は7万7357人。フランスでの死者は1万9323人、感染は17万3956人。ドイツでの死者は4294人、感染は13万9897人。

『昨夜の映画』は

ダンス・ウィズ・ウルブズ』(Dances with Wolves)1990年。アメリカ映画。181分。監督・主演・製作:ケビン・コスナー。1863年秋、テネシー州は南北戦争の激戦地と化しており、北軍の中尉であったジョン・ダンバー(ケビン・コスナー)はその中で右足に重傷を負う。その足を切断されると思ったダンバーは意を決して馬を駆り、自殺的行為とも取れる囮となって南軍兵士達の注意を逸らした。その隙を突いた北軍は一斉に進撃を開始し勝利を収めた。その後囮としての功績を称えられ一躍英雄となり、見返りとして自由に勤務地を選ぶ権利を与えられたダンバーは、「失われる前にフロンティアを見ておきたい」とサウスダコタ州のセッジウィック砦への赴任を直訴。見渡す限りの荒野と荒れ果てた「砦」で自給自足の生活を始めた。 開拓と食事、そして愛馬のシスコと「トゥー・ソックス(2つの靴下)」と名付けた狼と戯れる生活が続いていたある日、スー族インディアンがシスコを盗みに来たため、ダンバーは銃(全裸)で威嚇して追い払った。自らの集落で「不思議な生活をしている白人がいる」との報告を受けた彼らは、部族の将来のためにもダンバーと接触を試みたほうがよいとの結論を出した。またダンバーもインディアンとの接触を望んだ。翌日、軍服に身を包み星条旗を掲げたダンバーはインディアンの野営地へと向かった。その道中、大怪我を負って倒れている女性と遭遇。インディアンの服装を身に纏っていたがよく見ると彼女の目は青い色をしていた。ダンバーがその女性を助けようとすると彼女は恐怖に震えながら必死に抵抗した。しかし怪我が悪化し意識を失ってしまったため、ダンバーがスー族の集落まで彼女を送り届けた。 当初集落の者達は白人に対する先入観からダンバーに不信感を抱き彼を拒絶したが、彼の人柄を見込んだ酋長の計らいで、後日それぞれ「蹴る鳥」(グラハム・グリーン)「風になびく髪」と呼ばれる二人の男を返礼も兼ねてダンバーの元に遣った。言葉も通じない自分たちを受け容れたうえ精一杯持て成すダンバーに、集落の中心的人物でもある「蹴る鳥」は好感を抱いた。以降、スー族の面々は頻繁に彼の元を訪れ、またダンバーも先住民族である彼らに白人文化を伝えようと試みることで徐々に互いの友好を深めていった。 言葉がなかなか通じず、もどかしい思いをしていた双方の通訳を買って出たのは、ダンバーが以前助けた「拳を握って立つ女」(メアリー・マクドネル)と呼ばれる青い目の女性である。彼女は幼いころ、スー族と敵対するポーニー族に家族を殺され逃げ延びたところをスー族に拾われ育てられた。そのため、ダコタ語を問題なく話す一方で、幼いころに身につけていた英語はたどたどしくなっていた。それでも彼女の養父である「蹴る鳥」とダンバーの助けにより意思の疎通が図れるようになった。 ある夜、凄まじい物音で目を覚ましたダンバーが外に出てみるとそこにはバッファローの大群が群れを成して移動していた。バッファローはスー族にとって命の糧である。ダンバーは急いでスー族に報告。スー族は歓喜に沸き、目撃者であるダンバーは一躍彼らの知るところとなった。翌朝ダンバーはスー族と共に狩りに出た。毛皮と角だけ剥ぎ取り死体を放置する白人の暴挙に心を痛めながらも、神聖な儀式でもあるスー族様式の狩りに参加する中でダンバーは今まで感じたことのない安らぎを覚えるとともに自分とはどんな存在であるかということに目覚めていく。 交流を深める中でダンバーは「拳を握って立つ女」を愛し、また彼女もダンバーを愛し始めていた。しかし「拳を握って立つ女」は前の夫を殺された後から喪に服していたため仲間の前で想いを悟られないように努めていた。それに気づいた養母は「蹴る鳥」に、「拳を握って立つ女」がダンバーと深く愛し合えるように彼女の喪を明けさせることを提案。「蹴る鳥」も快諾しやがてダンバーと「拳を握って立つ女」は結婚し自らのティピーも授かった。さらに、ダンバーは部族民同様に「シュンカマニトゥタンカ・オブワチ(「狼と踊る男」。砦でトゥー・ソックスがダンバーに戯れていたところを、スー族の男に目撃されたことから)」というインディアン名までもらい、スー族の一員となると同時に一人の人間としての誇りを取り戻す。 やがて冬が到来し、山籠りするために集落を移動する日が来た。しかし、ダンバーはスー族の足取りを白人に知られないよう、日々の出来事を克明に記録した日記を取りにひとりセッジウィック砦に戻った。ところが砦には既に嘗て自らが所属した騎兵隊が大挙しており、インディアンの服装を身に纏っていたダンバーは狙撃され捕虜となってしまう。騎兵隊出身であるということを明かしたダンバーに対し騎兵隊は反逆者として処刑を宣告する。なかなか帰って来ないダンバーの身を案じたスー族の戦士たちがダンバーを捜索すると、彼を護送する馬車を発見。奇襲攻撃を仕掛け、ダンバーの命は救われた。しかし、インディアンの大量虐殺を目論む合衆国軍は目前まで迫っていた。これ以上仲間たちに迷惑をかけるわけにはいかないと感じたダンバーは、別れを惜しむスー族に背を向けながら愛する妻を伴って雪山の奥深くへと分け入っていった。 1861年から繰り広げられた南北戦争時代のフロンティアを舞台に北軍の中尉と、スー族と呼ばれるインディアンとの間で交わされる心の交流を描いた西部劇である。先住民族であるインディアンを虐殺しバッファローを絶滅寸前に追いやった白人中心主義のアメリカ社会に対して警鐘を鳴らすと同時にフロンティアへの敬意・郷愁を表している点で従来の西部劇とは大きく一線を画し、それまでの「片言の英語を話すインディアン」というステレオタイプからも脱却し、「インディアンたちが彼らの言語で喋る」、という点でも話題となった。「タタンカ(バッファロー)」の単語もこの映画で広く知られるようになった。また作品の中で度々用いられるラコタ語に対し英語の字幕が充てられているという点でも異色の作品である。ただインディアンの言語には日本語同様に男性語と女性語の区別があり、言語指導者が女性のみであったために俳優は男女問わず女性語の指導を受けてしまった。ラッセル・ミーンズによると、ラコタ語のわかる人にとっては大笑いする内容(日本語に喩えれば、男たちがオネエ言葉で喋るようなもの)になってしまったようである。 マイケル・ブレイクによる原作小説は発表当初、白人を批判するという内容に嫌悪感を抱いた多数の出版関係者により発売を拒否されていた。しかし、俳優のケビン・コスナーは原作の内容に好感を持ち(コスナー自身もチェロキーとドイツ、アイルランドの混血である)ブレイクに対し、自らが監督も兼任するという形での映画化を懇願した。1988年にようやく原作が一般に向けて発売されるのと並行してコスナーは『アンタッチャブル』『フィールド・オブ・ドリームス』の成功によりアメリカを代表する2枚目スターの地位を確立し巨大な富を得ていた。それらの作品で得た私財の全てを継ぎ込んで、1989年7月に撮影が開始された。 なお、原作で主人公と交流するインディアン部族はコマンチ族であるが、映画化にあたってこれは同じ平原の部族であるスー族に設定変更されている。この映画には「テン・ベアーズ」というスー族の「酋長」が出てくるが、同時代にいた実際のテン・ベアーズはヤンパリカ・コマンチ族の人物である。また、同時代の「キッキング・バード」はカイオワ族の人物であり、呪い師ではなかった。これらの齟齬は映画化の際に部族設定の変更から生じたものである。また現実の「テン・ベアーズ」も「キッキング・バード」も「族長」ではない。 作品の設定年は、前後の出来事から1864年と見られるが、作中で描かれた歴史上の事件として、米陸軍がテン・ベアーズ達のバンドを捜して大遠征をおこなうシーンがある。しかし、実際の米陸軍の冬の大遠征は1868年の11月のことであり、これは年代が合わない。 映画史上に残るとされる壮大なスケールの原風景は一部ワイオミング州のものを除いて殆どがサウスダコタ州で撮影されたものである。その他にもバッドランズ国立公園ピアでもロケーションが行われている。 制作・公開がたびたび延期されたことやマイケル・チミノが『天国の門』で西部劇を批判し記録的な赤字を出した前例がありながらコスナーもまた白人を批判する内容の西部劇に着手したこと、2200万ドルという巨額を制作費に注ぎ込んだこと(あるいはそれに匹敵する私財を持ち合わせていたコスナーに対する悋気)から、一部の聴衆は同作品を『天国の門(Heaven's Gate)』に準えて『コスナーの門(Costner's Gate)』と渾名をつけて罵っていた。しかし、1990年11月に映画が公開されると、当時トップスターであったコスナーの初監督作品であるという話題性や、インディアン民族と同化した白人の視点から当時のアメリカ社会を批判するという斬新なストーリー、さらに壮大なスケールとダイナミック且つ繊細な演出が批評家・観衆双方の絶大な賞賛を獲得。アメリカ国内だけで製作費の10倍近い収益を挙げ、世界規模でも大ヒットし結果的に全世界で4億2400万ドルの興行収入を記録。西部劇映画は歴代最高のアメリカ国内興行収入を記録している。加えて、第63回アカデミー賞と第48回ゴールデングローブ賞の作品賞と監督賞をダブル受賞するなど国内外で多数の映画賞を獲得し、コスナーはロバート・レッドフォードウォーレン・ベイティに続き「監督としても成功したトップスター」の地位を確立した。 (Wikipediaより)

 

 

「ポルトガル淡彩スケッチ・サムネイルもくじ」

1971-2090 1851-1970 1731-1850 1601-1730

 


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