松何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ
このブログはセイゴオ先生の歴史教室「にっぽんXYZ」ブログと並行して展開します。両方同時にお楽しみください。 もちろんおさわがせの7人娘「なにわセブンローズ」もご一緒します。みなさんの質問にもタカハシ君が答えてくれるかも…。
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Crackrepack/平氏興隆と大陸事情
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平清盛を生んだ伊勢平氏が、朝廷で大きな影響力を得たのは、12世紀に盛んになっていた日宋貿易だったんだ。貴族から武士の世へと日本が大きく変化していく時代に、貿易がクローズアップされたのは、セイゴオ先生にあるように、東アジアの大きな変動がかかわっているんだな。ちょっとその様子を見てみよう。

平安時代の中ごろまで東アジアの大部分を治めた唐帝国は、875年に起こった黄巣(こうそう)の乱などによって崩壊が始まった。894年に菅原道真が遣唐使を廃止してから、たった13年で唐帝国は滅び、華北に五代の王朝、華南・四川に十国が乱立する五代十国(ごだいじっこく)の時代に突入したんだ。

この間、朝鮮半島では新羅が分裂して、高句麗系の高麗が成立した。中国の北方では、日本とも友好関係にあった渤海(ぼっかい)が滅び、契丹(きったん)が台頭。契丹は中国の東北地方から蒙古高原に達する遊牧帝国となった。このころ、ヨーロッパで絹をもたらす中国のことを「キタイ」とか「カタイ」と呼んでいるけど、契丹を指したんだな。

960年に五代の最後、梁王朝の将軍、趙匡胤(ちょうきょういん)が中国を統一して宋王朝を興す。この宋という国は、文治主義の君主独裁制で、「宋学」という革新的な儒学を確立させたんだ。この宋学によって合理主義を身につけ、新しい官僚階級として力を発揮したのが、士大夫(したいふ)と呼ばれる人々だ。彼らが行った施策により、宋では農業、手工業が著しく発展し、商業活動、国際貿易が盛んになったんだな。

この大陸の変化が日本にも及んだわけだ。これまで貿易は、唐の滅亡以降、那の津(なのつ、福岡市)の鴻臚館(こうろかん)で渤海国を相手に官営で行われるのが中心で、自由な貿易は禁じられていた。渤海国が滅んだ以降は、日本はいずれの国とも正式な国交を結ぼうとせず、孤立政策をとっていたんだ。

にもかかわらず、貴族や地方の土豪の輸入品へのあこがれは高まるばかりだったんだ。11世紀中ごろに、藤原明衡(あきひら)が著した『新猿楽記(しんさるがくき)』は、平安京にあふれる商品を「本朝」と「唐物」に分けて紹介している。

「唐物」では麝香(じゃこう)・丁子(ちょうじ)などの香料や、白壇・紫壇などの高級建材、蘇芳(すほう)・丹(に)などの染料、豹虎の皮・犀(さい)の角・瑪瑙(めのう)の帯・瑠璃(るり)の壷などの貴重品、綾(あや)・錦・羅(ら)などの高級織物の名前が挙がっている。ことに人気だったのが江南の青磁(せいじ)で、越州(えっしゅう)青磁として尊ばれた。

貿易は国が独占していたものだったけど、人気の商品を持っている宋や高麗の貿易商人にしてみれば、いろんな人が集まるところで、高値を付けた人に売った方が断然もうかるよね。そこで、新たな貿易の仕組みが現れてきた。典型的な例では、福岡市の那珂川河口に、大宰府にある安楽寺の博多荘という荘園が成立し、不輸不入の権を利用して始めた、活発な貿易があるね。

不輸不入の権とは、貴族や寺社に寄進された荘園が、国家に税を払わず、役人の介入を拒否する権利だったね。主に農地に適用されてきたけれど、これを商業地に応用したわけだな。博多荘には11世紀の終わりごろから、中国人街が形成されはじめている。

こうして荘園を市場化する貿易システムができると、宋の商人はたくさんの寺社や貴族と結び付いていく。そして筥崎宮(はこざきのみや)や香椎宮(かしいのみや)の神域、仁和寺の荘園の怡土荘(いとそう)の今津港、肥前の平戸、法皇が所有する有明海沿岸の神崎荘、薩摩の坊津(ぼうのつ)など、九州の沿岸の各地で貿易が行われはじめた。そこはアジア諸国の人々が居住する国際都市になってきたんだな。

そんな中、12世紀になると、またアジアに激震が走ったんだ。1115年、契丹に服従していた女真族(じょしんぞく)が契丹の大軍を破って、金王朝を建てた。金は最初は宋と組んだけれど、契丹が滅ぶと、今度は宋を攻撃し、首都の東京(とうけい)を占領したんだ。こうして宋朝は断絶したけれど、残された王族が南京(なんきん)で即位して高宗となって、宋王朝が再興された。これが南宋なんだ。

この大陸情勢の変化は、日宋貿易をさらに拡大したんだな。南宋は、金の攻撃をさけるために、多額の弁済金を金に払わなくてはならなかった。セイゴオ先生が言ったように宋にとっては日本の黄金や真珠、水銀や刀剣などが貴重な収入になったんだ。それに日本は南宋が貿易できる数少ない中立国でもあったからね。

ここに登場したのが平氏だったわけだ。伊勢平氏の平正衡の子、平正盛は海賊の追討(ついとう)で名をあげ、その子の忠盛(ただもり)は、伊勢湾や瀬戸内海、九州など海上交通の要衝をおさえ、「海の領主」、「海の武士団」、そして西海の「海賊集団」まで配下に組み込んでいったんだな。正盛も忠盛もともに白河法皇の北面の武士を務めた。この皇室とのつながりは平氏の経済拡大に大きな契機となった。

平忠盛はその後、鳥羽法皇の院近臣となったんだ。国際貿易の利益に目をつけた忠盛は、法皇が管理する佐賀県の神崎荘の荘官も勤めた。1133年に宋船が神崎荘に入港したとき、慣例に従って商品を管理しようとした大宰府の長官に対して、忠盛は荘園の権利を主張して、「船は神崎荘に入ったから、商品は神崎荘で扱う」と突っぱねている。このような利益を法皇にもたらすことで、忠盛は武士出身でありながら、昇殿を許されるまでに出世したんだ。

この平忠盛の方法を引き継いで、日宋貿易を強力に推し進め、海に囲まれた日本を貿易立国にしていこうと考えた若き青年が、平清盛だったというわけなんだな。



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白河天皇が上皇となって、院政を開始した1086年の翌年、東北地方で奥州藤原氏の独立政権が誕生した。これは蝦夷の民にとっても念願の政権であり、ここから1世紀に及ぶ藤原氏4代の栄華を築かれることになった。名門藤原氏の名に由来しつつ、独自の花を開かせた地域政権、奥州藤原氏とは、いったいどんな一族だったんだろうか?

奈良時代に始まる藤原四家のように、時代が下るにつれ、藤原氏はいろんな家系に分かれていったんだったね。その中に、藤原北家の出身ながら、桓武天皇が粛清した氷川皇子の事件に巻き込まれて地方に流された藤原魚名(うおな)という家臣がいたんだ。魚名の子孫は北関東に入植して、魚名流(魚名の子孫)といわれる多くの武士団を形成していった。平将門の乱のとき、将門と戦った剛勇、藤原秀郷(ひでさと)もそこから出た武士だ。この関東藤原氏は、源氏が東国の武士団を統合していったとき、その傘下に加わったんだ。

1051年、前九年の役がおこると、関東の武士団は源頼義に従って東北地方の制圧に乗り出した。このとき藤原経清(つねきよ)という、関東藤原氏の流れをくむ武者が、戦いの最中に源氏の戦線から離れ、俘囚を率いる敵の安倍頼時(あべのよりとき)の娘と結婚したんだ。この経清が奥州藤原氏の始まりとなるんだな。

安倍氏は源氏の軍勢と互角に戦ったけれど、秋田県を制圧していた清原氏が源氏と組んだために敗北してしまった。参謀として源氏軍を苦しめた藤原経清も斬首されたんだ。このとき、清原氏のトップ、清原武則は蝦夷人(えぞびと)として、初めて鎮守府将軍の位につき、東北地方を治めたんだな。

そして、藤原経清の遺児、藤原清衡(きよひら)は、母が清原武則の嫡男・武貞(たけさだ)と再婚したため一命を助けられ、清原氏に養われていた。しかし、清原氏の家督争いがおこり、八幡太郎義家が乗り出してきた。これが後三年の役だね。藤原清衡は義家と組んで、清原氏を滅ぼすことに成功する。

白河上皇は源氏が東北地方を支配するのを嫌って、安倍氏、清原氏の領地の経営を藤原清衡にまかせ、事実上の独立を許したんだな。清衡は、岩手県の平泉に京都に似せた都をつくり、奥州藤原氏4代の栄華の基礎を築いた。でもどうして奥州が繁栄できたか、わかるかな? 東北は金や馬、さらに鉄器の産地であることに加え、以前も話したように中国北方から北海道を経由する北方貿易がますます拡大していたからなんだ。

もっとも、奥州藤原氏は完全な独立を果たしたわけではなかった。院庁が奥州藤原氏に北方社会との外交、軍事、貿易などの権限を認め、東北全体に対しては、軍事の指揮権、警察権などを与えたけれど、その見返りとして、東北地方が生み出す租税を直接、院庁に納めさせたんだ。これは東北地方の戦乱に悩まされてきた政府にとっては、理想的な解決策でもあった。

これに乗ることで奥州藤原氏の軍事的な権威はものすごく高まったけれど、藤原清衡は徹底した平和政策を展開するんだな。国府・院庁への租税義務を守り、黄金や馬を納め、院政に従う姿勢を崩さなかった。さらに院庁の有力者には豪勢な贈り物をして交友関係を結んだ。これは源氏や平氏などの武士団の挑発を恐れ、悲惨な奥羽の動乱の再発を防ぐ清衡の平和戦略でもあったんだな。

平和な社会では、戦乱の時とは比べものにならないほど多くの富を蓄積し、経済力を増やすことができるね。清衡はこの富を文化に使った。首都平泉を華やかな文化都市にしていったんだ。極楽浄土を現し、平安末期の美術工芸の極致といわれる金色の中尊寺の造立をはじめ、造園や金字一切経の写経などの文化事業が強力に推進されていった。

舞台となった平泉は、実は奥州藤原氏の領地の奥六郡を一歩越えた陸奥国府が支配する公領の土地に建設されていんだ。どうしてそんなところに奥羽政権の都を造ったんだろうか? それは院政にとって重要な北方の平和を、朝廷と奥州藤原氏が共同でつくり出していることのシンボルとするためだったんだな。

この清衡の姿勢は、二代基衡(もとひら)、三代秀衡(ひでひら)にも継承されていく。京都の貴族と姻戚関係を結ぶ一方で、朝廷の安泰を願う平泉の文化事業は、院政政権から高い評価を受けている。こうした努力によって、三代藤原秀衡は陸奥守と鎮守府将軍に任じられ、その地位をますます高めた。まさに奥州藤原氏の平和志向は戦略的に成功したんだな。

こうして100年におよぶ平泉文化は、乱れていく日本にあって北方の平和を支え、京都の貴族の雅びを北の大地に根づかせたといえるわけだ。しかし、時代の大きな流れには逆らえない。4代泰衡(やすひら)の時代、武者(つわもの)による鎌倉幕府が成立し、院政の権威が失われたとき、北の京都、奥州藤原文化も滅びへの運命を迎えていったというわけなんだな。




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今年7月7日、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、「熊野三山」「吉野・大峯」「高野山」の3つの霊場と、これらを結ぶ「熊野参詣道(熊野古道)」など3つの参詣道が世界遺産に登録された。神秘の威容に満ちた紀伊山地は、神話の時代から神々が鎮まる特別な地域と考えられていて、仏教が入ってからも山岳修行の場となり、空海は高野山を修行道場として開いたんだったね。平安時代には山また山の連なる秘境だったこの地、とくに今の和歌山の奥深い熊野を9回も訪れた新しいタイプの実力者がいた。それが絶大な力を誇った「治天の君」、白河法皇(白河上皇)その人なんだ。

白河上皇の前にも、皇族では、密教に熱心だった宇多法皇、藤原摂関家に無理やり退位させられ、仏道修行にはげんだ花山法皇が訪れたことがある。これらは山岳に修行する僧りょとして熊野に詣でていたんだ。しかし、それからおよそ100年たった後、1090年にはじまった白河上皇の熊野詣は、まったく規模が違っていた。それは王法と仏法を統合して日本を治めようとした政策の現われでもあったんだな。

白河上皇のあと、院政を継ぐ上皇たちも熊野詣を繰り返した。白河上皇の9回のうち、最後の3回は鳥羽上皇を引き連れての御幸(ぎょこう)だった。その後、鳥羽上皇は21回、そのあとを継いだ後白河上皇にいたっては、なんと34回も熊野に詣でている。

でも、いったいなぜ熊野だったのかな? 白河上皇の時代の関白・藤原忠実(ただざね)は「毎年の御熊野詣(おんくまのもうで)、実に不思議なことなり」と言っているほどで、その理由ははっきりしないんだけれど、今回はそのナゾに大胆に迫ってみよう。

まず第1のポイントは、上皇、法皇だったからこそ熊野詣ができたということ。このころの天皇は、遠出の旅などできなかった。天皇は朝起きて夜寝るまで、しきたりに規制され、自由な行動は許されなかったんだな。ところが上皇になったら、天皇の父親としての権力や財力を持っていれば、上皇が律令によって規定された地位ではないだけに、自由にふるまうことができた。だから、熊野のようなところに参詣できたんだ。

第2に、院政が目指していたのが、ばらばらに分かれはじめた日本の諸勢力を統合することにある。白河上皇は、皇室の権力を藤原摂関家の補佐なしに確立するため、多くの荘園を手に入れる方策を立てた。中級貴族の受領層の支持を取り付けて、地方を直接支配する一方、セイゴオ先生が言ったように院の御所に北面の武士を置き、院の権力を強化した。これらの経済・地域・軍事の統合によって、白河上皇はこれまでの制度や慣例などを気にせず、意のままに政治を行うことができたんだ。加えて寺院や神社に参詣し、宗教界への影響力も確立しようとしたわけだな。

そして、第3に、熊野三山が白河上皇が考える新しい宗教のモデルとしてふさわしかったと考えられる。えっ、それはどうしてかって? それは当時の宗教界の様子を考えるとわかってくるんだな。

たとえば、白河天皇の時代、1081年、奈良の興福寺の僧兵が多武峰(たぶほう)の社域に侵入して乱暴をはたらき、多武峰は朝廷に訴えている。ところが興福寺は藤原政権を確立した藤原不比等が建立した寺院であり、多武峰は藤原鎌足を祀る御廟(ごびょう)で藤原不比等が整備した、これも藤原一族の聖地だ。また、比叡山延暦寺の僧兵が、比叡山のふもとの園城寺(現在の三井寺)を攻撃したため、白河天皇は源義家を派遣し、一時的に騒動を収めている。しかし、延暦寺も園城寺も、ともに皇室を守る天台密教の拠点だったんだな。

これはつまりどういうことかというと、これまで皇室や藤原氏が、広大な荘園を与えたり、多くの優遇処置をしてきた仏閣や大社同士が、お互いの近い関係や連帯を忘れ、それぞれが荘園や利権を奪い合い、僧兵や神兵で戦い合うようになってきていた、ということなんだ。

つまり白河天皇は上皇となったとき、武力集団となった宗教界も治めなくてはならなかったわけだ。しかし、セイゴオ先生が言ったように、治天の君といえども「サイコロの目と鴨川の水と山法師」は、思い通りにはならない。そこで、白河上皇は、有名ではあったけれども辺鄙なために詣でる人も少なく、険しい土地なので荘園も少ない熊野三山を、宗教界にみずからの権力を見せつけるために整備しようとした、とも考えられるわけだ。

もちろん、熊野三山とよばれた熊野本宮、速玉(はやたま)大社、那智(なち)大社は、それぞれが仏教の阿弥陀如来、薬師如来、千手観音が日本の神となって現れた、とされていたことも白河上皇の心を動かした。阿弥陀如来は来世の往生、薬師如来は現世の利益、千手観音は仏法を信じる者を千本の手で救済する菩薩の中の菩薩だからね。これは天皇でもなく、貴族でもない「治天の君」の主権を守る神仏としてふさわしかった。

白河上皇は、最初の熊野御幸で、熊野三山の体制を整えた。まず、道案内に大乗仏教、密教、修験道(しゅげんどう)の3つの宗派に通じた高僧、増誉(ぞうよ)を任命している。増誉は初代の熊野三山を統括する最高位の役職、熊野三山検校(けんぎょう)に任じられたんだ。これは京都にあって、上皇や法皇が熊野に詣でるときの準備を請け負う職だ。この増誉という人選には、当時の分裂した宗教界を統合する新しい仕組みを作り出そうとした、白河上皇の意気込みがあったんだな。

さらに現地で古くから熊野三山を管理していた熊野別当(くまののべっとう)に、法橋(ほっきょう)という地位を与えた。こうして、正式に朝廷から認められた熊野別当の権威は高まり、別々に自立していた熊野三山の統合がはかられていった。また、白河上皇は熊野三山に紀伊国の100町以上の田畑を寄進している。地形的に農地に恵まれない熊野三山は、これによって財政的な基盤を確保することができたんだ。

このような「治天の君」が、貴族や武家の豪華な行列を引き連れて、熊野の神のご託宣を聞きにいく熊野詣によって、宿泊施設や参詣の道である熊野古道が整備されていった。こうして熊野三山は、まさに院政を守る神であり、仏となったわけだ。この朝廷の盛んな熊野信仰は、やがて全国各地の武士や庶民の間にも広まり、「蟻の熊野詣」と呼ばれたほどたくさんの人々が熊野にあつまるようになる。熊野古道など紀伊の参詣道が世界遺産に含まれたのは、そういった中世の人々が紀伊の自然に残した文化的な景観が、地球的にも貴重な存在だと評価されているからなんだな。


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武家の棟梁となった源氏は、一風変わった神を守護神としていた。それがセイゴオ先生も言っていた「八幡大菩薩」(はちまんだいぼさつ)だな。今では、「八幡さま」として親しまれ、全国に4万社以上もの八幡神社があるといわれ、もっともポピュラーな神になっている。でも、「大菩薩」というのは、仏教の菩薩とも違っているんだ。さあ、いったいどんな神様なんだろうか? 今日は源氏と深いつながりを持つ八幡さまに入り込んでみよう。

八幡神社の総元締は、九州大分県の宇佐八幡宮だな。以前、「道鏡・宇佐八幡宮託宣事件の謎」で話したように、孝謙女帝が道鏡に皇位を譲ろうとしたら、これを拒否した神でもあったよね。この神がどのように現れたかという神話は、かなりユニークなものなんだ。

宇佐八幡宮の伝説では、仏教が伝来した欽明天皇の時代(5世紀後半)、宇佐の地に不思議な事件が起こったといわれている。今は宇佐八幡の境内にある菱形池のほとりに、鍛冶師の翁(おきな)や八つの頭の龍が現れ、その姿を見た者は病気になったり、死んでしまったりした。これは古代の「鉄」の話題で出た出雲神話のヤマタノオロチに似ているね。そのオロチが斐伊川を映したものだったり、製鉄の溶けた鉄が流れ出す様子だったりしたように、翁や龍は、水神であって、鉄神でもあったんだな。

ところが、その神話のつづきからは出雲神話と違ってくる。この翁やオロチの祟りを鎮めようと、修行者が断食して祈ると、鍛冶師の翁が子どもの姿で現れ、「我は誉田天皇(こんだのすめらみこと)広幡八幡麻呂(ひろはたやはたまろ)、名は護国霊験(ごこくれいげん)威力神通(いりょくじんつう)大自在菩薩(だいじざいぼさつ)なり」と告げたという。

誉田天皇とは、倭の五王の時代を開いた応神(おうじん)天皇のことで、倭国の建国者といってもよい伝説の天皇なんだ。この神霊は黄金の鷹となって飛び去り、その止まったところに鷹居社を造立し、八幡神として祀ったのが八幡信仰の始まりとされる。こうしたわけで、宇佐八幡は伊勢神宮と並ぶ皇室の祖先神とされ、この国を護るために「大自在菩薩」、すなわち「大菩薩」として現れたとされたんだ。

738年、聖武天皇の勅願によって宇佐八幡の境内に弥勒寺(みろくじ)が建設され、その3年後、天皇から八幡神宮に冠、経文、神馬、僧を奉げられ、三重の塔が建てられたといわれている。740年に藤原広嗣(ひろつぐ)が大宰府で反乱をおこしたとき、聖武天皇が大将軍の大野東人(おおののあずまんど)に「八幡神」に勝利を祈祷させたんだ。また、聖武天皇が願ったあの東大寺大仏の建立の際も、八幡神は奈良の都に入って、その鋳造を助けたという。

東大寺にはその八幡神が僧形八幡神像として残されているけれど、これは仏教の僧りょの姿をしているんだ。日本では仏教が広まる中で、古来の神が実は仏が別の姿をとったものだった、とする「神仏習合」という考え方がつくられていく。

これはすごい大事な日本の方法でもあり、後世までずっとつづく歴史の大切なポイントであるんだけれど、ちょっと今日は飛ばそう。つまり、八幡神は仏教の菩薩号(仏教を広め、仏教信者を救済するもの)が与えられた最初の神だったわけだ。さらに、その「大菩薩」の称号は通常の仏教にはなく、日本で考え出されたもので、永遠に菩薩としてこの世に止まり、成仏しないという決意を固めた神に与えられたんだな。

平安時代初期、密教の最澄や空海も宇佐神宮に詣でたように、八幡神は密教の僧りょらに親しまれていたので、860年、行教(ぎょうきょう)という密教僧が、京都府八幡市の男山に、宇佐から八幡神を勧請(かんじょう=神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)し、「石清水(いわしみず)八幡宮」を建設した。この石清水八幡宮では応神天皇、神功皇后の神格が強調され,王城を鎮護する神として皇室の崇敬を受けたので、伊勢神宮とならぶ第二の宗廟(そうびょう、祖先を祀る社)とされるようになった。

また、応神天皇、神功皇后の神話は、朝鮮半島から日本列島におよぶ倭国を武力で平定した物語になっている。八幡神は、こうした神話によって、武力の神、戦勝の神ともされるようになったんだ。

この八幡神が、源氏の守護神となったゆえんは、セイゴオ先生にあったように源氏の英雄、源義家が石清水八幡宮で元服し、八幡太郎義家となったからといわれている。しかし、それ以前に、義家の祖父の源頼信や父の源頼義は、石清水八幡宮に限らず、各地の八幡宮に祭文を捧げたり、各地に八幡宮をつくっているんだな。

源頼信は石清水八幡宮に近い河内(かわち、大阪府)に勢力を蓄えていたから、石清水八幡宮は身近な神だったし、武家としては弓矢、戦勝の神でもある八幡様は最も守護神にふさわしかったんだ。それに源氏は清和天皇、あるいは陽成天皇の子孫であることを誇りにしていたから、皇室を守る八幡神を信仰しようとしたとも考えられるわけだ。

もうひとつ、八幡神が源氏の神となっていく大きなきっかけが、源頼義の関東平定、蝦夷に遠征した前九年の役にあるんだ。源頼義は、そのころ唯一の源氏の拠点だった鎌倉に八幡社を創建し、これを起点として5里(約20km)ごとに、いわゆる「五里八幡」を創建したという。これは今でも、関東に荒川八幡、植田八幡、飯野八幡などとして残されているね。1051年、頼義は前九年の役がはじまると、八幡神の加護をいただくため、「このたびの使命を果たすことができたら、鎌倉から奥州へ行く街道10里(約40km)ごとに、八幡社を1社ずつ造る」と祈ったというんだな。

その祈りが通じたのか、源頼義とその子、八幡太郎義家は蝦夷の独立戦争を繰り広げた安倍貞任(さだとう)、宗任(むねとう)を厨川柵(くりやがわのさく、柵は木組みのとりで)に追いつめた。この要衝の地を攻めるとき、頼義は民家の屋根の萱を柵の空堀に敷きつめ、「伏して、乞う八幡三所、風を出し火を吹きて、かの柵を焼く事を」と祈って火矢を放つと、鳩が飛んで一陣の風がおこり、たちまち柵の楼に飛び火して、その混乱に乗じて厨川柵を陥落させたと伝えられる。神の使いとして有名な稲荷の狐や春日の鹿などと同じく、鳩は八幡神の使いとされているんだ。

こんな伝説から、鎌倉期になると幕府は、源頼義が創建した由比ケ浜の八幡宮(現在の元八幡宮)を公的施設として都市鎌倉の中心に移し、鶴岡八幡宮として整備することになった。以来、八幡神は武家社会の中で「武神」として急速に広まり、八幡大菩薩の旗が、戦場を駆け巡るようになっていく。その武士たちが弓矢の神として、全国各地に八幡神社をたくさん創建していったんだ。ところが江戸時代になると戦乱はなくなり、平和になったので、八幡神社は今度は地域を守る鎮守の神になった。こうして八幡大菩薩は、今日のみんなに親しまれている八幡さまになっていったというわけなんだな。

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平安時代も半ばを過ぎ、いよいよ武士という新しい力が登場した。じゃあ、いったいどのように武士は登場して、朝廷に反抗するまでになったんだろうか? それは日本の軍事体制の方法や荘園の変質という事態が重なったことが原因なんだ。今日は、その事情を探ってみよう。

武士は武者とか兵(つわもの)とかいろんな呼び方があるけれど、「もののふ」という言い方もあるのは知ってるかな。「もの」は物質であり霊魂でもあるって、以前、セイゴオ先生が話をしてくれたね。古代には、さまざまなモノの現象に対応したり、船や馬を操って、朝廷の命令で外敵を打ち負かす戦力のある人物、集団のことが「もののふ」と呼ばれていた。つまり、天皇家の軍隊を担っていた物部氏や大伴氏などの貴族も「もののふ」だった。

「もののふ」は奈良時代の律令によって、武官として整備されていったんだ。平安時代の初め、桓武天皇の命令で、東北地方を制圧するために派遣された征夷大将軍・坂上田村麻呂の軍隊は、まさしく「もののふ」だった。けれども、このような朝廷の武官は、摂関政治がはじまると、藤原一門を中心とする貴族の護衛や平安京の治安にあたる役職になっていったんだ。

平安時代に律令国家体制が弱まるにつれて、すべての土地を国有とした前提が崩れ、荘園が広がり、また、土地の開墾を民間に任せるようになった。その土地の開発を担った地方の土豪が、中央の武官との交わることで、武士となっていくんだね。セイゴオ先生にあった将門の乱を起こした平将門の父、平良将(たいらのよしまさ)は中央政府の武官だったけれど、東北地方を鎮圧するために鎮守府将軍として派遣され、関東に下ったんだ。

関東には貴族の荘園は少なく、新たに土豪が開拓し、政府から経営をまかされた農園が多かった。それらの農園は、それぞれの境界線などをめぐって争いがたえず、武力衝突もおこっていた。その戦いに命をかける連中も出現して、「つわもの」(強者)と呼ばれていた。その争いには県庁にあたる国衙(こくが)さえ口を出せずにいたほどだ。関東の「つわもの」は騎馬軍団であり、武力衝突も強烈だったからね。

ちなみに、このころの東北を抑える鎮守府将軍は、平安京から軍勢を率いて東北地方に向かったわけではなかったんだ。国の令条(命令の文書)を持って国衙に行き、現地の土豪から兵隊、食糧などを調達したんだね。これが日本の軍事体制だった。そこで土豪出身の「強者」(つわもの)が、政府の軍隊、「兵」(つわもの)になる。このように、政府から許可された軍人が「武士」なんだな。

こうなると、土豪にしてみれば、武士となった方が有利なんだ。そうしなければ将軍の権限で討伐の対象とされるからね。そこで関東の土豪は一斉に平良将のもとに結集し、一大軍団になったわけだ。もちろん、平良将が桓武天皇の孫の高望王(たかもちおう)の子孫で、かつて高望王が関東を治めたということも、大きなステータスではあった。平将門はこの平氏一門の威光を背負い、東国の武士を統括して新たな国家をつくろうとしたんだな。

一方、西海でも「つわもの」が出現した。漁業や海運という海を使った生活をしている海民(かいみん)がその母体だね。彼らは敵対する者が現れると海賊となり、武装して立ち上がった。10世紀に入ると、瀬戸内海では海賊の横行が激しくなり、大宰府から平安京に向かう朝廷の船を襲撃して、財貨を奪う事件が続発した。それらの船は中国から輸入された物産を山のように積んだ、文字通り宝の船だったからだ。

もちろん、朝廷も襲撃されて黙ってはいない。海賊を捕らえる活動を始めたが、その役についたのが、藤原純友だった。セイゴオ先生にあったように、純友は実は海賊の首領になっていた。いったいそれはなぜだったのだろうか?

純友の家系は、藤原良房の養子となった藤原基経(もとつね)の兄の子孫なんだ。摂関家は基経の子孫が継ぎ、純友の家系は没落して、都を離れていた。純友の父は大宰府の官吏で、海民との交渉にあたっていたんだ。純友自身も海民のネットワークと親しかったんだな。

西海では、古来の地域に根ざした首長が土豪となる場合が多いんだね。そこで政府は国家の公田を土豪に与え、中央から派遣された受領(ずりょう)が土豪から徴税するシステムをとった。ところが、受領の横暴が増え、土豪たちの反発が強くなってきた。そこで純友は九州、四国、中国の海賊をあやつりながら、土豪たちをまとめ、それを背景に高い官位を得て、西海に君臨しようとしたのかもしれない。

しかし、乱が始まると純友の郎党となった土豪たちはそれぞれの思惑で勝手に戦い、朝廷の警察官である追捕吏(ついぶし)の小野好古(おののよしふる)によって戦線は分断されてしまう。豊後水道の孤島、日振島(ひぶりじま)から出撃した純友の水軍は、大宰府を襲撃して焼き払ったが、戦いはこれまでだった。純友とともに戦ってきた西海の「つわもの」は、一斉に小野好古のもとにしたがっていったんだ。好古のもとで戦えば、政府公認の戦士、すなわち「武士」と認められたからね。

そのうちの一族で純友討伐に加わった大蔵氏は、対馬の官吏となったあと、大宰府に土着して武士団を形成した。1019年、とつぜん大陸の女真族が高麗から海をわたり、北九州を襲った「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」事件がぼっ発したけれど、そのとき政府軍として勇敢に戦ったのが、この大蔵氏の子孫だったんだ。西海の海の兵達は、その後、室町時代にかけて高度に組織化され、各地の水軍として活躍していくことになるんだな。









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