高住神社公式ブログ

英彦山豊前坊高住神社の公式ブログです。

豊日別神考察① 遠賀郡水巻町【豊前坊山】

2012年04月10日 15時07分00秒 | 豊日別神考察

はじめに・・・

【豊日別神とは何か?】

豊前坊高住神社はかつて豊前窟として英彦山天台系修験の行場の一つに数えられ、それに付随するように天狗信仰と鎮火加護という修験道の影響を色濃く残す側面、水源地に位置するため農作との関係も深く、利水・牛馬守護など農耕に深く関わる信仰が各地に伝播され点在しているものの、はっきりとした由緒来歴はようと知れず。その存在は不明瞭で、こうした重なってできた多層的な信仰ゆえに、豊日別神は一言では言い表せない存在となっています。

豊前坊と云えば天狗神のイメージと繋がるため幾分か輪郭が掴めますが(天狗自体のルーツは別として)、この『豊日別神』という神話上でも名前しか出てこないおぼろげな存在を、信仰形態から明らかにすることは可能なのか。

それを各地に伝わった高住神社(もしくは豊前坊・豊日別社と名づけられた)分社や地名から考察し、どのような信仰の元で勧請されていったか、歴史のミッシングリンクを繋ぐべく調査した結果を報告してゆきたいと思います。

 

 

第一回は、遠賀郡水巻町にある豊前坊山

どこから調査を始めるかにあたり、まずは彦山川の流れを汲む遠賀川水系周辺を探査してみました。

このあからさまにも豊前坊と名のつく山。水巻町総合運動公園のそば、えぶり小学校の北側に位置する標高75Mの低山。近辺には多賀山・明神ヶ辻山といった低山があり、ハイキングコースになっているようです。

 

川沿い73号線から見た豊前坊山。手前にあるのがえぶり小学校。

えぶりとは「杁」と書き、田をならす農具のこと。

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近くに架かる橋には「豊前防橋」と書かれています。防はおそらく“坊”の間違いでしょう。

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豊前坊山の中腹には旧村社・久我神社が鎮座しています。

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この辺りは久我村、または古賀村といい、杁村・頃末(比末)村とあわせて三村の産土神として祀られ、元は久我嶽(所在不明)の麓にあったものが落石損壊によって豊前坊山に遷座された模様。

その際に豊前坊山にあった高住神社(旧称豊日別神社)が近隣の神社とともに合祀され、現在に至る、といった経緯が境内由緒看板に綴られています。

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久我神社祭神は[彦火火出見尊 彦波瀲武ウガヤ草葺不合尊 玉依姫命]とあり、あわせて合祀された祭神が記されています。

福岡縣神社誌によると、豊前坊山にあった高住神社の祭神はカグツチ命と疫神斎とあり、由緒と神社誌と照らし合わせると、直日神と禍津日神がこれに相当するかと思われます。

尚、合祀された神社と祭神は以下の通り。

・古賀字古城(または城山) 高住神社(無格社)

 境内社稲荷神社 [宇賀神]

 境内社保食神社 [稚産日神]

 境内社石落神社 [地主神]

・古賀字京原 多賀神社(無格社) [伊弉諾尊]

 同境内社天満神社 [菅原神]

・古賀字惣仙洞 貴船神社(無格社) [闇龗神 罔象女神]

 同境内社厳島神社 [市杵島姫命]

 同境内社幸神社 [猿田彦命]

 同境内貴船神社二社

 

 

写真が久我神社社殿。掛けられた額には久我宮とあり、右下には古びた石の額が立てかけられていました。

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八葉蓮華を模した石作りの扁額は「豊日・・・」と読めなくもないようです。当神社に残されている扁額と同様なことから神仏習合時代のものでしょう。時代は記されておらず。

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高住神社が鎮座していた場所に久我神社が移ったのかまでは由緒から判断できなかったので、山頂まで足を運んでみることに。

 

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山頂には古賀城址と記念碑が建っていました。

「遠賀郡誌」によると豊前岳神社(高住神社)は

『高住神社と称し、豊前坊山(郡の中央と云)に麻生左ヱ門太夫鎮里創立せしが、麻生氏亡びて社殿頽破に及びけるを宝永六年(1709)八月本郡中より神殿を再興して鎮守神とし奉祀せり』

とあります。

また水巻町誌によれば、この神社は彦山系統の山伏など住んでいたのではないかと推測されるが具体的な話は伝わっていない。神託によると「吾れ此磐根にある事久し、天下国家の為人民の病苦を救ひ、刀剣の業を司り、火災を防ぎ、牛馬の蕃息を守る」とあり、立屋敷村では正月の豊前坊のお籠もりといって、笹の葉と、とべらの枝を厩にさして牛馬の悪疫除にしたり、杁村でも戸毎に芦屋にお汐井を採り、山頂まで参拝していた習わしがあったとされています。

英彦山から持ち帰った笹を牛馬に与える風習、そして民間信仰でトベラはその悪臭から門口に下げることで魔除けになると言い伝えがあることから、やはり牛馬の守り神として崇められていたのではないでしょうか。

頂上には社の台石や手洗鉢が、またオガタマやサカキ、マキの木など宮の杜に相応しい木々があるとのこと。樹種までは判別できませんでしたが、人為的に植えられたようにも。

 

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頂上付近には石垣が積まれており、これは山鹿城主・麻生氏の出城の名残でしょうか。この高住神社は麻生鎮里の篤信によって創建され、麻生氏の滅亡とともに社殿も頽破したのを憂いて宝永6年(1709)に再興されたとあります。

麻生氏は遠賀川水域の年貢輸送や物流の通行権を握っていたことから、上流にある彦山を見過ごせなかったようにも思えます。豊前坊と水系は違いますが、領有地を護る砦として武勇勝れる天狗の験力と、水利権・農地灌漑の守護として勧請したのではないでしょうか。

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山頂から見た響灘方面の眺め。展望は良く、出城として好適の地。

社の跡ははっきりと分かりませんでしたが、響灘を向くように石仏が祀られていました。

 

先の久我神社は元の名を伊豆神社として久我嶽の麓にあったのが諸々の事情により亀の甲へ移り、宝暦9年(1759)伊豆神社から久我大明神と改め、のち明治43年(1910)12月28日に現在の地へ遷座、それに併せて高住神社を含め各神社と合祀されたと記されています。

ここの高住神社はカグツチ命と疫神とこちらの神社と祭神が違いますが、カグツチ命は愛宕系山岳信仰において重視される火伏せの神として、また疫神はそれを丁重に祀ることで疾疫から逃れようとする信仰から直日の神が祭られたのかも知れません。神託にあるように火難と病苦から逃れる点では元宮と同質の意味を持っているのではないでしょうか。

 

 

以上、現地と資料を照らし合わせて至った考えですが、豊前坊信仰が彦山川とともに流域に下っていったということで筑前国にも信仰はあった証とまで。

遠賀町側にも豊日別神を祀る社があったのですが、所在地をつきとめられず。

それはまた後日探してみます。

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