観客にネタがばれているのにもったいぶって手品を続けるマジシャンほど間抜けなものは無い。
9月1日の琉球新報の岩波書店編集長・岡本厚氏の「集団自決」に関するインタビュー構成記事は、正にに間抜けな手品師、いや道化師そのものと言った記事だ。
同紙の「文化面」に本人の写真入6段を使って「集団自決」について述べている。
≪『集団自決』訴訟 問われる沖縄戦観 岡本厚岩波書店編集長に聞く≫
≪軍の残虐性否定が目的 沖縄の人々への挑戦≫
オイオイ待ってくれよ。 「沖縄の人々への挑戦」って勝手な大見出しを使ってもらっちゃ困る。
≪沖縄の一部『左偏向の人々』への挑戦≫、とでも訂正願いたいものだ。
7月27日の元琉球政府職員・照屋さんの衝撃的証言以来、琉球新報に「集団自決」の記事は1行も見られなかったので、同証言へのコメント・反論かと思ったが「照屋証言」については完全スルーだった。
問題発端の張本人とも言うべき沖縄タイムスもネット上では「集団自決」については記事報道も社説もこれを完全黙殺に及んでいる。
「集団自決」について、当時の指揮官の1人と遺族が出版元の岩波書店と作家の大江健三郎氏を相手に、本の出版差し止めと損害賠償を求めた訴訟が昨年来行われている。
その第5回口頭弁論が1日、大阪地裁であったが、琉球新報、沖縄タイムス両紙ともそのフォーロー記事を2日の朝刊に申し訳程度に載せている。
≪ 琉球新報
軍命存否で対立 「集団自決」訴訟
沖縄戦で「日本軍の指揮官の命令で慶良間諸島の住民が集団自決した」とする本の記述は誤りで、名誉を傷つけられたとして、当時の指揮官の1人と遺族が出版元の岩波書店(東京)と作家の大江健三郎さんを相手に、本の出版差し止めと損害賠償を求めた訴訟の第5回口頭弁論が1日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であった。軍命の存否をめぐり、双方の主張が今回も真っ向から対立した。
原告側の指揮官、遺族側は「『集団自決』命令がなかった」と記した体験者の署名について、その正当性をあらためて主張した。(略)≫
地元二紙がこのように「集団自決」について突然及び腰になっているが、沖縄タイムスの親分とも言うべき朝日新聞の態度はどうだろう。
ネットで見る限りは「照屋証言」を完全スルーしているのは同じだが、今年の6月23日の沖縄慰霊の日の社説で「敵前逃亡」のアリバイ作りをしていた。
沈没船のネズミが事前に察知して船から脱出すると言う話と全く同じだ。
朝日社説は、慶良間諸島の集団自決に触れるが、あえて大江健三郎の名とその「沖縄ノート」の名を出して彼の言葉を引用するも、集団自決が日本軍(各島最上級官)の「命令」によるものだったかには巧妙に触れていない。
この時点で朝日は既にこれまで主張してきた「軍命令による集団自決論」が崩れ出していることをネズミの本能で嗅ぎ付けていた。
朝日お得意の「広義の解釈」で「軍命のあるなしは問題はでない」と論点すり替えのアリバイ作りのつもりなのだろう。
しかし、大江健三郎氏の「沖縄ノート」の引用で他人事のように逃げるのは卑怯と言うものだろう。
朝日新聞社は「集団自決」問題については第三者ではなく、当事者そのものなのだ。
ことの発端となった沖縄タイムス社刊行の「鉄の暴風」の初版は朝日新聞が出版している。
「鉄の暴風」の執筆者の一人牧港篤三さん(89)・元新聞記者は【沖縄タイムス<2002年6月12日>[戦への足音 6・23体験者が伝える「有事」](1)】で次のように語っている。
≪『鉄の暴風』で取材した体験者は二百人余り。初版は朝日新聞社で印刷され、二万部出版された。≫
沖縄タイムスの前身は「沖縄朝日新聞」であり「鉄の暴風」の執筆者牧港さんは沖縄朝日新聞の記者だったのだ。
その杜撰な記事を鵜呑みにして「軍命令があった」と声高に個人攻撃をしたのが「沖縄ノート」になるわけだから、朝日が社説で自社出版物を典拠の「沖縄ノート」をわざわざ引用に使うのは事情を知る者にとっては笑止千万な話だ。
ネズミは危機を察知した。
正に朝日の敵前逃亡だ。
◇
6月23日・朝日社説(1)
沖縄慰霊の日 悲劇と狂気を思い起こす
沖縄慰霊の日 悲劇と狂気を思い起こす
『沖縄の「慰霊の日」が今年も巡ってきた。太平洋戦争末期の沖縄戦で犠牲になった人々を悼み、平和を祈る日だ。80日余りの戦闘で亡くなったのは20万人を超える。狂気の世界というほかない。米軍に投降すればいいではないか。自殺することはない。いまの若い人たちはそう疑問を抱くだろう。 宮城さんは「皇民化教育は国のために死を惜しまないことを教えた。集団自決は敵を目前にした住民の必然的な行為で、国に死を強いられた」と語る。さらに住民は「米兵に捕まると、女性は辱めを受ける」などと、「鬼畜米英」の恐ろしさを信じこまされていた。米軍の上陸前、座間味島の住民は約600人だった。集団自決で命を絶った住民は135人にのぼり、その8割が女性や子供だった。慶良間諸島全体では犠牲者は700人になる。「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の砲撃や空爆は、沖縄本島に上陸後も、さらに激しくなった。そこで米軍を迎え撃とうとする限り、おびただしい犠牲は避けられなかった。こうした沖縄戦の事実は沖縄では語り継がれているとはいえ、本土にとっては遠い土地の昔の話かもしれない。 慶良間諸島の集団自決について「沖縄ノート」に記した作家の大江健三郎さんは「沖縄戦がどんなに悲惨で、大きなことだったか。集団の自殺を頂点として、日本軍が沖縄の人々に大きな犠牲を強いたことを日本人の心の中に教育し直さなければならないと思う」と話す。すさまじい犠牲の末に、沖縄は米軍に占領された。それはいまもなお、広大な米軍基地というかたちで残る。沖縄戦の悲劇と狂気を絶えず思い起こす。それは日本の進む道を考えるうえで、苦い教訓となるに違いない。』 (朝日新聞)
沖縄タイムス<2002年6月12日 朝刊27面>
沖縄タイムス<2002年6月12日 朝刊27面>
[戦への足音 6・23体験者が伝える「有事」](1)
牧港篤三さん(89)・元新聞記者
「地獄絵だった沖縄戦」
「沖縄を再び戦争に巻き込むような動きには、徹底して抵抗しないとだめだ」
「鉄の暴風」忘れるな
牧港篤三さん(89)・元新聞記者
「地獄絵だった沖縄戦」
「沖縄を再び戦争に巻き込むような動きには、徹底して抵抗しないとだめだ」
「鉄の暴風」忘れるな
住民の視点で沖縄戦をつづった『鉄の暴風』(沖縄タイムス社刊)の取材は、戦禍の傷跡が生々しく残る終戦四年目の一九四九年に始まった。
那覇市小禄の自宅で、牧港篤三さんは当時を記録するメモを手に、沖縄戦を目撃した記者の証言をとつとつと語った。
記者になった一九四〇年末、私が勤めていた沖縄朝日新聞、琉球新報、沖縄日報の三紙が整理され、「沖縄新報」に統合された。特高警察が「受諾しなければ用紙の配給を停止する」と脅したと聞いた。幹部は来るものが来たという雰囲気だったようだ。抵抗できないまま、新聞も国家総動員体制に組み込まれ、言論の自由は完全に奪われた。
駆け出しの首里市担当では、隣組の防火訓練や婦人会の竹やり訓練などの取材ばかり。戦意高揚の記事が紙面を埋め、軍部批判は絶対にタブー。社内の一部には、日一日と色濃くなる戦時色に冷めた空気もあったが、記者が軍部に逆らえる時世でなくなっていた。
当時の統制に、編集 局長だった高嶺朝光氏 (故人)は「気象情報も 利敵行為とみなされ、 固く禁じられた」(『新 聞五十年』)と記してい る。
米軍上陸が現実味を帯びると、県や軍の幹部が相次いで本土に逃げ出した。戦争協力を強制した指導者らが住民を戦場に置き去りに逃亡した無責任な行為で、今でも許す気になれない。
四五年三月中旬、新聞機材を首里の壕に運び込み、ろうそくや豆ランプを頼りに新聞作りを続けた。激しい艦砲射撃をくぐり、取材も命懸け。すでに総司令部の指揮は機能を失い、どうしようもなかった。
米軍が首里に迫りつつある五月末、総司令部は摩文仁に撤退。「われわれは民間人で、従軍する必要はない」と社の仲間と話し合い、軍とは別行動で南部に向かった。
南部は地獄絵。女性の死体が真っ黒に覆われるほどゴキブリがたかっていた光景が、今でも脳裏に焼き付いて離れない。日本兵に脅され、壕で泣き出したわが子を殺害した母親の話も聞いた。兵隊は住民を守らない。
戦後、壕で発行した新聞を読み返すと、軍の発表をうのみにしたバカらしい内容だと思う。だが、当時は一日でも長く発行を続けることに懸命だった。それが県民のためだと信じていたんだ。
結果的に、県民を戦場へ駆り立てた新聞社の報道は戦犯的行為だった。報道の戦争責任への反省が戦後ジャーナリズムの起点だ。
『鉄の暴風』で取材した体験者は二百人余り。初版は朝日新聞社で印刷され、二万部出版された。米軍に提出されるために英訳され、占領軍司令部でも話題になった。
編集会議では「なぜ、沖縄戦を取り上げるのか」と幾度も討議した。「この戦争で住民がいかに苦しみ、沖縄戦とは何であったかを後世に伝えることが生き残った人間の使命だ」という結論にたどり着いた。われわれがやらずに、誰が書くんだ、という責務もあった。
反響はすごかった。住民の証言を淡々と伝えたことが多くの県民に受け入れられたのだろう。
有事法案が上程された昨今の状況には強い怒りを覚える。日本の新聞は弱すぎる。新聞が時代に流されてはいけない。沖縄を再び戦争に巻き込むような動きには徹底して抵抗しないとだめだ。
戦時中の国家総動員体制下、住民は飛行場建設や陣地構築などに駆り出され、あらゆる戦争協力を強いられた。国内唯一の地上戦は、軍民合わせて約二十万人の命を奪った。沖縄戦から五十七年。国会で有事関連法案が審議されている。沖縄戦体験者に当時の有事体制を聞いた。(沖縄タイムス)
★下記のリンク先で藤岡信勝氏が沖縄戦の真実を音声で解説しています。
2006年6月の段階で匿名ながら照屋さんは既に全ての証言をしていた様子がよく分ります。「名前をばらしたら沖縄では袋叩きにあう」と言う言葉が生々しい。