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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「集団自決」と沖縄タイムス 地元メディアの言論封鎖

2007-01-23 07:45:16 | ★集団自決

沖縄タイムス 2007年1月20日  
 
「集団自決」訴訟/「軍命」で双方反論

 沖縄戦時の慶良間列島で起きた住民の「集団自決」をめぐり、命令を出したという記述で名誉を傷つけられているとして、当時の戦隊長らが作家の大江健三郎さんや著作出版元の岩波書店に損害賠償などを求めている訴訟の第七回口頭弁論が十九日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であった。
 岩波側は、米公文書館で見つかった当時の米軍の作戦報告書や援護業務を担当した元厚生事務官の記録を基に、「座間味や渡嘉敷の『集団自決』は当初から援護法の対象で、適用を受けるために隊長命令が創作された事実はなかった」と述べた。
 また戦隊長側が渡嘉敷での命令を否定する根拠の一つにしている★沖縄の作家の新聞連載について、隊長が住民を虐殺した事実を抜きに一方的な人物評価をしていると指摘、信用性を否定した。
 戦隊長側は、名誉棄損の対象にしている家永三郎氏の「太平洋戦争」が、第二版から渡嘉敷での隊長命令部分を削除しているのは、曽野綾子氏の「ある神話の背景」の刊行で「歴史家である家永氏が自ら、命令がなかったことを認めているのは明らか」と主張した。
 渡嘉敷の戦跡碑に「『集団自決』は命令によるものではなく(親兄弟の)愛によって行われた」などとする曽野氏の碑文が記されているのを村教委が郷土資料にしており、「村民の真実の声はここにある」などと述べた。
 座間味で隊長命令がなかったことについても生存者の手記や証言で明らかだとしている。

(★筆者注:琉球新報に連載中の沖縄の作家上原正稔氏の「沖縄ショウウダウン」のこと。)

                      ◇

沖縄戦の「集団自決」をめぐっては、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』で、赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きたと書かれた。

この記述は、沖縄県史や渡嘉敷島の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。

『鉄の暴風』は初版は1950年に沖縄タイムス編著、朝日新聞社で出版された。

因みに当時、朝日新聞の沖縄事務所は沖縄タイムスの社屋内にあり、その後初版の内容のままで第8版まで沖縄タイムス社が出版した。

又「鉄の暴風」の共著者の一人で、後に沖縄タイムスの専務になった故牧港篤三氏は戦前は「沖縄朝日新聞」の記者だった。http://www.okinawatimes.co.jp/jin/20040415_1.html

その「鉄の暴風」の中、で慶良間諸島の座間味島、渡嘉敷島の守備隊長であった「赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きた」と書かれたことが戦後60年に渡り様様な問題を残していく。

この記述は、その後沖縄県史や渡嘉敷島(渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。

「鉄の暴風」では「集団自決」を次のように表現している。

≪恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた≫

≪住民には自決用として、三十二発の手榴(しゅりゅう)弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。手榴弾は、あちこちで爆発した。…阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた≫

≪座間味島駐屯の将兵は約一千余、…隊長は梅沢少佐…。米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。…村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した≫

疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。

座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにした。

初版より30年後の1980年、沖縄タイムスは「鉄の暴風」の「明らかな事実の誤り(改訂版の序文)」の部分を削除した改訂版を発行した。

「軍命令による集団自決」と言う誤報を元本の「沖縄タイムスが削除訂正したにも関わらず、誤報はどんどん一人歩きを始める。

「強制連行された従軍慰安婦」と全く同じパターンで教科書にまで載るようになり、沖縄では「日本軍の住民虐殺」のシンボルになっている。

この本をネタ本にして、その頃数多くの「沖縄戦モノ」が出版された。

その中にノーベル文学賞作家大江健三郎の「沖縄ノート」(岩波新書)があった。

だが、「沖縄ノート」はタネ本の「鉄の暴風」の「明らかな事実の誤り」を削除したにもかかわらず、その「明らかな事実の誤り」を訂正する事無く依然として現在でも販売されている。

大江氏が沖縄戦に於ける日本軍の責任の象徴として取り上げたのが、「鉄の暴風」の中で述べられている 『渡嘉敷島の集団自決』だった。

この話を概略説明しよう。

終戦の年の3月、沖縄本島上陸を前に、その南西の沖合にある慶良間列島の中の渡嘉敷島で集団自決が行われた、という事件だ。

当時島には陸軍の海上挺進第三戦隊の130 人が、ベニヤ板の船に120 キロの爆弾をつけて夜陰に乗じて、敵の艦艇に突っ込む特攻舟艇部隊としていた。

3月下旬のある日、米軍はこの島を砲撃後上陸を開始し、それを恐れた約三百人の村民は軍陣地を目指して逃げたが、陣地内に立ち入ることを拒否され、その上、当時島の守備隊長だった赤松嘉次隊長(当時25歳)の自決命令を受けて次々と自決したというものだ。

自決の方法は、多くの島民が島の防衛隊だったから、彼らに配られていた手榴弾を車座になった家族の中でピンを抜いた。

また壮年の息子が、老いた父や母が敵の手に掛かるよりは、ということで、こん棒、鍬、刀などで、その命を絶った、ということになっておる。

10数冊余のこれら沖縄戦の著書は、一斉に集団自決を命令した赤松大尉を「人」「人面獣心」などと書き、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現した。

                                            *

◆「集団自決」のイデオロギー化
                  
30年間も一人歩きをした「誤報」はその歩みを止めることは無い。

沖縄戦で「アメリカ軍は解放軍で日本軍は住民虐殺軍」というスタンスで論調を展開する地元メディアにとって「軍命令による集団自決」は何が何でも死守しなければならない大命題である。

地元学者を総動員して論点をぼかして沖縄の「世論」の押さえ込みに必死だ。

事実、それが教科書にまで載ってしまうと、地元沖縄在住の人達でさえ「軍命令による集団自決」が誤報であったことを知っている人は少数派であろうし、それを声高に主張する「勇気」のある人は更に少数派か皆無に近い。

沖縄で地元メディアと反対の意見を述べる場所は皆無に等しいし、あってもそれを発表することは勇気がいる。

昨年8月27日、長年の沈黙を破って実名による証言をした照屋昇雄さんも6月の時点では「名前をばらしたら沖縄では袋叩きにあう」と地元のバッシングを恐れて実名を隠して証言していた。(文末の音声参照)

地元紙に掲載される「集団自決」関連の記事は地元大学の教授や歴史学者による「日本軍による住民虐殺」が主題となる。

これに対する反論は殆ど掲載されず、当ブログのように個人で意見を述べても「沖縄人のくせに」、とか「仲間を裏切るのか」と言った感情的コメントが書き込まれたりする。

産経新聞の現役記者で沖縄支局員の小山さんのブログ「今夜もさーふーふー」http://koyamay.iza.ne.jp/blog/entry/31333/で沖縄で地元新聞と異なる意見を述べるのが如何に困難な出来事かを次のように述べている。

以下引用。

(平成18年)8月29日

沖縄の「集団自決」を巡る地元の過剰反応

 昨年5月のことです。県政記者クラブで、琉球大学教授らによる記者会見がありました。
 
内容は、近く藤岡信勝・拓大教授らのグループが沖縄戦の「集団自決」の現地調査にやってくる、というものでした。「とんでもない連中が歴史を捏造しようとしている」とのニュアンスです。

 自分たちと立場の違う研究者が、フィールドワークで沖縄入りするらしい、というだけで記者会見をするというのも異常ですが、さらに驚いたのは、翌日の琉球新報、沖縄タイムスが大々的に「沖縄戦の実相をゆがめる意図がある」と警戒する記事を、藤岡教授への取材もなく、一方的に掲載していたことです。

 「これだけでも記事になるのか」と同業者としてあぜんとしました。それこそ「オウム」のような扱いです。

 このとき当方、記者としてではなく、先輩記者からの個人的な依頼として、一行の出迎えと見送りをしました。まずびっくりしたのは、那覇空港で、記者会見したグループの一人がカメラを持って、張り込みをしていたことです。

 さらに戦争の資料館に行ったところ、やはり先回りして、一行の数メートルあとをつけてくるのです。

 また、地元紙の記者が近寄ってきて、突撃インタビューを申し込むのですが、一行はタイトなスケジュールを組んでいるため、困惑して断るしかありません。

 集団自決の現地調査には同行しませんでしたが、最終日、一行から、「まるで犯罪者のように逃げ回っていると思われるのも嫌なので、場所を用意してくれれば、記者会見を開いてもいい」という相談を受けました。
 
ただし、日曜なので県庁の記者クラブが使えず、かといってホテルなどの会議室を借りるにも、急なことの上、費用の問題もあり、結局会見はできませんでした。

 フィールドワークの調査結果の発表会を聞いたうえで、それに「異議有り」と反論するというのであれば、結構なことだと思いますが、危険人物がやってくるとばかりに、訪問の数日前から「警報」を発する過剰な反応ぶりには、ショックを受けたものです。

引用終了

これを読んで「従軍慰安婦問題」での左翼学者や韓国人学者の感情的態度を連想する。

韓国人学者、安秉直ソウル大名誉教授がテレビ番組に出演して、日本軍の慰安婦強制連行の証拠はなかったと言明した。  

≪当初、安教授は軍が強制動員した可能性があると思って韓国挺身隊問題対策協議会と共同で調査をしていた。

だが同会議メンバーとして3年もの間調査活動した結果、同会議をやめた理由をを次のように語っている。

「挺身隊対策協」の目的が慰安婦の本質を把握して今日の悲惨な慰安婦現象を防止することではなく、日本とケンカすることだったからだ」

ソウル大教授が「慰安婦強制動員は無かった」とテレビで証言

地元メディアはすでに「軍命令があったかどうか」は問題でないとか、

「集団自決」ではなく「集団死」だとか、

「沖縄は準戒厳令下」だったから直接軍命令がなくとも、

命令があったのと同じだと主張する学者達の意見を掲載し初めている。

「集団自決」問題は当初の論点からどんどん外れ議論は混迷の様相を呈している。

中には「軍命令が無かった」と言う証拠を示せと言う暴論を吐く人さえいた。

「事件」の発端ともなる「鉄の暴風」の出版元である沖縄タイムスは、ある意味でこの裁判の“準当事者”である。

19日の裁判の前から同紙は裁判についてのキャンペーン記事を書いて被告大江氏と岩波書店への応援をした。

◆沖縄タイムス 2007年1月15日 
 
「集団自決」早期認定/国、当初から実態把握
座間味村資料で判明/「捏造説」根拠覆す

 沖縄戦時下、慶良間諸島で起きた「集団自決」への遺族補償に関し、一九五七年に申請が始まってから最短で三週間、平均三カ月で補償が認定されていたことが分かった。「集団自決」犠牲者に補償を適用するのは困難だったとされてきたが、沖縄タイムスが入手した座間味村役所資料で、早期認定されていたことが判明した。琉球政府援護課の元職員は「本島に先駆け、慶良間諸島の被害調査を実施した。厚生省(当時)も人々を救おうとの熱意を感じた」と話す。一部マスコミなどによる、補償申請が認定されにくいため「『軍命』が捏造された」という主張の根拠がないことを示している。
 座間味村役所の「戦闘協力該当予定者名簿」および「戦協該当者名簿」、厚生省から返還された県の記録を照合。
 役所がそれぞれの戦没者について戦死状況などをまとめて申請した日から、厚生省が各戦没者が援護法の補償に「該当」すると認定した日までの日数を調べた。要した日数で認定が容易かどうかが分かる。
 (略)
 (編集委員・謝花直美)

                     ◇

戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。(産経新聞 2006年8月27日)

★下記のリンク先で藤岡信勝氏が沖縄戦の真実を音声で解説しています。

2006年6月の時点(この頃地元2紙は地元学者を総動員して「軍による住民虐殺」の大キャンペーンをしていた)で匿名ながら照屋さんは既に全ての証言をしていた様子がよく分ります。「名前をばらしたら沖縄では袋叩きにあうと言う言葉が生々しい。


「照屋証言」報道以前の状況ですが、参考までに聴いて頂きたい。
http://www.voiceblog.jp/okinawa_shinjitu/32568.html


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