わたくしの母の手記です。わたくしは三人姉妹の末娘ですが、さまざまな事情から、わたしくしの長女の誕生は父母にとっての「初孫」となりました。その折にわたくしは母に「哈尓浜について記録しておいて欲しい。」と頼みました。末娘のわたくしだけが「哈尓浜」の記憶がなかったこと、そしてそれを語り継ぐであろう長女(次に産まれた長男とともに。)の誕生への「贈り物」として……。それに応えて母は400字詰原稿用紙35枚の記録を書いてくれました。無論母は文筆家ではない。旧制女学校出の、音楽好きな一介の主婦にすぎません。老いて痴呆症になっても「月の砂漠」や「さくらさくら」を譜面も見ずにピアノで弾いた人でした。以下、その母の拙い記録です。
【赤紙】
主人と三人の子供といっしょに忙しいながらも元気に毎日をすごしていた私共が、突然平和な家庭がくずれ去るような思いにさせられたのは、主人に召集令状がとどけられた時、昭和20年5月6日の夕方のことです。それも翌朝早く家を出なければならないほどの急なことでした。
主人は当時、哈尓浜日本中学校の教員をしておりましたので、すぐに職場の残務整理に、家を飛び出していきました。子供たちは折角帰ってきたお父さんが、また忙しく出かけて行ってしまったので、けげんな顔をして「お父さんはどうしたの?どうしてまたお出かけなの?」と、主人を送り出して玄関にいた私のそばへ寄ってきました。私は「あゝこうしてはいられない。」と急に胸が高ぶるのをおさえ、子供達と部屋へ戻りました。
子供は5歳と4歳と生後10ヶ月の女の子が3人いました。あいにく三女は「麻疹」で熱を出してグズグズいっている時でした。私は上の2人の子供に夕飯を食べさせ、お風呂もそこそこに「お母さんはご用があるから、2人でおとなしく寝るんですよ。」と言いきかせて、床の中に入れました。しばらく2人でおしゃべりをしていましたが、案外早く寝てしまったので、よかったです。それからむずかる下の子をおんぶして、主人の着替えなどをまとめたり、おむすびを作ったり、忙しくかけまわりました。背中の子は眠ったり、目を覚ましたり、時々「フンフン」とさわいだり、とろとろ夜中まで忙しいお母さんに付き合はされ可哀想でした。
一通り主人の出張の仕度もでき、やっと背中の子をおろし、しっかり抱きかかえながら、上の2人の子の寝顔を見ていましたが、その時は自分でもふしぎなほど心が落ち着いていたのを覚えています。子供たちと一緒にしっかり留守を守らなければと、たヾそのことを一心に考えていたのかもしれません。
あわたヾしく主人が帰宅したのは夜もしらじらと明けるころでした。子供たちをゆっくり抱くひまもなく、寝ている子の頭を一人一人なでながら「おとなしくしているんだよ。」とたヾそれだけ、主人も私も何の細かい話をするひまもなく「行くよ。留守をたのむ。」「行ってらっしゃい。からだに気をつけて。」の言葉だけ、そして主人は足早に出かけて行ってしまいました。一体どこへ行くのだろう、南か北か、おそらく本人もわからないことだったでしょう。
思えば、一枚の「赤紙」を手に、自分の意志など全く無視され、だまって家族と別れて出てゆかなくてはならないこの残酷さ、出て行く者も残された者も、大きな力を持った「赤紙」の前では一言もありません。こういう不幸な人達が日本中に何十万もいたことでしょう。いや、もっともっといるのではないでしょうか。
【母子家族となって】
朝の用事も済み、家のなかから窓越しに、子供たちが外に出て元気に跳ねまわっているのを見ながら、主人の無事を祈るばかりです。そんな折に、お向かいの奥さんと子供さんが出てきました。そして私共の子供といっしょに跳ねまわっています。奥さん(Aさん)が家のなかの私をみつけて、にっこり、お互いの目と目で挨拶、わたしは急に外へ走り出てAさんのそばにゆき、今朝早く主人が長期出張に出かけたことを話しました。Aさんはびっくりして何かと励ましの言葉をかけてくださいました。
それにしても戦争はどうなっているのだろうか。ここ北満の地もやがては戦場になるのではないかと、恐ろしい思いが頭のなかをかけめぐりました。主人が出かけて4、5日すぎた頃、私は急に「これは大変なことになった。主人は一体どこへ行ったのだろうか?もうこれっきり帰らないのではないか。」と思ったとたんに、深い谷底へ落ちて行くような恐ろしさ、怖さに襲われました。
何も知らない子供達は、これまでも主人はあちこち出張が多く、留守になることがありましたので、おとなしくしていればすぐに帰ると思っていたのでしょう。それでも時折「お父さんはいくつ寝たら帰るの?」と言っていました。これからは子供達と遊ぶ時間を多くしてさびしくないようにしてやらねばと思いました。
【お父さんのにおい】
主人が出かけて1カ月位過ぎた頃に小包が届きました。差し出しの名前がありませんので、何かと思いましたが、表書きの字で主人からでは、と急いで開いてみましたら、出かける時に着ていった私服が送り返されてきたのです。でも差し出しの住所が書いてないので、どこにいるのかわかりません。主人の無事を祈りながら、その衣類を整理していましたらば、子供たちが「お父さんの匂いがする。」と言って、主人の衣類の上に寝転びながら、なかなか離れません。
私はその子供たちの姿がいじらしくて、しばらくそっと見ていましたけれど、張りつめていた私の気持も限度だったのでしょうか。子供達をかヽえてワーワーと泣いてしまいました。びっくりした子供達は私にしがみつき、わけもわからぬまヽに泣きだしました。子供達といっしょに思いきり泣きました。それからも子供達との淋しい不安な生活が続きました。
【終戦】
1945年8月15日、終戦。無条件降伏。
8月15日正午に「重大放送」があるということは前以てニュースで聞いていましたので、15日正午ラジオの前に座り、待っていました。どんなことだろうか?それも陛下御自身でマイクの前にお立ちになり、全国民にお言葉を賜るとのこと、あの当時はまったく考えられないことでした。それだけに重大ニュースは気がかりです。
思いがけない「終戦」の報、信じられませんでした。ラジオから流れてくる言葉をすぐには理解できませんでした。でも事実なのです。日本は降伏したのです。何が何だかわからず、ただただ体がふるえるばかりです。とっさに主人はどこにいるのだろうか、無事だろうか、これからどうなるのかと次々に不安なことばかりが頭の中をかけめぐり、恐ろしさが全身にのしかかってきました。それは何とも言い様のない、たまらない気持でした。さりとて誰に助けを求めることもできず、思はず傍で昼寝をしていた末娘を抱きかかえ「落着け、落着け」と自分に一心に言い聞かせているばかりでした。
その時に、お向かいのAさんがかけ込んできて、お互いに無言のまヽ手を取り合ってただただ涙だけ、非常事態、最悪の状勢、日本は降伏したのです。戦争は終ったのです。でも何で安心できましょう、これからどんな事になるか、何が起こるか、現在私共のいるところは「敵国」の真っ只中になってしまいました。
【略奪】
敗戦の一週間位前の朝方に、空一面パーっと物すごく明るくなったことがありました。「照明弾」とかいうものを、哈尓浜の街のどこかへ落としたのだと聞きました。その時すでにソ連軍が哈尓浜の街の上空まで来ていたのでしょうか?それほどに戦局が身近かに迫っていたとは、どうして私共にわかったでしょう。世の情勢は悪くなるばかり、こうしてはいられない、気をしっかり持ってとAさんと励まし合いながら、しばらく篭城の覚悟をしました。最悪の場合を考へ、家のなかを整理し、篭城に備えて食料の買出しにも出かけました。
それから1週間位過ぎた頃(8月22,23日頃)また子供を連れて買出しに出かけて帰宅したところ、玄関の前に数人のロシア人がウロウロしているのです。「ああ、大変なことになった。」とすぐにわかりました。「略奪」です。いづれは敗戦の恐ろしさがやってくるのではと心配でしたが、こんなに早く襲ってくるとは思ってもいませんでした。家の中には誰がいるのだろうか?何をしているのだろうか?何人いるのだろうか?何をしているのだろうか?と思いながらも恐ろしさに近寄ることも出来ず、子供たちをしっかりかかえて庭の隅でじっと家の中の物音に耳をそばだてヽいました。
どれくらいの時間だったでしょうか。大して長い時間でもなかったと思いますが、その時間の長かったこと。本当に恐ろしかったです。突然家の中からドヤドヤと数人が飛び出してきました。みんなロシア兵で、その中の1人がいきなり私に拳銃を突きつけ、大きな声でわめいているのです。何を言っているのかわかりませんが、「しっかりしろ、しっかりしろ。」と震える足を一心にふんばって子供たちをかかえこみました。子供達はなにも言わず、私にしっかりとつかまって大人しくしていてくれたので、それが何よりの救いでした。
その時「お前はここの家の者か、主人はどこにいるか。」という言葉が聞えてきました。気がつくとソ連兵の1人が私の方を見て話しているのです。どこからか通訳を連れて来たらしい。とっさに「私はここの家の者だが、主人はどこへ行ったかわからない。」と、ただそれだけ答えて、心の中では「早くみんな出て行ってくれ。」と願うばかりでした。
玄関の鍵のノブも壊されてしまいました。兵隊達が立ち去った後の家の中は、どこから手をつけていヽのかわからない程メチャメチャになっていて、何を持っていかれたのか全くわかりません。すぐに片付ける気力もなく呆然と立ちつくしていました。
その時「これ、なぁに?あ!お菓子だ。」という子供も声が耳に入ってきました。見ると上の子が、網の袋に入ったビスケットのようなものを持っていたのです。私は夢中でその袋を取り上げ「これは駄目。きたないの!」と叫んでしまいました。「毒でも入っていたら。」と思ったのですね。たヾ兵隊達が忘れていったものでしょうが、人間はとっさの時には思わぬことを考えるものだと、後になって自分でもびっくりしました。
ソ連兵に荒らされた家の中を、ぼつぼつ片付けはじめ「あヽ、あれがない、これもない。」と次々に持っていかれた物がわかった時は、恐ろしくて、くやしくてたまりませんでした。でも、みんな何一つ怪我がなかったのが何よりと思いました。その夜は、ごちゃごちゃの荷物をそっと部屋の隅に押しやり、ふとんを敷くだけの場所を作り、みんなで雑魚寝しましたが、私はとろとろ眠ることもできず一晩明けてしまいました。
【家を出る、さらに略奪】
ここ哈尓浜は戦争の痛手は受けませんでしたが、敗戦と同時に「恐ろしさ」と「怖さ」がひしひしと身に迫ってきました。日本人の少ないこの場所では、自分1人で考え、行動しなければなりません。お向かいのAさんの家族の外は、家主はロシア人、近所の人々も満人とロシア人だけで、今まで言葉を交していた人達も、遠巻きに私達の様子を見ているのが何となくわかりました。
それから1週間位過ぎた頃(8月末頃)家主から家を明け渡すように言われました。全く思はぬことでした。家主の家のまわりにはソ連兵がウロウロしているのです。「兵隊が哈尓浜にどんどん入ってくるので、宿舎にするから。」とのことでした。何ということになったのだろう。急に移る所もなし、今更私共に家を貸してくれる人もなし、言う通りにしなければ、又何をされるかわからない。「お父さん、どこにいるの!どうしたらいいの。」と心のなかで叫びました。今までと様子の違う毎日の生活に、子供達も何かを感じているらしく、わがままも言はずおとなしく遊んでいます。その姿がまたいじらしく、私は「泣きべそをしていてはだめだ、頑張るんだ。」と思いました。
そして、主人が結婚前にお世話になっていたお家をおたずねして、奥さまに事情をお話してお願いしました。奥さまはびっくりして「そんな無情なことってありますか。私達もこの先どうなるかわかりませんが、とにかく一先ずここへ落ち着いて、これからの状勢を見ましょう。」とおっしゃり、私はその言葉が嬉しくて有難くて泣いてしまいました。
主人が勤めていた職場の方へ行き、相談したいとも思いましたが、私共の所から遠いうえに、もしもそこにどなたもいなかったらば、と心配してやめました。
ありがたいことに落ち着く所はありましたが、荷物をどうしたらいヽのかと思いましたが、何ともなりません。身のまわりのものだけであきらめねばなりませんでした。近所でリヤカーをお借りして、何とか積めるだけの物をまとめました。主人の物と子供達の物、そして私の物、それにこれから寒さに向かうので防寒用オーバーなど。炊事道具は最小限に、写真は1枚1枚アルバムから剥がして。貴重品もしっかりとまとめましたが預金通帳も債券(現金の代わりに職場から支給されたもの。)も、これっきり何の役にも立たないと思いました。手持ちの現金はしっかりと体に巻き付けました。終戦後すぐに職場の方から、いくらかまとまったお金が届きましたので助かりました。
子供達をふと見ましたらば、それぞれの手提げ袋に、毎日遊んだおもちゃを入れ、お人形をだっこして、私の顔を見上げてにっこり笑っています。「これからどんな生活が始まるかもわからずに……。」と私はこぼれそうな涙をおさえて笑いかえしました。もう子供達には涙を見せてはだめだと、一生懸命明るくふるまっていたのです。
Aさんご一家はどうなるのか、何か起きなければいヽのですが、さいわいご主人には「赤紙」が来てなかったので本当によかったです。「みんな頑張って、無事に日本へ帰れる日を待ちましょう。」とお別れしました。
ベランダの前までリヤカーを引っ張って来て、まとめたものを1つ1つ積み込みました。子供達のおもちゃもしっかりと縛って、どうにか荷まとめも終り、住みなれた家ともお別れです。家の中にはまだまだ荷物がいっぱい残っているのに、もうこれですべてさようならです。本当にやりきれない思いです。末娘をしっかりおんぶして、上の2人の子供はリヤカーにつかまり、「さあ、行きましょう、おばちゃんの所へ。」と門の方へ歩き出しました。
その時、急に門の外が騒がしくなりました。「何だろう?」と思うひまもない程のあっという間のことでした。今、私共が出て来た家の中へ突進してゆくのです。「ああ、略奪だ。暴民だ。」とすぐにわかりましたが、手向かうこともできず、彼等がなすまヽに呆然と見ているしかありません。タンス、テーブル、夜具類、次々と庭に並べられ、畳まで持ち出してきました。
そして次はリヤカーに積み込んだ物まで手をつけはじめたのです。私は夢中で「これはだめ!勘弁して!」と相手にとびつきました。とびついては突き放され、転ばされ、ただただ頭を下げて頼むだけ。背中の子供は泣き出す、上の子供達も泣き出す。「お母さん、こわいよう、こわいよう!」と泣き叫ぶ子供達を抱えたり、取られそうになる荷物を引っ張ったり、ただ夢中で自分でも何を叫んだのかわかりません。座りこんで頭を地につけんばかりに頼むだけ、私1人の力ではどうにもなりません。頭がガ―ンとなり、目の前が真っ暗になりました。
誰かの体がドーンとぶつかってきて、ハッとしましたらば、リヤカーの上から奪った荷物を満人たちが取り合っているのです。もう取り戻す気力もありません。でもその時私は「ああ、そのトランクは駄目だ。何としても取り戻さなければ!」と我にかえり、満人達の中に飛び込んでいきました。子供達の衣類や防寒具の入ったトランクです。「これは駄目だ、返してくれ。」と拝む頼むとトランクにしがみつきました。満人たちは私の剣幕に驚いたのか、返してくれました。
みんなが手に手に奪った荷物を持って行った後は、もう体はフラフラ足はガクガク、動くこともできない程に力が抜けてしまいました。リヤカーに残った物は、奪い返したトランクとバケツに入ったお鍋に食器、それに細々とした物が入っている箱が2つばかり、その箱の1つは裁縫道具と薬類が入っていました。その箱の隅の方にあった「耳かき」は今でも大切にしています。
背中の子供の泣き声にハッとして、子供達と住みなれた家を後にしたのは、もう夕暮れ近く、空がうす紅くなった頃でした。移り住んだ家の方達の温かいお情けに心も安らぎ、その夜はぐっすりと眠ることができました。
【空家】
それから3日ばかり経った頃、近くにしばらく誰も住んでいないまったくの空家があるということを聞きましたので、「天の助け」とばかり様子を見に行きました。2階建ての家でひっそりとしていました。何でもいヽ、こんな広い所が空いているなんてありがたいことと、早速移ることにしました。私共と同じような方が他にもいらして、年配のご夫婦がその家を見にきました。お互い心強くなって一緒に入ることにしました。そのご夫婦は2階に、私共は階下に、とてもやさしそうな方なので安心しました。
移り住むといっても夜具とて1枚もないありさま、近くの店で古いものを買ったり、お世話になったお家からもいろいろ頂き、どうにか子供達と休める場所ができました。この上は1日も早く主人の消息がわかりますように、無事でいてくれますようにと願うばかりです。
毎日毎日が恐ろしくて、ただ夢中で過ごしてきましたが、9月に入ってはや3,4日が過ぎているようでした。外はまだまだソ連兵や満人があちこちで暴れているようなので安心はできませんが、食糧の心配もしなければならず、こわごわ近くの店まで出かけて行きました。その時に大勢の日本の兵隊さんがソ連兵に付き添われて、たヾ黙々と下を向いて重い足取りで通り過ぎてゆくのを見ました。どこへ連れてゆかれるのか、ここでも「敗戦」のみじめさをまざまざと見ました。
この持ち主のわからない家に移り住んではみたものヽ、またいつ恐ろしいことが起きはしないかと気持は休まりません。そんなある日、やはりソ連兵が3人ヌーっと家の中の入って来てウロウロしているのです。私は「大変だ!」と思いながらも身動きできないほどに体が硬く立ちすくんでしまい、たヾ足だけがガクガクするばかり。するとどうでしょう。その兵隊達は何も言はず子供達を見てニッコリしているのです。私は急に力が抜けてその場に座りこんでしまい、末の子を抱きかかえ、兵隊達の様子を見ていました。すると何をするでもなく、その中の1人がちょっと片手を上げて私共の方を見ながら外へ出てゆきました。何もないガランとした家の中に女と子供だけでさすがにあわれに思ったのか、それとも兵隊さんにも可愛い子供がいたのか、人間としての情があったのか、静かに出て行った兵隊達に手を合わせたい思いでした。
これからもどうぞ何事も起こらないようにと願うばかりでした。けれどもその願いはまた裏切られました。2日後にまたソ連兵が3人やってきました。1人はいきなり私に拳銃を突きつけ、他の兵隊が部屋の中をウロウロしていましたが、何もないので諦めて、腹いせに私の頭を拳銃で殴り、捨て台詞を残して出て行きました。子供達は幸い裏の庭の方にいたので、怖い思いをさせずよかったです。兵隊が出て行ったあと、私は殴られた頭をおさえながら子供達のところへとんで行きました。家の中にいるのが怖くて怖くて、でも外も決して安心はできませんが……。
それから2日位過ぎた頃、お2階の方が荷物をかかえて私のところへ来て「どこかへ行く。」とおっしゃいました。「どちらか行く所があるのですか?」とたずねましたら、「どうなるかわからないけれど、行ってみます。」とのこと。私とてどうにもなりませんので、お止めすることもできずお別れしました。
【子供のこと。主人のこと】
毎日毎日を「今日は無事に過ごせますように。」と朝に夕べに祈るばかりです。ただただ子供達が元気でいてくれることが、私にはどれだけ心のはげみになったことでしょうか。末娘はまだ何もわからないでしょうが、上の2人の娘は、この「敗戦」の恐ろしさをどれだけわかっているだろうか?心も体もすっかり
痛めつけられ、いじけた子供にならなければと、その事がとても心配でした。
終戦後1ヶ月位過ぎた頃(9月中旬)かと思いますが、「日本人の生命、財産に危害を加えた者は罰を加える。」という命令がソ連軍の方へ出たと聞きました。「戦争は戦争、法は法」なのでしょうか。そのことを聞いてから気持は大分楽になりましたが、その頃は私共は何とか怪我もなく、体だけは無事でしたが、何もかもすべて失った後でした。泣くに泣けない思いでした。
思えば、私がこの北満の都哈尓浜へ第一歩を踏み入れたのは、1939年8月15日、そしてちょうど6年後の8月15日に終戦となりました。なんという巡り合わせなのでしょう。主人は私より2年半ほど以前に渡満しており、哈尓浜日本中学校の教員をしておりました。縁あって1939年7月に東京で結婚式を済ませ、主人に連れられて哈尓浜に参りました。遠い北満での生活はいろいろ不安もありましたが、まだ見ぬ土地への憧れや希望など胸ふくらませて来たのです。そしてしっかりと家庭を守り、これから巣立ってゆく若者達の教育のために主人が思い切り活躍できますようにと、けなげな心もいだいていたのです。誰がこの様な恐ろしいことになるなど思っていたでしょう。
北満の冬は早いです。いつしか9月も終りの頃、またこわごわと街の様子を気にしながら食糧の買出しに出ましたらば、もう初冬の感じです。「ああ、着る物も何とかしなくては。」といささかあわてました。あんなに騒がしかった街の中も不気味なほど落ち着いてきましたが、でもまだあちこちにいかめしい兵隊がいました。
終戦から1ヶ月半過ぎて10月に入ってもまだ主人の消息は何もわからず、私の心はやたらと焦りが出るばかりです。主人はどこでどうしているのだろうか?何もわからないだけに不安と怖さばかりがつのります。手持ちのお金もだんだん心細くなり、寒さに向かい暖房費など到底ありませんし、いろいろ思いますと、また別の恐ろしさがひしひしとせまってきます。近くに「難民収容所」があると聞きましたので、そこのお世話になって1日も早く南の方へ行けたらと思いましたが、この哈尓浜を離れてしまうと主人との連絡がつかなくなると思い、それもできません。
子供達は少しばかりのおもちゃを並べ、おとなしく遊んでいますが、何だか元気がないように見えてきました。食事も思うようには食べられず、外であばれることもできず不憫でなりませんが、何としても頑張らねば、元気を出さねばと自分で自分を励ますだけです。
【主人、帰る】
忘れもしません。10月17日、時間ははっきり覚えていないのですが、次女が私の所へとんできて、じっと窓の方を見ています。外に誰かいるらしい。また恐ろしいことでもと恐々窓の外を見ましたらば、外に主人の顔が見えました。すぐには信じられません。自分の目を疑いました。まぎれもない主人です。私は夢中でドア―の鍵を開けました。
主人が何を言ったのか、子供達と私が何を叫んだのか覚えていません。お互いに何の言葉もなかったのではないでしょうか。子供と一緒に主人にとびつき「お父さん、お父さん!」と叫ぶだけ。ただ涙、涙でした。終戦から2ヶ月、主人が長期出張に出てから5ヶ月と10日、ようやく親子無事に会うことができました。この5ヶ月の長かったこと。みんなよく頑張りました。本当によく頑張りました。その夜も何のご馳走もないわびしい食卓でしたが、みんな無事を喜び楽しい食事ができました。子供達は久しぶりにお父さんの膝の上ではしゃいでいます。
【主人の2ヶ月】
主人は終戦の報を8月20日釜山で知ったそうです。そこで部隊は解除となり、私共のいる哈尓浜まで2ヶ月の長い苦難の旅となりました。よくぞ無事に来られたものと幸運を喜び合いました。
部隊解除の後、同じ職場のT先生と何度か生命の危険に遭いながら、ひたすら哈尓浜を目指して来たのです。釜山から哈尓浜までの命がけの逃避行、あまりにも遠い道のりです。
途中の安東では、幸い学校の出先機関があって、そこで一晩泊めていただき、食糧とお金を心配して頂いき、大助かりしたとのことです。25日に安東を出て、翌日新京に着いたけれど、新京からの列車がなくて、そのチャンスをつかむのに1ヶ月余りもかかったとのこと。その間は、T先生が以前新京にいらした時のお知り合いの方の家にお世話になり、いろいろな仕事をしながら何とか食べるだけのことはできたそうです。
何日も何日も焦る気持をおさえて、やっとそのチャンスがきて、T先生とそして偶然巡り合った2人の哈尓浜中学校の卒業生と一緒に、哈尓浜方面に行く列車にもぐりこみ、何度か危ない目に遭いながら、哈尓浜の1つ手前の「五家・ウージャ」という駅まで辿り着いたそうです。しかし前の列車が動かないので、やむなくそこで列車を降りて、哈尓浜まで皆さんと一緒に歩いたそうです。学校のある「沙曼屯・シャマントン」まで来た時は本当に本当に嬉しかったそうです。T先生は学校の近くに住んでいらしたので、そこで私共のことを知らされ、とんで来てくれたのです。
【哈尓浜から新京へ】
家族みんな無事に会えてホッとしましたが、寒さに向かいこの状態では冬越しができるかどうか、それがまた心配です。世の情勢がどうなのか私にはよくわかりませんが主人に従い、新京まで南下することにしました。主人には何か考えがあるようでした。この混乱の世の中で知らない土地でどんな生活ができるかわかりませんが、冬越しするには少しでも有利な土地へ行かねば、生命の危険もわかりませんでしょう。
新京まで行くことにしましたが、果たして汽車が動いているかどうかわかりませんので、主人は毎日駅まで行って、様子を見たり情報を聞いたり。そしてようやく10月25日に新京行きの汽車が出ることがわかりました。荷まとめと言ってもわずかな荷物しかありません。お世話になった皆さんにお別れしましたが、無事に内地に帰れるかどうか、またいつお会いできますことか、淋しい思いです。
上2人の子供はお父さんにしっかりとつかまり、末娘は私におんぶされ、やっと哈尓浜の駅まで辿りつきましたらば、方々から集まった難民の人達で駅はごったがえし、とてもとても大変な騒ぎです。長いこと待たされやっと列車に(とは言っても貨物車でしたが。)、どうにか乗り込んだ時はホッとしました。でも無事に目的地まで行けるかどうかまた心配でした。
まわりの人達と言葉を交はす元気もありません。みんな無言です。主人と私は子供をかこむように座り込み、隣の方と目と目で挨拶するだけでした。少しばかりの食糧と水を持って、翌日列車が新京の駅に着いた時はホッとしました。
ある知人の方のお世話で、さいわいにも1部屋お借りすることができました。そこは商売をしていたらしく、広い土間がありました。隅の方を形ばかりの台所にして、他は子供たちの遊び場くらいになりました。哈尓浜に比べて大分気温が高いのでホッとしました。
主人もやはりその方のお世話で何やら忙しくあれこれとかけまわっていましたが、近くの工場で「電気ごたつ」を作る仕事の手伝いを始めました。寒さに向かいますので何とか成功してほしいと願っていましたらば、さいわい仕事も順調に進み、本当によかったです。私共も1台いただきとても大助かり。たヾ1つの暖房でみんな大喜び、夜はこたつを囲み車座になって休みました。
その工場の責任者は中国人の方ですが、よく理解してくださって、主人もありがたい気持で一生懸命にお手伝いしました。私も何かと考えていましたらば、中国兵の洗濯物の仕事があると聞き、早速始めわずかながらのお金を手にしました。みんなして囲む食卓は毎日コウリャンのごはんに粗末なお惣菜でしたが、それでも親子そろっての食事は話もはずみ、にぎやかに、主人も私もつとめて明るくふるまっているのが何となくお互いにわかる思いでした。日本へ帰れる日はまったくわかりません。半年先か1年先か、何としてもみんな無事に帰れる日が早くきますようにと願いながら頑張りました。
新京の生活も落ち着く間もないまヽ1946年を迎え2月も過ぎようとしていましたが、まだ何となく危険な様子も感じられ、子供を外であばれさせることもできません。私は子供の「運動不足」やら「栄養不足」などが急に心配になってきました。特に末娘は満1歳になったばかりで終戦となり、その後は思うような食事もとれず、1年半過ぎてもまだ歩くこともできません。やはり栄養不足なのだと思いましたが、品不足で物価は高くなるばかりで何ともなりません。春になれば何とかなるのではと思い、とてもとても春が待たれました。
【内乱】
そんなある日、新京の街の中が急にざわめき出し、あちこちから銃声が聞えてきました。「内乱が起きた。」とのことです。何と恐ろしいことになったと、万一に備えて、畳をはがし窓に立て掛けて外からの危険を防ぎました。こんな内乱騒ぎの流れ弾にやられてはたまりません。詳しいことはよくわかりませんが、「国府軍」と、一方は「中京軍」との市街戦が始まったとか。以前から権力争いの小競り合いはあったのですが、でもその騒ぎも3日位でおさまり、ホッとしました。突然「中京軍」が立ち去ったので、「国府軍」が新京の街を支配するようになったそうです。一時はどうなることかと身のちぢむ思いでした。
【歌声】
いつとはなしに気持もやわらぎ、ホッとした頃、実にびっくりしたことが起きました。どこからか歌声が聞こえてきたのです。何ヶ月と忘れていた歌声です。本当に長い間忘れていた歌声です。大好きな音楽も耳にしたこともなく、歌1つ口ずさんだこともない、荒れ果てた心にそれはそれは心地よくひヾいてきました。何の歌だろうとじっと聞いていましたらば、それは何と日本の歌なのです。
花摘む野辺に日は落ちて
みんなで肩をくみながら
歌を歌った帰り道
幼なじみのあの友この友
あヽ誰か故郷を想はざる
この敗戦の後、まして混乱の世の中で、なつかしい日本の歌が聞けるとは、何とも言いようのない嬉しさ、なつかしさでした。どこか近くのお店でレコードを流しているのでしょうか。私は歌いました。流れてくる歌に合わせて歌いました。泣きながら歌いました。あヽ早く日本へ帰りたい。早く帰りたい。引揚げの日を心静かに待っていようと主人と話し合っていた私ですが、すっかり気分が昂ぶってしまい泣けて泣けて仕方がありません。いつの間にか歌が聞こえなくなりました。でも私は1人で繰り返し繰り返し歌いました。
翌日「また歌がきこえてくるかしら。」と朝から一心に待っていました。あヽ期待通り同じ歌が聞こえてきました。でも私はもう泣きません。心静かに歌うことができました。むしろ荒れはてた心に明るい光をもたらしてくれたのです。この歌は私にとって忘れることのできない、大好きな歌の1つとして折にふれよく歌っています。またテレビやラジオなどで時折聞くことがありますが、大勢の人達が他国で涙して歌ったことヽ思います。
歌、歌、歌、そうだ私には大好きな歌があったのだ。「歌を忘れたカナリヤは……」本当にそうでした。童謡、唱歌と子供達と一緒に次々と歌いました。思い切り歌いました。(そして、引揚げ船の甲板で灰色の海と空しか見えない夕暮れに、ふと口をついて出た歌「雨降りお月さん雲のかげ……」も、私の大好きな歌の1つです。生涯忘れることなく歌ってゆくでしょう。)
【お菓子屋】
長い長い冬ごもりにもようやく春のきざしが感じられる頃になり、一同無事に冬越しができたと思った時は本当に嬉しかったです。そして子供達がひとまわり大きく成長したことに気づき胸がつまりました。暖かになれば引揚げも開始されるのではと希望を持って、更に体に十分気をつけなければと、ただただ体力が心配でした。相変わらず世の情勢は変わりませんが、もう身の危険はなくなったように感じられます。長い間閉じ込められた生活でしたので、これからは少しづつ外の空気に触れ、明るい太陽の光をあびようと、つとめて外へ出るようにしました。
春といっても、まだ風は冷たいのですが気分的にはホッとしました。街へ出て、ふと気づいたのですが、街の通りのあちこちで小さな台の上にいろいろなお菓子を並べて商売している人達を見かけました。それもほとんどが日本人なのです。お客は中京の兵隊さんや通りすがりの中国人が多いようです。しばらく様子を見ていましたらば、案外お客もあり、皆さん明るい顔をして商売しているのです。
新京の街へ入ってきた兵隊達もだんだん移動してしまい、「洗濯物」の仕事もなくなりましたので、何か他に収入の道をと考えていたのです。外の空気を吸いながら子供達と半日位ならばできるかもしれないと思ったのです。お店を出している方に仕入れのことを聞いてみましたらば、案外簡単に商品を手に入ることを知り、早速始めました。
末の子をおんぶして、上2人の子供と一緒に小さな小さなお菓子屋さんを始めました。何せ小さな子供を連れての物売りなのでなかなか大変でしたが、子供達にも手伝ってもらい「ありがとう。」「シェシェ」と1週間位は順調に商売をしました。しかしまだまだ小さな子供達です。お菓子を目の前にながめながら、充分に食べることもできず、ほんの少しおやつに食べるだけでは可哀想になってきて、仕入れの元金だけ残ればと食べさせてやりました。
慣れない仕事で私はすっかり疲れてしまい、それに子供達も自由にはねまわれない毎日で、元気がなくなったようなので辞めてしまいました。主人の方は「電気ごたつ」のあとは「電球」を作る仕事に代わり、売れ行きもよく皆さん喜んでおりました。
【引揚げ準備】
そして5月の始め頃、どこからか「いよいよ引揚げの話が出ている。」との情報が流れてきました。本当なのか、どうなのか、主人はあれこれと噂の出場所をさぐっていたようでしたが、「引揚げの話は本当らしい。」ということがわかりました。でもすぐに帰れるとは考えられないので、これからも体に十分気をつけて皆さん方と無事に帰れる日を待つことにしました。
いつしか暑い夏を迎えた6月に入ってから、「引揚げ」が実施されていることを知り、みんな大喜びしました。私共もいよいよ「引揚げ」という確かな情報を知ったのは7月に入ってからです。そしてある日のこと、町内の方から「引揚げについての話し合いがある。」との知らせがありました。「あヽ待ちに待ったその日が来た。」と嬉しくて涙がこぼれました。主人は明るい顔をして会合に出かけて行きましたが、どういう話なのか帰ってくるのが待たれました。主人が帰り、早速細々と話を聞きましたが、まだはっきりと「引揚げ」の日はわからないそうですが、それまでの準備がいろいろと大変のようです。
「引揚げ準備委員会」という会を結成し、その委員長に主人が、他に若手の男子が5,6名選ばれ、早速準備にかかるとのこと。まず書類の作成です。「引揚げ者家族名簿」「地区別と男女別名簿」それに「中京側に提出する書類」など……「手落ちのないようにやらねば。」と委員の方達と申しておりました。
すべての書類が揃い、市公署に提出したのが8月はじめ、そして8月25日新京出発の知らせを受けた時は、本当に嬉しかったです。
私共の所属する団名は「第50団100大隊」と決まりました。総勢1,500人位と聞いていました。その中には若い元気な男性はほんの少しで、あとは年寄りと女性と子供ばかりで、お世話をして下さる男子の方はそれはそれは大変なことだったと思いました。
【引揚げ出発】
8月25日、いよいよ引揚げ出発です。この日をどんなに待ったことでしょう。家族揃って無事に帰れる日がやっときました。そして方々から集まってきた皆さんと一緒に列車に乗り込みました。列車は屋根のない貨物車でしたが、お世話役の方達が前以ってちゃんとテントを張って、夏の日光に当たらないようにと細かい心配りをしていてくださいました。一同そのありがたい気持と嬉しさで、心も晴れ晴れと新京を後にしました。
私共は昨年末に新京まで南下し、新京の生活が10ヶ月、主人に「赤紙」が来てから1年4ヶ月、1日とて心の休まる日はありませんでした。ようやく心も落ち着き、子供達をかかえこみながら列車の走る音を心静かに聞いていました。そして3日後、28日に無事「葫蘆(コロ)島」に着き、ここで乗船準備まで3日間、31日にようやく米国の貨物船で「葫蘆(コロ)島」を出航しました。船が港を離れた時はあちこちから歓声があがり、みんなみんな手を取り合って喜びました。船の旅が3日間、海も荒れずにおだやかな日が続きましたので、本当によかったです。
【祖国へ】
9月3日夕方、無事に博多港に着きました。そこで全員の検疫が済むまで6日間船を降りることができませんでした。夜になり、街の灯りを見ながら、やっと日本に帰れたのだという嬉しさと安心感に悪夢から覚めたような思いでした。子供達は初めて見る日本の国です。どんな思いだったか、まだ小さかったので何もわからなかったでしょう。
9月9日朝、待ちに待った上陸です。船を下りて一歩一歩日本の地を踏みしめた時の感激は今でもはっきりと頭に焼きついています。夜は「引揚げ者宿泊所」に泊まり、衣類などの支給を受け、とても助かりました。翌日の10日朝、一同晴れ晴れとした気持で「解団式」を済ませ、それぞれの郷里に向かって元気に出発しました。
私共も心はずみ、東京行きの列車に乗り東海道をまっしぐら、東京駅から上野駅へ、そして東北線で小山へ、小山から両毛線で足利へ、一先ず足利の私の実家の方に帰り着きました。博多に無事帰国し、「12日午後足利着」の電報を打っておきましたので、駅まで両親と妹達が出迎えに来ていてくれました。嬉しかったです。何の言葉もありません。お互いに涙だけでした。
私がこの足利駅から哈尓浜へ旅だってから7年2ヶ月、このような姿で故郷の地を踏もうとは思ってもいませんでした。でも親子がみんな無事に帰国できて、両親や妹達に再会できてうれし涙のうちに私共のつらい旅は終りました。はからずもその日は1946年9月12日、主人の36歳の誕生日でした。
【付記】
消息のわからぬままにため息を幾夜かさねしか母は老いたり
一家無事博多へ着くとふ電報に勇みたちけり上へ下へと
わたくしの母方の祖母は、満州にいる娘たち一家を思い、このような短歌を残しています。