江戸時代4
「五公五民」の嘘
☆農民は、悲惨な暮らしをしていたという誤ったイメージがある
*農民は米を食べることができず、ヒエやアワばかり食べていたとの話もまことしやかに伝えられる .
*勘定奉行の「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」という放言が独り歩きした
*「悲惨な農民」のイメージは一種の印象操作である
☆江戸時代の年貢は個人ではなく、村に対して課された
*年貢率は「村高」と呼ばれる村が作り出す富の総量を米の量にし決められた
*村高は、地域で寛文から元禄までの検地によって決まってしまっていた
*その後は商品価値の高い作物を工夫して作るようになっていた
☆表向きは「五公五民」
*実際の年貢率は、3公7民という状態で、この税率なら重税に苦しんでいたとはいえない
☆「農民を虐げ冷酷に税を取り立てる武士」の姿は、江戸時代の農村になかった
*そんな武士の姿が見られるのは主に後世に創作された映画やドラマの中だけ
☆支配者としての武士、虐げられる農民というのは江戸時代の実相ではない
☆農民は着実に富を蓄え、休日を増やした
*村祭りなどの機会を利用して娯楽を享受するようになっていた
☆しかし、飢饉になると東北地方を中心に多くの餓死者が出たのも事実だ
*海外貿易での食料輸入がなく、自給率100%の国では、その危険がつきまとう
「百姓一揆」の真実
☆農民が鍬や竹槍を持ち、武士と争うような一揆は江戸時代に起こっていない
*戦国時代の国一揆や土一揆のイメージ
☆江戸時代の一揆
*農民が集団、又は代表を立てて、領主や代官と交渉するという形
☆飢饉の時などに、米問屋等の集団による「打ちこわし」がたびたび起きた
8代将軍吉宗へ
☆7代将軍家継は、6歳で亡くなり、秀忠の血を引く徳川宗家(直系)の男子は絶えた
☆幕府は御三家紀州藩の藩主、徳川吉宗(家康の曽孫)を8代将軍とした
☆吉宗は「享保の改革」を行った
*新井白石を解任し、財政再建のための改革を行なった
☆定免法実施(失敗政策?)
*年貢を、豊作凶作にかかわらず一定の量に定めた事で、幕府の収入は安定した
*農民にとっては不作や凶作の時には、非常に厳しい状況になった
*吉宗は生きた経済がわかっていなかった
☆農業政策で斬新的な改革
*全国各地の新田開発、サツマイモ、菜種などの商品作物の栽培奨励、植林政策など
☆優秀な人材を確保するために「足高の制」
*江戸時代の武士の地位と禄高(給料)は、生まれた家によって決められていたが
*優秀な者は、高い地位に昇進させ、在職中に限りという条件で禄高も上げた
☆司法改革も行い、判例を明文化した「公事方御定書」を作り、裁判審理の場で用いた
☆「目安箱」の設置
*大和朝廷成立以来、千年以上、庶民は政府に対し口を出すことはできなかった
*その伝統を打ち破って、広く庶民の訴えを聞くというシステム
*「目安箱」の投書により、貧しい庶民のための無料の医療施設も作っている
*江戸の防火対策も、目安箱の意見を採用している
☆吉宗は幕府の財政立て直しのために緊縮策をとる
*自らも率先して粗衣粗食し、庶民にも贅沢を禁じたが、結果的にデフレを促進するだけだった
*幕府の政策に対して真っ向から逆らつたのが、尾張藩主の徳川宗春
*尾張藩は景気が良くなり、城下町の名古屋は空前の繁栄を迎えたが、藩の財政は良くならなかった
☆最大の理由は、商人から税金を取らなかった事である
☆緊縮策をとっていた吉宗だが、景気が回復しない状況に困り果てる
*大岡忠相の忠告を受け入れて、金の含有量を大幅に減らした貨幣を発行
*綱吉と同じ金融緩和政策を行ない、「元文の改鋳」と呼ばれている
*これによりようやく江戸の町の景気は蘇った
☆吉宗は「御三卿」を設けた
傑物、田沼意次
☆吉宗の後、9代将軍家重(吉宗の長男)は言語が不明瞭であった
☆側用人・老中として権勢を誇ったのが、旗本の田沼意次である
☆意次が世に出たのも、吉宗の能力重視の方針のお陰であった
☆意次は悪化していた幕府の財政を立て直すため、米中心の経済から、商業振興策へと転換を図った
*鉱山の開発、千拓事業、輸出用の俵物(煎海鼠、千飽、鯖鰭)を専売にして貿易の拡大を行なう
☆意次の政策で最も注目すべきは、商人から税を徴収したことである
*意次が商業経済に目を付けたのは慧眼である
*商業振興策で、幕府の財政は大いに改善され、社会の景気も良くなった
☆町人や役人の生活も、米を中心から金銭中心となり、近代的な経済社会へと急速に近づいた
☆意次は蝦夷地の天然資源を調査
*ロシアとの交易の可能性を探るために、国後島や択捉島の探検もさせている
☆士農工商に囚われない能力主義による人材登用を試みた
意次の大胆な発想、斬新で先鋭的な改革
☆旧来の伝統を固守する保守的な幕閣の反発を買う
*意次の改革は、都市以外ではすぐに効果が現れるものではない
*生活に困窮した農民たちが田畑を放棄して都市に流入したため農村は荒廃した
☆明和の大火や浅間山の大噴火などの大災害もあり、加えて天明の飢饉が起こる
*一揆や打ちこわしも増えて町の治安は悪化し、社会不安が増大した
☆将軍家治の死と同時に意次は失脚させられる
☆田沼意次は、現代でも賄賂政治を行なった人物として悪名高い
*当時の噂を信じた後世の人々が作った誤ったイメージである
*意次は領地や私財のほとんどを没収される処分を受けた
*この時、財産と呼べるものは驚くほど少なかった
☆意次への処分からして、彼が既存勢力の幕閣たちから嫌われていたかがわかる
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』
意次の失脚「改革者を蹴落とす」日本的な嫌な部分
(ネットより画像引用)
「五公五民」の嘘
☆農民は、悲惨な暮らしをしていたという誤ったイメージがある
*農民は米を食べることができず、ヒエやアワばかり食べていたとの話もまことしやかに伝えられる .
*勘定奉行の「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」という放言が独り歩きした
*「悲惨な農民」のイメージは一種の印象操作である
☆江戸時代の年貢は個人ではなく、村に対して課された
*年貢率は「村高」と呼ばれる村が作り出す富の総量を米の量にし決められた
*村高は、地域で寛文から元禄までの検地によって決まってしまっていた
*その後は商品価値の高い作物を工夫して作るようになっていた
☆表向きは「五公五民」
*実際の年貢率は、3公7民という状態で、この税率なら重税に苦しんでいたとはいえない
☆「農民を虐げ冷酷に税を取り立てる武士」の姿は、江戸時代の農村になかった
*そんな武士の姿が見られるのは主に後世に創作された映画やドラマの中だけ
☆支配者としての武士、虐げられる農民というのは江戸時代の実相ではない
☆農民は着実に富を蓄え、休日を増やした
*村祭りなどの機会を利用して娯楽を享受するようになっていた
☆しかし、飢饉になると東北地方を中心に多くの餓死者が出たのも事実だ
*海外貿易での食料輸入がなく、自給率100%の国では、その危険がつきまとう
「百姓一揆」の真実
☆農民が鍬や竹槍を持ち、武士と争うような一揆は江戸時代に起こっていない
*戦国時代の国一揆や土一揆のイメージ
☆江戸時代の一揆
*農民が集団、又は代表を立てて、領主や代官と交渉するという形
☆飢饉の時などに、米問屋等の集団による「打ちこわし」がたびたび起きた
8代将軍吉宗へ
☆7代将軍家継は、6歳で亡くなり、秀忠の血を引く徳川宗家(直系)の男子は絶えた
☆幕府は御三家紀州藩の藩主、徳川吉宗(家康の曽孫)を8代将軍とした
☆吉宗は「享保の改革」を行った
*新井白石を解任し、財政再建のための改革を行なった
☆定免法実施(失敗政策?)
*年貢を、豊作凶作にかかわらず一定の量に定めた事で、幕府の収入は安定した
*農民にとっては不作や凶作の時には、非常に厳しい状況になった
*吉宗は生きた経済がわかっていなかった
☆農業政策で斬新的な改革
*全国各地の新田開発、サツマイモ、菜種などの商品作物の栽培奨励、植林政策など
☆優秀な人材を確保するために「足高の制」
*江戸時代の武士の地位と禄高(給料)は、生まれた家によって決められていたが
*優秀な者は、高い地位に昇進させ、在職中に限りという条件で禄高も上げた
☆司法改革も行い、判例を明文化した「公事方御定書」を作り、裁判審理の場で用いた
☆「目安箱」の設置
*大和朝廷成立以来、千年以上、庶民は政府に対し口を出すことはできなかった
*その伝統を打ち破って、広く庶民の訴えを聞くというシステム
*「目安箱」の投書により、貧しい庶民のための無料の医療施設も作っている
*江戸の防火対策も、目安箱の意見を採用している
☆吉宗は幕府の財政立て直しのために緊縮策をとる
*自らも率先して粗衣粗食し、庶民にも贅沢を禁じたが、結果的にデフレを促進するだけだった
*幕府の政策に対して真っ向から逆らつたのが、尾張藩主の徳川宗春
*尾張藩は景気が良くなり、城下町の名古屋は空前の繁栄を迎えたが、藩の財政は良くならなかった
☆最大の理由は、商人から税金を取らなかった事である
☆緊縮策をとっていた吉宗だが、景気が回復しない状況に困り果てる
*大岡忠相の忠告を受け入れて、金の含有量を大幅に減らした貨幣を発行
*綱吉と同じ金融緩和政策を行ない、「元文の改鋳」と呼ばれている
*これによりようやく江戸の町の景気は蘇った
☆吉宗は「御三卿」を設けた
傑物、田沼意次
☆吉宗の後、9代将軍家重(吉宗の長男)は言語が不明瞭であった
☆側用人・老中として権勢を誇ったのが、旗本の田沼意次である
☆意次が世に出たのも、吉宗の能力重視の方針のお陰であった
☆意次は悪化していた幕府の財政を立て直すため、米中心の経済から、商業振興策へと転換を図った
*鉱山の開発、千拓事業、輸出用の俵物(煎海鼠、千飽、鯖鰭)を専売にして貿易の拡大を行なう
☆意次の政策で最も注目すべきは、商人から税を徴収したことである
*意次が商業経済に目を付けたのは慧眼である
*商業振興策で、幕府の財政は大いに改善され、社会の景気も良くなった
☆町人や役人の生活も、米を中心から金銭中心となり、近代的な経済社会へと急速に近づいた
☆意次は蝦夷地の天然資源を調査
*ロシアとの交易の可能性を探るために、国後島や択捉島の探検もさせている
☆士農工商に囚われない能力主義による人材登用を試みた
意次の大胆な発想、斬新で先鋭的な改革
☆旧来の伝統を固守する保守的な幕閣の反発を買う
*意次の改革は、都市以外ではすぐに効果が現れるものではない
*生活に困窮した農民たちが田畑を放棄して都市に流入したため農村は荒廃した
☆明和の大火や浅間山の大噴火などの大災害もあり、加えて天明の飢饉が起こる
*一揆や打ちこわしも増えて町の治安は悪化し、社会不安が増大した
☆将軍家治の死と同時に意次は失脚させられる
☆田沼意次は、現代でも賄賂政治を行なった人物として悪名高い
*当時の噂を信じた後世の人々が作った誤ったイメージである
*意次は領地や私財のほとんどを没収される処分を受けた
*この時、財産と呼べるものは驚くほど少なかった
☆意次への処分からして、彼が既存勢力の幕閣たちから嫌われていたかがわかる
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
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☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『日本国紀』
意次の失脚「改革者を蹴落とす」日本的な嫌な部分
(ネットより画像引用)