瀬崎祐の本棚

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詩集「半分の顔で」 清野裕子 (2021/12) 版木舎

2022-01-18 22:45:06 | 詩集
第8詩集。90頁に20編を収める。

Ⅰの11編にはコロナ禍にある生活が背後にある。開かれなくなった演奏会、会えなくなった姉妹家族、そしてマスクで半分の顔しか見せない人々など。
「始まりの夜」は、オーケストラの一員としてヴィオラを弾くための練習に参加した夜のことが詩われている。大音量に途惑った話者は「全身で音の海を泳い」でいたのである。そして今、

   世界中のコンサートホールから
   音楽が消えた夜
   ひとりで弾くヴィオラは
   弓の摩擦音が痛い

重ね合わされるはずの他の楽器の音はなく、自分だけのヴィオラからは音になる前の摩擦音が響くのだろう。それを「痛い」と感じることで話者の置かれている世界があらわされている。これにつづく最終連は、「遠くサイレンが行く/その音程に/寄り添ってみる」。なんとも辛くなるような音程なのだが、夜の街を赤い回転灯とともに病を救う人々が確かにいるのだ。

これまでの詩集でもそうであったが、作品には言葉であらわされているものに音楽や絵による味わいが重なっている。柔らかい色彩が感じられるものとなっている。

Ⅱには絵のモデルになった話者や、父母がいる。
「呼ぶ」。冥界との境に行った人が「誰かに呼ばれて/目が覚めたの」と言う。祖母からは「だから/ひとが亡くなりそうな時は/呼ばなくちゃだめ」と聞かされてきた。そして今、母は穏やかな表情で規則正しい寝息を立てている。話者は呼ぶべきかどうか自問する。

   何十年も病に苦しんできた
   やっと手に入れたやさしい夢から
   揺さぶって
   呼び戻して
   いいのだろうか

これまで大丈夫だったからと、話者は「そっと手を離して/席を外」す。しかし、最終連は「それが最後だった/呼ぶ機会は/失ってしまった」。呼んだからといって再び目覚めたかどうかは判らないのだが、話者は自分が呼ばなかったこと自体をいつまでも思いだすのだろう。でも、それはもしかすれば、もういいよという、母君が望んだ静かな見送りであったのではないだろうか。
コメント
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