太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

太鼓台の〝ゴマ〟展示中

2021年08月25日 | 太鼓台文化の情報

観音寺市の県立琴弾公園内の郷土資料館で、琴弾八幡宮の奉納太鼓台・酒太鼓(3号・殿町太鼓)の古い過去3台の〝ゴマ〟が、現在も展示されています。酒太鼓台ではこれまで、現行のゴマのほか、先代のゴマ、更にはその前の2台の、計4台のゴマが使用されて来ました。郷土資料館で展示されているのは現行を除く3台(三代)分です。(現在の祭礼に使用しているゴマは、隣の総合コミュニティセンターで、かって展示されていました。=最後の写真2枚)

 

展示しているゴマの大きさだけを見比べても、太鼓台が大きくなっていった過程は、なかなか想像ができないと思います。ただ今回は、同一地区の太鼓台に使われていたゴマなので、ゴマの細部を詳細に計測すれば、ある程度太鼓台が大きくなっていった概要が想像できるかも知れません。

下の〝台〟は大正5年(1916)に新調されたもので、現在の台よりも小振りですが、一昔前までの観音寺の太鼓台では、この規模の台がほゞ一般的でした。台のサイズは下図計測の通りで、上掲の〝昭和62年まで使われたゴマ〟を用いていました。三架橋を渡って宮入りする写真は、昭和16年頃のものです。(写真は、柳町・旧三好写真館様提供) また最後のカラー写真は、昭和50年代初め頃に撮影したもので、台車の部分を拡大して見ると、穴が多くついている上掲写真の二代目のゴマを使っています。(追記 2022.10現在、太鼓台展示コーナーでは上若太鼓台が展示されています。また、郷土資料館ではゴマがそのまま展示されています)

なお、観音寺祭で初めてゴマ付きの台車が使用されたのは、〝明治42年(1909)頃の上若太鼓台が最初〟と、当時を知る明治28年生まれの古老から聞き及んでいます。今回展示・説明の〝明治40年頃まで使われていたゴマ〟とは時代的に合致しませんが、今後の宿題にしたいと思います。

(追記1)

上記の古老からは、以下のお話も聞いておりますのでご紹介します。

①三架橋が三架の太鼓橋であった明治17年頃までは、太鼓台は財田川を渡って宮入・宮出しを行っていた。この件に関しては、28年生まれの自分はまだ生まれていないので見るすべはないが、川渡りを経験した先輩から聞いているので間違いのないところである。町側の川降りの場所は、今の裁判所前の扇形に広がった石畳であり、八幡宮・御旅所への川からの登り口は、手水舎下に裁判所側と同様の石畳があったようである。(明治28年生まれの古老の談。御旅所への石畳は、大正15年生まれの母が薄覚えに記憶していた) その頃は、煉瓦橋はまだ無かった。大正元年の〝煉瓦橋〟の標柱が有明町に遺っている。

②現在の三架橋を通る時に唄う〝農兵節〟や特徴的な〝よーい、よーい、よいやらもてけ(よいや、まかせ)〟の掛声及び〝太鼓の叩き方〟は、太鼓台が担がれて財田川を渡っていた頃の名残りである。御旅所での奉納は、旧暦の大潮・8月15日一日限りであった。この日は、朝夕に干潮が最大となり、川中を渡ることができた。

③前日の8月14日は、御旅所への宮入は無かった。この日は観音寺の町を終日東西に行き来し、丸一日を〝町勤め〟に費やした。古老は、台車の無かった時代を体験しており、各太鼓台は終日担いでの移動であった由。当然ながら、太鼓台が小さかったことが偲ばれる。

(参考)上掲の錦絵からは、川渡りが行われなくなった明治18年(三架橋が平面化された年)に近い、明治34年頃の公園側の様子が想像できます。赤い御祓橋や手水舎付近は玉垣で区切られ、太鼓台は玉垣や石垣が途切れる浜辺から上陸〟したものと思われます。(実はそうではなく、追記①にあるように、手水舎下に石畳があり、そこから十王堂へ宮入しています。次の文政12年の絵図は、既に太鼓台が奉納していた時代のものですが、その絵図からは、御祓橋の西側の石垣が切れており、そこから太鼓台が川から御旅所へ上がっていたことが窺い知れます) なお、裁判所の川降りの場所には〝扇型の広い石畳〟が、昭和40年頃まで残っていたのを覚えています。

(追記2)

「琴弾公園・再発見展」が8月29日(日)まで、ゴマ展示と同じ場所(郷土資料館)にて開催されていました。展では、太鼓台が通った三架橋の歴史が理解できる古写真等も何枚か展示され、観音寺太鼓台登場以来の〝財田川や三架橋と太鼓台との関係性が、どうであったのか〟という興味津々のテーマにも一定の理解が得られました。因みに、観音寺において太鼓台が文献に登場した文化年間(19世紀初頭)以降、少なくとも平面橋となる明治18年(1885)までは、太鼓台は橋を通行していなかったことが上述の古老のお話からも明らかです。この展に掲げられていた写真等を、財田川・三架橋・太鼓台の関係性理解の為、以下に転載させていただきます。

(苦言)

郷土資料館へ入ると、展示室一杯に子供太鼓台が置かれている。奥の展示スペースへ行くには、舁棒の下を腰を曲げてしゃがまなければ行くことができない。館への展示に際しては、いろいろあったとは思うが、この展示方法はいただけない。舁棒を組まずに展示するとか、別の広い場所で展示するとか、施設管理者様の一考をお願いしたい。※追記(2022.8.21) 太鼓台の歴史に興味のある方を案内して郷土資料館を訪れた。全く以前と同じ状態の展示であった。腰を屈めてでもゴマの展示場所まで行くのは大いに苦労した。膝をついて這って行かなければ目的の場所まで到達できない。恐らく倉庫代わりに使っているのだろうとしか思えない。このような展示は見学に訪れる方にも失礼だし、何よりも展示されている太鼓台が残念に思っているのではないでしょうか。再度関係者様の善処をお願いいたします。

(終)


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