霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「職人魂」という哲学から学ぶ

2015年01月17日 | 心霊現象
これもまた、暇にまかせてTVを見ていた時に学んだことでした。
その番組は多分、「昭和偉人伝」といったものだったかと・・・。
今の「日清食品」の最初の頃。
「麺の神様」の異名をもつ初代社長の話から、今に至る「彼ら」の職人魂の話だったと記憶しています。

私が書いたメモ書きの抜粋だから、どこまでがTVの言葉で、どこまでが私の主観かさえおぼつかないが、一連のものとして書き殴っているので「ひとまとめ」として読んでくださいね。



『会える人』は、感謝して会わなければならない。
『会えない人』は、それ以上追っかけない。
つまり自然に任せてみる。
その向かう先に何の意図があるのかを、探してみる。
会わせない、会わせたい、といった目に見えない「意図」が見えたら、しめたものだ。
あなたは、目にみえないものの意を受け取ることを知り、その訓練を身に付けたことになる。

「何が何でも・・・」
この心は、ある意味積極的で拍手をしたいが、・・・時としては「我」のなにものでもない。
一端自分を置いて、静かに他からくるつまり「自分以外の意」に耳を、目を、気を傾けてみる・・・。
ん?、何?、すると?・・・。
ほらほら違うところからの何かの気配が近づくことを知るだろう。
気が強いということは、我が強いと紙一重であり、決して100%褒められることではない。

「点」は一つの言葉であり事象であるが、そのいくつかを結ぶとき、つまりそれを「線」で繋げてみれば形が現れる。
それが「わたしの点と線」である。
そしてそこに浮かび上がる「もの」こそが「あなた」へのメッセージである。
齢を重ねるということは、「それ」がはっきりと一目瞭然に示され、さらに逃げ場を失うほどに認識できる「わたしの生きる場所」を指し示す。
しかし日々を忙殺されし者、心を失って生きる者には、それが見えない。


「麺」この際「そば」としよう。
縦に長い日本の風土は、その食生活も味も多岐に渡ってきた。
麺の「つゆ」、つまりうどんやそばの「つゆ」」の違いは、日本の東西で分かれるという。
関東の濃い色の醤油味。そして関西のうす口の色の薄い醤油味・・・、と。
「ウナギ」(うなぎ、鰻)の裂き方も違う。
関東つまり東京では、「背開き」にし、関西は「腹を裂く」。
なぜか?・・・。
「鰻専門割烹」で一時働いたことのある私は、よくよくそれを教えられたものだった。
関東は武士の地。腹を切るのは「切腹」」を意味し、武士が嫌った縁起でもないこと。
だから背を開いた(裂いた)。
一方西方は、公家の地。
腹を切る風習はない。だから鰻の腹は裂いてもなんとも思わない。
そんなことが今でも続いているという。
こうして「土用丑の日」も江戸時代から始まったとされ、今に至っている。

さて、ではその味つまり「麺のつゆ」の味は、どこを境にして違うのか・・・。
日清食品の社員たちは、社長の命令を受け、社運を賭けて「それ」を捜しあてた。
それは奇しくも「関ヶ原」を中心に東と西に真っ二つにみごとに分かれたという。
従って日清食品のうどんやそばの「だし味」は、東西に出荷されるのを、味を分けて出荷しているとか~。
日本人の職人気質(物づくり)をまたここで見た思いがした。
さしずめ私は関東の「どんべえ」しか食したことがないので、西の薄い味は知らない。
しかし、かつて「金沢駅」の立ち食いそばを食べた折、「えっ、なんて薄くて底が見えるだしなんだ」と思って、一口味わってまた驚いたことがある。
まるで東京の味とは違っていた。薄いと思っていたのは色だけ、味はとてもおいしかった。
むしろ「だし」がよくきいた味だったことを覚えている。
「所変われば品変わる」とは、こんなことを言うのだ。
そして小さくて狭い日本だけれど、縦の長さを利用して?、所と品の違いに私達は知らず知らずにその恩恵を受けていることを知る。
日清食品にとって「初代社長」は神様みたいなものである。
が、最近の若者はいい意味でそれが薄れている。
つまり初代社長が発案され、いまだに売れ筋となっている商品に「手を入れる」などということは、ある意味タブーとされてきた。
が、消費者つまりお客様のご意見やクレームには耳をダンボにして取り組むという姿勢がある。
「チキンラーメン」という商品は、終戦後に焼野原の闇市を見て初代社長が考案したものだった。
安く、鍋一つで一食がまかなえるもの。そして満足出来るものである一品。
長い間味付きの簡単ラーメンは、インスタントラーメンの代名詞のようになって、今も味わい続けられている。
しかし「お客さま」は、こう提案(文句?)する。
卵を割って入れると、脇へ落ちてしまう。うまく真ん中へ座ってくれない・・・、と。
そこで若い販売員は考えた。真ん中に窪み、つまり卵が座る「ポケット」をつけよう~、と。
麺の神様に物申すなど、とんでもない!、と古参社員は震えた、が二代目(初代社長の息子)が後押しをした。
怖るおそる「若い考案者」は、社長の前に出た。
黙って聞く初代社長(会長・相談役)は、首を縦に振った。
今では「たまごポケット」は、あたりまえ。どの「チキンラーメン」にも麺の中心に窪みがついているそうな。

彼らの「次の商品」は、宇宙へと飛んだ。
宇宙食に麺は可能か?・・・。
この発想から、今ではアメリカのNASAへの「宇宙食・麺」の出荷がすでに行われている。
さあ、次は「何」に彼らは挑戦するつもりだろうか?。その根底には、「人が喜ぶ、幸せ」のためというモットーがあることを今も忘れてはいない。



話は変わるが、あなたはご存じだろうか?・・・。
カリブ海底を泳ぐ「まっこうクジラ」が、こんな生態だったことを。
それはね・・・。
素潜りの名人、この人は日本人の女性。
インストラクターと一緒に器具は何もつけないで素潜りをするのだ。
人が人として相手(クジラ)に映るのかが、その目的である。
案の定「クジラ」は最初遠巻きに泳いで、相手が何ものであるかを確かめようとする。
しばらくして何かを認識すると、ようやく近寄ってきて「何かの音」を出しながら人の周りを泳ぎ始める。
そして時間をかけた末、手を延ばせば触れるくらいの所まできて一緒に泳ぎ始める。
早く、そしてゆっくりと、さらにターンをしながら「まるで会話を楽しみながら泳ぐ二つの個体」のように寄り添いながら広い海を自由に泳ぐ・・・。
時々息継ぎのために海面に顔を出す「彼女」を見守るように、一緒に海面へと姿を現しながらまたまた海の中へと共に「遊びまわる」。

船に上がった後、現地のインストラクターは彼女にこう言った。
「最初は警戒しているのが分かるだろう。が、自由自在に泳ぎを変える彼女の動きに慣れてきたクジラは、途中からある音を出し始める。相手が何ものであるかをそれによって確認するためだよ。
つまり人間を認識した後は、男か女かを認識する。もちろん彼らはそんなこと簡単に出来るさ。さらにね、その女性が妊娠していたら、それさえも分かるという「クジラの認識力」があるんだ・・・」と。

それを聞いて私は絶句した。


自然いや、この地球を含めた大宇宙は、私なんぞが全く知らない部分でいともあたりまえに動いていることを知るのです。
人智を超えた「神の領域」に守られながら・・・。




以前に書いた「亀田製菓」の「ハッピーターン」という商品。
これも「幸せがお客様へとまた返っていくように」との願いから、「ネーミング」されたことをお知らせしたと思います。
「想い・思い」が伝わるとき、何がどう伝わるかをむしろ恐れなければならない私達です。
悪しき想いは、持たないにこしたことはないが、・・・、そうだ一度クジラと泳いでみましょうか。
彼らは「こちらの正体」を見破って、とっとと逃げていったりして~。
笑いごとではありませぬぞ~。

『カリブ海のクジラが見破るわたしの正体』なーんて、小説の題名にもなりゃしませんねぇ~。


日本の若者が継いでくれない「職人技」あるいはその魂を、中国の若者に継ごうとした職人さんの話。
結果、彼らは諦めました。
0,1ミリ、あるいはそのもっと微妙な寸法を、指の感触一つでみごとに造りだす「日本人の細かさ」は、到底教えても、訓練しても習得不可能だったようです。
そのようにして、いくつもの職人芸といわれた技や商品が「この世」から消えていく憂き目にあっています。
「もったいない!」。この世から消えてなくなる文化文明とともに、その根底を成した魂が消えるとき、もはや観ることも触ることも使うことも出来ない「代物」、つまり幻の職人魂が生んだもの「逸品」を葬り去った歴史の汚点を、今に見る思いがいたします。



今あなたは「どんな想い」で、仕事をしているか・・・、との上役の問いに対して・・・。
私は「こう」答えました。
『初心に帰れ!』と。
そしてまたこうも言いました。
『このような介護を、わたしは望んで受けたいと思うだろうか・・・』とも。
この言葉をどうとるかもそれぞれ違うように、この私が本当に言いたかったことは(心は)、どこにあるとお思いだろうか。
謎かけといえば確かにそうでもあるが、何一つ含むところなく、その言葉通りでもりっぱに通用しはしまいかと、間髪を入れず答えた自分の答えに、今深く思いをめぐらす「わたし」でもあります。

待ちに待った?70歳にあいなりましたぁ!。
一日一日を大切に、この世の見納めとばかりに集中して過ごしたいと、本当に思う今日このごろでございます。
今後とも、よろしくお願い申し上げます!。