Poem&Poem

詩作品

哈尓浜   Tokiko H(1913~2001栃木県生まれ)

2012年01月26日 11時55分02秒 | Antiwar poem

             

 わたくしの母の手記です。わたくしは三人姉妹の末娘ですが、さまざまな事情から、わたしくしの長女の誕生は父母にとっての「初孫」となりました。その折にわたくしは母に「哈尓浜について記録しておいて欲しい。」と頼みました。末娘のわたくしだけが「哈尓浜」の記憶がなかったこと、そしてそれを語り継ぐであろう長女(次に産まれた長男とともに。)の誕生への「贈り物」として……。それに応えて母は400字詰原稿用紙35枚の記録を書いてくれました。無論母は文筆家ではない。旧制女学校出の、音楽好きな一介の主婦にすぎません。老いて痴呆症になっても「月の砂漠」や「さくらさくら」を譜面も見ずにピアノで弾いた人でした。以下、その母の拙い記録です。
  
  【赤紙】

 主人と三人の子供といっしょに忙しいながらも元気に毎日をすごしていた私共が、突然平和な家庭がくずれ去るような思いにさせられたのは、主人に召集令状がとどけられた時、昭和20年5月6日の夕方のことです。それも翌朝早く家を出なければならないほどの急なことでした。
 主人は当時、哈尓浜日本中学校の教員をしておりましたので、すぐに職場の残務整理に、家を飛び出していきました。子供たちは折角帰ってきたお父さんが、また忙しく出かけて行ってしまったので、けげんな顔をして「お父さんはどうしたの?どうしてまたお出かけなの?」と、主人を送り出して玄関にいた私のそばへ寄ってきました。私は「あゝこうしてはいられない。」と急に胸が高ぶるのをおさえ、子供達と部屋へ戻りました。
 子供は5歳と4歳と生後10ヶ月の女の子が3人いました。あいにく三女は「麻疹」で熱を出してグズグズいっている時でした。私は上の2人の子供に夕飯を食べさせ、お風呂もそこそこに「お母さんはご用があるから、2人でおとなしく寝るんですよ。」と言いきかせて、床の中に入れました。しばらく2人でおしゃべりをしていましたが、案外早く寝てしまったので、よかったです。それからむずかる下の子をおんぶして、主人の着替えなどをまとめたり、おむすびを作ったり、忙しくかけまわりました。背中の子は眠ったり、目を覚ましたり、時々「フンフン」とさわいだり、とろとろ夜中まで忙しいお母さんに付き合はされ可哀想でした。
 一通り主人の出張の仕度もでき、やっと背中の子をおろし、しっかり抱きかかえながら、上の2人の子の寝顔を見ていましたが、その時は自分でもふしぎなほど心が落ち着いていたのを覚えています。子供たちと一緒にしっかり留守を守らなければと、たヾそのことを一心に考えていたのかもしれません。
 あわたヾしく主人が帰宅したのは夜もしらじらと明けるころでした。子供たちをゆっくり抱くひまもなく、寝ている子の頭を一人一人なでながら「おとなしくしているんだよ。」とたヾそれだけ、主人も私も何の細かい話をするひまもなく「行くよ。留守をたのむ。」「行ってらっしゃい。からだに気をつけて。」の言葉だけ、そして主人は足早に出かけて行ってしまいました。一体どこへ行くのだろう、南か北か、おそらく本人もわからないことだったでしょう。
 思えば、一枚の「赤紙」を手に、自分の意志など全く無視され、だまって家族と別れて出てゆかなくてはならないこの残酷さ、出て行く者も残された者も、大きな力を持った「赤紙」の前では一言もありません。こういう不幸な人達が日本中に何十万もいたことでしょう。いや、もっともっといるのではないでしょうか。

 【母子家族となって】

 朝の用事も済み、家のなかから窓越しに、子供たちが外に出て元気に跳ねまわっているのを見ながら、主人の無事を祈るばかりです。そんな折に、お向かいの奥さんと子供さんが出てきました。そして私共の子供といっしょに跳ねまわっています。奥さん(Aさん)が家のなかの私をみつけて、にっこり、お互いの目と目で挨拶、わたしは急に外へ走り出てAさんのそばにゆき、今朝早く主人が長期出張に出かけたことを話しました。Aさんはびっくりして何かと励ましの言葉をかけてくださいました。
 それにしても戦争はどうなっているのだろうか。ここ北満の地もやがては戦場になるのではないかと、恐ろしい思いが頭のなかをかけめぐりました。主人が出かけて4、5日すぎた頃、私は急に「これは大変なことになった。主人は一体どこへ行ったのだろうか?もうこれっきり帰らないのではないか。」と思ったとたんに、深い谷底へ落ちて行くような恐ろしさ、怖さに襲われました。
何も知らない子供達は、これまでも主人はあちこち出張が多く、留守になることがありましたので、おとなしくしていればすぐに帰ると思っていたのでしょう。それでも時折「お父さんはいくつ寝たら帰るの?」と言っていました。これからは子供達と遊ぶ時間を多くしてさびしくないようにしてやらねばと思いました。

 【お父さんのにおい】

 主人が出かけて1カ月位過ぎた頃に小包が届きました。差し出しの名前がありませんので、何かと思いましたが、表書きの字で主人からでは、と急いで開いてみましたら、出かける時に着ていった私服が送り返されてきたのです。でも差し出しの住所が書いてないので、どこにいるのかわかりません。主人の無事を祈りながら、その衣類を整理していましたらば、子供たちが「お父さんの匂いがする。」と言って、主人の衣類の上に寝転びながら、なかなか離れません。
 私はその子供たちの姿がいじらしくて、しばらくそっと見ていましたけれど、張りつめていた私の気持も限度だったのでしょうか。子供達をかヽえてワーワーと泣いてしまいました。びっくりした子供達は私にしがみつき、わけもわからぬまヽに泣きだしました。子供達といっしょに思いきり泣きました。それからも子供達との淋しい不安な生活が続きました。

 【終戦】

1945年8月15日、終戦。無条件降伏。
 8月15日正午に「重大放送」があるということは前以てニュースで聞いていましたので、15日正午ラジオの前に座り、待っていました。どんなことだろうか?それも陛下御自身でマイクの前にお立ちになり、全国民にお言葉を賜るとのこと、あの当時はまったく考えられないことでした。それだけに重大ニュースは気がかりです。
 思いがけない「終戦」の報、信じられませんでした。ラジオから流れてくる言葉をすぐには理解できませんでした。でも事実なのです。日本は降伏したのです。何が何だかわからず、ただただ体がふるえるばかりです。とっさに主人はどこにいるのだろうか、無事だろうか、これからどうなるのかと次々に不安なことばかりが頭の中をかけめぐり、恐ろしさが全身にのしかかってきました。それは何とも言い様のない、たまらない気持でした。さりとて誰に助けを求めることもできず、思はず傍で昼寝をしていた末娘を抱きかかえ「落着け、落着け」と自分に一心に言い聞かせているばかりでした。
 その時に、お向かいのAさんがかけ込んできて、お互いに無言のまヽ手を取り合ってただただ涙だけ、非常事態、最悪の状勢、日本は降伏したのです。戦争は終ったのです。でも何で安心できましょう、これからどんな事になるか、何が起こるか、現在私共のいるところは「敵国」の真っ只中になってしまいました。

 【略奪】

 敗戦の一週間位前の朝方に、空一面パーっと物すごく明るくなったことがありました。「照明弾」とかいうものを、哈尓浜の街のどこかへ落としたのだと聞きました。その時すでにソ連軍が哈尓浜の街の上空まで来ていたのでしょうか?それほどに戦局が身近かに迫っていたとは、どうして私共にわかったでしょう。世の情勢は悪くなるばかり、こうしてはいられない、気をしっかり持ってとAさんと励まし合いながら、しばらく篭城の覚悟をしました。最悪の場合を考へ、家のなかを整理し、篭城に備えて食料の買出しにも出かけました。
それから1週間位過ぎた頃(8月22,23日頃)また子供を連れて買出しに出かけて帰宅したところ、玄関の前に数人のロシア人がウロウロしているのです。「ああ、大変なことになった。」とすぐにわかりました。「略奪」です。いづれは敗戦の恐ろしさがやってくるのではと心配でしたが、こんなに早く襲ってくるとは思ってもいませんでした。家の中には誰がいるのだろうか?何をしているのだろうか?何人いるのだろうか?何をしているのだろうか?と思いながらも恐ろしさに近寄ることも出来ず、子供たちをしっかりかかえて庭の隅でじっと家の中の物音に耳をそばだてヽいました。
どれくらいの時間だったでしょうか。大して長い時間でもなかったと思いますが、その時間の長かったこと。本当に恐ろしかったです。突然家の中からドヤドヤと数人が飛び出してきました。みんなロシア兵で、その中の1人がいきなり私に拳銃を突きつけ、大きな声でわめいているのです。何を言っているのかわかりませんが、「しっかりしろ、しっかりしろ。」と震える足を一心にふんばって子供たちをかかえこみました。子供達はなにも言わず、私にしっかりとつかまって大人しくしていてくれたので、それが何よりの救いでした。
その時「お前はここの家の者か、主人はどこにいるか。」という言葉が聞えてきました。気がつくとソ連兵の1人が私の方を見て話しているのです。どこからか通訳を連れて来たらしい。とっさに「私はここの家の者だが、主人はどこへ行ったかわからない。」と、ただそれだけ答えて、心の中では「早くみんな出て行ってくれ。」と願うばかりでした。
玄関の鍵のノブも壊されてしまいました。兵隊達が立ち去った後の家の中は、どこから手をつけていヽのかわからない程メチャメチャになっていて、何を持っていかれたのか全くわかりません。すぐに片付ける気力もなく呆然と立ちつくしていました。
その時「これ、なぁに?あ!お菓子だ。」という子供も声が耳に入ってきました。見ると上の子が、網の袋に入ったビスケットのようなものを持っていたのです。私は夢中でその袋を取り上げ「これは駄目。きたないの!」と叫んでしまいました。「毒でも入っていたら。」と思ったのですね。たヾ兵隊達が忘れていったものでしょうが、人間はとっさの時には思わぬことを考えるものだと、後になって自分でもびっくりしました。
ソ連兵に荒らされた家の中を、ぼつぼつ片付けはじめ「あヽ、あれがない、これもない。」と次々に持っていかれた物がわかった時は、恐ろしくて、くやしくてたまりませんでした。でも、みんな何一つ怪我がなかったのが何よりと思いました。その夜は、ごちゃごちゃの荷物をそっと部屋の隅に押しやり、ふとんを敷くだけの場所を作り、みんなで雑魚寝しましたが、私はとろとろ眠ることもできず一晩明けてしまいました。

 【家を出る、さらに略奪】

 ここ哈尓浜は戦争の痛手は受けませんでしたが、敗戦と同時に「恐ろしさ」と「怖さ」がひしひしと身に迫ってきました。日本人の少ないこの場所では、自分1人で考え、行動しなければなりません。お向かいのAさんの家族の外は、家主はロシア人、近所の人々も満人とロシア人だけで、今まで言葉を交していた人達も、遠巻きに私達の様子を見ているのが何となくわかりました。
それから1週間位過ぎた頃(8月末頃)家主から家を明け渡すように言われました。全く思はぬことでした。家主の家のまわりにはソ連兵がウロウロしているのです。「兵隊が哈尓浜にどんどん入ってくるので、宿舎にするから。」とのことでした。何ということになったのだろう。急に移る所もなし、今更私共に家を貸してくれる人もなし、言う通りにしなければ、又何をされるかわからない。「お父さん、どこにいるの!どうしたらいいの。」と心のなかで叫びました。今までと様子の違う毎日の生活に、子供達も何かを感じているらしく、わがままも言はずおとなしく遊んでいます。その姿がまたいじらしく、私は「泣きべそをしていてはだめだ、頑張るんだ。」と思いました。
そして、主人が結婚前にお世話になっていたお家をおたずねして、奥さまに事情をお話してお願いしました。奥さまはびっくりして「そんな無情なことってありますか。私達もこの先どうなるかわかりませんが、とにかく一先ずここへ落ち着いて、これからの状勢を見ましょう。」とおっしゃり、私はその言葉が嬉しくて有難くて泣いてしまいました。
主人が勤めていた職場の方へ行き、相談したいとも思いましたが、私共の所から遠いうえに、もしもそこにどなたもいなかったらば、と心配してやめました。
ありがたいことに落ち着く所はありましたが、荷物をどうしたらいヽのかと思いましたが、何ともなりません。身のまわりのものだけであきらめねばなりませんでした。近所でリヤカーをお借りして、何とか積めるだけの物をまとめました。主人の物と子供達の物、そして私の物、それにこれから寒さに向かうので防寒用オーバーなど。炊事道具は最小限に、写真は1枚1枚アルバムから剥がして。貴重品もしっかりとまとめましたが預金通帳も債券(現金の代わりに職場から支給されたもの。)も、これっきり何の役にも立たないと思いました。手持ちの現金はしっかりと体に巻き付けました。終戦後すぐに職場の方から、いくらかまとまったお金が届きましたので助かりました。
子供達をふと見ましたらば、それぞれの手提げ袋に、毎日遊んだおもちゃを入れ、お人形をだっこして、私の顔を見上げてにっこり笑っています。「これからどんな生活が始まるかもわからずに……。」と私はこぼれそうな涙をおさえて笑いかえしました。もう子供達には涙を見せてはだめだと、一生懸命明るくふるまっていたのです。
Aさんご一家はどうなるのか、何か起きなければいヽのですが、さいわいご主人には「赤紙」が来てなかったので本当によかったです。「みんな頑張って、無事に日本へ帰れる日を待ちましょう。」とお別れしました。
ベランダの前までリヤカーを引っ張って来て、まとめたものを1つ1つ積み込みました。子供達のおもちゃもしっかりと縛って、どうにか荷まとめも終り、住みなれた家ともお別れです。家の中にはまだまだ荷物がいっぱい残っているのに、もうこれですべてさようならです。本当にやりきれない思いです。末娘をしっかりおんぶして、上の2人の子供はリヤカーにつかまり、「さあ、行きましょう、おばちゃんの所へ。」と門の方へ歩き出しました。
その時、急に門の外が騒がしくなりました。「何だろう?」と思うひまもない程のあっという間のことでした。今、私共が出て来た家の中へ突進してゆくのです。「ああ、略奪だ。暴民だ。」とすぐにわかりましたが、手向かうこともできず、彼等がなすまヽに呆然と見ているしかありません。タンス、テーブル、夜具類、次々と庭に並べられ、畳まで持ち出してきました。
そして次はリヤカーに積み込んだ物まで手をつけはじめたのです。私は夢中で「これはだめ!勘弁して!」と相手にとびつきました。とびついては突き放され、転ばされ、ただただ頭を下げて頼むだけ。背中の子供は泣き出す、上の子供達も泣き出す。「お母さん、こわいよう、こわいよう!」と泣き叫ぶ子供達を抱えたり、取られそうになる荷物を引っ張ったり、ただ夢中で自分でも何を叫んだのかわかりません。座りこんで頭を地につけんばかりに頼むだけ、私1人の力ではどうにもなりません。頭がガ―ンとなり、目の前が真っ暗になりました。
誰かの体がドーンとぶつかってきて、ハッとしましたらば、リヤカーの上から奪った荷物を満人たちが取り合っているのです。もう取り戻す気力もありません。でもその時私は「ああ、そのトランクは駄目だ。何としても取り戻さなければ!」と我にかえり、満人達の中に飛び込んでいきました。子供達の衣類や防寒具の入ったトランクです。「これは駄目だ、返してくれ。」と拝む頼むとトランクにしがみつきました。満人たちは私の剣幕に驚いたのか、返してくれました。
みんなが手に手に奪った荷物を持って行った後は、もう体はフラフラ足はガクガク、動くこともできない程に力が抜けてしまいました。リヤカーに残った物は、奪い返したトランクとバケツに入ったお鍋に食器、それに細々とした物が入っている箱が2つばかり、その箱の1つは裁縫道具と薬類が入っていました。その箱の隅の方にあった「耳かき」は今でも大切にしています。
背中の子供の泣き声にハッとして、子供達と住みなれた家を後にしたのは、もう夕暮れ近く、空がうす紅くなった頃でした。移り住んだ家の方達の温かいお情けに心も安らぎ、その夜はぐっすりと眠ることができました。

 【空家】

 それから3日ばかり経った頃、近くにしばらく誰も住んでいないまったくの空家があるということを聞きましたので、「天の助け」とばかり様子を見に行きました。2階建ての家でひっそりとしていました。何でもいヽ、こんな広い所が空いているなんてありがたいことと、早速移ることにしました。私共と同じような方が他にもいらして、年配のご夫婦がその家を見にきました。お互い心強くなって一緒に入ることにしました。そのご夫婦は2階に、私共は階下に、とてもやさしそうな方なので安心しました。
 移り住むといっても夜具とて1枚もないありさま、近くの店で古いものを買ったり、お世話になったお家からもいろいろ頂き、どうにか子供達と休める場所ができました。この上は1日も早く主人の消息がわかりますように、無事でいてくれますようにと願うばかりです。
 毎日毎日が恐ろしくて、ただ夢中で過ごしてきましたが、9月に入ってはや3,4日が過ぎているようでした。外はまだまだソ連兵や満人があちこちで暴れているようなので安心はできませんが、食糧の心配もしなければならず、こわごわ近くの店まで出かけて行きました。その時に大勢の日本の兵隊さんがソ連兵に付き添われて、たヾ黙々と下を向いて重い足取りで通り過ぎてゆくのを見ました。どこへ連れてゆかれるのか、ここでも「敗戦」のみじめさをまざまざと見ました。
 この持ち主のわからない家に移り住んではみたものヽ、またいつ恐ろしいことが起きはしないかと気持は休まりません。そんなある日、やはりソ連兵が3人ヌーっと家の中の入って来てウロウロしているのです。私は「大変だ!」と思いながらも身動きできないほどに体が硬く立ちすくんでしまい、たヾ足だけがガクガクするばかり。するとどうでしょう。その兵隊達は何も言はず子供達を見てニッコリしているのです。私は急に力が抜けてその場に座りこんでしまい、末の子を抱きかかえ、兵隊達の様子を見ていました。すると何をするでもなく、その中の1人がちょっと片手を上げて私共の方を見ながら外へ出てゆきました。何もないガランとした家の中に女と子供だけでさすがにあわれに思ったのか、それとも兵隊さんにも可愛い子供がいたのか、人間としての情があったのか、静かに出て行った兵隊達に手を合わせたい思いでした。
 これからもどうぞ何事も起こらないようにと願うばかりでした。けれどもその願いはまた裏切られました。2日後にまたソ連兵が3人やってきました。1人はいきなり私に拳銃を突きつけ、他の兵隊が部屋の中をウロウロしていましたが、何もないので諦めて、腹いせに私の頭を拳銃で殴り、捨て台詞を残して出て行きました。子供達は幸い裏の庭の方にいたので、怖い思いをさせずよかったです。兵隊が出て行ったあと、私は殴られた頭をおさえながら子供達のところへとんで行きました。家の中にいるのが怖くて怖くて、でも外も決して安心はできませんが……。
 それから2日位過ぎた頃、お2階の方が荷物をかかえて私のところへ来て「どこかへ行く。」とおっしゃいました。「どちらか行く所があるのですか?」とたずねましたら、「どうなるかわからないけれど、行ってみます。」とのこと。私とてどうにもなりませんので、お止めすることもできずお別れしました。

 【子供のこと。主人のこと】

 毎日毎日を「今日は無事に過ごせますように。」と朝に夕べに祈るばかりです。ただただ子供達が元気でいてくれることが、私にはどれだけ心のはげみになったことでしょうか。末娘はまだ何もわからないでしょうが、上の2人の娘は、この「敗戦」の恐ろしさをどれだけわかっているだろうか?心も体もすっかり
痛めつけられ、いじけた子供にならなければと、その事がとても心配でした。
 終戦後1ヶ月位過ぎた頃(9月中旬)かと思いますが、「日本人の生命、財産に危害を加えた者は罰を加える。」という命令がソ連軍の方へ出たと聞きました。「戦争は戦争、法は法」なのでしょうか。そのことを聞いてから気持は大分楽になりましたが、その頃は私共は何とか怪我もなく、体だけは無事でしたが、何もかもすべて失った後でした。泣くに泣けない思いでした。
 思えば、私がこの北満の都哈尓浜へ第一歩を踏み入れたのは、1939年8月15日、そしてちょうど6年後の8月15日に終戦となりました。なんという巡り合わせなのでしょう。主人は私より2年半ほど以前に渡満しており、哈尓浜日本中学校の教員をしておりました。縁あって1939年7月に東京で結婚式を済ませ、主人に連れられて哈尓浜に参りました。遠い北満での生活はいろいろ不安もありましたが、まだ見ぬ土地への憧れや希望など胸ふくらませて来たのです。そしてしっかりと家庭を守り、これから巣立ってゆく若者達の教育のために主人が思い切り活躍できますようにと、けなげな心もいだいていたのです。誰がこの様な恐ろしいことになるなど思っていたでしょう。
北満の冬は早いです。いつしか9月も終りの頃、またこわごわと街の様子を気にしながら食糧の買出しに出ましたらば、もう初冬の感じです。「ああ、着る物も何とかしなくては。」といささかあわてました。あんなに騒がしかった街の中も不気味なほど落ち着いてきましたが、でもまだあちこちにいかめしい兵隊がいました。
終戦から1ヶ月半過ぎて10月に入ってもまだ主人の消息は何もわからず、私の心はやたらと焦りが出るばかりです。主人はどこでどうしているのだろうか?何もわからないだけに不安と怖さばかりがつのります。手持ちのお金もだんだん心細くなり、寒さに向かい暖房費など到底ありませんし、いろいろ思いますと、また別の恐ろしさがひしひしとせまってきます。近くに「難民収容所」があると聞きましたので、そこのお世話になって1日も早く南の方へ行けたらと思いましたが、この哈尓浜を離れてしまうと主人との連絡がつかなくなると思い、それもできません。
子供達は少しばかりのおもちゃを並べ、おとなしく遊んでいますが、何だか元気がないように見えてきました。食事も思うようには食べられず、外であばれることもできず不憫でなりませんが、何としても頑張らねば、元気を出さねばと自分で自分を励ますだけです。

 【主人、帰る】

 忘れもしません。10月17日、時間ははっきり覚えていないのですが、次女が私の所へとんできて、じっと窓の方を見ています。外に誰かいるらしい。また恐ろしいことでもと恐々窓の外を見ましたらば、外に主人の顔が見えました。すぐには信じられません。自分の目を疑いました。まぎれもない主人です。私は夢中でドア―の鍵を開けました。
 主人が何を言ったのか、子供達と私が何を叫んだのか覚えていません。お互いに何の言葉もなかったのではないでしょうか。子供と一緒に主人にとびつき「お父さん、お父さん!」と叫ぶだけ。ただ涙、涙でした。終戦から2ヶ月、主人が長期出張に出てから5ヶ月と10日、ようやく親子無事に会うことができました。この5ヶ月の長かったこと。みんなよく頑張りました。本当によく頑張りました。その夜も何のご馳走もないわびしい食卓でしたが、みんな無事を喜び楽しい食事ができました。子供達は久しぶりにお父さんの膝の上ではしゃいでいます。

 【主人の2ヶ月】

 主人は終戦の報を8月20日釜山で知ったそうです。そこで部隊は解除となり、私共のいる哈尓浜まで2ヶ月の長い苦難の旅となりました。よくぞ無事に来られたものと幸運を喜び合いました。
 部隊解除の後、同じ職場のT先生と何度か生命の危険に遭いながら、ひたすら哈尓浜を目指して来たのです。釜山から哈尓浜までの命がけの逃避行、あまりにも遠い道のりです。
 途中の安東では、幸い学校の出先機関があって、そこで一晩泊めていただき、食糧とお金を心配して頂いき、大助かりしたとのことです。25日に安東を出て、翌日新京に着いたけれど、新京からの列車がなくて、そのチャンスをつかむのに1ヶ月余りもかかったとのこと。その間は、T先生が以前新京にいらした時のお知り合いの方の家にお世話になり、いろいろな仕事をしながら何とか食べるだけのことはできたそうです。
何日も何日も焦る気持をおさえて、やっとそのチャンスがきて、T先生とそして偶然巡り合った2人の哈尓浜中学校の卒業生と一緒に、哈尓浜方面に行く列車にもぐりこみ、何度か危ない目に遭いながら、哈尓浜の1つ手前の「五家・ウージャ」という駅まで辿り着いたそうです。しかし前の列車が動かないので、やむなくそこで列車を降りて、哈尓浜まで皆さんと一緒に歩いたそうです。学校のある「沙曼屯・シャマントン」まで来た時は本当に本当に嬉しかったそうです。T先生は学校の近くに住んでいらしたので、そこで私共のことを知らされ、とんで来てくれたのです。

 【哈尓浜から新京へ】

 家族みんな無事に会えてホッとしましたが、寒さに向かいこの状態では冬越しができるかどうか、それがまた心配です。世の情勢がどうなのか私にはよくわかりませんが主人に従い、新京まで南下することにしました。主人には何か考えがあるようでした。この混乱の世の中で知らない土地でどんな生活ができるかわかりませんが、冬越しするには少しでも有利な土地へ行かねば、生命の危険もわかりませんでしょう。
 新京まで行くことにしましたが、果たして汽車が動いているかどうかわかりませんので、主人は毎日駅まで行って、様子を見たり情報を聞いたり。そしてようやく10月25日に新京行きの汽車が出ることがわかりました。荷まとめと言ってもわずかな荷物しかありません。お世話になった皆さんにお別れしましたが、無事に内地に帰れるかどうか、またいつお会いできますことか、淋しい思いです。
 上2人の子供はお父さんにしっかりとつかまり、末娘は私におんぶされ、やっと哈尓浜の駅まで辿りつきましたらば、方々から集まった難民の人達で駅はごったがえし、とてもとても大変な騒ぎです。長いこと待たされやっと列車に(とは言っても貨物車でしたが。)、どうにか乗り込んだ時はホッとしました。でも無事に目的地まで行けるかどうかまた心配でした。
 まわりの人達と言葉を交はす元気もありません。みんな無言です。主人と私は子供をかこむように座り込み、隣の方と目と目で挨拶するだけでした。少しばかりの食糧と水を持って、翌日列車が新京の駅に着いた時はホッとしました。
 ある知人の方のお世話で、さいわいにも1部屋お借りすることができました。そこは商売をしていたらしく、広い土間がありました。隅の方を形ばかりの台所にして、他は子供たちの遊び場くらいになりました。哈尓浜に比べて大分気温が高いのでホッとしました。
主人もやはりその方のお世話で何やら忙しくあれこれとかけまわっていましたが、近くの工場で「電気ごたつ」を作る仕事の手伝いを始めました。寒さに向かいますので何とか成功してほしいと願っていましたらば、さいわい仕事も順調に進み、本当によかったです。私共も1台いただきとても大助かり。たヾ1つの暖房でみんな大喜び、夜はこたつを囲み車座になって休みました。
その工場の責任者は中国人の方ですが、よく理解してくださって、主人もありがたい気持で一生懸命にお手伝いしました。私も何かと考えていましたらば、中国兵の洗濯物の仕事があると聞き、早速始めわずかながらのお金を手にしました。みんなして囲む食卓は毎日コウリャンのごはんに粗末なお惣菜でしたが、それでも親子そろっての食事は話もはずみ、にぎやかに、主人も私もつとめて明るくふるまっているのが何となくお互いにわかる思いでした。日本へ帰れる日はまったくわかりません。半年先か1年先か、何としてもみんな無事に帰れる日が早くきますようにと願いながら頑張りました。
新京の生活も落ち着く間もないまヽ1946年を迎え2月も過ぎようとしていましたが、まだ何となく危険な様子も感じられ、子供を外であばれさせることもできません。私は子供の「運動不足」やら「栄養不足」などが急に心配になってきました。特に末娘は満1歳になったばかりで終戦となり、その後は思うような食事もとれず、1年半過ぎてもまだ歩くこともできません。やはり栄養不足なのだと思いましたが、品不足で物価は高くなるばかりで何ともなりません。春になれば何とかなるのではと思い、とてもとても春が待たれました。

 【内乱】

 そんなある日、新京の街の中が急にざわめき出し、あちこちから銃声が聞えてきました。「内乱が起きた。」とのことです。何と恐ろしいことになったと、万一に備えて、畳をはがし窓に立て掛けて外からの危険を防ぎました。こんな内乱騒ぎの流れ弾にやられてはたまりません。詳しいことはよくわかりませんが、「国府軍」と、一方は「中京軍」との市街戦が始まったとか。以前から権力争いの小競り合いはあったのですが、でもその騒ぎも3日位でおさまり、ホッとしました。突然「中京軍」が立ち去ったので、「国府軍」が新京の街を支配するようになったそうです。一時はどうなることかと身のちぢむ思いでした。

 【歌声】

 いつとはなしに気持もやわらぎ、ホッとした頃、実にびっくりしたことが起きました。どこからか歌声が聞こえてきたのです。何ヶ月と忘れていた歌声です。本当に長い間忘れていた歌声です。大好きな音楽も耳にしたこともなく、歌1つ口ずさんだこともない、荒れ果てた心にそれはそれは心地よくひヾいてきました。何の歌だろうとじっと聞いていましたらば、それは何と日本の歌なのです。

   花摘む野辺に日は落ちて
   みんなで肩をくみながら
   歌を歌った帰り道
   幼なじみのあの友この友
   あヽ誰か故郷を想はざる

 この敗戦の後、まして混乱の世の中で、なつかしい日本の歌が聞けるとは、何とも言いようのない嬉しさ、なつかしさでした。どこか近くのお店でレコードを流しているのでしょうか。私は歌いました。流れてくる歌に合わせて歌いました。泣きながら歌いました。あヽ早く日本へ帰りたい。早く帰りたい。引揚げの日を心静かに待っていようと主人と話し合っていた私ですが、すっかり気分が昂ぶってしまい泣けて泣けて仕方がありません。いつの間にか歌が聞こえなくなりました。でも私は1人で繰り返し繰り返し歌いました。
 翌日「また歌がきこえてくるかしら。」と朝から一心に待っていました。あヽ期待通り同じ歌が聞こえてきました。でも私はもう泣きません。心静かに歌うことができました。むしろ荒れはてた心に明るい光をもたらしてくれたのです。この歌は私にとって忘れることのできない、大好きな歌の1つとして折にふれよく歌っています。またテレビやラジオなどで時折聞くことがありますが、大勢の人達が他国で涙して歌ったことヽ思います。
 歌、歌、歌、そうだ私には大好きな歌があったのだ。「歌を忘れたカナリヤは……」本当にそうでした。童謡、唱歌と子供達と一緒に次々と歌いました。思い切り歌いました。(そして、引揚げ船の甲板で灰色の海と空しか見えない夕暮れに、ふと口をついて出た歌「雨降りお月さん雲のかげ……」も、私の大好きな歌の1つです。生涯忘れることなく歌ってゆくでしょう。)

 【お菓子屋】

 長い長い冬ごもりにもようやく春のきざしが感じられる頃になり、一同無事に冬越しができたと思った時は本当に嬉しかったです。そして子供達がひとまわり大きく成長したことに気づき胸がつまりました。暖かになれば引揚げも開始されるのではと希望を持って、更に体に十分気をつけなければと、ただただ体力が心配でした。相変わらず世の情勢は変わりませんが、もう身の危険はなくなったように感じられます。長い間閉じ込められた生活でしたので、これからは少しづつ外の空気に触れ、明るい太陽の光をあびようと、つとめて外へ出るようにしました。
 春といっても、まだ風は冷たいのですが気分的にはホッとしました。街へ出て、ふと気づいたのですが、街の通りのあちこちで小さな台の上にいろいろなお菓子を並べて商売している人達を見かけました。それもほとんどが日本人なのです。お客は中京の兵隊さんや通りすがりの中国人が多いようです。しばらく様子を見ていましたらば、案外お客もあり、皆さん明るい顔をして商売しているのです。
 新京の街へ入ってきた兵隊達もだんだん移動してしまい、「洗濯物」の仕事もなくなりましたので、何か他に収入の道をと考えていたのです。外の空気を吸いながら子供達と半日位ならばできるかもしれないと思ったのです。お店を出している方に仕入れのことを聞いてみましたらば、案外簡単に商品を手に入ることを知り、早速始めました。
 末の子をおんぶして、上2人の子供と一緒に小さな小さなお菓子屋さんを始めました。何せ小さな子供を連れての物売りなのでなかなか大変でしたが、子供達にも手伝ってもらい「ありがとう。」「シェシェ」と1週間位は順調に商売をしました。しかしまだまだ小さな子供達です。お菓子を目の前にながめながら、充分に食べることもできず、ほんの少しおやつに食べるだけでは可哀想になってきて、仕入れの元金だけ残ればと食べさせてやりました。
 慣れない仕事で私はすっかり疲れてしまい、それに子供達も自由にはねまわれない毎日で、元気がなくなったようなので辞めてしまいました。主人の方は「電気ごたつ」のあとは「電球」を作る仕事に代わり、売れ行きもよく皆さん喜んでおりました。

 【引揚げ準備】

 そして5月の始め頃、どこからか「いよいよ引揚げの話が出ている。」との情報が流れてきました。本当なのか、どうなのか、主人はあれこれと噂の出場所をさぐっていたようでしたが、「引揚げの話は本当らしい。」ということがわかりました。でもすぐに帰れるとは考えられないので、これからも体に十分気をつけて皆さん方と無事に帰れる日を待つことにしました。
 いつしか暑い夏を迎えた6月に入ってから、「引揚げ」が実施されていることを知り、みんな大喜びしました。私共もいよいよ「引揚げ」という確かな情報を知ったのは7月に入ってからです。そしてある日のこと、町内の方から「引揚げについての話し合いがある。」との知らせがありました。「あヽ待ちに待ったその日が来た。」と嬉しくて涙がこぼれました。主人は明るい顔をして会合に出かけて行きましたが、どういう話なのか帰ってくるのが待たれました。主人が帰り、早速細々と話を聞きましたが、まだはっきりと「引揚げ」の日はわからないそうですが、それまでの準備がいろいろと大変のようです。
 「引揚げ準備委員会」という会を結成し、その委員長に主人が、他に若手の男子が5,6名選ばれ、早速準備にかかるとのこと。まず書類の作成です。「引揚げ者家族名簿」「地区別と男女別名簿」それに「中京側に提出する書類」など……「手落ちのないようにやらねば。」と委員の方達と申しておりました。
 すべての書類が揃い、市公署に提出したのが8月はじめ、そして8月25日新京出発の知らせを受けた時は、本当に嬉しかったです。
 私共の所属する団名は「第50団100大隊」と決まりました。総勢1,500人位と聞いていました。その中には若い元気な男性はほんの少しで、あとは年寄りと女性と子供ばかりで、お世話をして下さる男子の方はそれはそれは大変なことだったと思いました。

 【引揚げ出発】

 8月25日、いよいよ引揚げ出発です。この日をどんなに待ったことでしょう。家族揃って無事に帰れる日がやっときました。そして方々から集まってきた皆さんと一緒に列車に乗り込みました。列車は屋根のない貨物車でしたが、お世話役の方達が前以ってちゃんとテントを張って、夏の日光に当たらないようにと細かい心配りをしていてくださいました。一同そのありがたい気持と嬉しさで、心も晴れ晴れと新京を後にしました。
 私共は昨年末に新京まで南下し、新京の生活が10ヶ月、主人に「赤紙」が来てから1年4ヶ月、1日とて心の休まる日はありませんでした。ようやく心も落ち着き、子供達をかかえこみながら列車の走る音を心静かに聞いていました。そして3日後、28日に無事「葫蘆(コロ)島」に着き、ここで乗船準備まで3日間、31日にようやく米国の貨物船で「葫蘆(コロ)島」を出航しました。船が港を離れた時はあちこちから歓声があがり、みんなみんな手を取り合って喜びました。船の旅が3日間、海も荒れずにおだやかな日が続きましたので、本当によかったです。

 【祖国へ】

 9月3日夕方、無事に博多港に着きました。そこで全員の検疫が済むまで6日間船を降りることができませんでした。夜になり、街の灯りを見ながら、やっと日本に帰れたのだという嬉しさと安心感に悪夢から覚めたような思いでした。子供達は初めて見る日本の国です。どんな思いだったか、まだ小さかったので何もわからなかったでしょう。
 9月9日朝、待ちに待った上陸です。船を下りて一歩一歩日本の地を踏みしめた時の感激は今でもはっきりと頭に焼きついています。夜は「引揚げ者宿泊所」に泊まり、衣類などの支給を受け、とても助かりました。翌日の10日朝、一同晴れ晴れとした気持で「解団式」を済ませ、それぞれの郷里に向かって元気に出発しました。
 私共も心はずみ、東京行きの列車に乗り東海道をまっしぐら、東京駅から上野駅へ、そして東北線で小山へ、小山から両毛線で足利へ、一先ず足利の私の実家の方に帰り着きました。博多に無事帰国し、「12日午後足利着」の電報を打っておきましたので、駅まで両親と妹達が出迎えに来ていてくれました。嬉しかったです。何の言葉もありません。お互いに涙だけでした。
 私がこの足利駅から哈尓浜へ旅だってから7年2ヶ月、このような姿で故郷の地を踏もうとは思ってもいませんでした。でも親子がみんな無事に帰国できて、両親や妹達に再会できてうれし涙のうちに私共のつらい旅は終りました。はからずもその日は1946年9月12日、主人の36歳の誕生日でした。



【付記】

消息のわからぬままにため息を幾夜かさねしか母は老いたり
一家無事博多へ着くとふ電報に勇みたちけり上へ下へと

わたくしの母方の祖母は、満州にいる娘たち一家を思い、このような短歌を残しています。

私の終戦日記  Teruo H(1910~1997・福島県生まれ)

2012年01月26日 11時38分09秒 | Antiwar poem


わたくしの父の日記です。かつての東京物理学校(現・東京理科大学)卒業後に北満へ渡り、哈尓浜日本中学校の教師となりました。1939年に内地から母を迎え、哈尓浜市で所帯を持ち、3人の娘に恵まれました。その末娘がわたくしです。この日記は、哈尓浜日本中学校の教え子であり、同校の同窓会報の編集を長く担当されていらしたH氏の要請により、1992年に書かれたものです。
 「(徳)部隊」とは「関東軍731部隊」のことです。父の日記では、この部隊に召集で入隊したことになっていますが、召集以前、まだ教師として在職中にも、「長期出張」という名目で、父はこの部隊に呼ばれて、研究に参加しています。それを何故書かなかったのかは、わたくしにはわかりません。またこの部隊解散の折には、隊にいた者全員には「青酸カリ」が渡され、部隊の機密の公開を余儀なくされた時には、それで「死ね。」ということでした。この「青酸カリ」はかつての「帝銀事件」に使われたものと同じものでした。以下、父の日記です。


 
【奇妙な「(徳)部隊」】

 私が終戦を知ったのは1945年8月20日の朝、朝鮮の釜山埠頭であった。当時なぜ釜山にいたのか、それを知ってもらうために私の過去を語らねばならない。
 1945年5月、私は召集で孫呉の111部隊に入隊したが、初年兵教育もそこそこに「(徳)部隊」(仮称)に転属を命じられた。ところが、不思議なことに部隊内の誰もが「(徳)部隊」の所在を知らず途方にくれた。やむをえず新京の軍事司令部にいってきいてみようということになり孫呉駅から列車の人となった。しばらくすると、突然私の名を呼ぶ人がいるので、ひょっと顔を上げると、なんとそれは哈尓浜日本中学校のT先生(国漢担当)だった。彼も私と同じ二等兵で、しかも行き先も同じだったので一緒に新京へいった。さっそく司令部を訪ね「(徳)部隊」の所在をたしかめたら「それは哈尓浜だ。」といわれ、またぞろ逆もどりしてやっと「(徳)部隊」にたどりついた。
 この部隊は最初から非戦闘部隊として組織されたもので、将校は学者、その他は軍属という一風変った編成であった。彼らは同一兵営内に家族とともに住み、どうみても軍隊らしくない軍隊であった。
 そこへわれわれ25人の兵隊が転属していった。われわれ転属兵は、シャバに家族を残して入隊したもので、ほとんどが技術者、技能者又は理科系大学の出身者だった。数日後、各人はそれぞれ専門の部署に配属されたが、私は確率統計(推計学)の研究部門にまわされ、ここで与えられた課題の研究に専念した。

 1945年8月13日、部隊は突如朝鮮へ移動することになった。理由は新しくできた研究庁舎で特殊な仕事をするためということだった。さっそく取るものも取りあえず引込線に用意された貨車に乗りこんだ。ところが、いるはずの隊員やその家族は一人もおらず、結局はわれわれ転属兵の「専用列車」と相成った。「おかしいナー」と思う間もなく列車は朝鮮に向かって哈尓浜を離れた。道中、食料も水も金もないので列車が停車するたびにその調達に忙しかった。普通なら一昼夜で行くところを5日もかかってやっと釜山に着いた。途中でわかったことだが、部隊は秘密保持のため研究員とその家族に資料、器材、器具を持たせて帰国させようとしたようである。

 【妻子を求めて逆戻り―まずは新京まで】

 私達25人中18人は家族が内地にいたので、迎えにきた「特別船」でサッサと帰国していった。「渡りに舟」とはこのことで、世の中にはこんな幸運な人もいる。しかし残りの7人は家族が満州にいたので、いまきた道を戻らなければならなかった。8月22日私とT先生は、わずかな食料を手に、家族の安否を気づかいながら、ひとまず釜山から安東に向かって旅立った。
 安東へ着いたのが2日後の8月24日。満州では鉄道が円滑に動いていないので、これから先はまったく五里霧中。食料も金も寝る所もない。そこで安東高女を訪ねて相談した。親切な女の先生のお蔭で寄宿舎で食事をし、在満教務部安東支部で700円の手当をもらい、さらに国民学校の教頭先生のお宅で列車の出るまでご厄介になることにした。
 だが、ありがたいことにその翌日、新京行きの列車に恵まれ、安東駅から満人にまじって乗りこんだ。そのあとは急に疲れが出て眠気に襲われ夢うつつのうちに新京に着いた。(8月26日)
 新京以遠は、ソ連軍が列車の運行を支配していたので、新京に留まって様子をみることにした。それにはまず寝場所と食料をどうするかだ。だが幸いにもT先生は哈尓浜日本中学校にくる前、新京の国民学校に在職しておられたので、その教え子の父親の家に転がりこみ、哈尓浜行きの軍用列車を待つことにした。機会をつかむのに1ヶ月半かかったが、その間中京軍の使役や土工をやりながら糊口をしのいだ。
 哈尓浜行きの軍用列車を待つこと1ヶ月余、さすがの私も家族のことが気になり、次第に焦燥の色濃くしていった。出征のとき校長や諸先生が「家族のことは心配するな。学校の方で面倒みるから」といわれたものの、実際はどうなっているか、この目で確かめねば不安は去らない。これが「人間」というものだ。

 【ソ連軍用列車に密乗計画】

 当時のソ連軍は旧満州鉄道の貨車を総動員して在満の物資や資材を根こそぎシベリヤへ持ち去っていた。そんな貨物列車を毎日見ていると「あの貨車にもぐりこもうか」という気持になる。だが人間の乗る余地もないし、第一ソ連軍の警戒が厳しくて近寄ることさえできない。しかし家族のことを思うと、そんなこともいっておれず、思いきって新京駅機関区の日本人機関士に相談してみた。すると「わかりました。チャンスがあれば連絡しましょう。」といってくれた。だが待てど暮らせど連絡はなかった。
 そんなある日、市内で哈尓浜日本中学校卒業生のK君(当時旅順師範生)ともう1人の卒業生(名前忘却)に会った。彼らもまた哈尓浜の両親のもとへ帰る途中で、私と同様に哈尓浜行きの軍用列車を待っていた。そこで4人は行動を共にすることにし、連絡場所を決めて別れた。

 【新京から徳恵へ】

 それから1週間後新京機関区から、10月14日夜7時にくるようにという連絡があった。4人はそろって機関区に行き、日本人機関士の誘導で機関車後部の石炭車にもぐりこんだ。これで途中何事もなければいいなアと祈りながら汽車の揺れに身をまかせた。
 それから何時間たっただろうか。汽車が止まった。外は暗くてなにも見えないが、なにやらあたりが騒々しくなった。この貨物列車には私達のほかに、大勢の満人たちも乗っていたので、それを狙ってソ連兵が「臨検」をかけたようである。やたらと自動小銃をふりまわすので満人たちはおそれおののいて逃げまわった。私も危険を感じたので石炭車から飛び下り、線路際の土手に身を伏せた。しばらくしてそォーと顔を上げると、まわりには誰もおらず私1人だった。「しまった!」と思う間もなく汽車が動きだしたので、あわててとび乗ろうと思ったが、警戒がきびしく乗車できなかった。やむなく駅の方へ歩いていくと、薄暗い電灯の下に「徳恵」という駅名がみえた。
 夜が明けて10月15日の朝、あちこちから満人たちが駅の待合室に集まり20人くらいになった。彼らも私と同じく自動小銃でおどされた連中らしく、次の列車を待っていた。誰とはなしにみんなが駅長に「通過する次の列車を徐行させてくれ。」と頼んだら、駅長はこれを了解してくれた。そこでみんな三々五々に散らばり列車の通過を待った。この計画は図に当たり私は見事無蓋車に飛び乗った。貨車を吹き抜ける初冬の風は身にしみて冷たかったが、安心したせいか、いつしか眠りこんでしまった。

 【徳恵―陶頼昭―拉林河―五家―哈尓浜】

 急停車する列車の音に目をさますと、そこは「陶頼昭」という駅だった。ここでまた自動小銃でおどかされるのかとビクビクしていたら、こんどは雑役風の露スケが回ってきた。彼は私に近寄り「乗せてやるから金を出せ。出さなければ降りろ。」という仕草をした。私はあきらめて満人の方に目をやると、その満人が指2本をだすので、すかさず10円札2枚を満人に渡した。その満人は他の者から集めた金と一緒にして露スケに献上した。露スケはニッコリ笑って立ち去った。(やれやれ、これで第二関門通過だ。それにしても20円の通関料は安い。)と思った。列車はその夜「陶頼昭」を後にした。
 翌朝10月16日、太陽の光で目を覚ますと、朋友たち(いつの間にか朋友になった。)は饅頭(マントウ)を食べていた。私が目をあけたらマントウを1つくれた。「謝々」といって口にいれたら、おなかがすいていたので本当においしかった。人の情けというものは民族が違っていても変わるものではないナーとつくづく感じた。
 太陽が中天にきたころ、また列車が止まった。あたりの様子をそォーと見ると、警備が厳しく数人の部下を連れたソ連の将校が次々と車内をあらためている。今までとちがって今日は逃げられそうにない。もうこうなったら開き直って成行きに任せるしかない。いよいよ私達のところへやってきた。一応見まわして、他の満人にはなにもいわないのに私にだけ「降りろ。」という。逆らうとうるさいので素直に降りたら次のように尋問された。「お前は軍人か?」(サルダートという発音からこう判断した。)私は「ニエト」と答えた。するとまた「クトウ」ときたから「ウツエテリテーチャー」と答えたら、態度が一変し「ついてこい。」といわれ、駅の方へつれていかれた。そこは「拉林河(ラーリンホ)」という駅だった。
 そこで一昨日「徳恵」で離ればなれになったT先生とK君らが私を待っていた。予期していなかっただけに驚いた。T先生たちはどういういきさつで露スケの警備兵と仲良くなったか知らないが、パンや缶詰などをもらって上機嫌だった。私が尋問を受け、ここへつれてこられたのも、実をいうとT先生が警備兵に「後から仲間の先生がくるからよろしく。」と手回ししていたからだそうだ。人生なにが幸いするかわからない。お陰で4人揃って哈尓浜行きの貨車に乗ることができた。
 翌朝未明(10月17日)「五家(ウージャ)」に着いたが、先着の列車が停まっていて動けない。それならというわけで線路づたいに歩くことにした。もう哈尓浜は目のまえだ。なつかしい紗曼屯の横を通り、哈尓浜日本中学校近くにあるT先生の家に着いたのは、10月17日の朝であった。思えば8月13日「(徳)部隊」の貨車で哈尓浜から釜山へ。釜山からまた哈尓浜へと丸々2ヶ月。一生で一番長い旅をした。

 【哈尓浜の家族との再会】

 T先生のところで少し休ませてもらい、その間、公舎内の先生方に私の家族のことをきいてみた。すると、もと住んでいた家はソ連兵に接収され、今は馬家溝公園近くの元N校長宅の一室にいるらしいということだった。
 さっそくかけつけて玄関をノックしたが応答がない。やむをえず、外側から窓越しに室内をうかがっていたら、子供の方でも内側から室外をうかがっていた。しばらくにらみっこをしていたら、子供が父親であることに気づいたらしく母親を呼びにいった。そこではじめてドアが開かれ「親子の対面」と相成った。対面したときはたしかにホッとしたが、あまりにも変わり果てていたので言葉もなかった。家内は接収のとき、身回り品を持って門を出たとたんに、満人の略奪に遭い、着のみ着のままで途方にくれ、仕方なく教頭宅に助けを求めたが、あまりいい顔をされず、翌々日道一つ隔てた別の公舎の一室に入れてもらったそうだ。ふとん、鍋、食器は知人のK氏から借用したが、炊くに米なく、買うに金なくまったく困り果てていた。
 向こう隣が教頭宅なので、挨拶だけはしておこうと思いドアをノックした。中から様子をみていたが、私であることがわかったので招じ入れた。教頭は私に「男狩り」のもようを語った。その話を聞きながら、見るともなしに家の中を見ていたら大量の食料が買いこまれてあった。米だけでもカマスにして数俵は下るまい。篭城を見越しての買い溜めであろう。あまり長居されては困るような素振りだったので半時間ほどで失礼した。
 翌日M校長がこられ、三ヶ月分の給料として700円おいて帰られた。そのとき校長はわが一家の変ぼうぶりに大変おどろかれた様子であった。

 【哈尓浜から新京へ】

 家族と再会できたものの、あすから生活のために働き口を探さなければならない。終日足を棒にして歩きまわったが、敗戦国民など雇ってくれる所はどこにもなかった。このままでは一家は餓死か凍死かである。
 そんなとき、ひょっと新京の「土方仲間」のことを思い出した。彼らは別れるとき「哈尓浜で食いつめたら、いつでも新京に帰ってこいよ。」といった。このことをT先生に話したら、急転直下「新京へ戻ろう。」ということになった。哈尓浜へきてわずか1週間のことである。
 当時ソ連は機械や器材を南満から貨車で運び、一旦哈尓浜で積み換え、それから本国へ輸送していた。だから南満からきた貨車は哈尓浜で空車になる。それをそのまま返すのはもったいないというわけで、哈尓浜在住の日本人難民を有料で運んでいると聞いたので、早速手続きをとり、借りたふとん、食器などを返却し、お世話になったKさんにお礼を述べ、10月25日昼、T先生一家とともに、わずかな食料と水を持って貨車に乗り込んだ。車内は日本人難民でいっぱいだったが、同じ日本人同士なので気兼ねなく、翌日26日に新京に着いた。
 休む間もなく、まっすぐに以前お世話になったK氏を訪ね、働き口の斡旋を依頼した。するとK氏は「私はいま、ある事業を始めたいと思っている。その時にはぜひ手伝ってもらいたいので、それまでここに居てはどうか。」といってくれたが、なんとか他人に気兼ねせず親子一緒に暮らしたかったので貸室を物色した。ところがなんとすぐ隣の老夫婦の離れが空いているとのこと、さっそくお借りした。4畳半のせまい部屋だが、土間があり、そこに七輪をおいて炊事をすれば余熱が室内に入り、結構暖かかった。夜具もある人から分けてもらい、久しぶりに一家揃って安心した夜を過ごすことができた。

 【新京での仕事】

 K氏は終戦前、洋服の縫製と販売を手広くやっていたので、市内の各所にたくさんの工場と売店を持っていた。ところがそれがほとんど空き家になっている。家内工業的な仕事をやるにはもってこいの場所である。これから冬場に向かって日本人が一番必要なものは暖房器具である。それに目をつけたK氏は、この空き家を利用して「電気コタツ」の製造を思い立った。
 「電気コタツ」の構造は普通の「コタツヤグラ」の下に無線機用の抵抗器(棒状)をつけただけの極めて簡単なもので、「ヤグラ」は満人木工所で作らせ、抵抗器は元満電技師が国府軍から内密に入手して組み立てた。しかし、せいぜい1,000個も作れば、大体日本人家庭に行き渡るので11月下旬の製造を打ち切った。「電気コタツ」の製造が終ると、また失業の身となる。

 【大中電気公司の設立―1946年3月】

戦前、スンガリーの太陽島に大きな精糖工場があり、その社長に王雲閣という方がいた。中京軍に追われ一族とともに、金品財宝をかついで新京に来ていた。彼は九州帝大応用科学科の出身で、日本語の達者な科学者であった。その王先生は豊富な資金を利用して事業を始めようと、その場所を探していた。ちょうどK氏の空家があったので、そこを借りて電球の製造をすることになった。私もK氏の推薦で、この仕事に参画することになり職にありつけた。
会社の設立には、技術者、機械の設備、材料の入手が必要である。技術者は、当時「東芝」の重役で満電に出張中に終戦に遭った工学博士T先生と、満電の技術者O氏の2人が、その養成に当たることになった。養成には日本人も満人も区別はなかった。機械の設備には3ヶ月かかった。材料の入手は、元満電の技師たちが国府軍から内密に仕入れた。
 これで一応準備が整ったので、1946年3月中旬から1ヶ月間電球の試作を始めテストを重ねた。どうやらテストも良好だったので「大中電気公司」と定め、5月初旬いよいよ発売に踏み切った。物資がなかった時代だから予想通りよく売れた。売上げが伸びれば給料も上がり、高粱メシからたまには米のメシも食卓に上がるようになった。ただしあくまでも子供優先で親の口には入らなかった。

 共に新京に来たT先生一家は、しばらくK氏宅に逗留しておられたが、新京では顔が広かったので、知人を頼って出ていかれた。それ以後T先生にはお会いしていない。

 【その頃の新京の情勢】

 新京は首都であり軍都であったから、国府も中京もここをねらっていた。戦後いち早く入ってきたのが国府軍で、直ちに市内を制圧したが郊外の方はまだ中京下にあった。その中京軍が次第に増強され、時々市内に侵入してきたので、ついに市街戦となった。流れ弾が民家に飛びこむこともあり不安な日々が続いた。ところがある日、中京軍が突如撤退したので、国府軍は難なく新京周辺を支配した。両軍の戦闘は3日だったが、一時はどうなるかと心配した。
 数日後、蒋介石が予告なしに入京し「みなさん、安心して生業についてください。」と演説したので、情勢は次第に平静をとり戻した。しかし、日本人が安心して歩けるようになったのは5月の末であった。

 【引揚げについて】

 そんな状況のなか、6月に入るとどこからともなく「引揚げ」の噂が伝わってきた。それがたとえ噂にせよ、これを聞いたときは本当に嬉しかった。しかし反面「公司」のことを考えると、少々気がかりだった。「公司」から日本人が引揚げると、運営に支障をきたすことは目に見えていた。
 そこで王社長は「満人工員の増員と育成を急ぐ。」「日本人の引揚げを慰留する。」という2つの対策を考えた。前記はうまくいったが、後記はむずかしく、結局は元満電の技術者O氏が責任を感じて残ることになった。
ある日、元「東芝」の工学博士T先生がきて、「近日中に引揚げが始まるらしいが、優先順位は、(1)老人母子家庭、(2)家族持ち中年者(3)一人暮らしの婦人(4)単身者とする。」と語った。公司内は、この具体的な話に沸き立った。まあ、喜ぶ気持はわかるが仕事は仕事である。能率を上げて仕事に精出そうとみんなで張りきったので、王社長は感激して給料をアップし、さらにどこからか「白米」を入手して分配してくれた。
そうこうするうちに2ヶ月が過ぎた。7月某日、町内会長から「引揚げの関する打合せをするから会長宅にきてくれ。」という連絡があった。
その日会長宅で話し合ったことは、(1)引揚げ者男女名簿、(2)同家族名簿、(3)同地区別家族名簿、(4)同家族名簿一覧表、(5)中国側に提出する書類、の5点の作成だった。最後にこの会を「引揚げ準備委員会」と名づけ、委員長に私、委員に5人の若手男子が選ばれて正式に発足した。
さてさて、こうなると公司の仕事をやる時間がなくなり、やむをえず7月中旬で退職した。退職すれば収入がなくなり生活は苦しくなる。しかし誰かがやらなければ帰れない。引揚げの必要書類が完成したのは7月下旬、それを市公署に提出したのは8月の初めだった。準備完了。あとは許可を待つだけだ。大きな満足感が私の身体を包んだ。

【さようなら、満州】

 待ちに待った引揚げの許可が下りた。団名は「第五十団百大隊」と称し、出発は1946年8月25日正午、ということだった。出発に先立って貨車を下見しておこうと、その数日前数人で出かけた。指定された貨車は無蓋車で1両50人の割り当てだった。真夏なので直射日光を遮蔽するため、みんなで日除けを作ったり、トイレを作ったりして出発の日を待った。
 8月25日昼過ぎ、列車は静かに動きだした。さらば新京!終戦の日から1年と10日、私たちが新京に来てからちょうど10ヶ月――長くつらい生活の終わりだった。
 8月25日、葫蘆(コロ)島着。ここで3日待たされ、8月31日アメリカの貨物船で葫蘆島を出帆した。船が岸壁を離れたとき万感胸に迫り、これでやっと故国に帰れると実感した。それから3日後の9月3日の夕方、船は博多港に入った。博多の町の電灯が点々と輝いていた。検疫のためあと6日間は上陸できないが、船上からみる祖国の夜景は郷愁の思いでいっぱいだった。
 9月9日の朝、上陸が許され全員無事日本の土を踏んだ。そして引揚げ者宿泊所に一泊し、下着、衣類の支給を受け、一同さっぱりした気持で「解団式」に臨んだ。私は妻子4人を連れて東海道線で東京へ、上野から東北線で小山へ、小山から妻の里である足利へ着いた。時に1946年9月12日、忘れもしないこの日は私の36歳の誕生日だった。
 翌日、身体の弱りきった妻と三女は入院。長女と次女を連れて私の郷里福島県相馬へ無事帰国の挨拶に向かうことになった。その出発の折、6歳と5歳の2人の娘は「お父さん、一列ですか?二列ですか?」と私に聞く。それは引揚げの時の「団体行動」の時に子供たちが、必死で身につけた「命令服従」の習慣だったのだ。「もう、いいんだよ。」……




 【付記】

木下(こした)道・ビル・塀の際なにゆゑか空より狙はれぬ死角を歩く
(岩田正「視野よぎる」2002年)より。

これは、父の記録を入力しながら、しきりに思い出していた短歌である。父のこの体験は、「シベリア抑留者」「戦死者」「戦傷者」あるいはそのご家族の方々、またその時代の「敵国」となってしまった人々のさまざまな凄惨な運命などと比べれば、「幸運」だったと言えることかもしれません。しかしこれは「比較」の問題ではないと思います。「戦争」というものに運命を翻弄された人間がそれぞれに、ひそかに抱いている「声なき声」の一つだと思うのです。

石の歌   新井豊美(1935~2012) 

2012年01月24日 22時28分10秒 | Love poem
     

  
   コノ雨ノナカ
   岸ニ腰ヲオロシテジックリト
   石ガ歌イダスノヲ待ツベキカ
   ソレトモヒトオモイニコノ石ヲ
   水ニ沈メテ
   立チ去ルベキカ

   あなたの潔癖な手が灰色の雲をぬぐってゆく
   磨かれた朝の廊下に陽がこぼれる
   それは長い日々のあいだのなんでもない
   しずかな朝がもたらした恩寵の一刻
   かたくなな石の口がふとひらいて このいちにちが
   澄んだ声で歌いだし するとわたしのなかの
   仮死の小魚が尾鰭をピクピクと動かしはじめる
   天候とか 気分とか 風向きとか
   解けてみれば愛とはそのように平凡なもの
   あれからわたしたちはつれだって流れをくだり
   流れはいつか花野の中に迷い込み
   はんの木の下の青い澱みで わたしたちは
   もつれあい戯れあい

   だがそんなことが真実あったのだろうか
   母よ こころは変容しやすい関係の物質で
   凍った雪に陽がさせばうっとりとしたり
   溶けたものがまた堅く凍りついたり
   過剰にぬぐい去るあなたの手があなたの頬をぬぐい
   うすい胸や汗ばんだ首筋をぬぐい
   わたしたちの昼と夜をぬぐいとって
   あなた自身をわたしの目から完全に消しおえたときから
   わたしは敗北という宿命の幸福に身をゆだね
   まっしろな「消滅の場」となることを夢見て日を数え
   こうしていつまでも
   つめたい石を抱きつづけるのだろうか

   六月の緑が苦しくせめぎあい
   流れに沿って灰色月の行列がどこまでもつづくいまは
   あの花野も金色の鯉が戯れていた澱みも
   木の下に置き忘れてきたわたしたちの明るい鏡も
   水かさの下に息をひそめ泥の中でけだるく蹲っているが
   それでもふるい歌の一節をあきもせず反復している
   あれは老いたローレライの声だから
   石の思いは石のもの
   失うことこそ他者のはじまり
   濡れそぼる岸を捨て踵を返して立ち去りさえすればよい

   するとわたしはすでにわたしではなく
   わたしは失われ
   (わたし)はもうどこにも存在しないので
   あの日のようにふたたび愛の時が巡ってくれば
   水になり
   魚になり
   たちのぼる蚊柱の蚊の一匹になり
   橋になり

   ソノゼンタイニナッテミル
   ソレシカ モウ
   アイシカタガワカラナイカラ

――『切断と接続』2001年・思潮社刊 より――

読み終わってから、ふと気付いたのだが、新井豊美の詩の構造は「交錯」ではないかと思う。硬質な言葉と、非常に原初的で女性的なしなやかな言葉との交錯、あるいは背筋を伸ばしてとても美しい後姿を見せていた言葉と、振り向きざまにこぼしてしまったような危うい言葉との交錯のようなもの。もう一つの「交錯」は内なる母性の潔癖性と、そこからはみ出してしまう豊饒な女性性との交錯と言えばいいだろうか?
これらの「交錯」が新井豊美の詩を、美しく危うい詩構造の完成へと向かわせているように思う。不思議な詩である。それゆえに惹かれる。
この新井豊美の詩の特性は、彼女の詩の出発点が「青春期」ではなく「母」になってからということもあるいは作用しているかもしれない。

第一連の片仮名の詩行は、ローレライに託された詩人の心の逡巡であろう。そして最終連の片仮名の詩行は、おおらかに投げ出された愛の方法である。
その二つの連は大きく変転している、その迷宮の案内役として中間部があるようだ。

   天候とか 気分とか 風向きとか
   解けてみれば愛とはそのように平凡なもの

   それでもふるい歌の一節をあきもせず反復している
   あれは老いたローレライの声だから
   石の思いは石のもの

気にかかることはここにだけ「母」が登場する。これは内なる「母」と「母上」との双方の意味に受け止める。互いにうなずきあう相手として「母」が呼び出される?あるいは「ゆるしあう者同士」としてか?そして「決別する者」としての母でもあるだろう。

   母よ こころは変容しやすい関係の物質で
   凍った雪に陽がさせばうっとりとしたり
   溶けたものがまた堅く凍りついたり

詩人はこのように「愛」への思いをさまざまな角度から、幾度も幾度も検証する。そしてこの最終連が引き出された。実はこの最終行がわたくしをこの詩に立ち止まらせた「理由」なのです。この三行は震える思いで読みました。そしてわたくしは涙ぐんだりもしたのです。 

   ソノゼンタイニナッテミル
   ソレシカ モウ
   アイシカタガワカラナイカラ