第6詩集。131頁に29編を収める。
どの作品もとても理知的に書かれている。書くことによって感情が揺れ動いていくのだが、それは昂ぶりではなく、静謐さをともなってどこまでも気持ちの奥底へ踏み込んでいくような案配なのだ。
「かたちのむこうへ」は「音は、触(さわ)れない。」と始まる。話者は虫の声を聴いていて、見えない虫の存在を感じている。それは「互いの非在を確認しあう」ようなことなのだが、音によって話者に存在させられたものはどれほどのものを孕んでいるのだろうか。最終連は、
眼の自由がきかないひとよ。
あなたなら触れるかもしれない。その声のかたち。
虫という、だが虫ではない哀しみ、に。
最終行の、声のかたちに孕まれたものは「虫ではない哀しみ」である、という地点にまで踏み込んでいることに感嘆した。
「無花果(いちじく)の花」は、なんともいえない抒情をたたえた作品。「頭うって/ちょっとおかしくなった」おんなのこは貧しい墓守の家に住んでいたのだ。もう今はだれも住んでいないその家の庭に無花果の木がいっぽん残っていたのだ。遠い昔に交差しただけの人の人生への思いが、なぜか郷愁のようなものを呼び寄せている。
「納屋と、朝あらわれた乞食のことなど」は、「納屋」「乞食」「道具たち」「僧」の4つの章からなる散文詩。“納屋”という場所の特性の考察から始まり、そこへあらわれる者や物の物語が展開される。安易な光を拒んだ思念が堆積していくような重厚な作品。
朝と夕は入れ替り、身体の底でなんども反芻された。むこうから
ひたひたとやってくる白い脚絆と足捌きの軽さを、自分自身のも
のであるかのようにぼくは夜明けの夢の退きぎわでしばしば辿る
ことがある。
どの作品もとても理知的に書かれている。書くことによって感情が揺れ動いていくのだが、それは昂ぶりではなく、静謐さをともなってどこまでも気持ちの奥底へ踏み込んでいくような案配なのだ。
「かたちのむこうへ」は「音は、触(さわ)れない。」と始まる。話者は虫の声を聴いていて、見えない虫の存在を感じている。それは「互いの非在を確認しあう」ようなことなのだが、音によって話者に存在させられたものはどれほどのものを孕んでいるのだろうか。最終連は、
眼の自由がきかないひとよ。
あなたなら触れるかもしれない。その声のかたち。
虫という、だが虫ではない哀しみ、に。
最終行の、声のかたちに孕まれたものは「虫ではない哀しみ」である、という地点にまで踏み込んでいることに感嘆した。
「無花果(いちじく)の花」は、なんともいえない抒情をたたえた作品。「頭うって/ちょっとおかしくなった」おんなのこは貧しい墓守の家に住んでいたのだ。もう今はだれも住んでいないその家の庭に無花果の木がいっぽん残っていたのだ。遠い昔に交差しただけの人の人生への思いが、なぜか郷愁のようなものを呼び寄せている。
「納屋と、朝あらわれた乞食のことなど」は、「納屋」「乞食」「道具たち」「僧」の4つの章からなる散文詩。“納屋”という場所の特性の考察から始まり、そこへあらわれる者や物の物語が展開される。安易な光を拒んだ思念が堆積していくような重厚な作品。
朝と夕は入れ替り、身体の底でなんども反芻された。むこうから
ひたひたとやってくる白い脚絆と足捌きの軽さを、自分自身のも
のであるかのようにぼくは夜明けの夢の退きぎわでしばしば辿る
ことがある。