那覇市若狭の瀬長亀次郎資料館「不屈館」は27日、3万人目の来場者を迎え、記念セレモニーを開いた。開館5年で来場者が3万人を超え、内村千尋館長は「若い人たちの来館が増えているのがとてもうれしい」と喜んだ。

 3万人目となった地域紙記者の龍野瑶子さん=東京都=は「ずっと行きたいと思っていた。亀次郎さんとの縁を感じる。また沖縄においでと言われている気がする」と笑顔。滞在中、名護市辺野古の新基地建設に反対する座り込みにも参加したという。

 不屈館には毎月600人前後が訪れる。県外客が7割を占めるが、昨年8月のドキュメンタリー映画「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」の公開以降、県内客も増えている。内村館長は「今後も多くの人に来てもらいたい」と期待した。

                                                         

「米軍が最も恐れた男」の正体は蟷螂の斧だった

「不屈の男」「米軍が最も恐れていた男」などとマスコミが喧伝する瀬長亀次郎の正体は、本当に米軍が恐れていたのか。

いや、そうではなかった。

瀬長亀次郎を那覇市長の座から引き釣り下ろしたのは、米軍の「銃剣とブルドーザー」ではなかった。

結局、瀬長亀次郎を市長の座から追い出したのは、那覇市議会の「不信任決議」であった。

つまり那覇市民の民意が瀬長亀次郎を追放したのである。

「銃剣とブルドーザー」と言われる米軍の強権をもってすれば、ブルドーザ―の前に立ちはだかる痩せた老人など一気に踏みつぶし、土深く埋めてしまっていただろう。

蟷螂の斧の例え通りに・・・。

ただ当時の米軍(民政府)は、沖縄を共産化の防波堤と考えており、隠れ共産党と思われていた人民党の瀬長の動向を注意深く監視していたのは事実だろう。

しかし瀬長亀次郎が、本土政党の共産党や社会党のように共産主義社会あるいは社会主義社会の構築を理想としていた形跡はない。

むしろ当時の保守系政党の民主党とは「祖国復帰」では同じ意見であった。

つまり、民主党が米軍と協調しながらインフラ整備や経済復興をしながらの現実路線の祖国復帰であるのに対し、瀬長率いる人民党は非現実的な「即時復帰」を唱えていた。

保守系那覇市長又吉康和氏の「自治尚早論」

近代沖縄の歴史において又吉さんの果たした役割は無視できないものがあります。最大の業績は昭和4年に琉球新報を尚順男爵から買収して、太田朝敷先生を社長として呼び戻したことです。その結果歴史的名著である『沖縄県政五十年』は誕生しました。

もう一つの実績は、沖縄民政府時代に沖縄議会の議員として瀬長亀次郎さんを抜てきしたことです。これが瀬長さんの政界デビューになります。当間重剛氏は回想録に次のように記載しています。

軍政府は46年のはじめから5月ごろにかけて一連の行政機構整備の手を打った。まず元市町村の再任命と知事の選任、そして諮詢会(しじゅんかい)から沖縄民政府へ、さらにその諮問機関として沖縄民政議会の組織のため元県会議員の任命となった。民政議会をつくるため、軍政府はさし当って元県外議員を任命した。戦争で死亡した者もいて、そのために補充議員が生まれたがこうしてでき上がった議員たちは次のとおりであった(中略)

当時、軍任命で補充議員になった人たちは、いずれも諮詢委の実力者で、のちに副知事になった又吉総務部長の息のかかった連中であるというウワサがあった。ことの真偽のほどは知らぬが、顔ぶれを見ても又吉康和氏と親交のあった人たちばかりだから、或はそうだったかもしれない。瀬長亀次郎君は、あとで又吉君とは激しく対立するようになったが、あの頃まではさかんに又吉氏のところに出入りし、信任もあつかった。瀬長君が又吉氏の口添えで議員になったとすれば、春秋の筆法をもって言えば、瀬長に政治的飛躍の機をあたえた人は、実に又吉康和氏であったといえよう。

従って瀬長人民党と民主党の間には極端な路線の違いはなく、お互いに役割分担をしていたという説もある。

当時の保守系政党と瀬長人民党は、自由主義か社会主義かといった体制をめぐる対立はなく、むしろ基地経済からの脱却を図るという点でも両者の基地の整理縮小をめざすという点では一致していた。

米軍基地を全面的に撤去するかどうかは別にして、保革両者はむしろ同じ方向性を持っていたことがわかる。

表面上は、「米軍プラス民主党」vs「瀬長人民党」いう対立構図だが、実際は瀬長人民党と保守系政党は「祖国復帰」「基地の整理縮小」では同じ意見であるため、県民の米軍に対するうっ憤をガス抜きする役割を果たしたのが「カメジロー節」と言われるほど絶瀬長亀次郎の米軍批判演説ということが出来る。

瀬長那覇市長が登場した時代背景・・・「四原則貫徹」「プライス勧告撤廃」など反米機運を煽る地元紙■

日本復帰前の沖縄を支配した米国民政府は対日講和条約発効から半年後の1952年11月に軍用地の契約権を公布し、地主との契約を20年とし、補償評価も低額に抑えた。翌53年4月には土地収用令を公布し「銃剣とブルドーザー」による土地の接収を各地で始めている。