世界に打って出る日本1
立憲政治へ
☆明治天皇は、各国の憲法を研究して日本の憲法を起草するよう命じた
*「五箇条の御誓文」で、明治天皇は議会制民主主義の方向性を提示している
*板垣退助らは、国民が選んだ議員による国会の開設を要求
*「自由民権運動」が起こり、全国に広がるが、政府はこれを弾圧した
☆実際、政府は、立憲体制を整えるのが必要だということもわかっていた
☆「明治23年に国会を開設する」との勅諭が出される
*多くの政党が生まれた(板垣退助の「自由党」、大限重信の「立憲改進党」など)
帝国憲法
☆政府は、ヨーロッパ各国の憲法を研究し「大日本帝国憲法」が公布された
*明治天皇が憲法作成を命じてから実に13年の歳月で作られた
☆帝国憲法では、天皇は「神聖不可侵」とされていた
*「神聖不可侵」の意味は、国民が天皇の尊厳を汚してはならないということ
(統治権は無制限ではなく、天皇もまた、憲法の条文に従うとされていた)
*「天皇は陸海軍を統帥す」(統帥権)という条文がある
*昭和に入って、政治家や軍の一部によって拡大解釈され濫用される
(戦前の日本は、天皇を教祖を崇めた)
☆憲法制定と内閣制度の確立により、日本はアジアで初めての立憲国家となった
*民法、刑法、商法などの法律も整備し、近代法の整備に成功した国となった
☆日本は維新後約20年で、法整備の点において欧米列強に追いついた
国歌「君が代」が作られた
☆国際的な儀式や祭典には、国歌の演奏が欠かせなかった
☆「君が代」の歌詞は、平安時代に編まれた『古今和歌集』の歌
*原歌は「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」
*歌のもともとの意味は、大切な人の長寿を願うものだった
*江戸時代には、小唄、長唄、盆踊などで、庶民の間で賀歌(めでたい歌)で歌われる
*後代になって「天皇の御代」(すなわち日本国)が長く栄えることを願うものとなった
☆メロディーは、明治の前半、宮内省雅楽課が旋律を付けた
☆「君が代」は次第に国民の間に国歌として広まっていった
*昭和に入って大東亜戦争中に国成発揚のために盛んに歌われた
☆戦後、占領軍によって軍国主義的な歌と見徴され、演奏を禁じられた
不平等条約に苦しむ日本
☆アジアで唯一、近代国家の仲間入りを果たした日本
☆江戸幕府が結んだ不平等条約の頸木から抜け出ることは容易ではなかった
*国際条約の重みである
☆政府は各国と交渉を重ね、明治27年「領事裁判権の撤廃」に成功した
*最初に結んだ日米修好通商条約から36年後
☆「関税自主権がない」という条項の完全撤廃は認められなかつた
*欧米列強との貿易において常に不利な立場となり、経済的な発展は望めない
日清戦争
☆東南アジアと、地球上のほとんどを植民地とした欧米列強
*最後のフロンテイアとして中国大陸に狙いを定めていた
☆西ヨーロッパの国々に出遅れていたロシアが南下政策をとる
*満洲から朝鮮半島、そして日本を虎視眈々と狙っていた
*日本は自国の防波堤として朝鮮の近代化を望んだ
*朝鮮半島が、富国強兵に成功すれば、ロシアの南下を防ぐことができる
☆日本が李氏朝鮮を開国させた理由
*李氏朝鮮は清の属国であり、近代化には程遠い存在であった
☆日本の支援を受けて改革を進めてはいたが、改革に反対する保守派が大規模な暴動を起こす
*日本公使館を襲って、日本人軍事顧間や公使館員を殺害した
*日本は兵を派遣したが、清もまた宗主国として派兵した
*反乱軍を鎮圧した清は、衰世凱を派遣し朝鮮国王代理として実権を掌握させた
*朝鮮国内では親日勢力(改革派)が後退し、清への従属度合いを強めていく
☆ベトナムの領有をめぐって清とフランスの間の戦争が起こった
*朝鮮半島に駐留していた清軍の多くが内地へ戻った
*朝鮮の改革派は清がフランスに敗れたことを好機と見てクーデターを起こす
(清軍に鎮圧された)
☆朝鮮で大規模な農民反乱(東学党の乱)が起きた
*朝鮮政府から要請を受けた清が軍隊を送り、日本も天津条約により朝鮮に派兵した
*乱が鎮圧後、朝鮮政府は日本と清に撤兵を求めるが、どちらの軍も受け入れず
☆日本・清の軍隊が衝突し両国が宣戦布告した
*近代装備に優る日本軍は各地の戦闘で清軍を圧倒し戦争に勝利した
☆下関で日清講和条約が結ばれた「下関条約」
*第一条は「清は、朝鮮半島の独立を認めること」といぅものだった
(日本が清と戦い、李氏朝鮮は初めて清から離れて独立した)
(李氏朝鮮の君主はそれまでの「王」から「皇帝」を名乗った)
(朝鮮史上初めてのこと)
☆ソウルにある「独立門」はこの時の清からの独立を記念して建てられたもの
*韓国人は、大東亜戦争が終わって日本から独立した記念に建てられたものと誤解している
*韓国では、こんな基本的な教育さえ行なわれていないことには呆れる
三国干渉
☆ロシアとフランスとドイツが、日本に対して「遼東半島の返還」を要求(三国干渉)
*満洲の利権を狙っていたロシアが、フランスとドイツに働きかけて行なったものだった
*フランスとドイツにはこの干渉に参加することによって清に恩を売る
☆日本は、この三国に対抗する国力がない
*泣く泣くこの干渉を受け入れ、遼東半島を清に返還した
*日本政府は、国民に対して、「臥薪嘗胆」をスローガンに国力を上げる必要を訴えた
☆清から得た2億テールの賠償金(日本の国家予算の4倍)
*賠償金と遼東半島の還付金は日本の経済を繁栄させた
*多くの国民が「戦争は金になる」という誤った意識を持った
☆この意識が後に日本を危険な方向に導くもととなる
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』
世界に打って出る日本(清の賠償金&ソウル「独立の門」)
(ネットより画像引用)
立憲政治へ
☆明治天皇は、各国の憲法を研究して日本の憲法を起草するよう命じた
*「五箇条の御誓文」で、明治天皇は議会制民主主義の方向性を提示している
*板垣退助らは、国民が選んだ議員による国会の開設を要求
*「自由民権運動」が起こり、全国に広がるが、政府はこれを弾圧した
☆実際、政府は、立憲体制を整えるのが必要だということもわかっていた
☆「明治23年に国会を開設する」との勅諭が出される
*多くの政党が生まれた(板垣退助の「自由党」、大限重信の「立憲改進党」など)
帝国憲法
☆政府は、ヨーロッパ各国の憲法を研究し「大日本帝国憲法」が公布された
*明治天皇が憲法作成を命じてから実に13年の歳月で作られた
☆帝国憲法では、天皇は「神聖不可侵」とされていた
*「神聖不可侵」の意味は、国民が天皇の尊厳を汚してはならないということ
(統治権は無制限ではなく、天皇もまた、憲法の条文に従うとされていた)
*「天皇は陸海軍を統帥す」(統帥権)という条文がある
*昭和に入って、政治家や軍の一部によって拡大解釈され濫用される
(戦前の日本は、天皇を教祖を崇めた)
☆憲法制定と内閣制度の確立により、日本はアジアで初めての立憲国家となった
*民法、刑法、商法などの法律も整備し、近代法の整備に成功した国となった
☆日本は維新後約20年で、法整備の点において欧米列強に追いついた
国歌「君が代」が作られた
☆国際的な儀式や祭典には、国歌の演奏が欠かせなかった
☆「君が代」の歌詞は、平安時代に編まれた『古今和歌集』の歌
*原歌は「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」
*歌のもともとの意味は、大切な人の長寿を願うものだった
*江戸時代には、小唄、長唄、盆踊などで、庶民の間で賀歌(めでたい歌)で歌われる
*後代になって「天皇の御代」(すなわち日本国)が長く栄えることを願うものとなった
☆メロディーは、明治の前半、宮内省雅楽課が旋律を付けた
☆「君が代」は次第に国民の間に国歌として広まっていった
*昭和に入って大東亜戦争中に国成発揚のために盛んに歌われた
☆戦後、占領軍によって軍国主義的な歌と見徴され、演奏を禁じられた
不平等条約に苦しむ日本
☆アジアで唯一、近代国家の仲間入りを果たした日本
☆江戸幕府が結んだ不平等条約の頸木から抜け出ることは容易ではなかった
*国際条約の重みである
☆政府は各国と交渉を重ね、明治27年「領事裁判権の撤廃」に成功した
*最初に結んだ日米修好通商条約から36年後
☆「関税自主権がない」という条項の完全撤廃は認められなかつた
*欧米列強との貿易において常に不利な立場となり、経済的な発展は望めない
日清戦争
☆東南アジアと、地球上のほとんどを植民地とした欧米列強
*最後のフロンテイアとして中国大陸に狙いを定めていた
☆西ヨーロッパの国々に出遅れていたロシアが南下政策をとる
*満洲から朝鮮半島、そして日本を虎視眈々と狙っていた
*日本は自国の防波堤として朝鮮の近代化を望んだ
*朝鮮半島が、富国強兵に成功すれば、ロシアの南下を防ぐことができる
☆日本が李氏朝鮮を開国させた理由
*李氏朝鮮は清の属国であり、近代化には程遠い存在であった
☆日本の支援を受けて改革を進めてはいたが、改革に反対する保守派が大規模な暴動を起こす
*日本公使館を襲って、日本人軍事顧間や公使館員を殺害した
*日本は兵を派遣したが、清もまた宗主国として派兵した
*反乱軍を鎮圧した清は、衰世凱を派遣し朝鮮国王代理として実権を掌握させた
*朝鮮国内では親日勢力(改革派)が後退し、清への従属度合いを強めていく
☆ベトナムの領有をめぐって清とフランスの間の戦争が起こった
*朝鮮半島に駐留していた清軍の多くが内地へ戻った
*朝鮮の改革派は清がフランスに敗れたことを好機と見てクーデターを起こす
(清軍に鎮圧された)
☆朝鮮で大規模な農民反乱(東学党の乱)が起きた
*朝鮮政府から要請を受けた清が軍隊を送り、日本も天津条約により朝鮮に派兵した
*乱が鎮圧後、朝鮮政府は日本と清に撤兵を求めるが、どちらの軍も受け入れず
☆日本・清の軍隊が衝突し両国が宣戦布告した
*近代装備に優る日本軍は各地の戦闘で清軍を圧倒し戦争に勝利した
☆下関で日清講和条約が結ばれた「下関条約」
*第一条は「清は、朝鮮半島の独立を認めること」といぅものだった
(日本が清と戦い、李氏朝鮮は初めて清から離れて独立した)
(李氏朝鮮の君主はそれまでの「王」から「皇帝」を名乗った)
(朝鮮史上初めてのこと)
☆ソウルにある「独立門」はこの時の清からの独立を記念して建てられたもの
*韓国人は、大東亜戦争が終わって日本から独立した記念に建てられたものと誤解している
*韓国では、こんな基本的な教育さえ行なわれていないことには呆れる
三国干渉
☆ロシアとフランスとドイツが、日本に対して「遼東半島の返還」を要求(三国干渉)
*満洲の利権を狙っていたロシアが、フランスとドイツに働きかけて行なったものだった
*フランスとドイツにはこの干渉に参加することによって清に恩を売る
☆日本は、この三国に対抗する国力がない
*泣く泣くこの干渉を受け入れ、遼東半島を清に返還した
*日本政府は、国民に対して、「臥薪嘗胆」をスローガンに国力を上げる必要を訴えた
☆清から得た2億テールの賠償金(日本の国家予算の4倍)
*賠償金と遼東半島の還付金は日本の経済を繁栄させた
*多くの国民が「戦争は金になる」という誤った意識を持った
☆この意識が後に日本を危険な方向に導くもととなる
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
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☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』
世界に打って出る日本(清の賠償金&ソウル「独立の門」)
(ネットより画像引用)