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本エントリーは下記の続編です。
①「証言集」に見る新たな謎★教科書執筆者と体験者が初対面
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■「死に所の森」の恐怖■
貧しかった昔の日本にはいたるところに「うば捨て」の伝説があり,そこから生まれたのが鬼婆伝説だといわれる。
座間味島にもうば捨て伝説があるが、“その時”は鬼婆ならぬ鬼畜米軍の上陸に島全体が怯えていた。
座間味島のうば捨て伝説のある場所はシンジュの森という鬱蒼とした森の中にある。
シンジュという発音から鎮守の森や真珠の森を連想するが、
実際は「死に所」という方言で、老いて働けなくなった老人が死に場所を求めて彷徨い入るという悲惨な印象の森だ。
1945年3月26日の未明の座間味島。
米軍の艦砲射撃から逃げ惑う老人と子供の一行。
シンジュの森にある壕に向かう途中、軍刀を持つ男に遭遇した。
未明の朝もやの中に立ちはだかったのは「鬼畜米兵」ではなかった。
その男が怒鳴った。
「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」
と日本刀を抜こうとした。
*
“山城安次郎”でググルと321件出てくるが、そのほとんど全てが「渡嘉敷島の集団自決の証言者」としての記事であり、他の意味での記述はない。
一例を挙げると下記引用のようなものだが、本人は隣の座間味島での体験者ではあっても渡嘉敷島での体験者でないのが不可解だ。
<渡嘉敷島に自身は行かなかった太田記者は、「辛うじて那覇で《捕えた》」二人の証言者から取材したことに実はなっている。
ところが、この二人の証言者というのが、不可解である。
一人は、「当時の座間味村の助役であり、現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏」、もう一人は、「南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏」だという。
一方は隣の座間味島で集団自決を目撃しているが、渡嘉敷島の直接経験者ではない。
しかも、『鉄の暴風』の座間味島の集団自決に関する記述が事実に反すること(前記)は、少なくともこの人の座間味島に関する「証言」そのものが偽りであったか、正しく伝わっていなかったか、のどちらかでしかないことを示している。まして自らは目撃してもいない渡嘉敷島の事件についてどんな「証言」をしたのだろうか。
もう一人の「証言者」も、事件の目撃者ではないし、しかも不可解なことに、この人は、「そのような取材を受けた記憶はない」と言っているという(『神話の背景』五一頁)。>
山城氏が、戦後マスコミ業界を歩んで沖縄テレビの社長にまで上り詰めた著名人にしては、他に一切ネット上に名前が出てこないのは不可解である。
「集団自決」の体験者では、山城氏と対照的なのが渡嘉敷島の金城重明氏であり、同じくググルと何と13,800件も出てくる。
それだけ金城氏が自分の体験を語り続けたことを意味する。
金城氏は「集団自決」で自分の家族に留まらず他人の親子にまで手をかけたが、本人は幸か不幸か生き残り、戦後は自己の悲惨な体験を語り続けた。
金城氏は語り続けると同時に「軍の命令だった」と責任転嫁し続けなければ戦後生きていくことは出来なかったのだろう。
一方の山城安次郎氏はその後自分の体験について語ることは無かった。
言うまでもないが『潮だまりの魚たち』に登場する「参謀長」と呼ばれた元教頭先生は後の沖縄テレビ社長の山城安次郎氏である。
大田記者が『鉄の暴風』の取材をしていた終戦直後は、米軍は沖縄を日本から永久分離するため「日本軍=悪玉、米軍=善玉」という世論作りを行っていた。
その尖兵となっていたのが沖縄タイムスを始めとする沖縄の新聞であった。
その空気は曽野氏の著書にも次のように書かれている。
>当時の社会事情は、アメリカ側をヒューマニスティックに扱い、日本軍側の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。
当日記でも過去にこの点について詳しく述べている。
⇒『鉄の暴風』のいかがわしさ |
、数千人動員して民間人救出
「米軍より日本軍怖い」感覚へ
沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。(略)(世界日報 2007年10月30日) http://www.worldtimes.co.jp/index.html
◇
太田元沖縄県知事の一連の著書にはこのような記述が見られる。
≪その意味では、沖縄戦のあとに上陸してきたアメリカ軍は沖縄にとって解放軍のはずだった。≫
(大田昌秀著「沖縄の決断」朝日新聞社刊)http://www.kamiura.com/chuu18.htm
沖縄タイムスが極端な偏向を通り越し、
敵意剥き出しの反日報道をするのには理由があった。
それは昭和25年に発行された『鉄の暴風』の初版の前文にはこう書かれていた。
「なお、この動乱を通じて、われわれ沖縄人として、おそらく終生わすれることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えたかれらの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更正第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい」 (『鉄の暴風』初版前文)
揉み手をしたような、この米軍へのおべんちゃら記事が『鉄の暴風』の記事だと知ると驚く人も多いだろう。
勿論、沖縄タイムス出生の秘密を暗示するこの前文はその後の重版では削除されている。
『鉄の暴風』は主として沖縄タイムス記者伊佐良博氏(後に太田に改姓)によって書かれたが、同書のもう一人の著者、牧港篤三氏によれば、
初版は2万部出版され「米軍に提出されるため英訳され、占領軍司令部でも話題になった」と記している。(沖縄タイムス平成14年6月12日付け)
そう、沖縄タイムスは戦後沖縄占領米軍のプロパガンダ紙として出発したのだ。
ここで言うプロパガンダ紙というのは比喩的な意味ではなく米軍情報部の下に作られた文字通りの広報紙という意味である。
勿論米軍情報部の目論む「沖縄住民を日本から永久分断する」情報作戦の一旦を担うのが沖縄タイムス紙創立の理由だった。
◇
■老人と子供■
「集団自決」問題を難しくしている理由の一つは生き残りの殆どが老人と子供だということである。
島の成年男子の殆どが応召で外地へ派遣されており家を守るのは老人と子供だけ。
それだけに米軍の上陸を前にパニックになる要素も多かった。
従って生き残った証言者も老人と子供が殆どで、それを戦後半世紀以上も経ってから証言を求めることに「真実」解明の難しさがある。
「集団自決」当時子供だった証言者の証言が、周囲の大人達の噂話等によって本人の知らぬ間に間違って伝えられる例を専修大学の学生達が卒論のテーマとして座間味島を訪問し研究している。
彼らは2004年、当時の座間味村の宮里芳和教育課長へのインタビューから実例を引き出している。
8月2日に座間味村役場会議室で行われた学生のヒアリングに答えて宮里氏は次のような証言者の例を語っている。
手りゅう弾の操作を知らない家族が日本兵にその使い方を教わった。
日本兵は使い方を教えはしたが「できるだけ最後ま生きてください」と言って去った。
当時傍にいた子供には親と日本兵の会話を聞いたはいても、その真の意味は理解できない。
その後、親は手りゅう弾で自決した。
遺された子供は日本兵が家族を殺したと思い込んだ。
戦後61歳になった証人は「親は日本兵の命令で自決した」証言した。
宮里氏はこのように「集団自決」の生き残りが語る証言が誤解され、歴史記述となって残される危険性の例を学生達に語っている。
以下は宮里芳和教育課長(当時)の話。http://disasterjune.com/lecture/archives/%E9%AB%98%E7%94%B0%E3%82%AF%E3%83%B3%E5%8D%92%E6%A5%AD%E8%AB%96%E6%96%87%E5%85%A8%E6%96%87%EF%BC%B0%EF%BC%A4%EF%BC%A6.pdf
■本当の敵は誰だ■
憎むべき敵は「鬼畜米英」のはずだった。
だが、朝もやに霞むあの朝、死に切れない住民に軍刀を振るったのは日本語で怒鳴る軍服の男だった。
憎むべき敵は「日本兵」だと記憶に刻み込まれた。
だが、「眼前の敵」は日本兵ではなかった。
軍人より軍人らしい男、・・・「参謀長」と呼ばれる民間人だった。
*
「眼前の敵」~ 恐怖と緊張感が増幅 | ||
「その明け方、僕は家族連れで整備中隊壕に行き、自決さすことを頼んで本部壕に帰ろうとしたら、内藤中隊長や幹部らにさんざん怒られた。「軍は住民と国土を守るためにある。住民を殺すことはできぬ。早く安全な所に避難して、必ず誰かが生き残り、亡くなった人々の霊を祭るんだ。それがお前の役目だろう」と言いながら、米、梅干、金平糖、カツオブシ等軍の糧食を袋に入れてくれた。「節約すれば一ヶ月は大丈夫。何としても生きろ」 僕らはシンジュ(昔、老人の死所)の森の避難壕に向かう途中、日本刀を持つ国民学校の教頭に呼び止められた。「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」と日本刀を抜こうとした。「なんでお前に孫やうちらが殺されねばならんのか」と祖父母が必死の形相で反抗したため事なきを得た」と宮平さん。敵は眼前にも居たのだ。のちに、彼は住民二人を斬殺した事が判明し島に住めなくなったという。「彼は跳ね上がりで、硬直した軍国主義的言動で住民に威張っていた。僕は余り信用していなかった。戦後しばらくして訪ねて来たとき、どこかの社長になったが座間味へは帰れなくなったと話していたよ」(梅沢裕さん談) 住民や兵たちの恐怖と緊張館をますます増幅するかのような艦砲射撃の猛威のなかで、座間味島は3月26日の朝を迎えていた。 写真~うばすての伝説を持つシンジュ(死所)の森 | ||
毎日新聞 2001.7.5 |
◇
死者に鞭打つ気はない。
戦時中の異常な状況の出来事を、戦後に育ち、飽食・メタボが悩みの現代に住む人が批判することは出来ない。
山城氏は座間味島で起きた事件について何も語らず墓場まで持ち込んだ。
それを敢て取り上げた理由は次の二点にある。
①終戦直後、沖縄タイムスを訪問して、自らは経験もしていない渡嘉敷島での赤松隊長の暴状を訴えたのは何故か。
②タイムス訪問当時、山城氏は座間味村助役という公的立場にあり、その後も新聞編集、テレビ会社とマスコミ界を歩んでおり、体験者として沖縄戦史を遺す社会的責任があるのにも関わらず一切語らなかったのは何故か。
もし、山城氏が①の不可解な証言をしなかったら、山城安次郎氏の名前は一切ネット上に出なかった可能性もある。
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いつも不可解に思うのだが、何故ブログ日記に日付を入れぬ?毎日のごとく更新してるのには敬服するが、日付無しでは検索した場合、順を追って読みにくく、何かを考えてるのではないかと思わせるね。
>僕らはシンジュ(昔、老人の死所)の森の避難壕に向かう途中、日本刀を持つ国民学校の教頭に呼び止められた。「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」と日本刀を抜こうとした。「なんでお前に孫やうちらが殺されねばならんのか」と祖父母が必死の形相で反抗したため事なきを得た」と宮平さん。
これは宮平秀幸が言っていることなのかな?今年の衝撃証言では、彼はその時間帯、梅澤隊の一員として行動してたのではなかったのか?92年のビデオではそんな話は全くしてない。もちろん、梅澤隊の防衛隊員だったとも言ってない。こんな人物に冤罪裁判控訴審に出てもらう事を期待するのかな?
山城安次郎がマスコミに出て来なかったのは、私も不可解だが、おそらく、彼も助役と同じく、元帝国軍人で軍国主義に染まった人間だったのだろう。だが、助役は純粋な愛国主義者だったが、山城は時の権力に追随する立身出世主義者だったと想像する。住民を斬ったかもしれない。
だが、そういう人物が自決強制の行為をしたにしても、日本軍の存在が無ければ、たとえ米軍の攻撃が激しくとも、彼の住民への自決強制行為、及び宮里助役の自決主導はあり得ず、あの惨劇は起こらなかったというのが、真実である。
山城安次郎という自決に深く関わった人物を掘り起こしたとしても、日本軍と梅澤隊長の責任は無くなるものではない。
座間味に米軍が激しい攻撃を加えず戦場とならなければ日本軍の存在があっても「あの惨劇」は起こらなかったというのが「真実である」ではないでしょうか。
台湾も米軍の侵攻が想定され沖縄から精鋭の師団が移動していますよね。台湾にも日本軍の存在があった
わけですが「あの惨劇」は起きませんでした。何故でしょう。
宮古、石垣にも日本軍は存在していたはずですが「あの惨劇」はありましたか。
米軍が侵攻していないところで「あの惨劇」があれば教えていただきたい。
沖縄の人たちが集団自決をした。それは今の感覚からすると誠に痛ましい事実であるでしょう。
しかし、あの日、あの時、沖縄の人たちは日本人として死んだのですよ。日本人(日本軍)が嫌いなら自決なんかするものですか。
それらを全部受け止め、未来に向かって沖縄の日本の将来を考えていくのが、今この世に棲む日本人のなすべきことでしょう。
集団自決は日本軍のせいだ→沖縄は独立すべき。なんという浅はかな祖先の行為を無にする愚かな言動でしょうか。
そんなことは中国のスパイだけに言わせておきなさい。
2001に、山城安次郎教頭の証言をした宮平秀幸は1992には、「あの恐ろしい皇民化教育が座間味の人間を無駄に死なせた」と証言しているのです。
また、捕虜になった時どう思いましたか、という質問に、「日本軍が殺しに来るのではないかと不安だった」と言っている。
好きも嫌いも住民にとって、日本軍は圧倒的に恐ろしい存在だったのであります。2001の宮平証言が嘘でなければ、山城安次郎教頭は皇民化教育の体現者・実行人にして、日本軍国主義の現地代理人であったのです。彼は自決などせず、戦後は時流に乗って立身したと言う事だろう。
>エム
おヌシは、住民の集団自決を米軍のせいにするのか?
米軍に追い詰められなければ、日本軍は住民に「自決」を強制しないだろう。
だが、追い詰められる前から、米軍は捕虜を女は強姦し、男は又裂きにすると吹き込んでいて、住民に捕虜になるのを禁じていた。実質的強制は米軍が来る前から始まっていたのである。
それだったら誰でも○○化できますよね?武力で脅せばいいだけですので。
これは当時の日本人、沖縄人でないと分かりませんが、また言及するのもおこがましいですが、天皇に関係する信仰の原点に、沖縄の信仰に通じる何かがあったのではないか?
北から沖縄に南下した沖縄の祖先の方は、その色を濃く残しているのではないか、これはあくまで個人的な考えです。
住民虐殺もしまっくっていますよ。皆殺しになっているから証言者は米兵のみ。
「天王山」上・下 ジョージ・ファイアー著を読んでみてください。
>米軍に追い詰められなければ、日本軍は住民に「自決」を強制しないだろう。
自決を強制されたという証言はないのでは?
だから「関与」に表現をかえた。
> だが、追い詰められる前から、米軍は捕虜を女は強姦し、男は又裂きにすると吹き込んでいて、住民に捕虜になるのを禁じていた。実質的強制は米軍が来る前から始まっていたのである。
本島北部では激戦じゃないから、米兵は村の女たちを強姦した。名護では米兵あいての売春宿まで営業させられて数セントで相手にさせたようだ。日本軍の慰安所よりひどい話だ。
君の頭のなかでは米軍の残虐行為は「戦争神経症」による極限状態でおこしたことで、日本軍の残虐行為は皇民化教育のせいだと思っていませんか。
ところで、私も生粋の島ーぐぁーで、タイに旅行し帰国の際あちらのかたと間違われた風貌です。
私は復帰前後に中学生でしたが当時は日本軍云々の話はありませんでしたね。