たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

ストーリー更新の季節

2017-03-06 02:56:09 | Weblog
 みんな、自分のストーリーを信じながら生きている。
 思い描く理想と絶対視している価値観を中心に、何が善くて何が悪いのか、何に素晴らしさがあって何にくだらなさがあるのか、みんな自分なりに考えながら一生懸命生きているのである。

 自分がはっきりと意識している(人によっては"いくつかの")方程式を利用しながら、現実と自分を未来に向けて最適化していける人間は少ない。これがきちんとできるだけでも優等生だとはやし立てられるだろう。
 例えばアカデミックな世界だったら、論文をとにかく沢山書いたほうがいい、そのほうが奨学金や学振もとれて、そこから巡り巡って自分がシステムをより良く変える側の立場になれるであろう。そのためには、とにもかくにも論文が早く書けるように生きていこう。その上で、現実はどうだろう?自分は何ができるだろう?と、そのような方程式を解こうとすることそのものは、まったく悪くないし、まずはそこに全力でぶつかってみたほうが良いのだと思う。

 ただし、このような優等生は、世間には想像以上に沢山いる。そのこともまた認識しなくてはいけないだろう。
 そして、このページの読者や、精神的に周囲にいる人たちに対しては、自分の方程式に従って最適化させられるだけではなく、その方程式すらも、あらゆる角度から日々チェックし、更新できるような類いの人間であって欲しいのである。俺の勝手な願望である。

 俺が、多くの(どうでもいい)人に、どのようなキャラに映っているかというと、反権力だったり、論文や文章を書くのが苦手だから"論文量産することは無意味"とか言ってるんでしょ?、とか思われているんだろうと思う。まぁそれ自体もどうでもいいし、真実な部分も無くはないのだが、おそらく、その見立てよりは遥かにそこにアジャストできてしまう(というよりも、日々アジャストしてしまっている)人であると思う。
 そんなもんは当たり前にできる中で、方程式を書き換え続けなくては意味が無いわけでして、そこから次の一歩を変更するのを同じ時間でやるのはかなり難しいこともあるけれど、、ともかく、これらの俺への決めつけに対しては、まぁそりゃ、お前らにはその先が見えてないのだろうし、忙しさを無意味に造って忙しくしているからきちんと流れも勉強していないのだろうし、そういうことを日々繰り返し考えられるだけの体力もないのだろうし、それどころか高校時代あたりからまともに勉強してないんだろうから、そら俺が言ってること理解するなんて無理無理、としか思わないのだが、じゃぁ、この辺りの優等生プレイを超える勇気をどうやって持ったらいいのか?と言われると、なかなかに難しい質問だと思う。

 Y字路までUターンできる勇気というのは、簡単に得られるものではない。俺個人としてもどうやって得ているのかよくわからないし(おそらく家庭環境をはじめとする、すべての環境が良かったのだと思う。けどこれでは身も蓋もなさすぎるから、他のロジックや傾向と対策をきちんと考える義務が俺にはあると思う。けど、本当に今はよくわからないから、赦して笑)、自分のストーリーを更新し続けることができるようになっている人間にとって、自分のストーリーを絶対視しそこにいつまでもいつまでも最適化しているような人間は、いまだにWindows95を有難がって使っているバカにしか思えないのである。
 Uターンしてストーリーを書き換えたとしても、一つ前のOSを使っていることはよくあることで、俺自身もこのままじゃいけないというストーリーを持っているにも拘らず、あまり実装できていないところも多いのだ。

 それを「裏切った」と取られるのは心外だが、仕方ない部分もある。だって、俺のことを勘違いしているのは、そっちなのだから。
 「疲れ果てたあなた、私の幻を愛したの〜」というヤツである。

 面白いのは、自らの怠惰さを肯定化したい人が俺のストーリーに寄り添ってきて「裏切られた」というケースだけではなく、(俺にとっての)古いストーリーを今現在信仰しているであろう人までもが、俺がそのなかの価値観のなかである種の「成功」をすると、「裏切られた」という感情になることである。
 ごめんね、それ自体は(能力が無さ過ぎて)とても可哀想なんだけど、こちらからすると、感情の力学として非常に興味深いのよね。まぁ、それで俺を全否定して離れていってくれて、明日から一生懸命生きていけるのであれば、全然それで良いと思うのよね。少し寂しいけど、俺としては話さなくてもわかってしまうから、まぁいいや、みたいな気持ちになるし。

 自分が描いていたストーリーを否定せざるを得ない現状に直面した時こそ、その人の個性がでる。時に誰かのせいにして怒ってみることも必要だろうし、時に自己否定しすぎて泣きすぎて死にたくなる気持ちでいっぱいになることも必要だろう。
 いつかは前を向かなくちゃいけない義務を受け入れるためには、その無駄にしてしまったようにしか思えない時間を憂うための時間が必要なのだ。

 大丈夫。遠回りしてしまうことは、なんにも恥ずかしいことじゃない。堂々としていれば良いのだ。恥ずかしいのは、現状が目の前に見えているのに、自分のストーリーをここまで信用してきちゃったから、というそのクソくだらない理由だけで、優等生プレイをいつまでも辞められず、現状と願望を混同してしまうことだ。いや、本当の本当のことを言えば、別にそれも恥ずかしいことではないんだけどさ。

 ピンチはチャンスとはよく言ったもんで、今こそ、貴女の本当の意味での本気を魅せる時なのだと思う。俺は期待しているし、俺の見る目は確かだから、そんなことをわざわざ俺からアピールしなくても、絶対に新しい方程式の中で素晴らしい成果を上げると確信している。

 ね?この辺りが、他人を決して蹴落とさないで、自分でどうにかするタイプの、非クズとしての生きざまで、、かなりのかなりのレアケースだけど、俺が大好きなところなのだ。
 いや、別に、押し付ける気はさらさらないけど、、俺には、現状ですでに、そう見えるぜ。
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