霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

すべてを心に刻め!

2015年01月24日 | 心霊現象
きっと、前に書いた事かもしれません。
夢の中で、私が「あの言葉」を失念し、口から出てこなかった話のことです。
救われたいと思ってか、人が大勢集まってくる。しかし、私は言葉を失って慌てふためいた。
しばらくして、人が一人去り二人去り、誰もいなくなってしまった。いも言われぬ寂しさと絶望の余韻だけがそこに残ったという話。
あれだけ知っていたと思っていた事や内容、言葉が口から出てこない。
私が唖(おし)になったわけではない。
喋れるのに、言葉を忘れていたのだ。(なんだっけ~?、えーと何をどう説明すればいいんだっけぇ~)
心は焦れども、言葉はとうとう出てこなかった。
気が付けば、寝床でもがいていた無様な自分がそこにいた・・・、という話。



かつて「真珠門館」なるところで館主となって修行した話をいたしました。
「この道」へ行ったらいいのか、それとも止めるべきか・・・。
連日そのことで質問攻めにあっていた私だったが、結局は「自分」が決めるしかない人生だと申し上げていた。
しかし、結果も自分が責任をとるという前提であることも付け加えた。
ある教団の研修機関の一番初歩の訓練所であった「真珠門館」は、いわば「この世」と「あの世」の境目(門)でもある。
ここをくぐり、次に行けばまた次の「門(関門)」が待っている。
罪深いこの世から、神の世界に近づくには、はたして幾つの関門を通過しなければならないのか・・・。
これは「あの世」にも「この世」にも同じことが言えた。
ただ順序は、「この世」の関門を通過することが先に来る。

その「真珠門館」での出来事である。
『真理だとあなたが言うそれを聞いた。確かにそうだと思える。
 しかし、今やりつつあることが幾つかある。
 さらに付き合っている彼。それを切り捨ててまでやらなければならないんでしょうか?。
 さらに、わたしでならなければならないという必然性ってあるんでしょうか?・・・』

日々こんなことが繰り返されていったそんな時。
『そういうあんたは、それをやってきたのか!!』
と、激しく私に迫る御仁に出くわした。
(もし、あんたがやってこなかったら、わたしは許さないし、わたしもやる必要がない!)
と、胸ぐらをつかまんばかりのその人の心は、こう叫んでいた。
私は当然覚悟をしていた。あたりまえのことだからである。
(あんたがやりもしない事(内容)を、わたしに押し付けられるのか!、冗談じゃぁない!)
逆に私なら「そう」言うだろうし、一蹴するだろう。「ふざけんじゃない!」・・・と。
しかし、幸か不幸か私は「やってきた」から、今ここにいる。
職場、学校、親そして恋人。
その全部と決別せよ!・・・。
それが真珠門館・館長としての最後の「申し渡し」であり「引導」であり次へのステップの「分別(ぶんべつ)内容」であった。
『最後に一つ聞きます。あなたは彼を切ってきたんですか?』
「はい・・・。婚約中の彼と別れて、今ここにいます」と、私は答える。
私に詰め寄った「彼女」の目は大きく見開かれと思うや、大粒の涙が頬を伝って落ちた。
そして彼女の上体は、私の膝元に崩れ落ち、突っ伏したままいつまでも泣き続けていた。
結果彼女は「献身」を決意し、神のみ旨(むね)へと人生を変えていくことになる。

時々思う。
あの時、もし私が「私にはわかりません。やったことがないんですから・・・」と言っていたらどうなったであろう。
「あんたもやったことがない事を、どうして人に強要するのか!」と言われるのがオチだろう。
『わたしがやったように、あなたがたもやりなさい』
こう言う「イエスの言葉」は、すべてが体験済みのことだから、私達の魂に響くのだろうしグーの音もでないのだ。
そしてその「やってきたこと」だけが通用し、自分と他人の魂の決定権を決めていく。
霊界はそんなことで満ちている。
やってみもしない者の言葉は、通用しないし聞かれるわけがない。
つまり説得に欠けるのだ。

霊界にある「天法」。
いつも私が申し上げてきた「学びの原点」がどこにあるかは、人それぞれでいい。
しかし、それを学びきるまでの道のりは、「言葉」は言葉がうわっすべりするのではなく、魂の随まで(骨の髄という)、つまり胆に銘じたものとして深く残っていなければならないことを知る。
「言葉」と「魂」は、一つである。
日本の文明は、「言葉(ことのは)」は霊的なものとしてあつかってきた。
そしてまた「言葉」は、神から受けるものとしてある時は畏れ、ある時は感謝して受け取ってきた。
現在、日本には言葉の波が押し寄せ、昔ながらの言葉(ことのは)は、隠れるように息づいてきた。
そのあまたある言葉の何を見い出し、それに人の何(神髄・真理)を見出すかは、失いかけた、あるいは捨てかけた民族が辿るべき「元返しの法則」に、今があると思召せ。

TV映画のことではないが・・・。
言葉を聞き分ける必要に、今日本は迫られている。
誰から?、何処から?・・・。
「神」からである。


おりしも「オーム真理教」関連の裁判が、連日報道されている。
あなたは、それを許せるのか?・・・。
大きくは国民に問う。そして小さくは個人に問う。
しかし、自分と直接関係ない人間には、「そんなこと」どっちでもいいことなのだ。
この中に巻き込まれた者だけが、許し難い思いでTV画面をみているだろう。
魂(心)の奥深くに刻まれた「傷」が、あるいはその「怨み」が解かれるか癒されるか、はたまた救われるかは、誰が、何時、どのようにしたらいいのだろうか。
裁判の行方を追う彼ら「被害者」の心は、決してそんなところで決定する結論に安住の場所はないだろう。

彼らを「救う」のは、その心以上の体験を持つ魂の持ち主の「流した涙と汗と血」以外にはない。

『世界で一番の不幸ものとして生きよ』

この言葉を守護霊からもらった「ある婦人」の内容を、先日読み返しておりました。
彼女はその後、どうしていらっしゃるのでしょう・・・。
私も最近になって、つらつら思うことがございます。
さらに地獄の門番として、足りない数々をあせりながら数えております。
左脳で暮らす日々を、右脳で暮らすように切り替えるのもまた一つの方法であれば、日々心の「ひだ」を深く大きく刻みたく存じます。
「人というものは・・・」、とあの世つまり魂がほとばしる世界「霊界」において、思い通りに説明できるだろうか・・・。
言葉が魂と同一のものとして、私の霊の口からほとばしるだろうか・・・。


おりしも受験たけなわの時。
みーんな左脳に収めて、左脳の人生を送るところからは、霊(魂)は育ちません。
神の言葉なくして育たない「人の霊」は、東大に受かることも大切でしょうが、巷にあふれる言葉をより分ける能力を磨くことに重点をおいて生きることに邁進することでしょう。
めんどくさいけど、今から始めないと自分にとって霊界という門が開くとき、私のように慌てふためき、無様な姿を露呈するのみです。


すべて胆に命じ、また「ことのは(言葉)」は、すべて魂に刻むことを再度自分に言い聞かせながら、この数日をすごしております。

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