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『月刊 WiLL』 2015年9月号
宮本雅史(産経新聞編集委員)
恣意的な世論操作では
自民党の勉強会で、報道機関に圧力を掛ける発言が出た問題は各方面で物議を醸した。ただ本稿では、その発言の是非を論じるつもりはない。僅か4年間だが、沖縄に住んだ一人の新聞記者として、見聞きした沖縄での世論形成の実情を報告し、その背景を探れればと思う。
丸4年間の沖縄生活で常に驚かされたのは、地元メディアの時には目を覆いたくなるばかりの報道ぶりだった。地元紙二紙「琉球新報」「沖縄タイムス」の紙面には、1年を通して米軍基地反対を訴える記事が載らない日はない。ほかにもニュースはあるだろうに……と注文をつけたくなるほどだった。
しかも、イデオロギーに支配されているのではないかと疑いたくなる記事がいかに多いことか。東京時代、一部新聞の偏向報道に辟易したこともあったが、それ以上だった。偏向報道というより恣意的な世論操作ではないか──という印象すら持った。
私が沖縄に赴任したのは、民主党政権が発足した直後の平成21年10月。当時、沖縄が抱えていた最大の課題は、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題だった。民主党政権になり、鳩山由紀夫首相(当時)が移設先を「国外、少なくとも県外」と宣言したことから、県内移設反対論が激化。
全てのメディアは、この反対論調を支持、県外移設こそが沖縄県民130万人(当時)の総意だと伝えていた。私自身、最初はその報道を信じて疑わなかった。
赴任して一週間後、移設予定先の名護市辺野古を訪ねた。
米軍基地のキャンプシュワブと接する海岸にはテントが張られ、普天間飛行場の移設に反対している人たちが屯していた。話を聞くと、全員が「移設反対」だという。報道は間違っていなかった──と納得し、辺野古の集落に向かった。
普天間飛行場が移設されると、騒音問題などさまざまな問題と対峙することになる住民の声を直接聞こうと思ったからだ。
報じられない地元民の声
ある民家に飛び込んだ。家主の男性に名刺を差し出しながら「普天間飛行場の移設のことでお話を聞かせていただきたいのですが……」と切り出すと、怪訝な顔をするのだ。理由を尋ねると、「新聞記者が話を聞きに来たのはあなたが初めてだ」。
一瞬、耳を疑った。同席したタクシー運転手も「エーッ」と声を上げた。
「ほとんどの名護市民は普天間飛行場の辺野古移設に反対だと伝えられているが、メディアは取材に来ないのか」
「いろいろな新聞社やテレビ局は来るが、みんな反対派が集まっているテント村にだけ行って、我々の声なんか聞こうともしない。最初から反対ありきなのです」
真偽を確かめようと、20人ぐらいの住民と話をしたが、予想に反して9割近くが条件付きながらも移設容認だった。
ある住民はこう嘆いていた。
「普天間が移設されると、海兵隊と実際に付き合うことになるのは我々、辺野古の住民だ。その住民が受け入れると言っているのだから問題はないはず。それに普天間の危険性が除去されるじゃないか。ところが、そうした我々の声は一切、報じられない」
米軍基地を抱えて生活する住民の思いは、他の地域に住む者には予想できない。基地は嫌だが、地域の経済活性化のためには基地経済に頼らざるを得ない。20人は複雑な思いをぶちまけた。
「一番心配なのは、ある日突然、キャンプシュワブがなくなったらどうしようかということだ。アメリカのことだから突然、撤退を決めかねない。キャンプシュワブがなくなったら我々はどうすればいいんだ。ホームレスになってしまう」
「アメリカがかつて、フィリピンから撤退したらすぐに、南沙諸島に中国が出張ってきた。日本と沖縄は尖閣諸島を抱えているが、日本に軍隊がない以上、もし沖縄から米軍がいなくなったらどういうことになるか。火を見るよりはっきりしている」
いずれも、50歳代から60歳代の男性の声だが、こうした意見が沖縄のメディアに報じられたことはなかった。
辺野古地区はこれといった産業がなく、過疎化が進む一方だという。普天間飛行場の危険性除去という大義名分のもと、振興策を目当てに経済活性化への望みを繋いだのが、移設受け入れ容認の理由だった。
過去には移設を受け入れる条件で、北部振興策として名護市など北部の市町村に1千億円に上る補助金が投下された。その一部で公民館の改築や国立高専の建設、IT産業の誘致などを展開、地域は普天間飛行場を受け入れることで経済活性化を模索する途中にあった。
ところが鳩山発言で、地元メディアを含む基地反対勢力は勢いづき、条件付きとはいえ移設受け入れの意思を明確にしていた住民の思いは一蹴され、反米軍基地を訴えるイデオロギー闘争が展開されたのだ。
私は、紙面で辺野古住民の思いをまとめたところ、「よく書いてくれた」という声の反面、非通知の無言電話が数日間かかってきた。一人の男性と話をしたが、彼は関西弁だった。電話の主は最初、静かに話していたが、突然、「ゴキブリ野郎」と声を荒らげると、そのまま電話を切った。私はいまでもその声を忘れない。
県民大会の異常な“盛況”
今年の7月はじめに、約2年ぶりに辺野古を訪ねた。一人の主婦が、「いまでも辺野古の住民が移設反対と報道されるので困っている。我々の気持ちは変わっていない」と語気を荒らげた。名護市辺野古の住民の多くは、いまも条件付きながらも受け入れ容認の姿勢を崩していないのである。
こうした容認派の声を無視できなくなったのか、最近になって申し訳程度に取り上げられるようになった。だが、なぜこうも住民の本音を無視してまで、沖縄県民全員が反対であるような世論が独り歩きし続けるのか?
そこには、沖縄二紙を中心にしたメディアの作為を否定できない。
沖縄では県民大会なるものがしばしば開かれる。沖縄の民意を全国に発信するのが狙いだそうだ。平成22年4月25日に沖縄県・読谷村で、普天間飛行場の県内移設に反対する県民大会が開かれた。沖縄二紙や全国紙は、この県民大会に9万人以上(主催者発表)が参加したとして、「県内移設反対」は県民の総意だと発信し続けた。
だが、本当にこれが県民の総意なのだろうか。私自身、この県民大会を取材して強い違和感を覚えた。
会場に着くと人の多さに圧倒されたが、それ以上に驚いたのは、立錐の余地がないほど活動家組織の旗がたなびいていたことだ。一般の県民は何人いるのだろうと疑うぐらいの“盛況”ぶりだった。
あとで学校関係者から聞いた話だが、高校の教員が理由を言わずに女子高生2人をドライブに誘い、途中で会場に連れて行ったり、高校の新聞部の部員を取材と称して会場に“派遣”したりするケースなどもあったという。
集会参加人数を“水増し”
“異変”は、県民大会が始まると同時に表れた。開会の辞の直後、地元二紙が「県内移設反対決議」という号外を配布し始めた。県民大会は始まったばかり、まだ何も決議されていないのに、である。参加者からは我が意を得たり、と大きな歓声と拍手が上がった。
さらに大会が半ばまで進むと、主催者側が突然、「旗を降ろしてください」と注意を促した。一斉に旗が消えた。県民大会後、地元紙が写真集を発行したが、そこには活動家のかざす旗はほとんど写っていなかった。
事情を知らない人や大会に参加しなかった人には、これほど多くの県民が反対しているのだ、反対は県民の総意だ──と映るのは当然だった。主催者の狙いは的中した。
参加人数も不可解だった。閉会直前、主催者側が発表した参加人数は9万人あまり。だが、その日の夜、警察、情報関係者の間では「参加者数は多くても3万人前後」という情報が飛び交った。なかには2万人という数字を出した機関もあった。
1平方メートル当たりの人数を計算すると、せいぜい3万人程度だった。しかも活動家グループが大半を占め、一般県民の実数は正確には掌握できなかったという。
それでも、翌日の各紙朝刊には「沖縄県民の民意、県外・国外移設で一致」という文言が躍った。
どうだろう。客観的に見ると、県内移設反対グループと地元紙が反対闘争に県民大会を利用、世論を創り上げたことは否定しようがない。結果、思惑は的中、「県民の総意=反対」という創られた世論が独り歩きを始めてしまったのだ。
こうした環境が構築されると、本音を伝える以前に本音を話せなくなってしまう。本音が封印されてしまうのだ。辺野古の移設容認派の一般住民は、実名が報道されるのを嫌った。地方議員も創られた世論に歯向かえない。
ある保守系地方議員は、「米軍基地の受け入れ容認発言をすると地元メディアに叩かれ、当選するのが難しくなる。だから反対派に回るほかない」と愚痴をこぼした。
またある首長は、「沖縄では、本音を言うとネガティブキャンペーンに結びつくので本音を言えない。本土の選挙運動が羨ましい。でも、そんな実情を本土の政治家は分かろうともしない」と怒りを露わにしていた。
そもそも、危険性の除去から早期移設が叫ばれている普天間飛行場の周辺住民の真意も疑わしい。60歳代の軍用地主は匿名を条件に、こう漏らした。
「本音は、普天間はいまのままがいい。決まった軍用地料が毎年入ってくるから。仮に返還されたとして、再利用、再開発するのに20年以上はかかる。でも、メディアのインタビューに正直に答えると反対派の反発を受けるから、ついつい『基地反対』と言ってしまう」
この男性と同様、軍用地主や基地雇用者、そして基地の恩恵を受けている自治体は、なかなか「基地容認」を口に出せないのが現実だ。「金で沖縄を売っている」と批判の的にされるからだ。
支援活動は報じない
平成23年暮れ、沖縄防衛局が普天間飛行場移設事業に対する環境アセスメントの評価書を沖縄県に提出した。沖縄二紙をはじめメディアは提出を阻もうと、県庁の敷地内や県庁舎内に座り込み、反対を叫ぶ反対派の姿を通し、大々的に「県民の総意は反対」と伝えた。
だが、実情はどうだったか。一歩、県庁の敷地内から外に出ると、いたって平穏。まるで何事も起きていないような静けさで普段と変わらない町並みだったが、その様子は伝えられることはなかった。これも世論創りの一つだ。
偏向報道とも思える事象は、普天間飛行場の移設報道に関してだけではなく、随所で散見した。もう少し事例を紹介しよう。
平成23年3月に東日本大震災が発生し、在日米軍による大規模な救援活動が繰り広げられた際、地元紙は在沖海兵隊員の支援活動内容を詳細に伝えようとはしなかった。
3月11日から4月5日までに掲載された米軍の写真は、「琉球新報」が3枚で「沖縄タイムス」は2枚。実際に支援活動をしている海兵隊の写真は1枚も掲載されなかった。
そればかりか、「琉球新報」は3月17日付朝刊で「在沖海兵隊が震災支援 普天間の有用性強調 県内移設理解狙い 不謹慎批判上がる」という見出しで、在日米軍が普天間飛行場の地理的優位性や在沖海兵隊の存在感などをアピールしているとしたうえで、「援助活動を利用し、県内移設への理解を日本国内で深めようとする姿勢が色濃くにじむ」と主張した。
加えて、「在沖米海兵隊の出動までに地震発生から三日かかった。一、二時間を争うかのように海兵隊の対応が強調されているが、迅速性について普天間飛行場の場所が決定的に重要でないことが逆に証明された」という大学教授のコメントを引用、疑問を投げかけた。
さらに翌18日付の社説では、「在日米軍が普天間飛行場の地理的優位性や在沖海兵隊の存在意義などをアピールしている。強い違和感を覚える」「地震発生から三日経ての出動なのに即応でもあるまい」とし、「米軍がどのようなレトリックを使おうとも、県民を危険にさらす普天間飛行場やその代替施設は沖縄にはいらない」と締め括っている。
一方、「沖縄タイムス」も3月22日付の社説で「災害支援を理由に現施設規模を維持する必要性を主張する。普天間移設問題が日米間の重要な懸案であることを承知しながら、米軍当局が震災の政治利用を画策しているのなら、文民統制の観点から見逃せない」とし、「震災の政治利用は厳に慎むべきだ」と断じ、支援活動の評価は一切なかった。
被災地はもちろん、多くの国民が国家的な災害に対する米軍の救援活動に感謝の気持ちを表明しているにもかかわらず、二紙にはそうした発想がない。それどころか、米軍による支援活動が政治利用されかねないと主張すること自体、二紙自身に政治的な思惑があることを示している。
テレビの全国ニュースで、在沖海兵隊の支援活動の実態を知ったという知人の1人は、「海兵隊が何をしているのか、初めて分かった。沖縄のメディアはそういうニュースは伝えないから何も知らなかった」と話していた。
沖縄県民の六つの立場
偏向報道と見紛う報道姿勢は挙げればきりがない。
沖縄の米軍基地問題を考える場合、米軍に軍用地を貸して賃貸収入を得ている軍用地主の立場、米軍基地に雇用されている住民の立場、基地関連収入のある自治体の立場、真に米軍基地の撤退を願っている住民の立場、無関心な県民の立場、そして基地問題を反米イデオロギー闘争の手段に使っている活動家グループらの立場──の六つの視点から見つめないと、沖縄県民の本音はなかなか見えてこない。ところが、クローズアップされるのは米軍基地反対派の声ばかり。
客観的にみると、反米軍基地闘争、そして米軍基地が沖縄に駐留することを容認している日本政府に対する反抗のために、世論が創り上げられているのは明明白白だ。
すべての情報が意図的に伝えられず、情報統制が敷かれ、真の情報から隔離されているとすれば、どこかの国と同じで、県民に公正な判断ができるはずがない。
地元メディアがこうして創り上げた“沖縄の声”に寄り添って、本土のメディアが「沖縄はいつも被害者で怒っている」とステレオタイプに拡散していくのだ。沖縄の実情と、本土に伝わる沖縄発の情報との間に大きなギャップが生じるのは当然の結果だ。
本土ではなく「祖国」復帰
ただ、ここに根本的な問題が横たわっている。沖縄二紙が偏向報道を展開したとしても、実際に数十万人の県民に読まれているという現実である。実態に気づいている県民も少なくはないが、多くの読者は偏向報道に気づいていないのだ。
他の情報と接して比較する術が少なく、事実を知る機会が閉ざされていることが大きな要因だが、それ以前に、根本的に本土に対する不信感と対抗意識があるからだ。では、なぜそうした感情が蔓延しているのか?
それを解明するには、一つには43年前の本土復帰の時点に遡らなければならない。
沖縄の本土復帰運動の先頭に立ったのは、教職員が結成した「沖縄教職員会」(前身は「沖縄教育連合会」で昭和27年に改称)だった。この教職員会は、昭和35年に愛唱歌集を作成している。
そのなかの一つ、「祖国への歌」は次のような詩だ。
「この空は 祖国に続く/この海は祖国に続く/母なる祖国 わが日本/きけ一億の はらからよ/この血の中に日本の歴史が流れてる/日本の心が 生きている」
「此の山も 祖国と同じ/この川も祖国と同じ/母なる祖国 わが日本/きけ一億の はらからよ/この血の中で日本の若さがほとばしる/日本の未来が こだまする」
「この道は 祖国に通ず/この歌も祖国にひびく/母なる祖国 わが日本/きけ一億の はらからよ/この血の中は日本の命でもえている/復帰の悲願で もえている」
「本土復帰」ではなく「祖国復帰」。その切実な思いが伝わってくる。
だが、民族的悲願としての祖国復帰を掲げる初期の復帰運動は、昭和35年に「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)が結成されると恒常的な運動が展開されるようになり、38年頃から安保闘争の高まりが沖縄にも波及し、「沖縄を階級闘争の拠点に」と訴える活動家が参入。
教職員会が率先して進めていた復帰優先の運動は、安保や米軍基地問題を焦点とする運動へと形を変えていった。
元県議は、「それまでオール沖縄の闘争だったのが徐々に階級闘争が展開されるようになった」と振り返った。日の丸は戦争に突入したシンボルだとし、反体制派の活動家や学者、マスコミが「沖縄を最後の砦に」を合言葉に沖縄に押し寄せた。
いまなお続く反日教育
祖国愛教育を実践していた教職員会も、その余波で徐々に変質。愛唱歌の一つだった『前進歌』の四番の歌詞、「友よ仰げ日の丸の旗/地軸ゆるがせわれらの前進歌/前進前進前進前進輝く前進だ/足並みがひとりでに自然に揃う/だれも皆心から楽しいからだ」も削除された。「仰げ日の丸の旗」は許されない歌詞になってしまったのだ。
「反安保、非武装という思想を持った教員がどんどん入って来て、日の丸は罪悪だとして日の丸を掲揚しないようにと指示がきた。我々が推し進めていた純粋な復帰運動は、完全に日米両政府に対する階級闘争に変貌してしまった」
と元教職員会のメンバーは振り返った。
復帰協のなかにあって、教職員会は本土復帰前年の46年9月30日、沖縄県教職員組合(沖教組)に姿を変え、47年5月の沖縄の本土復帰を経て49年、米軍基地の撤去などを求める闘争を全国的に展開するため日教組に正式に加盟、組織的に反米軍基地闘争や反日運動を開始した。並行して、子供たちにも反日教育を徹底するようになった。
前出の元教職員会のメンバーは、
「シューベルトの『軍隊行進曲』は軍隊を煽り、自衛隊を軍隊にする歌だから生徒に歌わせてはいけない。『海』の詩にある『行ってきたいなよその国』の部分は侵略を意味するからだめ──と沖教組から指示された」
と言う。こうした反日教育が戦後70年、復帰43年を経たいまも続いているのである。
たとえば沖縄では毎年、6月23日の「慰霊の日」が近づくと、県内の各小中学校で昭和20年の沖縄地上戦を題材にした平和教育の特別授業が行われる。
だが、その内容について元教員はこう言った。
「戦争の悲惨さというより、ビデオなどで日本兵がどれだけ悪かったか、沖縄の民が皇民化を強いられたなかでいかに苦しんで死んでいったかを教える。すべて日本軍が悪だと強調する。
普天間の問題についても、また沖縄は日本の犠牲になるんだと。しかも、沖縄戦以外のことは教えない。沖縄が中心で、沖縄だけが本当の戦争被害者だと教えることも多い」
「本土vs沖縄」の構図
沖縄二紙も毎年、慰霊の日が近づくと、平和についての連載を展開する。だが、学校での平和教育と足並みを揃えて旧日本軍批判に終始、旧日本軍を犯罪者扱いする記事が溢れる。その主張はほぼ毎年、同じだ。
年がら年中、そうした記事ばかりに接していると、戦争体験がない無関心層も、心の底にある種の思想が刷り込まれてしまうのは当然だ。
ある50代の男性は、
「当時は国歌を聞くとぞっとした。国旗を見るとどきっとした。『君が代』はだめ、日の丸もだめと言われ続けたので、生理的に拒否反応を示すようになっていた。平和教育の名の下で、『日本軍=悪い人間』という認識を持つようになっていた」
と自身の小中高時代を振り返った。誤った歴史認識が、教育現場とメディアを通して県民に刷り込まれてきたのである。
やはり元沖教組の関係者だが、彼はこう指摘する。
「沖教組は闘争の主導的役割を果たしているだけでなくて、地元メディアと協力し合って世論誘導にもかかわっている。沖縄を闘争場所に利用しているだけだ。原点にあるのは戦後教育の歪みだ」
戦争を経験していない県民や復帰後に生まれた若者の間では、被害者意識が薄れつつある。だが、沖教組や地元メディアにとって、それは薄れては困るのである。
だから、悲惨な地上戦を経験した県民の心の奥底に潜む被害者意識を煽って大日本帝国の被害者なんだ、そしていまも米軍基地を押しつけられて被害者の立場は続いているのだ、だから日本に屈してはいけない……と反日・反米闘争に利用しているのである。
沖縄在任中、何度となく、「沖縄に謝罪しろ」という言葉を耳にした。今回の騒動でも、「沖縄に謝れ」といった言葉が飛び交った。根底に日本本土vs沖縄という創られた構図があるからで、どことなく韓国の対日感情と似ている。
同じ日本国民でありながら、沖縄と本土の間には大きな壁があり、一つの国家として意識を共有できないでいるのではないか──と感じる。だから二紙が必要とされ、読まれるのだ。
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>「本土vs沖縄」の構図
本土を恨み、憎しみを抱いてしか守れない沖縄のアイデンティティーって何だろう?と、いつも思っている。
沖縄県民は何を守りたくて、本土を、日本を憎むだろう?
他方、日本人だという意識も、本土の人以上に強い気もする。
このギャップ、相反するものを抱える根はどこからくるのだろう?
反動形成だろうか。
※防衛機制の一つ。反対の傾向を強調することによってみずからが受容しがたい衝動を制御しようとする心的な態度ないし習性。(例)大好きな女子に意地悪する男子の行動。
沖縄の場合、「本土を、日本を憎む」ことを強調することによって、日本人だと主張したい衝動を抑えているのだろうか。
そうだとすると、次の疑問がでてくる。
日本人であるのに、なぜ、わざわざ日本人だと主張したいのか、主張する必要があるのか?
>「対策」ではなく「政策」を
沖縄を長く米国施政下に置いてしまったという負い目が、「本土」にある。
沖縄側も、日本人なの切り離された、「本土」と同じ日本人として扱ってもらえなかかったという「哀しみ」が高じた「恨み」がある。
双方が作用しあって、沖縄が不満を述べると本土はその解消に「対策」を打った。
いつか、不満が消えることを願って。
しかし、沖縄は、不満を言うときいてもらえる快感を覚えた。
色々「対策」で解消されていくと、次々「不満」を探した。
「不満」と「不満」の矛盾は、「こじつけ」「歪曲」「隠蔽」で凌いだ。
そして、理屈で矛盾を突く人には、「理屈じゃない。沖縄県民の哀しみをわからない人」と、人扱いをした。
こうして、さらに整合性に矛盾が生じていった。
「政策」が無かったのは、他の県も同じだ。
この県は雪(雨、晴れ、海、山、ロシアに近い、など、県の特徴)が多いから、こういう方向に伸ばそうなんて、考えてこなかった。
だから、各県に国際空港があり、国際空港のニーズを無視しているから赤字である。
横並びである。
別に沖縄“だけ”に「政策」がなかったわけでない。
>知らないから、メディアにいいように翻弄されているのではないかと思う。
逆に沖縄県民は、本土のこと知り尽くしているだろうか?
知り尽くているのに、本土の人は沖縄を知らないと言うなら、反省する。
実際は、お互い様でないかと思う。
というか、知り尽くすということは、永遠に無理なことだと思っている。
「知り尽く」していないからいけないと思うのは、無理なことを要求する沖縄メディアの策略にまんまと嵌められている証拠。
こうやって、本土の人の「沖縄に申し訳ない」という気持ちを弄んできたのだ。
なぜ沖縄は、沖縄“も”になれない?
なぜ沖縄は、沖縄“だけ”でないと満足しない?
沖縄“だけ”と思う心が、他に理解してもらうこと、他を理解すること、両方を阻害していると思う。
○ 宮本雅史(産経新聞編集委員)氏