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キネマ旬報社主催映画検定2級合格。

永遠の門 ゴッホの見た未来

2019-11-11 | 映画(あ行)



◼︎「永遠の門 ゴッホの見た未来/At Eternity's Gate」(2018年・アメリカ=フランス)

監督=ジュリアン・シュナーベル
主演=ウィレム・デフォー オスカー・アイザック ルパート・フレンド マッツ・ミケルセン エマニュエル・セニエ マチュー・アマルリック

自身が画家でもあるジュリアン・シュナーベル監督が、晩年のゴッホの姿を描いた美しい人間ドラマ。これまで映画や書物などで見聞きしてきたゴッホのイメージは、狂気とも言える一途さと情熱の持ち主。かつてカーク・ダグラスが演じた伝記映画は「炎の人」という邦題が添えられたし、黒澤明監督作「夢」に登場したマーチン・スコセッシのゴッホもどこか万人の理解を超えた人物のような印象だった。だが、「永遠の門」のウィレム・デフォーが演じたゴッホは、僕がこれまで抱いてきたイメージとは違った。キャンバスに向き合い、独自の描き方を何と言われようと貫く姿は確かに情熱的だ。だが、これまで思っていたような狂気じみた情熱の人というよりも、他人と違う自分を認めて淡々と生きている人に見える。唯一自分を表現できる手段としてキャンバスに向かうことは、取り憑かれたような、それなしには生きられないような執着を感じるのだ。

シュナーベル監督は、ゴッホの視線、見たものを再現しようと試みている。「潜水服は蝶の夢を見る」でも主人公の主観を撮り続けただけに、この演出はその発展だ。視覚障害があったゴッホの主観ショットは、画面の下半分が歪んでおり、落ち着かない視点を手持ちカメラで表現。銀幕のこっち側の僕らもゴッホの目線になる。そこに感じるのは狂おしい情熱ではない。他人のうまく接することができるのか、絵筆を手にすることで生を感じる、たまらなく不安でそわそわした気持ちだ。手持ちカメラは、主観を離れてゴッホの姿を追う時まで揺らぎ続ける。映像に酔いそうになる。

ゴッホの言葉もひとつひとつが印象的だ。例えば、絵を描く意味を問われる場面。「あんたが描いた絵より花の方がよっぽどきれい」という女性に、「花はいつか枯れる。でも私の絵は残る」と静かに言い返す。自分が感じた美を残す意味。唯一自分を肯定できる絵を描く意味。彼女は言う。「じゃあ私を描いたらいいわ」認められる瞬間。画風を批判されたり、アルルの人々から疎ましく思われたり、拘束衣で自由を失う辛い場面も多いだけに、絵で人とつながる素敵な場面が心に残る。

かつてキリストを演じてるのに悪役のイメージが強いウィレム・デフォー。短い時間ながらも共演はマッツ・ミケルセンにマチュー・アマルリックの「007」悪役経験者が並ぶのも面白い。

絵が後世まで残ることは、自分の行為が未来まで残っていくこと。それはまさに永遠につながる入り口だ。

ふと思う。映画だってそうではないか。今僕らが銀幕に向かっている映像が、未来に語り継がれていくかもしれない。それは永遠の入り口に僕らも微力ながら立ち会っていることなのでは。「私たち人生賭けて映画観てるんだもんね」と映画友達と話すことがある。そんな執着心って、ゴッホが正気を保つために絵筆を握っていたのと、実は似ているのかもしれない。



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