すそ洗い 

R60
2006年5月からの記録
ナニをしているのかよくワカラナイ

チャールズ・ジェンキンス死去

2017年12月12日 | 社会

ジェンキンスさん死去 拉致被害者曽我ひとみさんの夫


北朝鮮による拉致被害者、曽我ひとみさん(58)の夫、チャールズ・ジェンキンスさんが11日、
住んでいた新潟県佐渡市で亡くなった。77歳だった。
同市関係者によると、11日午後7時ごろ、自宅の外で倒れているのを帰宅した娘が見つけて119番通報。
病院に運ばれたが、死亡が確認されたという。死因は致死性不整脈だった。

曽我さんは市を通して
「突然のことでびっくりしています。いまは何も考えられません。冷静になったらコメントしたいと思います」と談話を出した。

ジェンキンスさんは米ノースカロライナ州で生まれ、
在韓米軍に所属していた1965年、国境を越えて北朝鮮に入った。
78年に拉致された曽我さんと80年に結婚。2人の娘をもうけた。

曽我さんは2002年の日朝首脳会談を経て、同年に帰国。
ジェンキンスさんは04年、娘2人と北朝鮮を出国し、経由地のインドネシアで曽我さんと再会し来日した。
在日米軍の軍法会議で脱走などの罪により禁錮刑の判決を受け、収監された。
その後、曽我さんの出身地の佐渡市で暮らし、観光施設で働いていた。
05年には手記「告白」を出版し、タイ人などの拉致被害者の存在を明かした。

曽我さんは9月の記者会見で、
ジェンキンスさんが今年から出勤数を制限していると明らかにし、「高齢だけが心配です」と語っていた。

(2017年12月12日朝日新聞)





チャールズ・ジェンキンスチャールズ・ロバート・ジェンキンス(Charles Robert Jenkins、1940年2月18日 - 2017年12月11日)
朝鮮半島軍事境界線に駐屯していた時、軍曹に昇進して下士官の地位にあったジェンキンスは、1960年前後よりアメリカによる軍事介入が拡大を続けていたベトナム戦争に派遣されるという噂を聞いていた。ジェンキンスは凄惨な死傷者を出していた同戦争に派遣されるという重圧からアルコール依存症に陥っていた。1965年1月4日、周囲の証言では夜間の警備に付く際、既に多量のアルコールを摂取していたとしている。翌日の早朝、ジェンキンスは部隊に「騒音のする場所を見つけた、偵察に向かう」と告げて偵察に向かい、そのまま戻らなかった。
後にジェンキンスは、偵察任務中に北朝鮮軍に投降して身柄を確保されていることが明らかとなった。
ジェンキンス本人は当時について軍務に不満を感じており、また「ソビエト連邦経由の捕虜交換など、早期に帰国することは難しくないと考えていた」と投降した理由について述べている。
北朝鮮では捕虜ではなく実質的に政治亡命者として扱われ、政治的プロパガンダにおいて西側の腐敗を強調する為に喧伝された。

北朝鮮政府はジェンキンスに主体思想を始めとしたイデオロギーを学ばせる再教育を施すなど、帰国させる意図はないことを示した。
身柄も拘束されたままで、1972年まで他の3名の米国籍の人間と共に小さな家屋内での軟禁状態に置かれた。
金日成の言葉を朝鮮語で暗誦させられ、また頻繁に拷問を加えられた。
北朝鮮における彼の仕事は主に英語教師であった。
北朝鮮の英語教育はイギリス英語が採用されていたため、彼の話すアメリカ英語は同国の生徒や教師に驚きをもって迎えられた。

1980年、ジェンキンスは日本人拉致被害者の1人である曽我ひとみを政府に紹介されたという。
出会ってから38日後に両者は結婚し、ロベルタ・ミカ・ジェンキンス、ブリンダ・キャロル・ジェンキンスの二女をもうけた。
1982年、ジェンキンスは政府の命令によって国策映画への出演を命じられ、
結果としてこの映画が20年近く消息不明であった彼の姿をアメリカに伝えることになった。
しかしアメリカ政府はこの事実を認めず、1996年まで「ジェンキンス軍曹の動向は不明」とする公式見解を続けた

2002年、日朝首脳会談によって日本人拉致被害者の存在を北朝鮮政府が公に認めると、
曽我ひとみの夫であるジェンキンスの消息も同時に明らかとなった。
更にその後の経緯によって妻が日本へと帰国を果たすが、
ジェンキンスは娘達と共に北朝鮮側の監視に加え、逃亡兵となっている立場から帰国を決めかねていた。
2004年、日本政府がアメリカ政府との交渉によって穏当な判決を軍法会議で行う確約を取りつけたことから、
同年7月9日、治療という名目で娘2人とインドネシアへ出国し、7月18日に妻のいる日本に入国した。

2004年9月11日、ジェンキンスは在日米軍のキャンプ座間へと向かい、陸軍憲兵隊長として出迎えたポール・ニガラ陸軍中佐に敬礼の上で出頭を報告し、軍人としての礼式に則った行動を示した。
合衆国軍はジェンキンスが軍の指揮下に戻ることを述べた上で、「貴方と家族がこれよりいかなる時も敬意と尊厳を持って扱われることを保証する」と宣言した。
11月3日、軍法会議でジェンキンスは逃亡に関する罪、及び利敵行為に関する罪を認め、合衆国軍は軍曹から二等兵に降格処分の上、
不名誉除隊と禁固30日の判決を下した。2004年11月27日、模範囚として予定よりも5日間早く釈放され、正式に軍人としての経歴を終えた。

2005年に、93歳となっていた母を見舞うためにアメリカへと家族を連れて帰国し、初対面となる孫と母を引き合わせた。
帰国後の6月14日に妻の実家がある佐渡島に居を構え、佐渡市の観光施設の職員として余生を送ることになった。
2006年に自らの経験を綴った回想録『告白』を執筆、ア
メリカでは『望まぬ中での共産主義―逃亡と北朝鮮における40年間の懲役』として2008年3月1日に出版された。

2008年7月15日には、日本政府から半月前に申請していた永住許可が与えられた。
その際、インタビューで日本において余生を過ごしたいと応えており、
娘らの事情も含めて帰化も考えているという
2017年12月11日に体調が急変し死去、77歳没。
 (Wiki)


告白 (角川文庫)
クリエーター情報なし
角川書店

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「積年の恨み。地獄へ送る」... | トップ | フーヴァー ルーズベルト »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

社会」カテゴリの最新記事