@高田馬場

高田荘とbar馬場より。

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復活

2006年09月22日 02時51分55秒 | 馬場
馬場です。

死んでました。
blogが、
というわけじゃなくて、
僕の生きようとする意思が。

ようやく復活したかな、
と思えるようになりました。

でもまだ書けない。
書く気力がないんじゃなくて、
ありすぎて拡散的になっているので、
収斂させて形にするために、
もう少しだけ時間がほしい。
そんな感じ。
本当に、もう少しでいい。

やることも多過ぎる。
溜めに溜めていた。
メールの返信とか。
いろいろ。

そう、
長らく死んでいた人間に、
マイミク登録とか申請してくれた人、
ありがとうございました。
遅くなってごめんなさい。

その代わりと言ってはなんだけれど、
死んでいる間に僕が
どんなことを考えていたか、
いや、どんな風に死んでいたか、
かな、
それを載せておきたい。

いろんなことがあったけれど、
これを書いていなかったら今もなかった。
たぶん。

続けて二つ載せます。

一つは僕が死ぬ前、2月頃の。
これは死ぬ前のだけれど、
ここが原点になっていると思う。
そこで何かすこしだけ踏み違えた。
根本的に間違っていたわけじゃないとは思う。

もう一つは僕が死んでいる真っ最中、
8月頭くらいに書いたもの。
本当に死んでる。

と思った。

これからは幸福に向かいます。
素敵な文章を書きたい。

どんな物を書けるか、
俺がどんな風になるか、
すごい楽しみ。

前者は政友会の会誌「宏遠」に、
後者は「自己表現論」という授業のレポートに、
それぞれ使ったものです。

長いから誰も読まなくていいと思う。

いつか
「読みたいな」
と思わせたい。

そんな感じで、
自分への挑戦かな、
こんなことを載せるのは。

ではまた、
しばらく。
失礼します。

ぐっどないと&ぐっどらいふ。
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その1-1(宏遠原稿) (ばば)
2006-09-22 02:57:56
『世界一の酒』三年 馬場 祐平



うまい酒を呑みながら、極上の肴をつまみに、

ひとりひとりとサシで向き合い、心ゆくまで、

あるいは酔い潰れるまで、語り合う。

それが僕の理想とするコミュニケーションだ。

本音で人と話すのはそう簡単にできることじ

ゃない。自分をさらけ出すのはもっと難しい。

でも、僕はそうした瞬間を大切にしたいと思

っている。そのために金や時間を費やすこと

は惜しくない。喫茶店で話すこともあるけれ

ど、酒の力を借りないとお互い話せないこと

もある。だから、毎日呑む。それこそ浴びる

ように呑む。するうちに金がなくなり、時も

過ぎ、おまけに前夜の記憶まで失っている…

…。ということがわりとよくあって、さすが

に反省した。そのせいか、最近は人と飲むこ

とがめっきり減った。一人で呑む酒もたまに

はいいものだけれど、それが日課となると、

酒の味は悪くなる一方だ。

六十五億人の中から何かの縁で出会った仲間

達。苦楽を共にする仲間として、僕は同じ代

のほぼ全員と、少なくとも一度や二度はサシ

で呑んだ。けれど今となっては昔のように見

境なく呑むことはお互いにない。歩む道も別

々だから、呑む機会も減っていくに違いない。

だから、時々思うことがある。お世話になっ

たあの先輩には、その後の話を聞いてほしい。

あの時悩んでいたあいつはどうしただろう。

もはや名前を思い出せないあの後輩は、どん

なことを考えているのだろうか。もっともっ

と、できるときにやっておけばよかった。

少しの反省を込めて、僕はこれから自分のこ

とを書きます。わりと本音で、できるだけ洗

いざらいに。人によっては聞いたことのある

話もあるだろうし、僕自身について興味がな

ければ面白くもなんともない話かもしれない。

それでも、真剣に僕の話を聞いてくれる人の

顔が浮かんだ。ありがたい。だから今日はそ

うした人へ向けて、向かい合って呑んでいる

つもりで、僕が語るであろうことを書いてみ

ようと思う。政治サークルのメンバー宛にと

いうことで、僕が政治を志した理由、そして

そこから離れていった過程なんかも交えて。

できれば、旨い酒でも準備して、一人で読ん

でもらえたらなと思う。素面じゃかったるく

て途中で読むのをやめてしまうような話に思

えるから。

政治に興味を持ったのは小泉ブームの頃だっ

た。僕は既に十七か八になっていたから、政

友会ではかなり遅い部類に入るだろう。そも

そも政治を志そうなんてこれっぽっちも思っ

ていなかった。当時は祖父と二人で暮らして

いて、一緒に見る日曜討論のような政治番組

や、祖父の語る政治の内幕の話などの影響を

受けて、ごくありふれた形で興味を持っただ

けだった。

この時期、高校を辞めたために時間があり余

っていた。仲間内で出るようなアイデアはや

り尽くしていて、遊ぶことにすら飽きていた。

「暇」が口癖だった。喜びや感動といったこ

とと縁のない日々。だから高校時代を充実し

て過ごした人の話を聞くと今でも羨ましくな

る。とにかく、つまらない毎日だった。でも、

今になって思うと、この環境から脱して新し

い何かをはじめたいという思いを醸成するた

めに必要な時間だった。バネを縮めなきゃな

らない時期は誰にだってあるし、縮めれば縮

めるほど反発力は大きくなる。実際、それか

らしばらくして、僕は人生を変える三つの運

命的な出会いをすることになる。

 一つ目はある男との出会いだった。小学校

のニ、三年くらいから、僕は父親と会うこと

がなくなった。父親との想い出はあまりない。

もともと母親になついていた子どもだったか

ら、父親がいなくなったことはたいして気に

ならなかった。中卒の大工で、車道で相手が

譲らないとブチ切れて車から出て喧嘩を吹っ

かけ、おまけに逮捕歴まであるようなクソ親

父だったから、成長しても父親のことを思い

出すことはほとんどなかった。そのせいか僕

は男のイメージを長い間もたなかった(これ

を自覚したのはずっと後のことだったけれど

)。これは今でも僕の大きな問題のひとつで、

男とは何か?という問いをやめることはない

ように思う。身近に尊敬できる人物がいるこ

とは、男が成長する上で第一の要素だと常々

思っているのだけれど、それに最も近い祖父

でさえ既に八十歳近い上に頑固だったから、

腹を割っての交流なんてあり得なかった。そ

んな時に知った男が、石原慎太郎だった。テ

レビでよく見ていて、祖父が好きでよく話題

にしていた。作家出身という経歴が印象深か

った。たまたまその頃に文庫化された彼の著

作※1を見かけた。何気なく手に取ったのだ

けれど、読み始めてすぐにひきこまれた。衝

動買いだった。上下のわりと厚い本だったの

だがすぐに読み終えてしまい、何度も繰り返

し読んだのを覚えている。十八の世間知らず

には、男の生き方としてこれ以上ないくらい

輝かしく、魅力的で、楽しそうな人生に思え

た。その男が半生、というより命そのものを

賭けた政治。その情熱。読むうち、こんなと

ころで燻ぶっている自分が情けなくなった。

幸運にも時期を同じくして、二つ目の出会い

をする。中学時代の同級で、ヨシノリという

友達だった。成績優秀でオール5以外取った

ことがない。スポーツ万能でテニスでは全国

大会。話は上手く、気は優しく、ヤンキー連

中にすらなぜか好かれる。学年に一人くらい

はいる人気者。そんなタイプの奴だった。二

人で遊ぶことはなかったけれど、僕が地元で

は珍しい転入生だったせいか、なぜか僕をち

ょっと違う目で見ている節があった。高校で

は疎遠になっていたのだけれど、国立の受験

が終わった頃にたまたま家の近くで出会った。

聞けば第一志望に失敗して(テニスのやり過

ぎなのだろうが)浪人するという話だった。

こんな男でも失敗するのかと驚いたけれど、

同時にこうも思った。高校時代を全力で走り

続けてきた男といれば、俺も次のステップへ

進めるかもしれない。折しも、現状を打開す

るには大学へ行くか、海外へ飛ぶか、どちら

かしかないと考えはじめていた時だった。一

晩考えて、僕は同じ予備校へ通うことに決め

た。政治にはまったく興味のない奴だったけ

れど、僕が熱をこめて語るといつでも耳を傾

けてくれて、何かしら言葉を返してくれた。

そして、三つ目の出会いは予備校に通いはじ

めてすぐの頃。中学時代、演劇部でヒロイン

を務めていて、誰よりも輝いて見える子がい

た。初恋だった。※2 その子を、予備校に通

いはじめて間もない頃、帰り道のバス停で見

かけた。目を疑った。心臓ばくばく。バスに

乗り込み、彼女が椅子に座ったところでおそ

るおそる声をかけた。挨拶にはじまり、お互

いの近況を話し合った。時間はあっという間

に過ぎた。この偶然の再会は、これで終わり

ではなかった。それが当時の僕に運命!と思

わせることになるのだけれど、彼女は浪人し

ていた。それも、同じ予備校で。それからは

バスで一緒になるたびに話しかけた。ねぼす

けの僕としては頑張って早起きして時間を合

わせたりもした。そうした努力のせいか、す

ぐに仲良くなることができた。あの頃を思い

だすと、毎日聞いていたモンパチと、初夏の

風の匂いと合わせて、当時の心境が蘇ってく

る。彼女がどれほど素晴らしい子か、往復4

時間の道のりの間じゅうずっと説き続ける僕

の話を、ヨシノリは聞き続けてくれた。初恋

は実らないとはよく言ったもので、夏の盛り

を過ぎる頃に僕の初恋はひとまず終わりを告

げた。※3残り時間は少なかった。予備校に

は行かず、合格後の再挑戦に賭けて家へ引き

篭もった。ヨシノリは自分のセンター試験の

後、わざわざ僕の家までミスドを差し入れに

来てくれたりした。そうした人々のおかげで、

受験は運よく合格できた。残念ながら、その

後の逆転という夢は叶わなかったのだけれど

……。

ところで、石原慎太郎に感銘を受け、友達に

励まされ、恋の成就へ向けてひた走った若き

馬場祐平。受験期から大学では政治サークル

に入ると決めていたし※4 、入学してからも

しばらくは政友会で結構頑張っていた。政治

への情熱はかなりのものだったと思う。けれ

ど、その情熱がどこから来たのかと思い返す

と、はっきり言って不純なものだったと、今

は断言できる。※5

いきなりだけれど、初恋の子とバス停で再会

した時、僕は人を好きになることについて思

いをめぐらすようになった。そんなことはは

じめてだった。青かったし、純粋ゆえに極端

な結論を出しがちだったにせよ、それでもそ

の時に考えていたことの多くは決して間違っ

ていなかったと、今でも自信を持って言える。

そのひとつは究極の愛※6についての考えで、

最終的に「その人のために死ねるか」という

ことだった。そして実際に、片思いという勝

手な思い込みだったけれど、あの時はそれが

できると考えていた。

死ぬということに関して言えば、僕は小学校

にあがってすぐの頃から死を極端に恐れはじ

めた。幼い頃には珍しいことではないと思う

けれど、そうした死への直感を僕は成長して

も持ち続けてきた。それは発作的に起こって

自分では制御できないものだ。小学校の頃は、

寝る前はもちろんのこと、授業中にも叫びそ

うになることが度々あって、抑えるのに机に

しがみついてなくてはならなかったし、中学

では風呂場で錯乱して、濡れた裸のまま家族

の前に飛び出したこともあった。※7 歳を重

ねるにつれて発作の頻度はいくらか減ったけ

れど、人生をリアルに感じる度合いが増える

につれて、恐怖は増したような気がする。

その僕が、ある種の狂気にせよ、誰かのため

に死んでもいいと思えたのは、今考えるとす

ごく不思議だ。でも、本当にあったのだ。一

度きりではなく、その後にも。そうした瞬間

を、僕は人生で最高の時だと思い続けてきた。

人間は意識の上では万事を自分のために為す、

というのが僕の持論である。以前よく使って

いた例である募金論は、他人のことを思って

募金するのは結局それによって自分が満足を

得られるからだという話だけれども、他人の

ために死ねるのも同じこと。自分の生存を超

えて、他人のために死ぬ、それは「その人」

が自分の命を賭けるに値すると信じる時だけ

真実たりうるのだから。

恋愛、自己満足、政治。それらを考えていて、

ある時思い至った。政治とは原理的に片思い

で、対象が国家あるいは何らかの共同体であ

る点が恋愛と違うだけだと。究極の愛とは相

手のために死ねるかどうかだと、僕はさっき

言った。先日、郵政改革に際して小泉首相が

「俺の信念だ」「殺されてもいい。俺は総理

大臣だ」と言ったけれど、僕はこの言葉を評

価したい。が、本来はこうした言動は取りた

てて騒ぐほどのものではなくて、政治家とし

て当たり前のことだ。報われるかどうかは二

の次で、愛する国のために自分の命を賭けて

でも貫く信念。民主主義にすら先立つこの信

念がなければ政治家とはなんて虚しいものだ

ろう。そう思った時に僕は政治への興味を失

った。自分が国家への片思いで死ぬ覚悟があ

るとは思えなかった。「職業としての政治」

なら倫理観だけでも務まるだろうけれども、

「人生を賭ける政治」にはそれだけではとて

も足りない。自分自身にすら賭ける対象を見

出せない人間が、見ず知らずの他人に命を賭

けられるはずがない。いったい、俺は何に賭

けられるのだろう・・・?

その1-2(宏遠原稿) (ばば)
2006-09-22 03:04:40
そう思ってはじめたのがいわゆる自分探しだ

った。旅や語り合いからもたくさん刺激をも

らったけれど、基本的には読書に頼った。そ

うした読書において大事なのは、理解したこ

とを信じられるか否か。信じた言葉だけが自

分に根付く。自分が何を信じ、何を信じてい

ないのか。何を持ち、何を欲しているのか。

繰り返し問いかけ、一歩ずつ足場を踏み固め

る。地味な作業だ。この過程は長くなるので

省くけれども、大雑把に並べると、文学では

慎太郎からカミュ~モーム~トルストイ、哲

学ではニーチェ~スピノザ~東洋思想と遡行

してきた。目下ブームは仏教。なんだ、結局

そこに戻ってきたのかという感じがするかも

しれない。でも、近すぎて見えないものに気

づくために、人は遠くまで旅をするのだと思

う。これからする仏教の話は理屈めいた話に

なってしまうのだけれど、どうしても抜かし

たくない。しばらく我慢して読んでもらえた

らと思う。

仏教とは「覚り」への道だと考えていい。派

によって道は様々だけれど、ゴールはだいた

い同じ。ブッダとは「覚った者」という意味

で、大半の派では自分自身がこのブッダにな

ることがゴールとされる。覚りの境地とは、

言い換えれば自分探しの終着点。自分が何者

か、完璧に分かる状態が「覚る」ということ。

覚りのプロセスはこうだ。まず第一歩。それ

は、自分が世界の一部であることの理解。す

ると、世界に固有と思っていた自分に固執す

る意味がなくなる。自我を希薄させていき、

欲望を切り離す。最終的には自我をゼロにし、

生と死を超える。これが覚りの境地、涅槃。

空、絶対無とも言える。ポイントは「縁起」

という概念。これが分かると理屈の上では理

解できると思う。縁起と言っても、これは仏

教用語なので現代的な意味とは異なる。「縁

」という字は今でもご縁とか因縁だとかでよ

く使う言葉だけれど、この方がずっと近い。

何かと何かが繋がっているというイメージ。

何かが起こると、それがきっかけで次にまた

何かが起こる。そうした因果関係と考えても

差し支えない。つまり、世界の原理が「縁起

」である。そこへ目を向けると、自分自身が

生まれてきたことが縁起になり、死ぬことも

縁起になる。広げていけば自分の過去も未来

も、今この瞬間の自分もまた、どこからか原

因を受けて結果を生み続ける、縁起の中の存

在となる。たとえば今、この文章を読み進め

るというプロセスも、無数の原因を伴った結

果だ。すべての縁起は知覚できない。が、法

則の実感はできる。すると、自分の存在感が

異質なものへ、ふっと変わる。自分の細胞一

つまでもが法則の一部であり、世界の一部で

あるという感覚。全宇宙との一体感。これが

大体の仏教の感覚だと思う。※8

僕がなんでまた仏教なんて堅苦しいことを持

ち出したか。それは、覚り云々ではなくて、

縁起、因果ということを伝えたかったから。

自分探しをすればするほど、自分が周囲のあ

らゆる事物との関係によって形作られている

ことに気がついた。自分だけに目を向けてい

ても答えは出ない。探している自分は、自分

の外にある。そう思い始めていた時、自分の

考えが東洋的であることを知った。その過程

で、僕は自分を形作ってくれている多くのも

のごとにはじめて目をむけ、向き合うことに

なった。※9これからする話は、このことを

はじめて意識しはじめた時期、去年の夏合宿

の際に頭に浮かんできたことだ。

僕ははじめの方で親父と会わなくなったと書

いた。離れて暮らしていたのだけれど、十六

か七の頃、親父が肺癌で死んだらしいと聞か

された。でもいつ死んだのかも忘れるくらい、

僕にとっては些細なことだった。二十歳にな

った歳の夏休み、小村さんや浜ちゃん、直井

の実家にお邪魔することになる旅のはじめに、

僕は長崎県の壱岐という島に寄った。小さい

頃に1回だけ行ったことがある、親父の故郷

だ。西に行くついでにちょっと寄っていって

やるか。そんな軽い気持ちで、墓参りだけし

てすぐに島を出るつもりだった。博多からフ

ェリーに乗り、着いた港からバスに乗って、

終点で自転車を借りてさらに走った。空は青

すぎるくらいで、とんでもなく暑い日だった。

どこもかしこも蝉が鳴きまくっていた。果て

しなく昔の記憶だったけれど、近くの町まで

着くと実家までの道順は思い出せた。切り立

った岸壁が続き、道はそれと並行して走る。

実家へは寄らないで、すぐ近くの墓地へ向か

った。真新しい墓石がいくつかあって、その

中のひとつに親父の名前が彫ってあった。持

ってきた酒とタバコを供えた。それから目を

つむり、手を合わせた。親父の顔を久しぶり

に思い出した。その時はじめて、僕には親父

がいて、今はもう生きていないとい、それを

理解した。なぜだかは今でも分からない。そ

れまでは本当に何とも思っていなかったのだ。

親父が死ぬ少し前、会わないかと人づてに何

度か連絡があった。僕は会いたくなかったし、

面倒でもあって断り続けた。それを思い出し

て、はじめて後悔した。クソ親父だったけれ

ど、いいところもあった。夫や父としては不

器用だったけれど、やることは真面目だった。

自分で働いて稼ぎ、余裕ができると稼ぎの少

ない実家に送った。兄弟が困った時は助けて

やった。自分が好きな海には毎年何十回も連

れて行ってくれた。おかげで僕は今でも海が

好きで、鮨も大好物だ。もちろん悪いところ

もたくさんあった。※10 それでも、親父は

親父だった。熱いものがこみ上げてくるのを

止められなかった。

人の支えにはなかなか気がつかないし、気が

ついてもすぐに忘れる。実際、僕はそうだっ

たし、今でもそうだ。家族や友人、その他多

くの人たち、科学や芸術、そしてそれらを包

む世界によって生きている自分。でも、そん

なことはすぐに忘れてしまう。少しでも改善

したくて日記をつけはじめた。きっかけは

21歳の誕生祝いに、澤田さんから「マイブッ

ク」をもらったこと。タツキさんにも勧めら

れていたし、庄司が入学当初から続けている

のも知っていた。いつも三日坊主の僕が、生

涯はじめて日記を書き続けている。その時そ

の時は自分を中心に世界が回っているように

思えるのだけれど、振り返ってみるとなんの

ことはない、いつでも誰かの支えがある。日

記をつけはじると、そのことがさらによくわ

かった。考えてみたら、僕が二年半を賭けた

政友会という場所が、そもそもそうだった。

それがようやく分かったのは、引退式の日だ

った。



---

そして2005年 夏の東京で 取りあえず僕らの旅もまた終わり

愛する人たちと 愛してくれた人たちと 世界一の酒を飲み交わしたのです

最後の曲が終わり 音がなり止んだ時 あぁ僕はそこで何を思ったのだろう

選んだ路とはいえ 時に険しくもあり 些細な事で僕らは泣き笑う

いろんな街を歩き いろんな人に出会う

これからだってそれはそうなんだけど

そして今想うことは たった一つ想うことは…

---



僕は、死について、政治について、恋愛につ

いて、極端に考えすぎているのかもしれない。

誰も彼もが命を賭けてやる必要はないのかも

しれない。でも、人生は一度しかない。どう

せ尽きる命なのだから、自分でそれだけの価

値があると信じたものに賭けたい。あれでも

ないこれでもないという日々の末に僕が辿り

着いたのは、自分を支えてくれた人達だった。

実際に生きる上で何を選択するかは難しい。

でも、根本さえ間違わなければ、多少の失敗

は何とかなる。そう信じて僕は一歩を踏み出

す。

もし、ここまで読み通してくれて、なにか感

じてもらえたなら、ぜひ今度は本当に飲みま

しょう。そして、お互いがいま何に賭け、ど

う生きているのか。そんな話ができたら最高

だと思います。





※1『国家なる幻影』文春文庫 石原慎太郎

※2控えめに言うと池脇千鶴と国仲涼子を足

して2で割った感じ ※3彼女には僕と知り合

うずっと前、小学校から惚れていた男がいた。

僕の友人でもあるのだけれど、ボクサーで今

年の国体2位というすごい奴だった… ※4政

友会は当然ブックマーク! ※5僕が純粋だと

思うのは、照井やその一番弟子、秦のような

男だ ※6なんか安っぽい言葉だけれど・・・ ※

7これは思春期だったので本当に恥ずかしか

った・・・ ※8これらは僕の解釈、つまり「馬

場教」になっていて、正統な仏教解釈ではな

いと思うので注意して下さい。なお、僕はま

だ覚っていないどころか、仏教徒ですらあり

ません ※9Mr.Children『Everything(It\\\'s

you)』、MONGOL800『Message』※10少なくと

も顔と眉毛が親父譲りなのは間違いない。

◆最後に引用した曲は、Mr.Children『1999

年、夏、沖縄』。『NOT FOUND』のB面。引退

式の三次会、思い出の曲。そして今想うこと

は、たった一つ想うことは、僕の面倒をずっ

と見てくれた先輩方への、言葉で言い尽くせ

ない感謝です。三年間も、本当にありがとう

ございました。



その2-1(自己表現論原稿、題:自分の長所) (ばば)
2006-09-22 03:06:25
 書き終えて感じた自分の長所。

 適切な用法ではないかもしれないが、まじ

めさ、だと思う。



           ☆



 七月二十四日。十五時二十三分。八号館四

〇七パソコン教室、隣には庄司裕一。自己表

現論レポートの書き出し。

 予定表をめくると提出日まで完全に埋まっ

ていた。スケジュール管理は大嫌いだ。いつ

でも何かを忘れている。でも仕方がない。思

い出したからには今やってしまおうと思う。

じゃないと締め切りに間に合わなさそうだか

ら。そう思ってこの教室へ来てパソコンをつ

けた。

 自分の長所について語るという題。

 何かを語るとき、僕は誰に向かって語るの

かをまず考える。今回は先生に向けて語るの

だろうか。自分の子供に読ませてやれと先生

は言っていた気もする。だがまだピンとこな

い。とにかく書き始めないと分からないのか

もしれない。とりあえずは先生に向けて書い

てみようと思う。原さんと呼んだ方がいいの

かもしれない。先生のいないところではあの

おっさんなどと呼ぶこともあるが、どうもま

だ相向かいの時に原さんと呼びかけるのは違

和感を覚える。だからとりあえず「先生」で

統一してみる。

 レポートのタイトルが発表されてから、自

分の長所をふと考えることがあった。ただの

一つも思いつかなかった。何人かに聞いてそ

れを題材にしようかとも思ったけれど、実行

する前に思い直した。それでは自分の言葉じ

ゃなくなる。一人で考えてもいくつかは挙が

る要素がある気もした。たとえば、やさしい、

とか。でもそれを長所と言い切ってしまうと

何かが欠けてしまうようにも思えた。だから

まだキーボードを打つ手が内容に馴染んでこ

ない。何を書けばいいのか分からないからだ。

思いつくままに文章を書くのは好きじゃない。

正確に言えば推敲ができないのが嫌なのだ。

構成を練りたい。書いたままの文章がたしか

に思考そのもの、ありのままの自分だとして

も、それを曝け出したくはない。

 こう書いていて思った。僕は「ありのまま

の自分」で生きたいと思っていたはずだ。矛

盾している。たぶん、ありのままの自分の、

あまりのどうしようもなさを認めなくないと

いうのが本音だと思う。また書いていて思っ

た。これが「中途半端な自分を引き受ける」

ということなのだろう。

 ふう。前置きはこれくらいにしておいた方

がいいのかもしれない。僕はいつまでも本題

に入らない傾向がある。相変わらず長所は見

えてこないけれど、そろそろ引き受けよう。

 はたと手が止まってしまった。考えること

約5分。相変わらず何から書きはじめればい

いのか分からない。

 また3分経った。

 言葉が適切じゃない気がするけれど、それ

でもひとつ見つかったことがある。長所と言

うよりも、きっとプライドとして僕が身に付

けようとしてきたものだ。それは、まじめだ

ということ。後輩に話したら鼻で笑われた。

それくらい、いわゆるまじめという言葉とは

かけ離れている人間だと思われているようだ。

たしかにそういうは思うけれども、でもどこ

かで僕は僕なりにまじめに生きているつもり

なのだ。

 でも本当だろうか。本当に僕はまじめに生

きてきただろうか。また疑問が湧いてくる。

いや、そうじゃなかった気がする。本当にま

じめに生きてきたのなら、僕はもっともっと

涙を流していたはずだ。それとも忘れている

のだろうか。今は思い出せない。心の底から

涙が溢れ出てきたことがどれくらいあったの

だろう。でも、こうやって自問自答するのも

僕のまじめさの表れなのかもしれないとは思

う。

 涙。

 大学に入ってから自然と涙が溢れ出て止ま

らなくなったことは、付き合った女の子との

間で起こったことを除くと、たぶん三回だ。

僕はわりと涙もろくて細かく挙げればキリが

ない。でもこの三回だけは僕の中で何かが変

わった節目として心深く刻まれている。一回

目は二十歳で初めて親父の墓参りをしに行き

墓前に立ったその瞬間。もう一回は付き合っ

ていた女の子が半年以上をかけて準備してき

た「国際学生シンポジウム」というイベント

のエンディング。そして最後の一回は大学で

所属しているサークル「政友会」で、ひとつ

上の先輩を追い出したコンパの翌朝だ。

 親父の墓参りについては、政友会の会誌に

載せようと考え文章に起こしたことがある。

書き終えた時に僕の中で何かが変わったよう

な気がしている。あれを書いていなかったら

政友会の追いコンであれほど泣くことはなか

ったかもしれず、自己表現論にも出ていなか

ったかもしれないと思うことすらある。反則

なのかもしれないけれど、やっぱりあの文章

は先生に読んでもらいたい。だからこのレポ

ートと一緒に出そうと思う。もし反則技が通

用するのであれば、僕の昔書いたことと、今

書いたこと、どう変わったのかをも見てもら

いたい。手抜きじゃなくて、あれは僕にとっ

て大事な、完結したものなのだ。だから同じ

ことになるかもしれないけれど、親父につい

てはここでもう一度書くことにする。
その2-2(自己表現論・題:自分の長所) (ばば)
2006-09-22 03:07:07
 僕の親父は大工だった。生まれも育ちも長

崎の壱岐という島で、中卒後すぐに弟子入り

して職人になった。家が貧乏だったから、そ

うする以外の道はなかったらしい。まじめと

いえば、親父はずいぶんまじめだったのだな

ということに、この歳になってはじめて気が

ついた。上京後、暴走族のようなことをして

警察に捕まったこともあったようだけれど、

僕が知る限り文句も言わずに朝5時に起きて

夕方過ぎまで働き通しで、ことあるごとに金

がないと電話してくる実家に少ない収入の中

から送金をもしていた。30半ばで自分の名

前で工務店を起こし、家族経営のようなもの

だったけれど、暮らし向きはまずまず順調だ

った。味噌汁をこぼすと、あるいはもっとひ

どい時には沢庵を音立てて噛むだけで殴る理

不尽さが幼いころには耐えられなくて親父の

ことを好きではなかった。でもそういうこと

も教養のなさや不器用さから生まれる些細な

ことだったのかもしれないと考えることが近

頃はある。

 おかんが最近になって僕に言うのだ。パパ

はわたしのことを深く愛してはいたけれど、

あんたのことはあまり愛していなかった。確

かに頷ける気もする。手のかかる僕は夜通し

泣き続けて眠れないし、そのせいでおかんは

僕につきっきりになるしで、子供って邪魔だ

な、というくらいに考えても不思議ではない。

 それでも、夏になるたびに親父は自分の好

きな海へ毎日のように家族を連れて行った。

ほかに自分から何かをしたいと言い出すこと

は滅多になかった。だが家族の誰かが望むこ

とはできるだけ叶えよう、喜ばせようとして

くれていた。

 しかし結局は酒が原因で別れることになる。

何故あれほどまでに酒を飲むようになったの

か僕は知らない。何かやりきれないことがあ

ったのかもしれないし、母の言葉が正しけれ

ば仕事仲間に悪影響を受けたのかもしれない。

僕が小学校の半ば頃から喧嘩の頻度が増し、

部屋を飛び交う物が壁を傷つけ破片が飛び散

るようになる。叫び声とひどい物音とに、僕

は毎夜眠りを妨げられ泣きながら喧嘩を止め

た記憶が今でも残っている。ほどなくして別

居生活となり、それから離婚が成立した。そ

の後は散々で、僕の中学受験の前夜に酔って

押しかけてきて警察を呼んだこともあった。

そんな親父に僕が好意を持つはずはない。

 親父がもうすぐ肺癌で死ぬと聞かされたの

は高校二年の頃だったと思う。僕は無視した。

タバコを毎日二箱は吸っていた親父だ、自業

自得だとまでは思わなかったけれど、当然の

ことだった。死んだと聞かされても特に何と

も思わなかった。そうか、死んだのか、と思

ったことはなんとなく覚えている。それから

少しは考えたのかもしれないが、もはや思い

出すことはできない。あるいは努めて考えな

いようにしていたのかもしれない。死ぬ直前

のしばらくの間、親父は僕にすごく会いたが

っていたらしい。妹とは接した時間が短かっ

たからかもしれないが、一人息子の僕にだけ

はと強く願っていたらしかった。

 そんなことを思い出したのは、大学に入っ

て自分が男としてどうあるべきかということ

を考えるようになった時だったと思う。自分

が生きた証としてこの世に残せた何か、死が

すぐそこまで迫ったとき男が考えるのはやは

り息子のことなのだろう。同じように、僕は

どうしようもない中卒親父によって生を受け

たことを死ぬ間際まで引きずっていくのだろ

う。それに気がついた時、そろそろ墓参りく

らいしてやってもいいかもしれないと思った。

 そう考えたのは二十の夏だ。青春十八切符

での西日本旅行の途中に墓参りを組み込むこ

とにした。あの時はまだ今書いたようなこと

を意識していたわけではなくて、ただ単に二

十歳という区切りの年のイベントとしてはち

ょうどいいかなという程度に考えていただけ

だった。

 とにかく僕は親父の実家へたどり着いた。

墓前で汗が頬を伝ってきたこと、蝉がいたる

ところで鳴いていたことを覚えている。暑さ

と鳴き声とに取り囲まれて、しかし僕は父の

墓を前にして全くの無音地帯にいるような感

覚に陥った。その瞬間に溢れ出てきた涙の頬

を伝わる熱さを今でも時々思い出す。

 なぜ涙が出たのか。以前に書いた時は「な

ぜだか分からない」と書いたはずだ。そして

今も相変わらず分からないような気がする。

以前はこうも書いたはずだ。親父の何かを受

け継いでいる自分がいるということを意識し

た。そしてそれに感謝した。今は感謝するべ

きなのかどうかは分からなくなった。何かし

らの繋がりが僕と親父との間に存在するとい

うこと、それだけでいい気がしてきたからだ。

それが親子であり、血であり、あるいは僕の

好きな海であったりするのかもしれない。そ

うした繋がりが良かったのか、悪かったのか、

それすらも分からない。すべてが僕に理解で

きるわけではない。けれど親父が僕の親父だ

ということが、僕の一部を形作り、僕をどこ

かで支えている。それを感じられたことが涙

として出てきたのかもしれない。

 先日の「何でも喋る会」で、先生が気づい

ていたどうかは分からないが、会の後に清水

さんに話しかけられた時、涙が出てきた。僕

が心から言葉にしたことを評論家的と言われ、

僕の生き方そのものが否定されたように感じ

た。僕は想いを人に伝えることを何より大事

にしようと思ってきたのに、三人に揃ってま

ったく理解されていないような気がした。浦

島ちゃんにも申し訳なかった。悔しかった。

何より、清水さんが話しかけてくるよりも前

に世一が「馬場ちゃんが言いたかったことが

伝わっていないよね」と言ってくれ、また杉

山も清水さんが僕に話しかけている間に割っ

て入って僕の足りない言葉を補おうとしてく

れたことに心が震えた。彼らは僕を慰めよう

としていたわけではないし、僕の言葉に賛成

・反対というわけでもない。ただ僕の想いや

背景を彼らなりに理解してくれていただけだ。

だから僕の気持ちが部分的には伝わり、そし

てその点だけを言わんとしたのだと思う。今

となっては、僕の発言の方法が遠回り過ぎた

と思うし、場の方向性とはずれてもいた。評

論家的だという言葉にも素直に頷ける。それ

でもとにかく彼らが僕の言葉を理解してくれ

たこと、そして僕に気持ちを向けてくれたこ

と、それが嬉しかった。悔しくて嬉しくて、

わけが分からなくて涙が出てきた。まさかあ

の場で自分が泣くなんて思ってもみなかった。

僕が泣いていることに気がついたであろう何

人かを含めても、誰よりも僕自身が一番驚い

たと思う。あの時流した不意の涙はきっと忘

れられない。そして、形は違えども、墓前で

流した涙と繋がっているように僕は感じた。

単なる感動を超えた底から溢れ出てくる涙の

理由が僕はあの時に分かった気がしたのだ。

その2-3(自己表現論、題:自分の長所) (ばば)
2006-09-22 03:08:31
 ここまで書いてはみたものの「自分の長所

」というタイトルへ繋げられるのかに疑問が

残っている。ただ書きながら思ったことがひ

とつある。ふつう言われる長所や短所は他人

と比べての特性だ。片方はもう一方の裏返し

として語られる。だからなんらかの基準や物

差しで測れるものなら短所や長所として分か

りやすいかもしれない。だが僕が僕自身に向

かって長所だと言いきれるのは、そのように

比べられるものではないような気がする。だ

から書きにくかったのかもしれない。「やさ

しい」というよりも「やさしくしよう」と自

分で心の底から誓うこと。自律的に存在して

いる想い。すなわち僕が何よりも大切に感じ

ること、譲れないもの、プライド、そうした

ものこそ、僕が長所として主張したいものだ

と思う。

 この地点からあらためて僕の「まじめ」と

いうことを考え直してみると「真剣に生きる

・生きたい」ということがその根底にあるよ

うな気がする。僕は幼い頃から「死ぬのが嫌

だ」と叫び続ける日々を送っている。だから

こそ一般的には到底許容されるはずのない歪

んだ生き方ながら、自分の中では「まじめ」

という言葉が出てくるのだろう。自分のまじ

めさに適うことを実行する時は徹底的にやり

通そうと考えているし、事実そうしてきたつ

もりだ。言い訳がましくとも、だからこそ僕

はいかに真剣に人生を送るかに迷っているの

だと思う。時には迷うのが苦しくて逃げ出し

たくなる。それでも今のところはなんとかや

っていこうと思えているが……。

 そして二番目の涙。

舞台は「国際学生シンポジウム」(通称シン

ポ)、時は十二月のはじめで、そのエンディ

ングでのことだった。シンポは全国から院生

・留学生を含む、選抜された学生二百人が集

まり、十数個の分科会に分かれて二泊三日の

合宿形式で勉強会を行う大イベントで、歴史

もあり、分科会ごとにその分野で名の通った

講師が数人加わるために知名度もかなり高い。

付き合っていた女の子(その子とは一時縁が

切れたけれども、復縁して今また付き合って

いる)がこのイベントのナンバー2をやって

いた。前年のイベントが終わると、年が明け

てすぐにその年のイベントへ向けて代替わり

し準備がはじまる。それからの長い間、毎週

行われるミーティングに加えて、首都圏・関

西圏の大学を飛び回って宣伝し、渉外長とし

て協賛企業を求めて東京中を歩き回り、ある

いは自分が担当する分科会の専門的な勉強も

して、持ち歩いていたキャリーケースが壊れ

るような東奔西走の日々を送っていた。イベ

ントというのは何にせよそうなのかもしれな

いが、そのための準備をしている期間は辛く

苦しいものなのだと僕は彼女を見ていてはじ

めて知った。それほど傍から見てもしんどそ

うに見えた。僕は彼女を慰め、励ました、と

思う。僕に実務的な能力があるわけもなく、

それ以外に何も出来なかっただけだ。ただひ

たすらそれだけだった。それだって十分にや

れたとは思えないが。

 2/3が落ちる選考において僕は運よく通

過し、シンポに参加することができた。



           ☆



 前回はここまで書いたところで時間切れと

なり、今また新たに書き始めた。八月二日。

向かいでは妹が英語の勉強をしている。浴衣

一枚でちょうどいい気候。風通しをよくする

ためにドアは開け放してある。窓の外には川

のせせらぎが聞こえ、蝉が時折思い出したよ

うに全身を震わせて鳴く。祖父によって強制

連行された家族旅行で訪れた群馬県の奥地、

四万温泉の積善館。間が空いたせいで、濃密

に広がったはずのイメージすべてが雲散霧消

してしまった。イメージを作り直すために、

凹むだけだからあまりしたくないのだけれど、

読み返すことにする・・・・・・。



 やはり読み返すと凹む。どんな物を書いて

いても一緒なのだけれど、いつまで経っても

慣れるということはない。何を書いていたん

だろうかという気持ちになる。が、今回はマ

ラソンなのだからとにかく前に進もう。今よ

うやく中盤に差し掛かろうとしているくらい

だろうか。

 締め切りも間近だ。もはやメールで東京に

送って代理で出してもらう他ない。



           ☆



 シンポで僕が参加したのは「大人になると

は」という分科会だった。他の多くの分科会

がアジアの安定やイラク戦争等についてハイ

レベルな議論を交わす中、この分科会に惹か

れてシンポに参加した人々は毛色が少し違っ

ていた。僕と庄司は期せずして同じ分科会に

なった。関西からやってきた世一英佑と出会

ったのもこの時だった。三日の間、僕らは議

論をしたり、酒を飲んだり、あるいは議論の

集大成としてのパフォーマンスを作ったりと、

休むことなく語り続けた。時間は瞬く間に流

れた。

 印象的だったことがある。前日は朝まで飲

んで殆ど眠らずに迎えた二日目の夜。翌朝ま

でという期限の中、パフォーマンス(劇)を

グループごとに分かれて僕らは作っていた。

時間は刻々と迫ってくるのに、あまりに壮大

な計画を立てた作業は遅々として進まない。

分科会に数少ない技術者としての期待や自負

もあったのだと思う、極端な睡眠不足から一

人また一人とメンバーが減っていく中、結局

僕だけが一睡もすることなく本番直前の完成

まで準備にかかりきりとなった。受験時代と

はまた違った形で何かに全力で立ち向かった

一瞬。あの時の集中力は異常だった。徹夜明

けに感じる理由のない高揚感を百度ほども積

み重ねたような興奮。なぜそれほどまでに僕

が駆り立てられたのか。

 誰かに誉められるようなことをやったわけ

ではない。たかが素人の即興劇が感動を呼び

起こすわけもない。それでも舞台の上で全て

を終えた時の僕は晴々とした気分だった。周

りが僕を必要としていた。僕もそれに応えた

かった。やるべきことに向かっているという

感覚。僕の人生に与えられた試練と対峙して

沸き起こる意地。やるべきことがほとんど見

つからない日々の中で、その時だけは自分に

とって何かしら意味のあることができたよう

な気がした。自分の椅子に戻り次の分科会が

パフォーマンスをはじめると僕は泥のように

眠った。

 体を揺すぶられて目を覚ますと休憩を挟ん

でエンディングがはじまるところだった。そ

れまでの学芸会のような雰囲気から一転して

会場はしんと静まっていた。しっとりとした

BGMがかかり前方の大画面には三日の間、

映像班が折を見て撮っていたムービーが映し

出された。各分科会の勉強会や夜の親睦会の

様子。そしてどの分科会も必死だった昨夜の

パフォーマンス作り。あたりは急にしんみり

として、皆それぞれの想いに浸っていた。朝

方集められた参加者の感想が幾つも画面を流

れていく。その中には僕が書いたのもあった。

演出が上手すぎると思った。周りで女の子の

泣く声が聞こえはじめた。僕も堪えきれなく

なって涙が少し出てしまった。それから閉会

式の宣言。運営側には僕の付き合っていた子

をはじめ、政友会やその繋がりで知り合った

友人が多くいた。閉会式のはじまりを宣言し

たのは、いつもはスマート&面白いという仮

面を決して剥がさない政友会同期随一の切れ

者だった。彼の声も震えていた。正直言って

今となっては閉会式がどのように進行したの

か細かくは覚えていない。鮮明に蘇ってくる

のは、参加者の名前が分科会毎の写真と一緒

に映し出された後、付き合っていた子の名前

がエンドロールの最後から二番目に大きめの

文字で流れていったことくらいだ。長い間の

辛く苦しい時間が報われたであろうという喜

びと、ありがとう、そして本当にお疲れさま、

という思いがこみ上げてきた。その後僕は運

営側でもないのに無性に涙が出てきて何人か

と抱き合い声をかけていったと思う。そのこ

とが彼らの間で話題になっていたのだと後で

彼女から聞かされた。

 この三日間が僕を大きく変えたかというと、

そうでもない。それでも僕の中で大きな位置

を占めているのは、あの時が彼女と僕との関

係を変えたと彼女が言うことがあるからだ。

大学生活において最も苦しい時期に傍にいた

のが僕だった。彼女の一部始終を僕は知って

いた。互いに溢れ出る想いと涙。たしかにあ

れは僕らの絆を深くした。あの瞬間がなけれ

ば、僕らはとうの昔に別々の道を歩むことを

決めていたかもしれない。
その2-4(自己表現論、題:自分の長所) (ばば)
2006-09-22 03:10:25
 そして最後、三番目の涙。

 こんなに涙の話ばかり書くと気恥ずかしく

なってくる。それに何か嫌みったらしいよう

に思えてならない。が、もはや後戻りして書

き直す余力もない。だから続けて書くことに

する。

 卒業式の翌日が追いコンだった。僕はパワ

ーポイントでちょっとしたムービーを作ろう

と考えた。ムービーを大画面で映すため世一

に相談すると、自前の映写機とスピーカーを

使わせてくれる上に最後まで技師として働く

と言ってくれた。それで決まりだった。僕は

ムービー製作に取り掛かった。五日くらい前

から作りはじめたにも関わらず、結局二徹ま

でして出来上がったのは飲み会の直前で、家

から馬場の飲み屋までパソコンや器具を持っ

てタクシーで駆けつける有様だった。僕が到

着した時には既に百人近い会員が座敷に座り

乾杯を待っていた。僕も先輩方も活動を引退

していて会うことは減っていたけれど、この

日ばかりは互いに現役の頃に戻ったようだっ

た。高校までに部活のような上下関係のある

集団に属してこなかった僕にとって、彼らは

人生で初めて先輩と臆面なく呼び得た人達だ

った。一次会のために僕が作ってきたのは、

それまでの四年間を振り返る印象的な写真を、

ゆずの『栄光の架け橋』に乗せて次々と映し

ていく卒業アルバムだった。切なくも力強い

イントロがスピーカーから流れるのにあわせ

て映写機で壁に大きく映し出す。勉強会、合

宿、たくさんのイベント。僕は話で聞いたこ

としかないけれど、彼らの中にはサークルを

辞めたくなるような辛い時期が何度もあった

らしい。普段は決して涙を見せないような先

輩が一番最初に嗚咽を漏らした。それが波紋

のように広がり、実はその前から、おそらく

誰よりも早くから涙ぐんでいた僕は、ムービ

ーを操作する手が震えて困るくらいだった。

過ぎ去った月日、共有した長くも短かった時

間を思い出すと、ムービーでは決して映し出

されることのない、あるいは映し出すことの

できないような僕だけの思い出が駆け巡る。

 僕は政友会に入って本当に良かったと今で

も自信を持って言える。高校を辞めてふらふ

らしていた時期に読んだいくつかの本に刺激

を受け政治の世界に興味を持ち、早稲田を目

指そうと決めたすぐの頃から政友会はブック

マークに入っていた。入学前から政友会に入

るつもりだった。新歓期は当然多くのサーク

ルを回ったけれど、最終的にはそこに属して

いた人の魅力から政友会に落ち着くことにな

った。だが政治の世界を目指して早稲田・政

友会に来たのはいいものの、現実の政治の世

界を垣間見、そして自分について考えるよう

になるにつれ、僕の心は揺らいだ。政治に嫌

気が差したわけではなく、僕自身が政治の世

界に飛び込むには余りに自分のことしか考え

られないと思ったからだった。僕は政治を自

分のために行おうとしていた。そう気がつい

た頃には、現実の政治への興味をほぼ失って

いた。自分とは何か、どのように在るべきか

という青臭いことを頻りに考え、語るように

なった。大学一年の冬から二年の春にかけて

だ。浪人時代に潰えた初恋の記憶も薄れて、

幾つかの新たな恋もしていた。上手くいくこ

ともあれば、いかないこともあった。そんな

時期に三ヶ月近くの間、夕方から夜中まで毎

日のようにバーで一緒に飲み潰れてくれた小

村哲典幹事長、男の生き方や百パーセントの

愛について朝まで何度となく語り合った澤田

亨平副幹事長をはじめ、政治に距離を置いて

いた僕にも関わらず、多くの人がそんなこと

を度外視して支えてくれた。だからこそ今の

今まで政友会を続けてこられたのだと思う。

 そんなことを思い出して涙がぼろぼろとこ

ぼれ落ちた。その場にいた多くの人がそうだ

ったんじゃないかと思う。一次会の終わりに

は先輩方皆が僕にありがとうと言ってくれた。

誰よりもクールな西村仁志政治会幹事は泣き

ながら、お前が一番辛い仕事をしていたのを

俺は知っているよ、ありがとう、と言って抱

きついてきてくれた。僕の方こそ感謝の気持

ちで胸がいっぱいだったのに。言い尽くせな

い想いが今でもある。

 別添した会誌へ投稿する文章を書いたのは

追いコンの少し前だ。あの文章の基本テーマ

は人と人との繋がりを大事にしたいというこ

とだった。死を乗り越えて生きていく意味を

どう僕が感じているのか、曖昧ではあるが何

かが伝わればいいと思って書いた。その中で

は、このレポートでは最初に置いた親父の話

をラストに持ってきたけれど、今はそこに書

き加えたい一章がある。それがこの追いコン

で感じたことだ。

 前述した政友会元副幹事長、澤田亨平。僕

が生まれてはじめて嫉妬を覚えた男だったが、

同時に尊敬に近い感情も抱いていた。いつも

自分が中心でないと気が済まない幼さ。傲慢

さに近い偉そうな態度。それでもそれに適う

だけの行動をする男だった。例えば彼は絶対

に遅刻をしなかった。政友会で合宿に行く時

は集合の二時間も前に来て、一人で煙草を吸

い続けていた。例えば誰かが困ったら損得な

しで助けた。徹夜明けでも朝まで相談に乗っ

た。全部僕の目で見たことだ。一歩間違える

とお節介に過ぎなかったが、間違いなく誰よ

りも面倒見がよかった。なにより、出会った

人を大事にした。最初は距離を保っていた人

間でも、真正面から話すと大半の人は彼のこ

とを好きになった。資格もコネも大した経歴

も、そして準備もほとんどしていなかった就

職活動では「人を大事にしてきました」の一

点張りで昔からの志望だったテレビ局の内定

を取ってきた。社会に出たら損得で動く人間

にきっと俺はなる、お前はなるなよと僕に言

いながら、今も社会で真の仲間を作ろうと苦

闘している。自分の理想を追い求め、そのた

めには妥協をしない。もちろん何もかもが完

璧なわけではないけれど、やっぱり同じ男と

しては輝かしく僕の目に映る。彼は政友会に

おいて調整型の幹事長を補佐する役回りとし

て、一人一人の心を結びつける役割をしてい

た。僕もそうやって結び付けられた一人なの

だと思う。

 そのようにして心が繋がっている者同士が

卒業し、彼らを慕っている後輩に送り出され

る夜。それが追いコンの二次会だった。僕は

二次会用にもパワーポイントでムービーを作

っておいた。こちらは一次会がはじまる時点

で未完成で、泣きじゃくってすっかり忘れて

いたため間一髪の出来上がりで、完成したの

は二次会の真っ最中だった。みんなの期待が

高まる中、あたふたと出来立てのムービーを

映し出した。BGMはMr.Children『終わりなき

旅』。卒業生と僕の同期全員から集めたメッ

セージや政友会への想いなんかを、一人一人

の写真と一緒に映してゆく。沸き起こる歓声、

笑い、思わず心の底から漏れ出てくる声。そ

うして夜は更けて行き、またしても涙の二次

会となった。もちろん僕は泣きっぱなしだっ

た。十二時を回り、それから三次会。朝まで

飲む。次第に人数が、ひとり、またひとりと

減っていく。別れに涙を見せまいと無理に思

い出話に花を咲かせようとする卒業生達。そ

んな一コマでさえも僕の胸に妙に焼きついて

いる。こんなことができるのも今晩が最後か

と思うと、とめどなく涙が出てきて、本当に

困ってしまった。こんなに泣いた夜は誓って

いいが本当にない。これから果たしてあるの

だろうか。あるといいな、と思う。

 三次会が終わると朝の五時。始発を求めて

高田馬場へ向かう一行。残った勇士は十数人。

その中には澤田亨平や西村仁志ももちろん残

っている。西武線と山手線改札の間のスペー

スに円くなって陣取る男達。意を決した者か

ら、それぞれと握手や抱擁をして改札を通り

抜けてゆく。握る手や抱く腕に力が込められ

ているのが分かる。誰もが涙を流さないよう

に堪えている。僕は声こそ出さず、震えも何

とか隠していたけれど、枯れ切ったと思った

涙が出てくるのをまたしても抑え切れなかっ

た(書いていて涙がまた出てきた)。新たな

人生へと皆に背を向け歩き出す。その先は違

う道を歩み続け、互いの距離が離れることは

あれ、近づくことは決してない。それでも胸

に抱く仲間への想い。消えない絆の記憶。苦

楽を共にした男達だけが理解できる友情。僕

はそれを見て羨ましかった。格好良過ぎた。

これが生き甲斐でもいいと不意に思ってしま

った。

 朝露のように儚い一生。葉の上に溜まった

雫が土中に吸い込まれていくように何の痕跡

も残さず終える人生。そこで何をしようが意

味も価値もないと嘆き続けてきた。彼らの別

れの光景は、暗がりから逃れ出る道を指し示

す一条の光のように、僕の心に差し込んでき

た。僕の中では未だ危なっかしく揺れ動く仄

かな炎に過ぎない。だが今のところこれが唯

一の道標だ。
その2-5(自己表現論、題:自分の長所) (ばば)
2006-09-22 03:11:02
           ☆



 最初に書いたが、これが僕が自己表現論に

出るようになる最初のきっかけだった。僕は

それまで「前に出て喋る奴はいないか」と言

われて手を挙げるような男ではなかった。ど

ちらかと言えば一番後ろの席に座り、授業後

には心の中で斜に構えた批評を加えるような、

そうでなければ熟睡しているようなタイプだ

った(とは言え、そもそも授業に出ていなか

ったからそんなこともなかったが)。逃げよ

うとする自分を縛り上げ、とにかく手を挙げ

前へ進み出ようと思うようになったのは、追

いコンの翌朝に燈された、自分の殻を破り捨

て他人と繋がりたいという思いだった。もち

ろん手を挙げる度に後悔した。授業が終わっ

て道路を歩いている間、あまりの恥ずかしさ

と不甲斐なさに人ごみの中で奇声を発し続け

たこともあった。夜、部屋にひとりきりで授

業のことを思い出すと虚空に向かって叫んだ

りもした。それでも手を挙げてよかったと思

っている。自分が少しずつ変わっていくのを

実感した。自己表現論が最も刺激的だったけ

れど、そこで生じた変化がそれ以外の場で多

くの出会いや出来事をもたらした。

 七月二十八日水曜日、最後となる自己表現

論の授業を休み、政友会の同期九名で秩父長

瀞へ一泊二日で遊びに行った。ラフティング、

バーベキュー、それから酒を飲み語り合った。

三、四年にもなると下級生の手前もあり下手

なことはできなくなるが、この日ばかりは昔

に戻ったように誰もがはしゃいでいて、来て

よかったと思えた。そんなことを皆が買い出

しに行っている間、庄司と二人で酒を飲みな

がら話していた。長引いた梅雨だったけれど

も運よくその日だけは晴れ夜も星がよく見え

た。それから僕の話になった。庄司がどう思

っているかはともかく、僕に対する周囲の評

価はこのところとても良いというような内容

のことを言った。悪くなっているとは思って

いなかったけれど、面と向かって言われると

やっぱり嬉しい。それでも僕は瞬時に言った。

他人の評価はともかく俺自身は最近は絶不調

だ。たしかに僕は人に対して積極的になった

と思う。そして僕の元々の性格と相まって比

較的良い結果を生んでいることにも気がつい

てはいた。それでも僕は納得できてはいなか

った。僕はどうせ死ぬのに、こんなことをや

っていていいのか。人を大事にするという気

持ち故に何より失ってはならぬはずの自分の

あり方を考える時間が取れていないのではな

いか。僕が死ぬということと、人を大事にす

るということ。それらは同じ機軸であると同

時に両立し難い矛盾を孕んでいるようにその

時はじめて思った。母を、妹を、彼女を、友

人を、先輩を、後輩を、新たに知り合った人

々を、大切にしようとこの数ヶ月間やってき

た。それはそれで上手くいった。だが読みた

い本はほとんど読めず、付き合いから生まれ

る誘いは変わらず断りがたかった。周囲に期

待されるがままにいくつかのイベントにも参

加しはじめ、それが苦悩の種となっていた。

興味がないわけではない。むしろやっている

間は楽しい。だが孤独になるにつけ気がつく

と膨らんでいるのは僕自身を賭けるに値する

ことなのだろうかという疑念だった。

 政友会とは出会えてよかった。それは何よ

り、澤田亨平や庄司祐一をはじめとするかけ

がえのない友を得られたからだ。組織という

枠を遥かに超えた生身の人間として直に語り

合えた。彼らはどこかに属する誰かとしてで

はなく、あるいは自分にとって都合のいい相

手としてではなく、馬場祐平そのものに興味

を持ち認めてくれた。だからこそ僕も彼らと

共にやってこられた。裏も表もなかった。そ

れが今はどうだろう。ありのままありたいと

願いはじめた行動がが、いつしか他人の評価

に一喜一憂する結果を生んでいる。自分を成

り立たせているところの軸を、自分ではなく

他人に譲り渡そうとしている。導くかに見え

た光は、いったいどこへ僕を連れてゆくのだ

ろう。



           ☆



 課題は自分の長所だったはずだ。いささか

逸脱した感が否めない、というか大きく外れ

ているようにさえ思える。だが少なくともス

タート地点には間違いなかったはずだ。どこ

で間違ったのだろうか。

 今読み返してみて、そんなに間違ったよう

には思えなかった。僕の忘れられない三回プ

ラス一の涙。男としての自覚から親父と向き

合い僕自身の生き方の指針を見つけ出した。

シンポにおける本気のものへの没頭と彼女へ

の純粋な想い。追いコンで生じた感謝の気持

ち。そして僕の言葉を理解してもらえた喜び

と、認めてもらえなかった悔しさ。そしてこ

の全てを根底から無意味にしようとする、死

に向かう世界に視点を置く自分。ここにおい

て下手糞なりに掘り下げた二つの極の間で激

しく揺れ動き、迷い苦しんでいる自分を見つ

け出す。前者における長所を取るなら人の無

垢な優しさへの感受性であろうし、後者を取

るならまじめさと言えるであろう。いずれに

しても消極的な長所だ。裏返して短所にした

らいくらでも言葉が出てきそうだ。それでも

死を乗り越えて生きようとする自分は、僅か

に能動的だと言い得るのかもしれない。

 こんな文章しか書けなくても僕は物書きに

なりたいと真顔で言う。ふと思い出したが、

僕が他者に物書きになると公言したのも今年

の春からだ。春は確かに激動の時期だった。

見栄っ張りでプライドだけは一人前に高い僕

が、叶いそうにもない夢を他人に言うのは勇

気が要った。今でも作家になりたいなんて人

前で言うのは気が引ける。だがそれを隠して

いるのも何か違う。自分に、そして運命に負

けたような気になる。

 自分を失いたくない。歯車の一つになって

自分をすり減らしたくはない。自分は自分で

作り上げ、そして守りたい。どれだけ小さく

とも、それこそがかけがえのない自分なのだ

から。

 だからとにかく、前に進むために、自分を

勇気付けるために、あるいは崖っぷちへ自ら

を追い込むために、憚らず言い続ける。僕は

物書きとして食って生きたい。才能も見込み

もあまりないが、他にやりたいこともない、

とりあえずやるだけやってみよう。これが正

直な気持ちだ。組織の一員たるヤワな物書き

ではなく、今の僕からは想像すらつかないよ

うな独立独歩たる生き方を目指して。

 だが、そんな夢も脆くも崩れ去ってしまい

そうに思える時がある。シンポの時から一度

の別れを挟んで未だ付き合い続けている子は、

僕にはもったいないくらいの才女だ。まだ未

来はどうなるか分からないけれど、心から僕

を愛してくれている。だが僕は未だに愛され

る理由が分からないでいる。正直に言えば僕

が彼女を好きなのかどうかすら曖昧だ。長瀞

で庄司と話していて思ったことがある。「い

い男になろう」と思って数年目、上達したの

は口の上手さと人の扱いだけだった。独立独

歩たる生き方なんてとんでもない、誰とでも

上手くやれるがそれ以上でもそれ以下でもな

い自分。僕は間違った道を進んできたのでは

ないだろうか。好きという感情すら失ってし

まったのかもしれない。今は何とか同じ方向

に歩もうとしているけれど、とてつもなく空

しい結果を生みそうな気がしている。

 僕におけるまじめさの裏面は、社会におけ

る不器用さなのかもしれないと今ふと思いつ

いた。これを思いついただけでもここまで書

いてきた価値があると思う。社会や友達との

関わり方はまだ迷いの時期だと思う。全ての

縁を切った方がいいように思える時が毎日の

ようにある。付き合っている子には毎週のよ

うに別れ話をして泣かせ、どこかで一人ひっ

そりと暮らすことを夢見る。かと思えば彼女

をはじめとして、僕を支えてくれた人々への

感謝の気持ちを忘れたことを激しく反省する

時もある。また別の時には上手く社会と折り

合いをつけながら独立独歩たる生き方、自ら

が動力となった歯車となった瞬間に憧れもす

る。

 明らかなのは、このところ世間から離れる

ことの恐怖感がますます薄れてきたことだ。

それが決して間違いではないという思いが日

増しに強くなる。母が聞いたら泣くかそれこ

そ卒倒するかしかねないが、それは生意気を

承知で言えば好き勝手に産んだ自己責任だろ

う。世の中はなるようにしかならない。僕の

人生は僕が望んで今のようになったわけでは

ない。誰しもそうではないか。ただ成るがま

まに成った。そう僕は信じている。それでも

自我を持って産まれてきてしまったからには、

成るがままを僕があるがままに受け入れると

いう道理はないはずだ。だから僕は少なくと

も僕の領域を誰かに譲り渡したりはしない。

たとえそれが母であろうと、資本主義であろ

うと、神であろうと、宇宙の理であろうと、

僕は僕自身を生きる。

 不器用な生き方には違いない。だが、それ

こそが僕の長所だ。

その3 最後に (ばば)
2006-09-22 03:14:02
これを載せることで、

驚き、傷つける人、

ごめんなさい。



謝るならやるなって言われそうだけれど、

天秤にかけて、

やっぱり俺はこうします。



どんな形であれ、

言われることは引き受けます。



じゃあ。

Unknown (ヨシノリ)
2006-09-23 02:45:16
どーせ長い文章なんだろうなと思ってたけどやっぱりね。

でも気付いたら全部読んでた。

相変わらずあちーなお前。

ほんとお前の話、飽きないわ。

何回も聞いたことあることばっかだけど笑





馬場祐平という男のめっちゃ魅力的なストーリーを同じ時代に聞けることを心からうれしく思うよ。







じゃあ寝るわーおやすみー





さんきゅ (ばば)
2006-09-23 03:47:04
さんきゅ。

ヨシノリにはそれだけでいいべ。



次のストーリーは凄いぜ。

俺の全てが注ぎ込める。

四年目にしてようやく見つかった。

遅いけど、

五年目があることに感謝。



びっくりさせるから、

見ててくれ。

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