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■援護法適用の問題■
「集団自決」生存者の証言がいろんな呪縛に阻まれて真相解明の障害になっていると書いてきた。
その呪縛の一つの「援護法」に関しても、ことは複雑である。
誤解を恐れず言わしてもらえば、「援護法」には、厚生省援護課、琉球政府援護課(沖縄県)そして座間味(渡嘉敷)村役所という三つの役所が深く関わった。
村役所の担当者と琉球政府援護課が「謀議」したことを厚生省・援護課が黙認した。
そして三者共同の「犯罪」が成立した。
「集団自決」の被害者を軍命により死亡した軍属或いは準軍属として認定するために、当時の文部省・援護課が「示唆」した。
それを受けて、村役所の担当者と琉球政府援護課が「謀議」したことを厚生省・援護課が黙認した。
■厚生省援護課には沖縄出身職員が異動■
問題は援護法の沖縄県民への「拡大適用」だった。
沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否かを、最終的に決定したのは厚生省だった。
だが担当窓口で、その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の厚生省職員省だった。
祝嶺和子さんは、沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。
沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から沖縄担当の援護課に異動させられた。
米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていたが、祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだった。
「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」(沖縄タイムス記事より)
■三位一体の「犯罪」■
過去を現在の常識で批判してはいけないと言いながらも、
敢て現在の常識で判断すれば、
厚生省、県、村という三者が共謀して「公文書偽造」、「公金横領」といった犯罪の嫌疑がかかる重大問題を行ったのである。
動機が何であろうと、現在の判断基準では、やったことは詐欺だと云われても仕方の無いこと。
「援護金」の受給に関わった人たちが、かたくなに証言を拒否する理由の一つは、このような「犯罪」に自ら関わったことに対する罪の意識も大きいと思われる。
その意味で、自決を指導したといわれる宮里盛秀氏の肉親であり、援護金受給にも関わった宮村幸延氏が、
「(詫び状について)何も覚えていない。自分がこんなことを書く理由もないし、書けるわけもない」と、苦し紛れの弁明をした気持ちは理解できなくも無い。
>たとえ宮村氏本人が書いたとしても、この筆跡からは尋常な状態だったとはいえまい。
宮村氏は、当初「詫び状」は梅澤氏が自分で書いたものだと主張していたが、宛名の「梅澤裕」の「裕」が誤字になっており、梅澤氏が自分の名前を間違えるはずは無いと反論された結果を受けて「たとえ宮村氏本人が書いたとしても・・・」と、一歩引いた表現になったのだろう。
引き続き「沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防 第2部」より宮城晴美氏に関する記事を抜粋し以下に引用します。
◇
平成19年10月27日
真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から62年 第2部 <5>
宮城晴美氏の苦悩(3)-かつて「命令はない」と確信、自らの直感まで否定するのか
韓国成人男子と比較される2人の日本兵。左の2人はおそらく中学生の鉄血勤皇隊か(米軍撮影、沖縄県立公文書館所蔵)
宮城晴美氏(57)は証人尋問を行うに当たって裁判所に提出した陳述書の中で、「(著書『母が遺したもの』に)あえて第四部(母・初枝の遺言―生き残ったものの苦悩)を書いたのは、戦後の梅澤氏の行動が許せなかったからです。当時の守備隊長として、大勢の住民を死に追いやったという自らの責任を反故(ほご)にし、謝罪どころか身の“潔白”を証明するため狡猾(こうかつ)な手段で住民を混乱に陥れた梅澤氏の行動は、裏切り以外の何ものでもありませんでした。私の母も宮村幸延氏も、亡くなるまで梅澤氏の行動に苦しめられ続けたのです」と非難する。
宮城氏が言う、梅澤氏の「狡猾な手段」というのは、当時の宮里盛秀助役の弟、宮村幸延氏が書いた「詫(わ)び状」に関してである。彼女は、この件について宮村夫妻に取材し、『仕組まれた「詫び状」―宮村氏の名誉回復のために―』(『歴史と実践』第26号 平成十七年七月号)という一文にまとめている。
その記事で、宮村幸延氏は「(詫び状について)何も覚えていない。自分がこんなことを書く理由もないし、書けるわけもない」と弁明。宮城氏は「梅澤氏が言うように、たとえ宮村氏本人が書いたとしても、この筆跡からは尋常な状態だったとはいえまい。つまり、強いていえば泥酔して書かせられた可能性が高いということである。これが梅澤氏の策略だったのだろう」と厳しい口調で批判。「梅澤氏のとった行動は決して許されるものではない」と難詰する。だが宮城氏は、その直後に「確かに彼は『集団自決』の命令はしなかっただろう」と続けるのである。
彼女は、この点を『母が遺したもの』の二百六十四ページから二百六十五ページにかけてもっと強い筆致で明記している。昭和五十五年十二月中旬、宮城母娘が座間味島で梅澤氏を案内する場面だ。
<母としては梅澤氏が住民の「集団自決」を最も気にしていると思い、村の三役や住民が大勢亡くなった農業組合の壕の跡を先に行くつもりだった。しかし、梅澤氏は、部下の誰が、どこで、どんなふうに戦死したのかという質問に終始し、部下が死んだ場所に行くよう急(せ)かせた>
そして、部下が敵に斬り込んで戦死した場所で、梅澤氏は膝(ひざ)を突いて死んだ部下の名を呼び、詫びる言葉を口にし、号泣した。その帰り道、村の三役と住民の「集団自決」の碑に差し掛かった時のことだ。
<母が「ここでたくさんの住民が自決しました」と案内すると、梅澤氏は「あ、そうですか。この菊の花を手向けますか」と軽く言い、おもむろに車を降りていった。
私はそのとき、住民に「玉砕」を命令したのは梅澤氏ではないことを確信した。もし、自分の命令で大勢の住民が死んだとなれば、たとえ“人を殺す”ことを職業とする軍人であれ、気持ちがおだやかであるはずはない。また、敵上陸直前の艦砲射撃のなか、指揮官である戦隊長が非戦闘員(住民)の生死を案ずるほど、ゆとりがあったとも思えない。母が話す住民の話題にはあまり興味を示さず、部下の話になると、たとえささいなことでも必ず反応する梅澤氏を見て、私は住民と梅澤氏の隔たりの大きさを改めて感じた>
記者(鴨野)は、ものを書く人間の大きな“武器”であり“財産”は、直感であると信じる。その人の社会的評価や過去に書いたもの以上に、その人に会っての印象、言葉や態度から自分自身はどう評価するか。目の前に起きている事件は歴史的な出来事か、それとも単なる一過性の事件か――これらの判断基準は、経験ではぐくんだ直感がものをいう。
宮城晴美氏は、「戦後の梅澤氏の行動が許せなかった」という理由で書いた『母の遺したもの』の第四章の中で、「住民に『玉砕』を命令したのは梅澤氏ではないことを確信した」と書いたのである。梅澤裕という固有名詞を挙げて、彼は卑劣で許せないと人格攻撃をした章の中で、しかし彼は住民に「死ね」とは命じてはいない、と断言した。この記述は、重い。
法廷で彼女は、『母が遺したもの』の文章に軽率な記述があったなどとして、書き換え中であると明かした。彼女が「確信した」という、この記述まで「間違い」であり、訂正するのだろうか。それはすなわち長年の取材で培ってきたジャーナリストとしての己の直感まで否定することになる。それでは一体、彼女は何を信じて、これから文章を書くというのか。
(編集委員・鴨野 守) (『Viewpoint 1 2008』)
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其の中で渡嘉敷島の集団自決が描かれていたが、隊長の命令かどうかは、ぼかしてあった。
昭和40年代には、まだほとんどの人が事実を知っていたので、そうせざるを得なかったのだと思う。