第11詩集。93頁に21編を収める。
「現(うつつ)」。夜の窓ガラスにヤモリが張りついているのだ。わたしでないものがガラスの向こうの闇の側にいることによって、こちら側のわたしの孤独感が鮮明にあらわされている。そんなわたしを夜が包みこんでいる。そして「言葉は沈黙の住処」だという。そこへ「深く降りていきなさい」と話者は自らに命じている。それは、こうして言葉を発するほどに深くなっていく夜の闇を自分の内側に受け入れなければならないという決意のようでもある。これにつづく最終部分は、
目を開けると
ヤモリは帰っていき
夜は深々と馬のかたちになる
馬 馬 行きなさい
まだ夜は
ここから
あとがきには「わたしは今も夜を行くものです。問われるものであり、問うものです。」とあった。
幼い頃の遊びを題材にした作品も収められている。しかしここでの遊びは無邪気な楽しさのものではなく、やはりどこか薄ら寒いものをまとっている。遊んでいる相手もいるはずなのに話者は一人で取りのこされているようなのだ。だからそれはいつもひとり遊びなのだ。
「石蹴り」では、そこまで蹴って転がしてきた石を思い切り蹴ると「子どもたちは/時の向こうに消え」る。そして話者のつま先にも石ころのように言葉がやってくる。話者はひとりでそれを蹴っていくのだ。
「鬼ごっこ」。鬼であるわたしは、これまで生きてきた中で捨ててきたものを追いかけている。決して後悔ではないのだろうが、それは捨てきれなかったと感じているものなのかもしれない。追いかけているつもりで、実はどこまでも追いかけられているのだろう。
遠い道のりの どのあたり
追いかければ逃げる
逃げれば追いかける
得たものと失うものと
わたしたちの鬼ごっこ
世界の裏側でも鬼たちはさびしいか
この他にも紙飛行機、ピンポン、とおりゃんせ、目隠し鬼、かごめかごめ、花いちもんめ、だるまさんがころんだ、あやとり、ままごと、などもあらわれる。
詩集のなかで”馬”は繰り返しあらわれる。「馬 馬 嘶きなさい」、「馬 馬 跳びなさい」「馬 馬 踏みしめて行きなさい」。そして最後に置かれた作品「言葉」では「黙々と夜の馬が行く」。作者のもとにあらわれる馬は”言葉”そのものの謂いなのだろうと思われた。
「現(うつつ)」。夜の窓ガラスにヤモリが張りついているのだ。わたしでないものがガラスの向こうの闇の側にいることによって、こちら側のわたしの孤独感が鮮明にあらわされている。そんなわたしを夜が包みこんでいる。そして「言葉は沈黙の住処」だという。そこへ「深く降りていきなさい」と話者は自らに命じている。それは、こうして言葉を発するほどに深くなっていく夜の闇を自分の内側に受け入れなければならないという決意のようでもある。これにつづく最終部分は、
目を開けると
ヤモリは帰っていき
夜は深々と馬のかたちになる
馬 馬 行きなさい
まだ夜は
ここから
あとがきには「わたしは今も夜を行くものです。問われるものであり、問うものです。」とあった。
幼い頃の遊びを題材にした作品も収められている。しかしここでの遊びは無邪気な楽しさのものではなく、やはりどこか薄ら寒いものをまとっている。遊んでいる相手もいるはずなのに話者は一人で取りのこされているようなのだ。だからそれはいつもひとり遊びなのだ。
「石蹴り」では、そこまで蹴って転がしてきた石を思い切り蹴ると「子どもたちは/時の向こうに消え」る。そして話者のつま先にも石ころのように言葉がやってくる。話者はひとりでそれを蹴っていくのだ。
「鬼ごっこ」。鬼であるわたしは、これまで生きてきた中で捨ててきたものを追いかけている。決して後悔ではないのだろうが、それは捨てきれなかったと感じているものなのかもしれない。追いかけているつもりで、実はどこまでも追いかけられているのだろう。
遠い道のりの どのあたり
追いかければ逃げる
逃げれば追いかける
得たものと失うものと
わたしたちの鬼ごっこ
世界の裏側でも鬼たちはさびしいか
この他にも紙飛行機、ピンポン、とおりゃんせ、目隠し鬼、かごめかごめ、花いちもんめ、だるまさんがころんだ、あやとり、ままごと、などもあらわれる。
詩集のなかで”馬”は繰り返しあらわれる。「馬 馬 嘶きなさい」、「馬 馬 跳びなさい」「馬 馬 踏みしめて行きなさい」。そして最後に置かれた作品「言葉」では「黙々と夜の馬が行く」。作者のもとにあらわれる馬は”言葉”そのものの謂いなのだろうと思われた。