本屋タカクラの日記

野良(放浪)書店員の日常 25年あちこちの書店で働いた元書店員で現在ライターのタカクラミエです。

8年ぶりのブックオカ 星野博美さんトーク2

2022-11-30 17:24:52 | ブックオカ
ブックオカとわたくし。6

星野さんと別れたあとで藤村氏が「せっかくやから箱崎宮に面白いものあるし、5時半くらいにきてくれたら僕案内します」と言う。「馬」に夢中になるあまり蒙古軍に興味がふくれあがっているらしい星野さんに見せたいものがあるという。じゃあ、そのように提案してみましょう、とばかりに別れるまえに交換した携帯番号にショートメッセージを送る。「タカクラです。藤村さんが箱崎神宮にぜひご案内したいとのことなので5時にお迎えにあがります。かまいせんでしょうか?」
 星野さんに了承いただいて、KBCシネマに向かうという田村先生について行き、『裸のムラ』(五百旗頭幸男監督)を見ようと思うが、田村先生に「え? それ見たいやつです」と言いながら横目に入ったのが福岡アジア美術館。金カム(ゴールデンカムイ)展やってる!! 映画の方はもう上映が始まっている時間とのことなので、金カムに行くことにし、田村先生と別れを告げる。金カムは原画の迫力と、資料にされたアイヌの衣装や道具の展示がよかった。ウエブで全話公開の時に読んだのを、現在紙のコミックを買って読み直し中なのだ。展覧会を見終えて小一時間の時間があったので、「本のあるところajiro」でお茶を飲むことにする。ブックオカ「激オシ文庫フェア」が開催中のはずだ。藤村興晴氏の激オシ、中井久夫『「伝える」ことと「伝わる」こと』(ちくま文庫)が目に付く。12月のNHK100分de名著のテキストは中井久夫だ。美味しいアイスコーヒーをいただいて、星野さんのホテルへ向かう。どんなに目をこらしても読めないマップの文字を薄目で眺めながらホテルを通り過ぎ、戻ってちゃんと5時数分前にホテルのロビーに到着した。57年も生きたので、「なにかはやらかす」のだから早めに着いとく、という知恵だけはなんとか身につけた。

 中井先生の本に、「はじめに」の冒頭から随分と刺される。
<私は、治療者は患者の代弁者であってよいと考えている。一般社会の側からの要請と患者への治療的誠実との間に引き裂かれると、治療者は実りのない苦悩に追い込まれる。>
患者の家族からは、患者の肩ばっかり持って、的なことを言われることも少なくないそうである。そのときは、じゃあ誰がほかに患者の肩を持ってる人がいますかときくと家族はようやっと納得してくれるのだそうだ。
 同居人がまだ入院していたころ、脳の機能がどこまで阻害されているのか、後遺症はどんなふうに残っているのかさっぱりわからなかった時期のことだけど、妄想のようなことを言ったり、理不尽なことを言ったり(言うといっても、文字盤の文字を目で示すのだけど)して、どう反応していいのかわからないことがあった。寒いから(感覚異常という後遺症があった)
「病院のエアコンの温度設定をあげるように言って、あげてくれないと金を払わない」
と、病院に言えというのだ。病室のエアコンは切るわけにはいかないけど吹き出し口に段ボールを貼り付けて同居人の方向に風が来ないようにはしてくださっていたし、毛布や布団をかけてはいたが、寒すぎるというのだ。(本当にそれでエアコンを温度を上げたりしたら、今度は熱中症のお年寄りが出てきちゃう)
「寒いというのは、病気の後遺症で寒く感じてるだけど本当は室温は高いし、あんたは汗だくやで」と言っても、病院に言ってこいときかない。この人は、こんな理屈もわからなくなってしまったんだろうか、これも後遺症なのだろうか。と考えていて、ハタと思ったのだ「後遺症で正しい判断ができなくなっているんですよ」と仮に医者から言われたとしたら、じゃあ、この人の言うことを全部無視してもいいということになるのだろうか。
ならんだろう。
じゃあ、わたしは、いったい何を悩んでいるんだろう。後遺症だったらなんだというんだろう。寒いと言うからには、寒いのだ。もちろん、じゃあ、病院の偉い人のところに乗り込んで言って「金ははらわんぞ!」と恫喝するわけにはいかないが。

ブックオカとわたくし。7
 「本のあるところajiro」さんを後にして、ホテルに向かう。ひっそりとしたロビーの椅子に腰掛けて、降りて来られるのを待つが、なにかガタイのいい男性の集団が到着し一気にロビーが密密になる。朝食券などを配られている30代〜40代のガタイのいい男性の20人くらいの集団。何の集団か、と妄想を始めたところで星野さんが登場。妄想は始まることなくホテルから出る。地下鉄の天神駅の方まで戻ればいいのだから、こっちの方向だと地図などは見ずに(見ても見えないから)、星野さんのご案内するべく先にずんずん行くが天神の北(街の中心地より少し外れた場所)から天神の中心地に向かっているはずなのに、どんどん寂しい感じになっていく。ど、ど、どうしたことか、何かが間違っている。「あれ、なんか‥‥」ということを口に出したかもしれない。
星野さんが
「駅のほうに戻ればいいんですか? それならこっちです」
星野さんの案内にて無事に地下鉄天神駅に降りる口を見つけ、「地下に降りたらもう完全にわかります」(地図を見なくても)と胸をはる。迷っている間にも、なぜゆえに橋口譲二さんのお弟子さんになったのかなどの意外なきっかけなどを伺い、最初に読んだのは『ベルリン物語』なのだときいて、わたしが大好きな本だったので嬉しがっていた。星野さんは1966年生まれなので、一つ年下なのだが早生まれで学年は同じだった。丙午なんですよ。あ、人数が少ない‥‥。そう! なんて会話を交わしながら、その日はまだ「馬の帝国」http://gakugei.shueisha.co.jp/yomimono/uma/01.html
の第一回を読んでいなかったので、その会話に重大な秘密が隠されていようとは思ってもみなかった。(ぜひみなさん読んでみてください。目が白目になります)
 午後5時半に地下鉄箱崎宮前(はこざきみやまえ)駅にて待つ藤村氏と合流。藤村さんが見せたかったのは、筥崎宮楼門に掲げられている扁額である。夕闇にライトアップされて浮かび上がる楼門はそれだけで美しかった。ひとっこ1人いない状態(いた、参拝者が1人)で、夜にここを見上げたのは初めてのことだった。


ブックオカとわたくし。8
  筥崎宮の扁額の言葉「敵國降伏」の意味を考えつつ、トーク会場のカフェキューブリックへ向かう。キューブリック箱崎店さんに行くのも8年ぶりだ、と言いたいところだが、九大病院に入院&通院している関係上、結構ちょこちょこ来ているので、それは嘘である。ただ2階のカフェに入るのは8年ぶりだった。店主大井さん(ブックオカ実行委員長)に会うのもほぼ8年ぶり。同居人が倒れたときに病院まで見舞ってくださって以来である。ネット上や新聞記事などで活躍を目にしているので、久しぶり感はこっちにはぜんぜんなかったが。
 星野さんはキューブリックさんが初めてなので、興味津々でお店を見て回られている。わたしもやっぱり本屋さんに来たら買う予定がなくても棚を見てしまう。そしてずっしり重いトートバッグをさらに重くしてしまうのだった。伊集院光『名著の話』(KADOKAWA)ともっちもちのパン(キューブリック箱崎店にはパン工房BKベーカリーがあり、そこで焼いたパンが一階の書店の中で売られているのだ)を自動的に買う。
 トークが始まるまえに2階のカフェ部分にあがり、椅子やテーブルの配置などを手伝おうとするが、8年ぶりの幽霊ブックオカ実行委員(委員長の次に年寄りなのに)なので、まったく役に立たない。受け付けを藤村さんに頼まれるが、受付表の氏名の一覧が見えるかどうか一瞬不安になり覗き込む。読めた。大丈夫。しかし、その不安を鋭く見てとった(のかどうか)カフェのスタッフのかたがさっと引き取ってくださった。自分のロートル具合が身に沁みる。迷惑を(なんとか)かけてないだけでもヨシとし、トークについているドリンク券でクラフトビールをオーダーし観客に徹することにした。
 ビールがうめえ。染み込む。いろんなものと共に。

ブックオカとわたくし。9
 眼述記の締め切りの週なので、誰からも頼まれない文章を書いてる場合ではないのだが、忘れないうちに。
 星野博美さんのトークがいよいよ始まる。の前に、登壇まで数分客席に座っている私の横に来てくださり、少し話す。すっごい面白い話を伺い手帳にメモ「銀行強盗のたとえ」。すっごい面白かったはずなのに1ミリも思い出さない。誰か!!助けて。メモを書いたので安心したせいかビールのせいか。老化か。
 2時間半のトークがあっという間だった。
星野さんが当日福岡に向かう飛行機に乗り遅れた顛末から。寝坊だったらしいのだが、どうしたらいいのかと「ANA 遅刻 どうしよう」で検索したら、アドバイスがネット上で見つかったのと、これまでの旅の経験から「とにかく人と話そう」と思い、羽田で人がいるカウンターに並び人に話したら、次のチケットに無料で振替えてもらえたのだそうだ。通常の手続きを踏むならキャンセル料などを払わないといけないやつである。
中国の旅などでもそうなのだが、理不尽な目にもたくさんあうけど、今回のように「神のような人」が現れて助けてくれるのだそう。
 トークはA面パートで、『世界は五反田から始まった』(ゲンロン)についての話があり、 B面パートでは集英社のサイトで連載している「馬の帝国」
http://gakugei.shueisha.co.jp/yomimono/uma/list.html
についての話。
 A面では、自分は五反田の話を書いたけれども、誰の故郷にも通じる話であると思うので、「自分を題材にしてみなさんじぶんのことを考えたら面白いんじゃないですかという提案のような話」とのことであった。しきりに福岡は面白い、と言っておられた。印象に強く残ったのは「戦争を語りたくはなかった。準備ができてないと思っていた」という言葉。星野家は幸運なことに戦争で亡くなった人がいないのだそうだ。そんな立場で書けることがあるのだろうかと。工場で作る部品は戦時中は戦争に使われていたことも、星野さんのなかで「罪悪感」のようなものとなっていたらしい。
 星野さんの本には常にこの「罪悪感」が拭いきれずある。香港にいるときは「戦争の加害者側だった」という意識。
『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)を書いたときにはスルーしていた戦争のことは心残りだったそうだ。
 「声を大にして言いたいのは、NHKの番組「ファミリーヒストリー」よりも、『コンニャク屋漂流記』の連載の方が早かったということです!」と笑っていた。
 家族の歴史を調べるのはお寺と墓石をまず調べること。あとお仏壇の中の過去帳は案外あてにならない。なぜなら、星野家の過去帳には星野さんのおばあちゃまが「友達」の名前やら「動物」の名前を書き込んでいたから(それは星野家特有の問題では?とちらっと思ったが、最近同居人(という名の夫)の実家ではお位牌行方不明事件などが起きているらしいので、まあそんなもんか)。


ブックオカとわたくし。10(最終回)
 星野博美さんトークはB面に移り、なぜ「馬」なのか、馬との出会いは五島の自動車学校にいた5頭の馬。五島で免許取得合宿することになったいきさつや、もともと丙午の生まれであること。馬という動物が好きなことなど。五島での話は『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)に詳しい。五島に興味なくても馬に興味なくても免許に興味なくても面白いから読んで(逆に、なんでそんなになにもかもに興味がないのかキミは。キミって誰やねん)。
 車にも乗って馬にも乗ってるな、なんて考えたら「馬って乗り物」ということに気づく。馬に乗っているのは誰だろうと考えると、昔は圧倒的に兵士だった。というところから馬がいる地域の歴史が気になり、旅行もモンゴル、トルコ、スペイン、南相馬、と馬がいるところばかりになっていったそうだ。
 聞き手を務めた忘羊社の代表、藤村興晴氏の合いの手や質問も面白かった。
 星野さんが飛行機に乗り遅れて慌てていたのは、前日のブックオカ&西南学院大学のトークイベントで福岡入りされていた角田光代さんとの再会を果たすという目的があったためである。朝、乗り遅れたという一報が入ったおりに、藤村さんは角田さんのほうに「のっぴきならぬことが起こり、遅れるやもしれませぬ」的なことをお伝えしていたらしいのだが、昼食会場にだいぶ遅れて到着した星野さんが、到着するなり「寝坊しました」にひっ、とすぐに真実を告げたため、「僕ののっぴきならぬという言い訳がだいなしに‥‥」と言いつつも、その星野さんのケロっと感がとてもよかったし、「星野家は<生き延びろ>というまえむきさがある?」と藤村氏が質問し、星野さんが遊牧民系(漁師)だからと答えて、今日は飛行機遅刻、昨日はsuicaをなくすという失敗をしたが、座右の銘「5分落ち込め、あとは立ち上がれ」を思い出していたそうだ。
 盛況のうちにトークは終わり、ライブ配信を聞いていた人からの質問なども入り、終了後はサイン会が行われた。会場に来ていた実行委員で読婦の友の徳永圭子さんが後ろからにゅーっと現れて、すごい忙しくて八面六臂の彼女に会うことは貴重な機会なので星野さんのトークにきて一粒で二度も三度も美味しいのだった。噂だけ聞いていた流しの編集者O河氏に初めてお会いし、共通の知人が多いので打ち上げ会場では昔話でちょっと盛り上がった。その知人が、星野さんの本に関係があったりもしたので、夜分なのにメッセンジャーを飛ばして「のんでまーす」とかやって、もうアホの酔っ払いである。すみません。
 書評を連載している雑誌『のぼろ』(西日本新聞)の編集者でもあるW気さんとも初めてゆっくりお話しし(たぶん、というのはすごい昔に酔っ払って会ってるかもしれないから)たり、キューブリック店主の大井実行委員長のパンク話(ライブで盛り上がって、ブルーノートに殴り込みをかけた話。その殴り込みは「このレコードをかけろ!」とパンクのレコードを持ち込むなど)でまた盛り上がる。(どうかしてるな)
 ほどよく終電がなくなった頃に帰路につき。家でもう一杯やってからばったりと眠りましたとさ。
 翌日、星野さんと志賀島や西新の防塁など蒙古軍に関連のある場所をめぐっている藤村氏に『世界は五反田から始まった』の最後のところの、空襲を受けた工場を再興するぞと決意したおじいさまの手記のところの顛末が本当に大好きですと伝えて欲しいとメッセージする。ニマっ、と笑ってくださったそうだ。
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8年ぶりのブックオカ 星野博美さんトーク

2022-11-25 09:33:24 | ブックオカ


ブックオカとわたくし。
(写真は、カフェ&ギャラリー キューブリックでの星野博美さんのトークイベント)
 同居人が発症したのは2014年の11月10日の午前2時ぐらいのこと。ブックオカ9年目の会期中だった。前々日の8日には末井昭さんのトークイベントがあり、忘羊社藤村氏と二人で聞き手を務めたのだった。
 ブックオカの期間中は何かと外出することが多く、子らだけを置いて夜間家を開けることはできないので、京都から同居人の母上を毎年召喚していたのだが、子らが大きくなったことと、同居人’母上の負担が大きすぎる(息子に呼ばれて福岡までやってくるが、なんのおもてなしもされず、嫁は二人の子を置いてしょっちゅう家を留守にし、だいたい大酒飲んで午前さまなので翌日もあんまり使い物になんねえ)ので、ここ数年は召喚せずにいた(正直に言えば、お誘いするが断られた)。昼間のイベントなどには子連れで行き手伝ってもらったりもしていたが、夜間のイベント時は同居人が早めに帰ってきて、独身時代からお世話になっている中華料理店で夕食というパターンが多かった。子らも高1と中1になっていたので、夕食だけ用意すれば子らだけでの留守も大丈夫だったが、そのへんは同居人が心配性なので、大人がいない家で夜を過ごさせることはなかったと思う。
 実行委員をつとめてはいたが、打ち合わせなどの事前の夜の会合には出るのを見合わせていた。夜間に外出したあとに子ら(おもに下の子)の調子がちょっとくずれたり、なにか異様に甘えっ子になったりと、気になることが重なり夜間に外に出るのがよくないのかなあと(気のせいかもしれんが)思ったのだ。しかしその子も中1となれば、親なんかたまにはいないほうがせいせいする(はず)である。テレビも好きに見れちゃうしね。
 と思い始めた矢先に同居人が脳梗塞の治療中に脳出血を起こし、それは随分と重篤なことで、外科手術により命は助かったが脳の両側にダメージを負い両上下肢マヒという後遺症が残った。そして自宅に戻り今にいたるのだが、24時間介護者が必要な状態なので、わたしは簡単に外出できなくなり、ブックオカのことはなにひとつ手伝いすら難しくなったのだった。
 そして8年。今年のブックオカには星野博美さんがいらっしゃるというではありませんか! 5年まえにもいらしたのだが、そのときは夜の外出なんて夢のまた夢だったが、今年は大学を卒業した長男が自宅に戻ってきている。もしかしていけんじゃねえか!? と画策しだしたのが2ヶ月ほど前のことだった。



ブックオカとわたくし。2
 画策と言っても、長男ミエゾウに、「すいません、11月19日の土曜日に夜出かけたいんですけど、いいですかね?」と聞くだけなんだが、その間の同居人のあれこれを全部任せるということだ。同居人を誰かに託して家を夜空けたことはこれまで一度だけで、夕食介助のヘルパーさんが帰ったあとの夕食後から入眠までの2時間〜2時間半の間の介護をミエゾウに頼んで古巣の職場のOB宴会に出かけたのだった。それが去年で、7年ぶりのことだった。イベントに出るとなると夕方から出ないとだし、夕食の準備も必要だ。もちろんミエゾウはこころよくオッケーしてくれて、わたしは遠足を待ち望む子供のようにウキウキして過ごしていた。でもせっかくお会いするのだから、星野博美さんの新刊だけでなく既刊もちょっとおさらいしとこうと『コンニャク屋漂流記』(現・文春文庫)を読み始めたら面白くて面白くて、星野さんの大叔母(にあたるのかな)のかんちゃんの話には、ちょっと声が出た「ロドリゴ以前以後て」(腰が砕ける)。
 そしたら、なんと前日トークをしてくださった角田光代さんと星野博美さんがその日のお昼を福岡でご一緒なさるとのことで、そこに混ぜてもらえることになったのだ! ミエゾウに「すいません、19日お昼前から出てもいいですかね?」とオズオズと申し出て快諾をもらったのだ。一昨年わたしが入院していたときは、大阪から帰ってきて父親の介護をしていたので一通りのことはできる。ただ、それから細かいことが加わったり省かれたりと変化しているので、それらをマニュアルとしてレポート用紙2枚にまとめて申し送りをして、まだ読んでなかった角田光代さんの新刊『タラント』(中央公論新社)を、いろんなものを薙ぎ倒して読んだ。星野さんの『世界は五反田から始まった』(ゲンロン)は、星野さんの祖父の手記をもとに五反田を読み解といていく物語であり、そこには避けようもなく戦争が浮かび上がる。『タラント』も、主人公みのりの祖父とみのりの甥の3世代の人生を交差させながら「戦争」を描いていて、決して偶然ではないだろうそのテーマの共時性に1人でふるふると震えたのであった。



ブックオカとわたくし。3 (写真は、お櫛田さんから天神方面に向かう途中にいた宇宙猫)
 星野博美さんのトークイベント当日の朝。前夜は夜間体位交換のヘルパーさんが入らなかったので、0時半と2時半と5時にわたしが体交し、6時40分に目覚ましが鳴る。そこから家を出る11時まではいつものルーティンをこなしながら、息子の夕飯も作ってしまって家を出る。出る前に指差し確認、『タラント』は持った。サイン(書いていただくようの)ペン2種類は持った。マスクの替え、アルコール消毒用スプレー、差し上げる用の『平成ロードショー』2冊(に、出版のいきさつを書いた「眼述記」のコピー)、忘れちゃいけない前夜に新しく作った名刺(いまどき名刺は家で作れるからいいですな)。よーっし、と出かける。家をでること5分。あれ? せっかくお会いするのだからと父親の家に預けていたのを急遽送ってもらっておいた星野さんの『転がる香港に苔ははえない』とか、お師匠さんの橋口譲二さんの『ベルリン物語』とか共著の『対話の教室』とかは!? まるっと忘れとるやん。きびすを返しつつ息子に電話「すみません。本を忘れました」とタイトルを言って、駐車場まで持って降りてきてと頼んだ。指差し確認までしたのに。いつも何かを忘れるのである。
 気を取り直して、急に重たくなったトートバックを背負い直し、いざ!
 昼食の会場はお櫛田さん近くのお蕎麦やさん信州そばむらたである。本当に便利になったものである。ぼんやりと場所を頭にいれて出かけて必ず迷う、という人生を45歳くらいまで送ってきたのだが、そのあたりでスマホという恐ろしい機械を手に入れた。もう道に迷うことはないのだ! だってスマホに地図が入ってるもん。
 何を隠そう、わたしは超がつくほどの方向音痴なのだ。ブックオカの記念すべき第一回2006年のトークゲストは都築響一氏で、ホテルまでの道案内をわたしが仰せつかった。『TOKYO STYLE』(現・ちくま文庫)時代からのファンだからだが、ホテルの位置を家のパソコンのマップで確認してきたはずなのに、自分が思っていた角を曲がっても目的のホテルは無くて同じところをぐるぐる回ったのだった。都築さんと2人で。憧れなのに。
それでたいへんに反省をしたはずなのに2008年のブックオカの書店員ナイトで「本屋大賞」の実行委員さんをゲストにお迎えしたときに、またもや会場の博多百年蔵を探し求めて見当違いの方向に連れて行こうとして同行のブックオカ実行委員に空手チョップを見舞われた(嘘)のだった。
 8年ぶりのブックオカのイベント参加なので記録にちょっと残しておこうと思ったのに、なかなかイベントの会場に辿り着かないのは、迷い癖が抜けないせいなのかもしれない。スマホ持ってるのに。

ブックオカとわたくし。4
 信州そばむらた は有名なお蕎麦屋さんだ(たぶん)、有名でなくとも店名を入れればたいていの場所は示してくれるGoogleマップさまの偉大なことよ。もちろん家のパソコンで場所を調べてだいたいのことは頭に入れてでかけてますよ。最寄は祇園駅だ。地下鉄駅で注意しないといけないのは、自分が何番出口から出るつもりで、その出口は地図上のどこなのかということだ。地上に出た瞬間に、頭に入れた地図上のどこに出てきたのか皆目見当がつかない場合が多々あっていきなり迷うのである。でもそれで迷うのは過去のわたしである。お櫛田さん近くのキャナルシティ博多の本屋さんで4年も勤めていたので土地勘もある(はず)。万が一のことがあっても秘密兵器スマホがある。なんなら声にだして案内してくれる機能もある。
 とか前置きしてるのはもちろん地上に出た途端、どこに出てきたかわからなかったからなのだが。慌てず騒がずスマホを開く。「吹けよ風、呼べよ嵐」が頭の中を鳴り響く。勝利へのファイティングポーズ。笑い出しそうになるのを堪えてマップを開く。あら、ちょっと字が見にくいわね。スマホって便利ね、二本指でぱっと拡大できるのよ奥様。
奥様知ってます? スマホのマップって拡大しても字はちっとも大きくならないんですのよ。頭の中の音楽がたちまちしょぼーんと停止する。忘れてた! 久しぶりすぎて忘れてた老眼にGoogleマップは役にたたねえ。コンタクト入れてるから究極技、<裸眼で見る>がつかえねえ!! 
慌てるな、声のナビがある!

「南西方向に100m」

南西方向がわからねえ!!!

書いてて、ちょっと疲れました。



ブックオカとわたくし。5
 老眼にスマホのマップの文字は辛いという話だが、近くが見えないなら遠くを見よ、である。で、遠くを見たら博多駅が見えた。それでだいたいの位置関係がわかったので、櫛田神社方面に歩き出す、そしたらどっこい、マップの、それだけはよく見える現在地マークがナビの道筋と逆方向にいくではありませんか(驚愕)。近くも遠くも信じられない。しかし、小さい文字は見えないが、いま自分はナビの指し示す道と反対方向に向かったことだけはわかった。きびすをかえす。
 まあ、そんなすったもんだがあって予定通りの時刻にお蕎麦屋さんに到着。角田さんと、忘羊社藤村氏と西南学院大学の田村先生と学生Mさんの四人で、飛行機に乗り遅れた(!)という星野博美さんの到着を待ちつつ昼食。信州そばむらたの二八蕎麦がびっくりするほど美味しくてびっくりする。つるっつるに喉越しがよくて、そしてもちもちの大好きな硬さ。今まで食べたお蕎麦の中で一番美味しかった。
 編集者の仕事とは何ぞやとか、南方熊楠がお金持ちのおうちの出だとか、縦横無尽に貴重なお話を伺いつつ一同食べ終わった頃に星野さん到着で、何年ぶりかにお会いになる2人が会えて良かったということでお櫛田さんへそぞろ歩きつつ記念撮影などし、おりしも行われていた結婚式の集合写真に混ざりそうになりつつ、通り過ぎた。通り過ぎてほどよく離れたところで、振り向いて星野さんがその結婚式の集合写真の皆様をスマホのカメラでパチリと撮っているところを目撃して真似してわたしもパチリ。
 角田さんには、『タラント』を読んで、アフガニスタンで井戸を掘っていた中村哲先生のおっしゃっていたことと同じことを言われた気がしたとお伝えしたけれど、うまく伝えられなかったかもしれない。中村先生は、何十年も、アフガニスタンで、医者なのに井戸を掘っているのは何故かと問われると「出会っちゃったから」と言われていたという話と芯のところで同じことが書いてあると思ったのだ。
 東京に帰る角田さんとお別れして、夜のトークまで時間があるので一同もそれぞれに散っていく。天神北の方のホテルに一旦荷物を置きに行くという星野さんとも別れるが、わたしは特に予定も入れてなかったので(天神に来るのも久しぶりだから行きたいところはあったが)、星野さんのホテルまでお迎えにあがりましょうかと提案する。どの口でそんな提案ができるのかわたしは。と思ったが、もう口が言っていた。
 せっかくお会いしたのに、迎えに行けば2人でお話しすることができるじゃないかと、わたしの下心が口からでたのだった。
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検査結果

2022-05-07 17:54:13 | がん日記
検査の結果は異常なしであった。
4ヶ月に1回CT検査を受けている。昨年までは2ヶ月に1回だった。次回のCTで問題なければ、ちょうど下咽頭癌の治療から2年が経過するので、CT検査は半年に1回にしていいだろうとのこと。検査の結果が出るまでドキドキするかと言うと、まあそんなにはしない。ドキドキして心配して過ごしても、晩御飯のことなど考えながら過ごしても、結果は変わらないと知ってるからだ。ただ診察室に入る瞬間、「これで、もし何か見つかったら、またあっち側に行くんだな」とは考える。あっち側とは、もしかしたら死ぬかもしれない世界ってことだ。
でも、生まれ落ちた瞬間から、いや生まれる前から、命というものが宿った瞬間から誰しもが「もしかしたら死ぬかもしれない世界」いや、もしかせずともいずれは死ぬ世界を生きているのだ、ということを50歳ぐらいからわりとリアルなこととして考え始めていたように思う。なので、そのパーセンテージがだいぶあがるな、ぐらいのあっち側だ。
 わりと冷静にいろいろ受け止められるのは、これまで読んできた膨大な本でいろいろ予習していた、ということもあるが、20年前くらいに「悪性リンパ腫の疑い」で、徹底的に検査をするという経験をしたことも大きいかもしれない。
 長男が3歳ぐらいだったと思う。扁桃腺の片側が腫れて、風邪の症状もないのにおかしいなと思って病院に行ったのだった。「悪いものかもしれない」から、とちょっと組織を切り取らせて欲しいと言われ、チョッキンと麻酔など無しで切り取られ病理検査の結果、99%悪性リンパ腫です今すぐ治療を開始してくださいと、検査をした大学病院からは言われた、とのことだった。しかし医師は煮え切らない。若い医師は、「全身状態を見る限り、そんな状態とはとても思えない(そんなに悪くない)」、部長医師が「いまは遺伝子検査をしたら、将来乳がんになるかとかもわかりますからね」とか言われて、もっと詳しい検査をすることになり、今度は扁桃腺の肉をちょっと切らせてください、ということで、やっぱり麻酔無しで今度は2カ所ちょきちょきと切られた。検査結果を待とうとしたところ、数日後に病院から電話があり、その検査は保険適用外で6万円かかりることがわかりました、と言いにくそうに言う。どういうことかと病院に行くと、若い医師と部長医師がいて、部長医師は悪性リンパ腫の治療をもう始めましょうか、という雰囲気。全身状態は悪くないと言った若い医師に「あなたはどう思われるんですか?」と聞いたら「やっぱり、悪性リンパ腫とは思えないので、とりあえず抗生剤で様子をみてみたい」ということだった。6万円の検査をすれば、絶対に癌かどうかわかるんですか?ときくと、「いや、切り取った場所に癌があるかどうかしかわからない」と言う。ななななんですと〜〜。そんな検査のために2カ所も肉を! という言葉は飲み込み。じゃあ、わたしは「アナタ(若い医師)の意見を信じますよ」ということで、抗生剤を処方されて1週間で治った。
 この検査のすったもんだの時に(かれこれ1ヶ月くらいかかってる)、まだ子供は3歳ちょっとなのに長女は1歳にもなってないのに、今死んだら顔さえ忘れられてしまう、っていうか死ぬのはイヤだよ〜〜〜〜。と、それはそれはいろいろ思い悩んだのだ。たぶん禿げたと思う。少し。
 それから、頭痛がすると言っては「脳腫瘍かもしれません」と救急病院に駆け込み(自分の足で歩いてきたんでしょう?と医師からは鼻で笑われながら検査)。胃が痛いと言っては「これはたぶん胃がんか何かではないか」と医師に詰め寄り、という三十代を過ごし、まあ、その、あらゆる心配をその時代に全部してしまったのだった。
 あとは、こどもが2人とも成人してしまってるというのも大きいかもしれない。ただし、いまは同居人という新たな「死んどる場合じゃない」問題が浮上はしてはいるのだが。
 3年前には食道癌もやっているのだが、そちらは去年から1年に1回の検診になっている。再発の可能性はいつだってあるし、癌の発症の可能性は誰にだってある。わたしなんかは、初期に見つかったり、ステージ4でも治療がよく聞いていまのところ癌細胞は消滅してると言われてるのだし、もし再発しても、どんどん進歩してる治療法で、だらだらと往生際悪く治療を続けて、しつこく生き続けるような気がするので、なんだか本当に、癌サバイバーってことすら忘れてるときが多い。
 それより、ジョギング中に転んで骨折したり、駐車場の車止めに足を引っ掛けて転んで後頭部に裂傷を負ったり(救急車で運ばれましたが、縫いもせずに帰宅)など、老化によるミスで怪我したりなどが多いので、そっちのほうがよっぽど要注意なのだった。
ということで、検査結果をお伝えするのは、今回で最後にしようと思います。もうすぐ2年、すっかり元気です。


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ガンは再発しなくて、いまは元気

2022-04-08 00:19:17 | がん日記
下咽頭癌になってから2年が過ぎた。たぶん

2年前のこの時期にステージ4と言われて
もう死ぬのかな? と思ったけれど
いやいや死にませんよ。
放射線とかで治りますから!!
と言われ、治って、今にいたるのです。

のどにぼこっとした丸いものを感じて、病院で検査をしてもらってから
2年。

5年生存率は60%の癌らしいので、これから3年でどっちに入るかは
わからない。
死ぬ方の4割か
生きる方の6割か

でも、もう死ぬのは怖くないんだよね、これが。
56年も生きたしね
今怖いのは、同居人の残して死ぬこと
この怖さの解決方法が無い
いまのところ
これが怖い

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高安関を応援しています

2021-03-26 14:33:34 | 眼述記
 同居人はほぼ全身麻痺なので、排便もなかなか自在にはいかない。
入院していたときは、栄養が合ってなかったのか毎日のように何回か軟便が出ていた。
便秘も困るけど、1日に何回も排便するような仕様にはなっていない(肛門が)ので、自宅療養になってからは、栄養をいろいろ試して排便の回数が週に2回というところにおちついたのだった。
そこに落ち着くまでは、下痢で肛門が腫れ上がったり、便秘でかっちかちになって摘便するしか方法がなくなったりと、まあいろいろ事件はあったのだが、とにかく現在は週に2回で、問題なく摘便もせずに出せている。
車椅子に座ってお昼の栄養を入れて、ベッドに戻っておしっこが出たあとで座薬を入れ、また車椅子に戻って、なるべく車椅子の背もたれを起こして腸に圧をかけて促す、そのとき見るテレビは笑えるやつだとなお腹圧がかかってよい、というルーティンになっている。お昼の栄養のあとに座薬を入れると、それから座って催すまで1時間以上はかかるし、調子がよくないと催すまで時間がかかったり、一度に出ないで何回かに分けて出るということもあり、まあ順調にゆけば、夕食の午7時くらいにはだいたいさっぱりしている。順調に行かないと、夕食にかかったり、夕食後に残りが出たりして、時間が長引く。長引くのは本人もイヤなようなのだが、じゃあ朝の栄養のあとにすぐ座薬いれたらいいじゃん、と提案しても、それはイヤなのだそう。私も、早く済んだ方だが気が楽なのだが、あくまでも昼食のあとがいいらしいのだ。
 しかし、いまは場所中である。大相撲だ。だいたい午後5時からはテレビの前で相撲観戦することになっているので、そこまでにはすっきりしたい。しかも今場所は、なんとなく応援している高安関の優勝がかかっている。
「ちょっと、アンタ、相撲の時間までにスッキリしとかないと高安が負けるかもしれへんで」
と、座薬を入れる時間を早めるように提案すると、ちょっと笑いながら了承した。
ただ、お昼の栄養のあと、というのは譲りたくないらしく、午前10時に栄養を入れることになって、順調に午後1時くらいに排便成功。そしていまはお尻を休めていると言う次第です(車椅子に長く座っているとお尻が痺れるので)。
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腸炎になった!?

2020-10-10 00:11:39 | がん日記
 事件というほどのことでもないが
退院一週間後に検診があって、これは本当ならもう少し入院してたら
必要なかった検診なんだけど無理めに早く退院したので設定されたのだった。
検診はなにごともなく順調ですということで終わったが
帰りに嬉しくて美味しいパン屋さんでパンをたくさん買って帰ってきて
味覚障害でほとんど食べられないのだが、甘くないパンは一部食べられた
そのことが原因かどうかはわからないが、毎日フルグラで生きていたのが
急にいろんな食材が入ってきて体がびっくりしたのか7月18日土曜日の午前3時
突然の腹痛が始まる。すぐ排便しておさまると思ったらそれから1時間ずっと痛い。
4時すぎてもおさまらないので、「とにかく何かあったら夜でもいいから電話を」と
言われていた九大病院に電話。症状を話すと、入院中の主治医はいなかったらしく
同じ課の別の先生に確認してくださったが
「がんの治療とは関係ない症状と思われますので、我慢できないようだったら
救急にかかってください」とのお返事。
救急医療情報センターに電話する。
(少し余裕があるときは119より前に相談できる窓口がどこの市町村にも
あると思うので、元気なときに調べてリビングなどに貼っておくといいですよ
福岡市の場合は092-471-0099です)
この時点ですでに午前6時近かった。
「休日診療はどこどこ病院ですが今日の当直はお腹痛の専門では
ありません」と言われ、行くべきか行かざるべきか悩む。
急患診療センターに電話すると「きてくれてもいいけど6時半で当直の
先生は帰ってしまいます」なんですとおおおお。
車で行ってぎり間に合う時間態だけどタクシーを
呼んでいたら多分間に合わない。
結局様子をみることにして電話を切ったが
お腹の痛みはぜんぜんおさまらない。
自分で車を運転して行ける気もしない。
この2時間半脂汗を流しながらの電話のやりとり
排便後も痛みが続くというのを経験したことがなかったので
これは普通の状態と違うと判断して
結局救急車をよぶことになった。
マスクをして救急車を待ち、横になって待つ。
ベッドの上には同居人、床に敷いたマットに私
私の枕元には同居人用の吸引器。
到着した救急隊員さんは、私と同居人を見比べて
まず「この吸引器はどなたのですか?」
と尋ねた。夫のです、と即答する私。
これまでの経過を、ふとんの上でクッションを抱きしめたまま
救急退院の顔も見ることができず(お腹が痛いので)受け答え
痛みはずっと続くのではなく波がある
救急退院が到着してから少しずつ和らいでいた
その様子をみてとった退院が「歩いていけそうですかね?」
ときき、うなづいて立ち上がるワタクシ
ゆるゆると歩いてなんとか救急車の人になり
病院を決めるのに、しばらく相談したあと
山王病院で受け入れてもらえることが決まり
担ぎ込まれた。そしてCTスキャンや血液検査の結果
腸炎ということがわかり、痛みが和らいだすきを
ねらってタクシーで家まで帰ってきたのだった。

それから4日間は寝たり起きたりで
処方してもらった薬もきくんだかきかないんだかで
どうにも辛い時は娘に塾を休んでもらったしてしのいだ
じっと横になっててよければなんとかやり過ごせるのだが
起き上がって同居人のあれこれをやるのがとにかく辛いのだ
食事の介助はまともにできなかった
立っているのが辛いのである

腸炎というものに初めてなったが
この4日間は入院期間の一番辛い時より辛かった
腸炎あなどりがたしです
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退院して1ヶ月半

2020-08-25 11:52:38 | がん日記
退院後1ヶ月くらいから、味覚障害がどんどん良くなった。

退院してから今までを振り返ってみよう
放射線が終了したのが7月6日で、普通なら一週間かそこらは
様子をみたあとでの退院となるのだが
とにかく早く退院したいと言って10日金曜日に退院した。
自宅療養の同居人を浪人生の娘が介護している関係と
コロナのご時世により、退院も当然一人で行う。
まわりの患者さんたちは
こんなご時世でも手術のときと入退院時くらいは
家族の付き添いがあったが
当方はそんな事情で、80日間完全に一人である
途中、時間をもてあましてマスクを作ろうと思い立ち
裁縫道具と古Tシャツを送って貰ったり
味覚障害でフルグラしか食べられなくなったので
病院内のコンビニでは売ってない種類のフルグラを
送ってもらったりはした。

退院の日は、それまでの費用を精算し、退院後の薬を貰うという
ミッションがある。この精算というのが事務方からあがってこないと
こっちはにっちもさっちも動きがとれないのである。
午前10時くらいに請求書が届くというので
それまでに荷物を全部まとめて完璧に準備をして
ベッドに座って待つが、10時を過ぎても一向に
請求書が上がってこないのだった。
ベッドに座って窓から空を眺めていると
ゴッドファーザー1、だか2だかのシーンを思い出す。
イタリアから逃げてきた
少年ヴィトー・コルレオーネが、検疫を待つ間ベッドに座って
足をぶらぶらさせていた光景
窓の外にはマンハッタン
ベッドに座って足がつかないくらい
小さい男の子が一人でマフィアから
殺されないためにアメリカに来るなん、と
考えただけで涙が出そうになって
自分のババア加減にびっくりする

55歳のボウズ頭のババアがベッドに座って
足をぶらぶらさせたところで
可愛らしくも可哀想でもないのだった。

そこへ向かいのベッドに新入居者があり
挨拶すると、わたしのボウズ頭をみて
「私もそうだったから、ちゃんと髪の毛は
はえてこんなふうになるわよボウボウに」
と励ましてくださる。
そのかたはリンパ郭清した後遺症で派手な浮腫みが
出てしまいそれを手術するので入院されたそうだ。

まあ私はコッパげる前も、そんなにボウボウでは
なかったので、ほどよく以前の薄毛の猫毛が生えて
来るんだろう。
心配はしてなかったけど、私よりちょっと年上女性の
気遣いを嬉しく思う。

いろいろを済ませ病院前で客待ちをしているタクシーに
乗り込み、病院近くの有名パン屋さんに寄ってから自宅を
目指してもらう。
タクシーの窓から見えたバーの看板がゴッドファーザーの
ロゴのまんまパクリで写真を撮る。オマージュかな。
リスペクトかな。バーの名前はマリオネット。
家に着くと、浪人生の娘が嬉しげに迎えてくれる
同居人はベッドの中で号泣。
まあ別に感激して泣いてるわけではないと知っている。
なにしろ警察24時とかの暴走族の面白映像とかで号泣するのだ
何がスイッチか、もはやわからない。
心身ともに疲れ切っているだろう娘を労りたいが
自分も80日ベッドでだらだらしていたので
体がなまりまくっている。そしてまだ放射線の影響下にあり
白血球も2000無いのだ。
普通に介護生活に戻るが、夕食後のおしっこや体交などの
時刻には疲れがでてしまい。娘とバトンタッチ。
就寝前の1、2回の介助を休めるだけでもぐっと体が楽になる
いざとなったらフルに介護できる人がいることの安心感よ。
ところどころ疲れがでつつも
日1日、だるくて横になりたい、という時間が減っていく
3日もすれば入院前と同じように介護できるようになった

と思った入院一週間後検査の翌朝、というか午前3時
事件は起こったのだった。
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退院しました。

2020-07-16 11:28:14 | がん日記
 4月22日に入院して、80日目の7月10日に退院した。
放射線は予定の35回をやり終えたが
3回のはずの抗がん剤は肝臓の数値が下がった関係で2回目で中断。
抗がん剤は、再発を防ぐ予防的なものなので、まずは放射線を
やり終えたことを良しとする。

入院翌日から抗がん剤は始まり、その二週間後に髪の毛が抜け始めて
一週間くらいで毛の薄い新生児くらいの頭になった。
しばらくそのままにしといたが、いつまでもばらばら抜けるので
剃髪した。わりかし頭の形がいいので、坊主スタイルはまあまあ気に入った。

抗がん剤の副作用の吐き気などは、薬でだいぶ軽減できるものの
ピーク時はやはり横になって枕を抱えているしかなく
活字も映像も頭に入らない。
そのピークは3日くらいなので、そこを過ぎればだるいながらも
本も読めるし映画も見ることができる。

抗がん剤は2回しかしなかったのが、1回目は2回に分けてやったので
そのピークは3回計9日くらいだった。
1回目のピークのときに頭痛が勃発し(6月15日)
寝たら治るタイプのやつじゃなかったので、結局一週間続いた。
痛み止めを飲んだらなんとか治るが、切れると復活する。
6時間あけてまた痛み止めを飲む。
喉の痛みのために1日に4回カロナールを飲んでいたが
それに加えてロキソニンの二段構え
この頭痛と吐き気&倦怠感のときが一番辛かった
と思ったが、あとから考えると、そのあと喉痛はどんどん
ひどくなり味覚障害は食べられるものが減る一方だったので
辛さの種類が変わっただけかもしれない

味覚障害以外は、過去に経験したことのある種類のもので
副作用を和らげる薬も各種用意されていたので
ガンをやっつけるためと思えば耐えられないものはなかった

辛かったといえば、留守宅に残された同居人と
子供達二人の方が辛かっただろう
二人とも一通りのことができるようになり
立派なヤングケアラーとなったので
同居人には申し訳なかったが、そこは安心して
入院することができた

簡単にかけないこともいろいろ、まあいろいろあったが
なんとか生き延びて退院し、2ヶ月後に検査で
ガンがなくなっていたら幸い
残ってたら、手術するかもしれず
別の方法かもしれず
それはまたそのときのこと
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放射線のための型取り

2020-05-08 16:28:32 | がん日記


そういえばワタシの実母も癌サバイバーであった。
38歳くらいのときに子宮癌をやっている。(年齢は適当)
その後、再発せず糖尿病を長く患いその合併症により亡くなった。

実父も胃癌をやって切除し5年以上生きているから
まあ癌をやっても死ににくい家系かなと勝手に思い込んでいる。
2人に1人はかかると言われている現代、家系もなにもないけれど。
信じて都合がいいことは信じることにしているので。

入院して2週間が過ぎた。
留守を守っている子どもたちには長い日々だろうが
こっちはあっと言う間だった。
翌日から抗癌剤を始めて、1週間後には終了したが
副作用のピークはその直後5月1日だった。
それまで、抗癌剤投与から3日目で5kg体重が増加
それはおもに水分なので顔もむくみ
投与開始日に突然2本抜歯したこともあり
顔が蹴って転がしたいほどになっていた
利尿剤でおしっこをシャーシャーとだすとともに
体重は減少したが、まず下痢と倦怠感がじわじわときて
ずっと横になっていた。
椅子に座る気が起こらない。
だるい倦怠感のなか、食欲だけはまったく衰えず
三度三度おいしくご飯はいただいていたが
とうとう5月1日の夜は一口も口に入れられなかった。
と書いたが、りんごは食べたのだった。吐き気止めをもらう。
吐き気と言っても、こみ上げるまではない
ただ、体を起こすと気分の悪さが増すので
とにかく、起きるのがおっくう。
夕食時にもらった吐き気止めは、すぐにきいた
20分くらいで、ちょっとだるい感じの倦怠感になった。
薬のちから偉大だ。

入院してからずっと、なにかの拍子に気持ち悪くなるおじさんのこえが
聞こえていた。いわゆる絵図きごえである。
そんなに長くは続かないが、1日に何度かはやってくるようだった。
これはちょっと辛そうだった。
それも気づけば、ここ1週間は聞かなくなった。終わったのかな。

このへんから微熱が出た。
7度とか7度1分とか
それもあいまって、やはり倦怠感は続いた。

吐き気があると本すら読めなくなるが
微熱程度ではミレニアム4、5、6(ハヤカワ文庫)が
読めてしまう。
逆に、映画やドラマは見られなかった。
思った以上に目から入るたくさんの情報には
ヤられるらしい。5月3日の深夜、大雷の日に38.4分を記録して
それが最高の熱だった。
それ以上に上がると、どっかが感染症を起こしている
ことになるので、ナースコールをしてと
厳命される。
なぜなら8度4分まででたときは
「熱がでとるな」と思っただけで
そのまま雷に驚くことに集中していたからだ
天変地異が起こったと思って
飛び起きたくらいの雷だった
うちの犬並みに雷が怖い浪人生は大丈夫だろうかと
切なく思う

そして翌朝、熱は7度3分くらいに下がっており
なにかが暴れて熱が上がってるなら
その暴れてるときに血液検査をしないと
特定できないから、熱があがったら教えてと
言われたのだった。
5月4日を最後に発熱はおさまり
同時に倦怠感も去ったのであった。
それからの4日間は映像見放題祭りだった。
ABEMAで無料放送していたAKIRA
ミエゾウのおすすめ四畳半神話体系(アニメ)
TverでJin(村上もとか原作 ドラマ)
家に全巻あるのにネットで読んだ動物のお医者さん
に触発されてテレビドラマもちらっと

髪の毛はまだ抜けない。
と思って手櫛をやってみたら
6本くらいは抜けた

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入院6日目

2020-04-27 16:18:29 | がん日記
待ちに待ったレンタルWi-Fiが届く
簡単すぎる設定
初めてインターネットに接続した1995年から考えると
隔世の感である

抗癌剤第一回目は本日の深夜に終了
いまのところ気分が悪くなったりという副作用はなし
これから出てくるのだろう
放射線の説明を受ける

一定の温度で変形するプラスチックのネットで
肩から上の型取りをして、そのネットにがぱっとはまって
動かないようにして放射線を当てるのだそうだ
閉所恐怖症のワタシに耐えられるかと思うが
ネットだからそこまで閉塞感はないそうだ

放射線科は地下にあり、そこに行き着くまでに
「安置室」などもありドキドキしながら通る

偶然持ってきた本の中に
上橋菜穂子「鹿の王 水底の橋」(角川書店)
木皿泉「さざなみのよる」(河出書房新社)
がありむさぼり読む

医と死の本である

どちらの本もワタシをゆったりとさせてくれた
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