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籠城(2017/12/28)

2017-12-28 18:10:53 | どん底に落ちたとき
松永安左エ門著作集6巻414p

明治40年(1907)5月 33歳
 福沢桃助に誘われ、高野山に遊ぶ。「あそこには極楽橋という橋があるが、その橋を渡るときに、これを渡れば罪がみな消えるということですよ、と誰かがいうから、そんならこの橋を渡れば追敷(相場の変動に際し損方の証拠金不足額を追加徴収する証拠金)も取りに来ないかな、と言って嘆声を漏らした。その時分はつまり追敷ということにのみ悩まされていたからだ。桃助さんは逆に追敷を取っていたのだからテンデ敵ではない。私の半生はそれで何もかも片付けられてしまった。」
 過去を振り返ってみると学校を出てから、本を読むこともできないし、趣味を楽しむこともできない。そして元気のあるがままに手段を選ばず、方法を考えずに、金を得ることにのみ驀進し、没頭していた。これから修養もしなければならない。書物も読まなければならない。よしまた今までのままでやって行っても、それで真に偉くなれるとは思われない。今、自分は生涯の転換期に立っているのだ。この頭も作り替えなければならない。立場も変えなければならない。今までのように、如何なる兵器を持っても戦うというのはよくない。戦場も選ばなければならない。無意義な悪戦苦闘を繰り返していてはいけない。
 それからのことを考えると・・・さて私も五十まで生きるかどうかも解らない。・・体も以前のようではなく、神経も極度に疲労してきたが・・・人生五十年を標準として、まだ五十までには十六、七年ある。ここで四、五年休んでもよかろう、と思って、灘の住吉の呉田の浜の家を借りて、二カ年分の家賃を前払いして、籠城する。

( 松永安左エ門は、身代限りを2度やったと晩年書いているが、その当時の様子を綴ったこの文章を読むとさぞ苦しかったろうと言葉もない。その後の籠城して読書と思索に没頭したとの下りには、学ぶところが大きい。Takeda )
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史記 二人の布(2017/12/23)

2017-12-23 16:33:28 | どん底に落ちたとき
司馬遷 史記(平凡社 下巻 86ページ)

季布(きふ)・欒布(らんふ)列伝


季布は承諾した。そこで、ただちに季布の頭髪を剃り、首かせをはめて奴僕に見せかけ、粗末な毛織の衣服を着せ、広柳車(覆い付きの大車)の中にいれ、家僕数十人とこみにして、魯の朱家のもとに連れて行って売った。朱家は、内心、季布だと知りながら、買い入れて田地に置き、その子を戒めていった。「農事についてこの奴僕の言うとおりにし、必ずいっしょに食事しなさい」・・・高祖はただちに季布を赦した。当時、貴顕たちはみな、季布がよくおのれの剛毅を抑えて柔軟にふるまったことを賞賛し、朱家もこのことで名声が当世に聞こえた。・・・孝恵帝の時代に季布は中郎将(近衛兵をつかさどる官)となった。・・


・・・いま、彭王は既に死にました。わたくしも、生きているよりも死んだほうがましです。どうか、煮殺してください」
そこで、高祖(漢帝国の創始者)は欒布の罪を許して、都尉に任じた。・・・欒布は常々「困窮したときに、恥辱にたえて身を落とし、願望をおさえることができないようでは、一人前の人間ではない。富貴になったときに、しみったれて思いのままにふるまうことができないようでは、賢人ではない」・・・

大史公(司馬遷)曰く・・・
意気盛んな項羽のもとにあってさえ、季布は勇をもって楚で有名であり、身はしばしば敵軍をくつがえし、敵をやぶってはその旗を奪い取った。壮士というべきである。しかし、罪を問われる境遇に追い込まれると、人の奴僕になりさがっても死ななかった。なんと身を落としたことか。彼は必ずやおのれの才能に自負するところがあり、辱めをうけても恥と思わず、その才能の活用を念じて、まだ満足するところまでいかなかったからであろう。だからこそ、ついに漢の名将となったのだ。賢者はまことにその死をおもんずるものである。あの奴妾・賤民が悲嘆にくれて自殺するのは、勇気があるからではない。いったん、生きるための計画がくずれると、それを立て直すことが出来ないからである。欒布が彭越に対して哭礼をおこない、煮殺しの刑に処せられる際、帰するがごとく平静であったのは、身を処するところを知っていて、死そのものを重しとしなかったからである。昔の烈士であっても、この二人以上のなにができただろうか。


(司馬遷が史記のなかで、ここまで、生き方を認める人物は、少ない。宮刑になったあとも、自殺せず、史記を書き続けた司馬遷その人の生き方と二重写しになる。落ちて、辱めを受けても、誇りと使命を忘れない。2200年前の中国の歴史家の生き方は今も、落ちこぼれの一人一人に勇気を与えてくれる。私も気を取り直した一人。takeda)

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旧約聖書のエレミヤ書にある、堂々たる晩年(2017/12/16)

2017-12-16 22:17:48 | 老いて病んで貧乏したとき
旧約聖書 エレミヤ記45章

 ユダの王ヨシヤの子エホヤキムの4年に、ネリヤの子バルクがこれらの言葉をエレミヤの口述にしたがって書に記した時、預言者エレミヤが彼に語った言葉。
「バルクよ、イスラエルの神、主はあなたについてこう言われる。あなたはかつて、『ああ、私はわざわいだ。主が私の苦しみに悲しみをお加えになった。私は嘆き疲れて、安息が得られない』と言った。あなたはこう彼に言いなさい。主はこう言われる、見よ、わたしは自分で建てたものをこわし、自分で植えたものを抜いている。-それは、この全地である。あなたは自分のために大いなる事を求めるのか、これを求めてはならない。見よ、私は全ての人に災いを下そうとしている。しかしあなたの命はあなたの行くすべての所で、ぶんどりものとしてあなたに与えると主は言われる。」

(聖書の旧約聖書の預言書の2大巨峰である、イザヤ書、エレミヤ書のエレミヤ書に記されている、短い章。バルクとは、エレミヤの予言を、エレミヤに頼まれ、記述した人物。エレミヤが時勢におもねらなかったため、バルクも晩年まで冷や飯を食い続けた。そのバルクにエレミヤを通して語られた予言かこれ。報われず、つらいだけの人生だった? 悲観しなさんな、あなたの命は、あなたのぶんどりものであることを、知りなさいと。死の間際まで、元気で過ごせるよ、つまりピンピンコロリ。冷や飯続きの貧乏くじばかりでも、正しいと思うことを、生涯貫けば、あなたの命はあなたにぶんどりものとしてあなたに与えるとは、素晴らしい人生で、勝ち戦。あんがい身近な手の内にあるのだと知れる。takeda)
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平凡なその日その日の生活(2017/12/16)

2017-12-16 14:57:09 | どん底に落ちたとき
松永安左衛門全集 3巻149p より

 日日是好日という禅語は人の世に立つ大きな示しであるが、過去は過ぎ去ったわれ、未来はまだ自分に来ぬ、現在の一刻はわれの一日だ、過去を悔やんでも役に立たぬ。未来を案じ煩っても、益するところはない。立天立地、この一刻、この一日の現在こそ過去の集積の実を満喫し、未来千万劫年に連なりて生きる我のその一瞬の生命であり、一日をよく送りうる人は千万劫年の後にも生きうる人だ。平凡なその日その日の生活こそ、シッカリ踏みしめて渡らねばならぬ、「好き一日」である。

(平凡なその日その日の生活こそ、シッカリ踏みしめて渡らねばならぬ、「よき一日」である。不遇の時も、愉快な今日も、今日一日だけと噛みしめて、T社リストラ後の13年間を送ってきた。好い日々でした。takeda)
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日々これ好日(2017/12/8)

2017-12-08 11:31:15 | どん底に落ちたとき
松永安左エ門 著作集(1巻 253p)より

日日是好日

雲門の禅偈は読んで字の如くであるが、私は少しくこれに意味を加えたい。
 現実の世界において過去は問題でないが、現在といえども飛来しつつある。未来は言わずもがな、未知の世界であり妄想である。日々こそ千釣の宝である。過ぎし事柄を悔やむも咎むも今日日を害ねこそすれ益しはせぬ。明日を案じ煩うても、またよりよき今日日が明日にあると思うても今日を疎かにしては生きる今日をよくしてはいない。今日が我の全歴史だ、コップにもった溢れんとする水だ。喜びも悲しみもイッパイに満たされたコクテールだ。生命の満潮だ。晴れには雨を含み、昨日を受け入れ、明日に響かせ、静寂の極致、明朗の頂天、素裸のわれだ。それが私の懐く日日是好日だ。

(「今日が我の全歴史だ。」 T社をリストラと決まって、幸か不幸か1年間、T社で勤務。100人はいたはずの、仲間や親しい後輩は、95人は、関わりたくない、貴方の味方ではありませんと、周りから退き、好奇のまなざし。仕事の無いデスクから退屈でコーヒーを汲みに立ち上がると、チラッと好奇の目。その時、いつも、口ずさんだのが、「今日が我の全歴史だ」。以来、これからの事を考えるとどうしていいか分からん、と意気消沈して頭を抱えている人に、この一節のコピーを、机の前か、トイレの壁に張るといい、と差し上げている。takeda)
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