狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

★続・山城安次郎、沈黙の生涯の謎、「赤松大尉の暴状」を訴えた男

2021-09-24 05:43:46 | ★改定版集団自決

 

 

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続・山城安次郎沈黙の謎、「赤松大尉の暴状」を訴えた男2021-07-04 

 

座間味島の集団自決で数少ない生存者である山城安次郎(沖縄テレビ社長⇒元座間味村小学校教頭)は自分の体験したことは何一つ語らず何も記録しないま平成7年2月16日、85歳でその生涯を終えた。

『沖縄戦「集団自決」謎と真実』を執筆していた当時、山城氏の発言を各種文献を漁ったが徒労に終わった。

山城は戦後座間味村を離れ、『沖縄日日新聞』の編集長や『沖縄テレビ』の社長などを務めている。 

山城は座間味村集団自決の生存者でありながら終始マスコミ畑を歩んだ。

だが、自身の座間味島の体験についての記録は、自伝はおろか一冊の著書もなく発言の記録さえまるで消し去ったように見つからないのは不思議だった。

ところがその後、当時筆者が見落とした山城安次郎氏に関する記事に遭遇した。

すでに廃刊になっている『週刊サンケイ』がそれだ。

 

集団自殺命令"の真相

「週刊サンケイ」昭和32年3月31日号「沖縄戦特集」より抄録)

昭和32年 1957

                                                                                                  

 沖縄本島の西方に慶良間列島と呼ばれる一群の島々がある、この一島、渡嘉敷(トカシキ)島には、睦士出舟の若いA大尉が、海上特攻隊を率いて駐屯していた。
 特攻隊員一三〇名、整備兵一二〇名、通信兵若干名、をれに島内の青壮年団を組織した防衛隊員七十名、その外朝鮮人軍夫がこの島の戦闘要員であった。
 昭和二十年三月二十五日未明。
 激しい艦砲射撃のあと、列島内の阿嘉島にアメけ力兵が上陸を開始した。これが沖縄戦における最初の上陸である。
 島の入江や島の谷奥深く特攻用舟艇をかくして、この時期の到来を待ち構えていたA船舶特攻隊は、急拠、出撃準備に取りかかった。島民は今、眼前に展開されようとする不敗皇軍の体当たり戦法の壮烈さを予想して、興奮でガタガタ身ぶるいしていた。
 午前四時、うなりつづける敵艦砲の下で、渡嘉敷地区附近から五〇隻、阿波連地区附近から三〇隻舟艇が出撃位置に降ろされた。
 エンジンも取りつけた。
 大型爆弾二個を抱えた。
 若い人間魚雷が一隻に一名ずつ乗り込んだ。
 A隊長を先頭に巨艦の横っ腹に風穴をアケるのだ…。ところが準備完了してもA大尉は、陣地の奥深く潜んだまま出て来ない。好機は、時間は刻々と過ぎてゆく、まごまごすると夜が明けてしまう。知念少尉(沖縄出身)はA大尉の陣屋に連絡兵を走らせた。伝令は、
「隊長は殿は、もうおそい、かえって企図を暴露するばかりだ、出撃は中止」と返事して来た。
 それから間もなく、八十隻の舟艇と、貴重であるべき百六十発の大型爆弾は、大尉の命令で爆破されてしまった。
 出撃の機会を失い、扼腕した隊員の中には出撃希望をつなぐため、舟艇を爆破しなかった者もあったが、夜明けとともに、爆弾の雨を浴びせられ、結局A隊は岡にあがった河童なみの姿になった。

 逃げ迷う住民たち

 翌二十六日、午前六時半、アメリカ軍は同島に対して三方面に別れて上陸攻撃を開始した。住民はいち早く、部落毎の壕にもぐり込んだ。
 A隊も島の西北端、恩納(オンナ)河原付近の西山A高地に移動した。自隊の移了と同時に駐在巡査を通じ、
住民は捕虜になる恐れがあるから、直ちに西山高地の軍陣地内に集結し、軍の保護下に入れ」
 と命じた。軍のいう西山高地一帯は住民も、いざという時は最も安全だと折紙をつけていた要害なので、艦砲や迫撃砲の合間を縫って夕方までには大半の集結を済ませた。
 ところが、集結命令を出した当の大尉は何故か、軍壕の入口にはだかって住民を壕内に入れようとしない。住民達は止むなく高地の壕の恩納河原に下り、思い思いに自然洞や谷間に身を潜めた。
 一夜を明かした住民に対し、意外の命令が再び達せられた。
「住民は速やかに軍陣地を去り、部落方面に避難しろ」
 部落方面は避難どころか、もうすでにアメリカ兵が上陸している。また付近は迫撃砲のつるべ打ちで近寄ることも出来ない。
 古波蔵村長始め代表者たちは事情を説明、恩納河原に踏みとどまらせてくれるように主張、哀願した。部隊は一応村民の了承したかに見えたが、午後になって今度はかつて聞いたこともない残酷な命令を出した。

 みんな笑って死のう
 
「ことここに到っては、住民はどうにもならない、作戦上からも住民があっては好ましくない、よって皇国の万歳と、皇軍の必勝を祈って、全員自決せよ、軍は最後の一兵に到るまで戦い、米軍に多大な出血を与えてから全員お前達のあとを追って玉砕する
 村民は最後の淵に落とされたわけである。
 翌朝になると米軍の砲撃は漸次河原の住民区に接近してきた。
 しかし、日本軍の陣地からは一発の応射もない。
 もうこれまでだという、せつなさが彼らの悲壮感を一層もりたてた。村民は死場所を選んでおのおの親類同士、血の近く交じう同士が一かたまりになってまるく集った。
 手榴弾を持った家長が、
「みんな笑って死のう」と声をふりしぼった。一発の手榴弾に対し、二三十人が集っていた。
 安全栓が引き抜かれ、石に叩かれ、音を立てて発火した。数秒が不気味に刻まれ轟音。閃光。そうして沖縄最後の集団自決の魂は飛び散った。
 この日のために渡されてあった五十二発の手榴弾が次々と谷にこだました。

 非情な軍人の裏切り

 この光景を当時同村(※筆者注⇒座間味村の間違い)の国民学校に訓導として奉職していた山城安次郎氏(現沖縄テレビ)は、次のように綴っているのだ。


 瞬間血肉が四散した。重傷を負い死に切れずうめく声。飛び出した腹腸を破れた胴に無意識に詰め込む手。教え子の顔が半分になって笑っている。左の目玉は頬の上に飛び出している。そうして軽症のものはお互いに棍棒で殴り合い、ある夫は、妻の頚部を剃刀で切り開いている。痛ましきは、重傷でうごめいて祖母の頭を泣き乍ら農鍬で叩きわる孫。恩納河原の谷川の水は赤く染まった
 全くこの世の相とは思えない地獄絵図である。古波蔵村長も家族を引き連れてこの最後の場に村の長として臨んだ。しかし幸運にも彼の手榴弾はどうしても発火しなかった。この時自決して昇天したもの三百六十一人。
「最後の一兵まで戦い、後を追って玉砕する」と誓ったA大尉とその部下はその後も、生きながらえて、昭和二十年七月十九日、自決することもなく米軍に投降した。
 なお隣島座間味村でも渡嘉敷と同じようなことが繰り返されたが、同島の犠牲者は自決死亡者と併せて約二百名、隊長U少佐、守備隊長O少佐以下一〇〇〇名同島将兵は、米軍が上陸した当時二、三か所で歩哨戦を演じただけで、後は山中の陣地にこもり、遂に全員投降、U少佐のごときは、朝鮮人の慰安婦と不明死を遂げたことが後になって判明した。

              ★

週刊サンケイの記者も『鉄の暴風』を沖縄戦史の定番として参考にしたのか、渡嘉敷島の集団自決と座間味島の集団自決を混同しており、山城氏が綴ったとされる「証言」は、渡嘉敷島の集団自決の伝聞記事(赤松大尉の暴状)そのものである。

山城安次郎がわざわざ沖縄タイムスの太田記者を訪問して、自分は体験していない渡嘉敷島の「赤松の暴状」を記事にしてくれと訴えた事実と見事に合致する。

参考までに『沖縄戦「集団自決」の謎と真相』から関連部分を引用する。

当時座間味村の助役をしていた山城が不便な交通事情を押してわざわざ那覇の沖縄タイムスを訪れたのは、並々ならぬ告発の意思を持っていたと考えられる。 だが自分が体験していない「赤松大尉の暴状」について語り、そのことを「戦記に載せてくれ」と告発しておきながら、何ゆえ自分が体験した座間味島のことを語らなかったのか。 それが大きな謎である。 そして、新聞に連載され、その後単行本となった『鉄の暴風』の第二章「悲劇の離島」では、渡嘉敷島の集団自決については九頁を費やして「赤松の暴状」を告発しているのに対し、座間味の集団自決については一頁足らず、わずか十一行の記述に止まっている(1986年版)

しかも、その極端に少ない記述には激しい梅澤隊長への憎悪が満ちており、いたずらに読者の興味を煽る捏造記事で溢れている。 例を挙げると次のようなくだりがある。

梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。

いうまでもなく、座間味村の梅澤裕戦隊長は健在で、現在係争中の「集団自決訴訟」の原告の一人として戦っている。人間の生死に関わる明らかな事実誤認は論外としても「梅澤少佐のごとき」とか「朝鮮人慰安婦らしきもの」といった表現には、執筆者自身の感情が滲みだしており、沖縄戦の記述というより、個人攻撃の「怪文書」の類といわれても仕方がない。

太田は取材相手を覚えていないし、メモも残っていないと言っているが、筆者(江崎)は、このガセネタの発信源は、梅澤と共に座間味村で米軍の猛攻撃を体験した山城をおいてほかにあり得ないと確信する。発信源が山城であるとする根拠は後に詳述するが、「梅澤不明死」に関しては、大田記者は『鉄の暴風』が発刊されてから36年後の昭和61年、『沖縄タイムス』紙上で「梅澤隊長”生死”の誤記」と題して弁明記事を書いた。

               ★

結局、「赤松大尉の暴状」を売り込んだ山城安次郎も、取材した太田記者も没してしまった現在、山城安次郎の沈黙は謎のまま歴史の闇に消え去った。

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