たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

オーダーメイド自分

2017-10-22 04:21:17 | Weblog
 イイ想い出も悪い思い出も、それが起きた場所と共に記憶しようとするのが人間だ。
 もともと狩猟民である俺たち人間は、ものごとを場所で記憶しようとする性質がある。それが起きた場所に実際に帰ってみると、起きたことや自分の過去の気持ちがものすごく鮮明に思い出せるのは、そのせいだ。だから、どんな記憶も場所と共に存在している。

 だからこそ、多くの人は、今この場所が悲しい記憶でいっぱいにならないように、あとでここに帰ってきたときに切なくて苦しくならないように、誤魔化してでも、どうにか笑顔を造ろうとする。そして、その笑顔が他者と相互作用し合って、本当の笑顔を創ることになっていく。
 どんな類いの言動や所作も、演技からは逃れられない。必ず演技の要素が入るし、それには当然お手本が存在しているのだ。お手本は、テレビにでてる人だったり、最近はYouTuberだったりするのかもしれないし、自分が憧れているアニメや漫画のキャラクターの誰かかもしれない。「それっぽい」シーンに収束することを期待しながら、「それっぽい」反応をしてみて、「それっぽい」キャラを演じてみる。

 だから、昔の場所に帰ってみて、確かに自分自身の身体が経験したはずの「あの頃」を振り返ってみたときに、「自分ではない」誰かの心情として認識しやすくなってしまうのだ。
 「あの頃、笑っていたのは、確かに私のはずなのに、、本当に私なの?」ってね。

 俺は、ここで、『だから、演技なんてせずに、自分らしく生きていこうぜ!』などと、単純なバカを演じるつもりはない。
 だって、誰の、どんな行為も、どんな所作も、必然的に演技からは乖離できないのだから。

 ここで重要なのは、むしろ、「何をお手本とするか?」である。何を教科書とし、何をもって教科書通りであると定義するか。

 確かに型は決まっているかもしれない。確かに何をしたとしても、誰かのパクリをしているだけで、どう頑張ってもオリジナリティーや独創性を完全な自分の起源として創出することはできないのかもしれない。それは、2つ以上のお手本を組み合わせたからといってイイワケできるものではないし、お手本の隙間を埋めるだけでは不十分だとも思う。

 しかし、「これをお手本とするんだ!」と決定できるのは、自分自身だけである。
 そして、恥ずかしそうに「実は、これをお手本としてるんだ」と、大切な誰かに宣言することもできる。

 俺は、時に、ノリがいいヤツを演じる。時に、お勉強のこと以外何もできない引きこもりを演じることもあるだろう。
 時に眠たいだけの自分を全面に出し、時に本当に思ってることを何でも言うことで信頼関係を得れると信じているキャラを演じ、時にあえて先輩風をふかせながら冷静なアドバイスをするキャラを演じ、時にとても落ち込んでいる姿を魅せて、そして時に、純粋で元気でバカな後輩を演じる。

 どの状態でも(どうしても少なからず)演技をしているけれど、俺が、この相手に、この今の瞬間は、このキャラを提供したい、と思っていることは、俺自身が決めている。それを認識し続けている自分を、信頼関係の中で演じ続けている限り、自分を見失わないはずだ。

 だからこそ、信頼関係のあると信じている人とは、ちゃんと会いたくなる。だって、人は場所と共に記憶するから。
 でも、場所に依存しなくても、信頼関係がいつまでも成り立つはずだと信じていたい自分も存在している。ねぇ、どんな類いの俺を選んだとしても、きっと収束地はカワラナイ、、大丈夫なはずだよね?ってね。
コメント
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